1. クロード・モネ 《死の床のカミーユ》 1879 年、90 68cm ( p.7 ∼) 小林康夫「存在の遠近法―顔のプロブレマティック」
2. ベラスケス 《宮廷道化師フアン・カラバーサス》 1637-39 年頃、105.5 82...
351 downloads
1417 Views
5MB Size
Report
This content was uploaded by our users and we assume good faith they have the permission to share this book. If you own the copyright to this book and it is wrongfully on our website, we offer a simple DMCA procedure to remove your content from our site. Start by pressing the button below!
Report copyright / DMCA form
1. クロード・モネ 《死の床のカミーユ》 1879 年、90 68cm ( p.7 ∼) 小林康夫「存在の遠近法―顔のプロブレマティック」
2. ベラスケス 《宮廷道化師フアン・カラバーサス》 1637-39 年頃、105.5 82.5cm 平倉圭「ベラスケスと顔の先触れ」 ( p.27 ∼)
3. レンブラント 《ベレーを被り襟を立てた自画像》 1659 年、84.4 66cm 」 ( p.55 ∼) 日高優「他者のように自己を描く―レンブラントの《自画像》
4. パブロ・ピカソ 《アヴィニョンの娘たち》 1907 年、243.9 233.7cm 」 ( p.87 ∼) 平倉圭「斬首、テーブル、反 - 光学―ピカソ《アヴィニョンの娘たち》
5. オットー・ディックス 《踊り子タマラ・ダニシェフスキの肖像》 1933 年、83 64cm ( p.123 ∼) 香川檀「オットー・ディックス―観相術、その目を凝らすほどに……」
6. アルベルト・ジャコメッティ 《女と頭部》 1965 年、92 73cm ( p.161 ∼) 橋本悟「 〈顔〉への応答―アルベルト・ジャコメッティの実践」
7. フランシス・ベイコン 《イザベル・ロースソーンの習作》 1966 年、35.5 30.5cm ( 」p.197 ∼) 大原宣久「肖像画と顔の「動き」―フランシス・ベイコン《イザベル・ロースソーンの習作》
8. アンディ・ウォーホル 《マリリン》 1967 年、それぞれ 91.4 91.4cm 」 ( p.231 ∼) 日高優「カムフラージュの技法―アンディ・ウォーホルの《マリリン》
美 術 史 の つの 顔 目次
7
│
存在の遠近 法 顔のプロブレマティック
小林康夫 .......................................................................................
平倉圭 ......................................................................................................................
Ⅰ 顔の方へ Ⅱ 絵画の方へ
ベラスケスと 顔の先触れ
レンブラントの︽自画像︾ ............................................................ 日高優
二つのリアル 絵具のざわめき ぼかされる顔 ずれと翻訳
│
他者のように自己を描く
自画像のタイプと変遷 自己を描くということ 画家の印
ピカソ︽アヴィニョンの娘たち︾ .......................................... 平倉圭
眼差しの痕跡 物質、顔、光 顔のうねり 死のモメント
│
斬首、テーブル、反︲光学
観相術、その目を凝らすほどに⋮⋮
香川檀 .................................................
眼窩の解剖学 斬首 顔というテーブル 反︲光学
│
絵画平面のなかで彫刻する 北方ルネサンスの回帰
オットー・ディックス
│
凍りついた微笑
ワイマールの観相術と︿顔の余剰 ﹀ ザッハリッヒな視覚 終わりの︿顔﹀
................
................
................
................
................
123
87
55
27
7
│
︿顔﹀への 応答 アルベルト・ジャコメッティの実践
橋本悟 .......................................................................
大原宣久 フランシス・ベイコン︽イザベル・ロースソーンの習作︾ ......
﹁フォルムの崩壊﹂からの出発 絶対的な類似 ︿顔﹀を見ること
│
肖 像 画 と 顔の﹁動き﹂
︽イザベル・ロースソーンの習作︾
二人の画家 失敗作 具象と抽象とのあいだの形象
│
肖像画、写真、顔
日高優 アンディ・ウォーホルの︽マリリン︾ ................................................
定着させることなしに定着させる
│
カムフラージュの技 法
マリリンとの出会い シルクスクリーンとの出会い 擬似コミュニケーションとメディア空間 顔の人工性
................
................
................
197
161
....................................................................................................................................................................
顔とカムフラージュ 戯れとトラウマ
編 者あとがき
231
267
美 術 史 の つの 顔
7
存在の遠 近 法│
小林康夫
顔のプロブレマティッ ク
Ⅰ 顔の方へ
顔を描くのは実にむずかしい。風景や静物ならまだ何とかなる。
それゆえに、そ
顔はつねに逃げ
アルベルト・ジャコメッティ
しかし顔を描くことはほとんど不可能に思われる、それに成功した人は一人としていない。
絵画はつねに顔を取り逃がしてきた。
│ いや、それではまだ正確ではない。むしろ次のように言うべきか │
つねに追いかけ、追いつき、捕捉しようとしてきた、と。もちろ
去るものであり、絵画はまさに、その逃げ去るものとしてある顔を
│
れにもかかわらず
ん、ここにはひとつのパラドックスがある。つまり、もし絵画が顔に追いつき、顔を捕
それは、とりあえずのこととしては、三次元ないしそれ以上の次元の空間を
質的に、限定的に表象するシステム、そしてそのシステムによって生み出された作品を
二次元あるいは二次元とそれに微小な小数点の次元を付け加えた準・平面のうちに物
絵画
│
域なのだ。
においてしか、 ﹁成功﹂することができない。そのダブル・バインドこそが、絵画の領
絵画はつねに顔を追い求め、しかしつねにそれに失敗する、いや、失敗するという仕方
捉したとしたら、そのときそれはもはや﹁顔﹂ではないものだ、というパラドックス。
*1
8
指すと言っていい。言うまでもなく絵画的なものは、ラスコーやアルタミラの洞窟から
現代のポスターや写真作品に至るまで人類の歴史に遍在するが、しかし同時に、ある特 これも乱暴な断定によって仮に標識づけておくなら
│
ジォットーか
権的な歴史性と絵画が結びついているようなひとつの大きな時代が考えられるのであっ
│
て、それは、
らイタリア・ルネサンスを通して形成されて、バロック、ロココ、古典主義、ロマン
主義、印象派、キュビズムやフォービズム、さらにはアンフォルメル、抽象表現主義、
ポップアート、新表現主義等々を経て現在へと至る西欧を中心とする﹁絵画の時代﹂で ある。
またもや乱暴な言
しかもこの﹁時代﹂にあって、絵画はただ単にさまざまな芸術ジャンルのひとつと
│
われわれが知っているような﹁科学﹂が君臨する時代における特権
して存在したのではない。それは、ルネッサンスから現代に至る
│
い方をするなら
的な表象システムであったのだ。 ﹁科学﹂と﹁絵画﹂とは、この大きな時代において互
いに連帯し、連携しあう二つの面である。それは、おそらく﹁鏡﹂というこの時代の根
源的な、理想的な﹁面﹂の二つの異なる分身なのである。あるいは、もはや終わってい
こうとしているのかもしれず、いや、逆に、ただより精密になっていこうとしているだ
けなのかもしれず、いずれにせよ、その運命こそがわれわれ人間の未来を大きく規定す
るであろう、この﹁鏡﹂としての﹁表象﹂という根源的な理想こそ、 ﹁科学﹂と﹁絵画﹂ とを結びつける表象の歴史性である。
存在の遠近法
9
*2
近代の科学が光学と幾何学からはじまったことは誰でも知っている。同様に、絵画
もまた、あのブルネレスキの実験が示すように合わせ鏡の小さな装置を通して実験的に 精 = 確に表象することで人間の精神を対象的な普遍性へと開いたのである。
確立された透視図法の発見にその誕生の決定性を負っている。そのどちらもが世界を正 確
は至るところに特権的なレフェランスとして鏡へ
そうした論が書かれたことこそ、 ﹁絵画﹂と﹁科学 ︵知︶ ﹂との共
│
がある﹂ 。 つまり、鏡は、単に絵画にとっての理想的な表象であるだけではなく、絵
身の肖像とでも言うべきものがタブローそのもののうちにはっきりと示されていること
することを忘れてはいない
│ ﹁ところで、形象化された︿視覚の哲学﹀、言わば視覚自
経験を根源的な世界経験として理解しようとしたモーリス・メルロ ポ = ンティも、指摘
鏡そのものを描きこまずにいなかったのだ。そのことを、 ﹃眼と精神﹄において絵画の
の言及が鏤められている。いや、それだけではなく、絵画はしばしばその作品のうちに、
誕生のひとつの徴でもあるのだが
チに至る﹁絵画論﹂
│
鏡は、ある意味では絵画の理想である。アルベルティから、レオナルド・ダ・ヴィン
*3
眼差しの象徴なのだ﹂ とかれは言っている
│ ﹁この人間以前の眼差しこそ、画家の 画を可能にする見る眼そのもののメタファー │ なのである。
*4
見ようとする時代、像としての人間の時代である。絵画の時代とは、だから世界を映し
自己を映すものである。鏡の時代とは、まさに人間が世界のなかの自己を映し、自己を
だが、同時に﹁鏡﹂とは、 ﹁人間以前の眼差し﹂として、なによりもまずは、人間の
*5
10
︶という作品がある。そ
つつ、同時に、その世界の像のなかに人間が自己の像を描き込もうとする時代なのだ。
│
そう若いとも見えない
男が差し出す鏡に映る自分の姿をのぞき込んで
ハンス・フォン・アーヘンに︽若いカップル︾︵一五九六、図
│
こでは、
いる若い女が描かれている。だが、この男は実は画家自身であるのだとすると、画家は、
自分の妻である若い女に、鏡に写る彼女の顔のイマージュを差し出しつつ、その光景
実は、左右逆転を避けられない鏡の像に対して、
イマージュの哲学の文脈のなかにこの作品を召喚したジャン リ = ュック・
全体を描くことで、その女に絵画というイマージュを差し出している。いや、それど
│
ころか、
│
ナンシーも指摘していないことだが
存在の遠近法
11
1
逆転のない絵画の像の理想性をこそ、この作品は主張しているように思われる。画面上、
図1 ハンス・フォン・アーヘン 《若いカップル》 1596 年
明らかに鏡の上のイマージュは絵画による直接的な表象よりは不細工に描かれている のだ。
だが、同時に、そこに描かれた男が実は画家自身であり、つまりはこの作品は自画像
でもあるとすると、途端に事態はもっと複雑になる。いったいこの自画像は﹁見えるが
まま﹂なのか、それとも鏡の像なのか。もしこの絵画の光景全体が鏡による表象だとす
ると、男が差し出す鏡の上の若い女の像こそが、彼女の﹁見えるがまま﹂の姿なのでは ないか。
︶は消える。奥は、 こうした入れ子状の合わせ鏡的な二重操作において、 ﹁奥 ︵地︶︵ fond
現われないという奥の本質において消えるのだ。つまり、それは、消えつつあるものと
して現われると言うこともできる﹂ とナンシーは主張する。それはただ単に、図 地 ―
顔はなによりも現われ出るものである。それは、それがあるところよりももっとこ
ない。顔こそがイマージュの原型なのである。
ということを強調したい。さまざまなイマージュのひとつとして顔があるというのでは
われはむしろ、そのような﹁消えつつあるものとして現われる﹂ものこそ、まさに顔だ
る。そのことをナンシーはイマージュという一般的な文脈で語っている。しかし、われ
が、あくまでその奥底が﹁消えつつあるもの﹂としてしか現われえないということであ
という二項関係における地が消えるということではない。むしろ図 地 ―という関係を通 、フィギュールの現われそのもの して浮かび上がり、現われ出るものである図 ︵ figure ︶
*6
12
ちらに向かって、前に、現われ出る。顔はほかの事物と同じように現前するのではな
く、事物としてあるその頭部前面よりももっと前に現われる。風景のなかで顔だけは突
出してこちらに迫ってくる。都会の雑踏のなかで、前から歩いてくる大衆のなかに突然、
われわれの見知った顔が浮かび上がり、突き刺さるようにこちらに迫ってくるときのこ
とを思い出してみればいい。それは、無名の一般的な対象のなかにたまたま既知のフィ
ギュールが見出されたという特殊な経験というよりは、むしろわれわれにとって顔がど
のようなものであるのか、を示すもっとも根源的な経験ではないだろうか。なぜなら、
そのとき顔は、単なる顔貌としての対象の一般性には還元できない、代替不能の特異性
を備えたものとして迫ってくるからである。この特異性は、対象レベルでの個別性には
完全には還元されず、むしろ存在論的な次元を開くものである。顔において問題になっ
ているのは、対象としての頭部前面の形態ではなく、あくまでも特異な﹁その人﹂にほ かならない。
だから逆に、それが対象的な領界を超えてこちらに迫ってくるそれと同じ運動におい
て、顔は、限りなく遠ざかるのでもある。顔は、対象をとらえようとするわれわれのあ
│
パラド
らゆる把握の試みの彼方にある。 ﹁その人﹂ 、その存在は、対象の現前の彼方にあり、対
非 現 = 前するのである。
象的な現前のまっただ中で、しかしそこから限りなく引きこもって、まさに
│
キシカルな言い方だが
だが、同時に、この非 現 = 前こそが、絵画を要求するとも言える。なぜなら顔を描く
存在の遠近法
13
ということは、まさに単に対象物としての顔貌を、空間の表象システムに従って厳密に
描くことには完全には還元されえないからである。顔を描くには、ある意味では顔を描
くだけでは十分ではないのだ。現前する対象としての顔貌だけではなく、同時に、非
0
0
│
はいないが、そのかれが顔
自画像 ︵図
│
︶あるいは老母の顔
2
を描くとき、顔はす
たとえばレンブラント。非 現 = 前の出現という顔の出来事にかれほど通じていたもの
要とするのである。
してとらえられない。全体的な空間の変容そのものである絵画という作品空間をこそ必
ば透視画法という空間の厳密な表象システムに還元されるような再現前によってはけっ
らなくなる。顔の非 現 = 前は空間を全体的に変容させるのであって、その変容はたとえ
うような単なる構図的配慮ではなく、その周囲の空間の変容そのものを描かなければな
顔を描こうと思えば、われわれはたとえば建物の表象をうまく枠のなかに収めるとい
その﹁再︲﹂はあくまでも﹁非 ﹂ = によって媒介されているのである。
再現前であったことなど一度もない。もしたとえそれが再現前であるとしても、しかし
もりつつこちらへと突出するというあり方をしているからだ。作品というものは単なる
すなわち、作品、この不思議な存在もまた、顔と同様に、非 現 = 前し、つまり引きこ
性を必要とするのである。ある意味ではまさに絵画こそがそこで要請されている。
そ、描かなければならない。そこでこそ、顔を描くことが作品、つまり作品という空間
現前する顔というつねに逃れ去る引きこもり、引きこもりとしてのこちらへの突出をこ
0
=
0
14
でにそのまわりを取り巻く空間全体に及んでいるのである。空間のなかに顔があるとい
うのではもはやない、顔は周りの空間全体に浸透し、それをひとつの磁場のようなもの
に変える。その磁場全体を、レンブラントは、細かなタッチを重ねた赤みを帯びた色彩
の階調を通じて描き出しているのだ。顔は空間のなかで、ちょうど顔のなかの眼のよう
顔を顔とする最終のものだろう。それは、顔が内なるものへと
いまここではそれが言葉を発するというもうひとつの本質をわ
に、その周囲の空間を変容させる文字通りの特異点となっているのだ。
│ おそらく眼こそ、 │
きに置いておくなら
窪みこむように逆開していることを証す特異点である。眼は内へと続いている、その続
│
ということはそれを見ているこちらを
存在の遠近法
15
│
いている内から、しかしそれはこちらを
図2 レンブラント 《自画像》 1665-69 年頃
見ているのだ。そこには明らかにその周囲とは異なった﹁質﹂がある。引きこもってい
く﹁質﹂がある。それはただ単に見られる対象ではなく、その内からこちらを見る眼差 しそのものなのだ。
言うまでもなく、顔を描くとき、画家はなにも相手のこれこれの内面なるものとか、
気質、性格、意志、運命などを描き出そうというのではない。絵画は似顔絵とはちが だが、この﹁向こう﹂は単純に空間的なものではない
│
に逆に開けて拡が
うのだ。にもかかわらず、画家は、顔を包み込む空間そのものをあたかもそれが、顔の
│
向こう
る内への引きこもりそのものであるかのように、反転的に空間化しないわけにはいかな
それこそが絵画である。ゴッホの自
いだろう。内という眼に見えない次元がこちら側の眼に見える空間として﹁描かれる﹂ 、
│
つまり再現前ではなく、単純に、表象化される
。そこでは、絵画の空間はあたかもゴッホの内面で 画像のシリーズを見るがよい ︵図 ︶
ように向かい合っているのである。
彫刻と比べてみればその相違は一目瞭
無力で脆弱である。それは薄っぺらで裏もなく、かぎりなく表面的である。
にもかかわらず、この表面はその背後へと引きこもっていく。裏に空間があるのではな
然だが
│
顔が無力で脆弱であるように、絵画もまた
│
されざるをえない。絵画とはほとんど折り返された顔なのだ。絵画と顔は、合わせ鏡の
つまり眼を特異点とし、さらには顔を特異点として、絵画はいわば折り返され、二重化
あり、その内面から画家自身が外の鏡に映ったみずからの像を見るように描かれている。
3
16
いが、しかしなお、その奥へと遠ざかり、後退していく。そして遠ざかりながら出現す
るのである。絵画にとって透視図法がなぜ決定的な、原型的なモデルとなったのかが、
それゆえ、理解されるだろう。にもかかわらず、透視図法はあくまでも空間の表象であ
る。しかし絵画は、顔というもはや存在者ではなく、存在であるものを描かなければな
らないのだ。顔はそれそのものがけっして定まることのない、止まることのない遠近法
である。それは空間ではなく、存在の遠近法なのだ。そこでは絵画は言わば二重のゲー
ムを演じざるをえない。すなわち、一方では、透視図法に従って空間の表象を構成しつ
つ、しかしそれを枠とし、あるいは口実として、そこにもうひとつ別の遠近法、顔とし
存在の遠近法
17
ての遠近法を導入しなければならなくなるのだ。ある意味では、透視図法は絵画にとっ
図3 ゴッホ 《自画像》 1889 年
てその基礎条件でもあり、また障害でもある。
西欧絵画の歴史は、ある意味では、その歴史を可能にした透視図法的な空間表象とい
う決定的な条件づけに対する絶えざる反逆の歴史である。表象のシステムに従って事物
を再現前するのが絵画なのではなく、その表象システムに従って、いやときにはそのシ
ステムに抗して、さらにはそのシステムを脱構築したり、破壊したりしつつ、もうひと
つの﹁空間﹂ 、もうひとつの﹁場所﹂ 、けっして無条件に反復されるのではなく、そのと
きどきの時間と一体と化した存在の出来事そのものへの約束となること、それこそが絵 画の密かな使命であったのだ。 Ⅱ 絵画の方へ
顔がその現前から限りなく引きこもっていくとき、かならずしもこの空間に属するわけ 0
い。死という限りある時間にはじめから貫かれている存在だけが、顔という不思議をも
うか。ちょうど物体が顔をもたないのと同じく、永遠の存在には顔などあろうはずがな
実際、いったいどのようにして永遠の神の顔などというものを想像することができよ
のだ。われわれに顔があるのは、われわれが死を免れないからである。
顔とは、死すべきものであることのもっとも明白な徴であり、その死にゆく時間の光な
ではないその引きこもりは、まるで死へと引きこもっていくかのようである。おそらく
0
18
つ。死へとつねに切迫し、切迫されている存在だけが、顔というこの剝き出しの無力さ を湛えた、観念でも対象でもないイマージュをもつのである。
かつてモーリス・ブランショは、イマージュについて論じながら、その極限を死骸
を見るという経験のうちに見出していた。 死骸としての死者は、横たえられて、そこ
して、その顔は、すでにその誰々の生きた時間のなかから引き出されたものだ。その顔
では起こらない。顔だけが、それが間違いなく誰々であることを保証しているのだ。そ
もっているという感覚にほかならないからである。そういう感覚は、身体のほかの部分
れわれが経験するのは、やはりかれはそこにいながら、しかしそこから限りなく引きこ
たとえば肖像画や写真を前にして、とりわけ親しい者の顔をじっと凝視するとき、わ
死という出来事だ。しかし、はたしてそれは、死者を前にしてのみ起こることなのか。
それはかれ以外のものではありえない。だが、同時に、かれはそこにはいない。それが
るのである。われわれは死者の顔を見る。顔があり、かれはまぎれもなくそこにいる。
にいながら、しかし同時にそこにいない。そこにいることから限りなく引きこもってい
*7
はまさに誰々以外のなにものでもないのだが、しかしその誰々は、その顔があるところ で生きているわけではないのだ。 0
0
0
0
0
0
0
0
0
見ることができないのではないか、ということである。顔とはそういうものではないか。
ここで、ひとつの逆転が起きる。つまり、われわれは実は、そのようにしてしか顔を
0
すなわち、われわれは日々、顔を通して、特徴を再認し、表情を読み、コミュニケー
存在の遠近法
19
0
ションを行なっているのだが、しかし実は顔を顔として見ていないのかもしれない。そ
こでは、顔は、一方では似顔絵に集約されるような同一性の線 特 = 徴の集合であり、も
う一方では、絶え間なく変化しつづける不定形な流れである。顔は素早い。顔は、われ
われが見たそのままに少しも留まってはいない。顔を見ること、つまり顔というこんな
にもあからさまで、こんなにも秘密の神秘を見ることは、ほとんど不可能なまでに困難 なのだ。
それがゆえにだろう、われわれには顔を凝視したいという激しい欲望がある。いった
いどれほどの人が、よく識った知人や家族や自分の顔写真を、そのたびごとに驚き、魅
惑されながら、飽くことなく眺めることだろう。こんなにもよく知っているはずの顔、
しかしそれがひとたび絵画や写真として、つまり文字通りのイマージュとなってそこに
あると、それはなんという不思議な魅力だろう、世の中にこれ以上の神秘はない。顔こ
そ、誰にでも平等に備わっており、もっともありふれたものだが、しかしほんとうはこ
れ以上にはっきりと聖なるものはない。どんな聖地も聖遺物もこれほどには神聖ではな
いのだ。そして、それは顔になにか特別の力があるというより、顔が死へと定められた
われわれの存在の根源的な無力、その脆弱さを、あますところなく明らかに見せている からなのである。
極限的にはほんとうは同じことになるのかもしれないが、もしそれが物や風景といっ
た対象物ならば、対象があり、それをわれわれが見て、そして描くということがあるか
20
もしれない。だが、顔は違う。あらかじめひとつの同じ顔があって、それをわれわれが
見て写真に撮り、肖像画に描くというのではない。そうではなく、画布上の絵の具の塊
浮かびあがってくるそ
外からの光にだけではなく、まる
のなかから、ひとつの顔がイマージュとして現われ出るとき、われわれが眼差しを向け
│
さえすれば、同じひとつの顔が幾度でも限りなく
│
でその内から見えない死の光に照らされてであるかのように
のときにこそ、われわれは顔を顔として見ることができるのだ。
ということは、さらには、この顔を見るという激しい欲望のうちにこそ、最終的には、
絵画の欲望も写真の欲望も根づいてはいないか、と問うこともできるだろう。絵画とは、
写真とは何だろうか。つまりイマージュの欲望とは何だろうか。もしそれがひとつの永
遠の痕跡として顔を現われさせること、死から、無から絶えず浮かびあがってくるもの として顔を定着すること、そしてそれを見続けることでないとしたら。
絵画にも写真にも、もちろん顔さらには人物が登場しない静物、風景、抽象もあるか
ら、顔だけがその起源というわけではないとも言えるが、しかし絵の具という物質から、
見えるものが立ち現われてくるという不思議は変わらない。世界から立ち現われてくる
光の光景があり、そしてまた、死から立ち現われてくる顔があって、そのふたつがせめ ぎあっているのが、絵画の現場なのである。
その極限の事例として、われわれはたとえばクロード・モネが死者を描いた作品を思
い起こすこともできる。一八七九年最初の夫人カミーユの死顔を前にして、画家は絵筆
存在の遠近法
21
をとる ︵口絵 ︶ 。そこでは、もはやフォルムとしての顔を超えて、死が﹁青や黄や灰色
図 ︶
│
そこでも陽の顔は、赤、緑、茶、白などの爆発する激しい色彩のタッチのなか
あ る い は 同 じ よ う に、 熊 谷 守 一 が 描 い た 愛 娘、 陽 の 死 の 顔 ︵︽陽の死んだ日︾、一九二八、
ているのである。
えない静かな顔が、睡蓮を浮かべる水の色のような緑と黄の色彩の反射のなかに埋もれ
ヴァスの素地のままの余白のなかに、まるですでに死が訪れたかのように、眼の光が見
のなかで、かれがクレマンソーに贈った最後の自画像では、もはや空間は消えて、カン
のように青いヴェールですっかり隠されていたりもするのだ。そして、最晩年の孤独
かの女の人物像は、どれも顔は曖昧な反射のなかに埋もれている。 ︽日傘の女、左向き︾
め、隠していなかったと誰が断言できるだろう。実際、その後、かれが描く水や光のな
しかし、その﹁印象﹂の光景が、その背後に、そんなひとつの、文字通りの死の顔を埋
人物画がないわけではないが、しかしあくまでも光と水の画家であったと言えるだろう。
などの色調﹂として滲み出ているのだった。顔はすでに死のなかに没していた。モネは、
1
り、顔はペルソナだ
│
そこでは世界は舞台であ
においては両者は否応なく共存させられているのだが、しかし
世界には属していないのであって、もちろん演劇的な場面
│
絵画において、顔を描くことと世界の光景を描くこととはけっして一致しない。顔は
む屍衣なのだ。
に埋もれるように眠っている。絵画はそこではまさに死んでいく顔を横たえ、包み込
4
22
現実においては、真に顔を描こうとするなら、画家はもはや世界を描くことができなく
なる。たとえば、顔の神秘を絵画の絶望に至るまで追究したジャコメッティのあの顔の
タブロー。そこでは空間は描くという作業が行なわれる距離の枠をかろうじて表示して
いるにすぎない。かれは世界のなかにある顔を描いているわけではない。ただ﹁見える
通りに﹂描いているわけでもない。よく知られているジャコメッティを襲った、あの顔
と死の相互浸透のエピソードをここで繰り返すことはしないが、かれにとっては問題が、
陥没し、窪んでいくこ
顔がこんなにも見えるものとして世界のなかにありながら、しかしつねにそこから限り
│ ﹁死﹂の方へ│
なく後退していること、猛烈なスピードで
存在の遠近法
23
となのだ。その意味では、顔は、その極限において、ほとんど見えないもの、かろうじ
図4 熊谷守一 《陽の死んだ日》 1928 年
てしか見えないものであるのだし、それだからこそ、画家もそしてわれわれも顔という
不思議を見るという激しい欲望を燃え上がらせるのだろう。ジャコメッティが描く顔は、 こちらへと現われてくるが、同時に向こうへ窪んでいく。
死と生のあいだ、世界と非世界のあいだ、見えるものと見えないもののあいだそのも
を描くことでその恐ろ
=
のであるようなこの顔の根源的な神秘を、ジャコメッティ以上に見極めた画家はいない。 いくつかの自画像あるいはあの画家の老いた母の顔
│
わずかにあのレンブラントだけが、ジャコメッティとは違った仕方で、生の物質と化し
│
た顔
しい神秘を分有しているように思われるだけである。レンブラントが当時の技法の規範
から外れてまで画質を強調したことはよく知られている。そしてまたジンメルの指摘に
よれば、かれは﹁画中の人物の眼の輝きを消す﹂︵﹃レンブラント﹄︶というきわめて独特の
それこそまさにレンブラント
顔の描き方を導入していた。そのようにしてフォルムや光としてではなく、むしろ徹底
│
顔は、もはや外からの光によって照らされるのではなく、みずから
した物質性においてとらえられることによって、逆に
│
の奇蹟なのだが
そのまま︿もうひとつの光﹀となってほとばしるのである。
顔の眼の輝きを消し、顔の生ける光を消し去ることで、レンブラントは顔の︿もうひ
とつの光﹀を見ることを可能にした。顔からその、光、力、特徴が消え、フォルムが崩
線 = の集合としての顔とは違った︿も
れ、そこに不定形な生の塊、あるいは同じことだが限りなく死の方へと窪んでいく非 現前の運動が起こるとき、われわれは個人の特徴
24
うひとつの顔﹀ 、すなわち人間の存在の根源的な無力さ、脆弱さの顕現としての顔に出
そのものが、もっとも始源的なモラルをすでに告げているのだ。顔は、美学と
それをエマニュエル・レヴィナスなら﹁汝、殺すなかれ!﹂と顔が言う、と言うだ
この出会いは、倫理的なものだ。つまり顔は、その根源的な壊れやすさ、その無力
会うことになる。
│ │
ろう
倫理とがそのまま一致するトポス ︵場︶である。だから顔がなければ、絵画などはじめ から不可能だったに違いない。
本論の後半﹁絵画の方へ﹂は、二〇〇〇年に東京国立近代美術館で行なわれた展覧会﹁顔
│
絵画に向かって﹂を改稿したものである。
絵画を突き動かすもの﹂にあわせて、同美術館ニュース﹁現代の眼﹂五二〇号に筆者が寄せた エッセイ﹁顔、見えない死の光に照らされて
矢内原伊作﹃ジャコメッティとともに﹄ 、筑摩書房、一九六九年、一五五頁。
マブエとジォットーのあいだにひとつの歴史の不連続線を引いている。ここではその根拠を詳
ここでは、この﹁絵画の時代﹂のはじまりを暫定的にジォットーに措定している。つまり、チ
説しないが、ある種の﹁自然の一撃﹂がビザンティン様式から続く絵画の伝統に﹁外から﹂与 えられたと考えたい。
システムの根源を生み出すことについては、拙著﹃表象の光学﹄ 、未來社、二〇〇三年、の冒
ブルネレスキによる透視図法の発明、ならびに光学と幾何学の連繋が近代的な、科学的な表象
存在の遠近法
25
1
* 2 3
4 5 6 7
│
頭に置かれた﹁デカルト的透視法 年、二六六 二 ―六七頁。
表象装置としてのコギト﹂を参照のこと。
モ ー リ ス・ メ ル ロ ポ = ン テ ィ﹃ 眼 と 精 神 ﹄、 滝 浦 静 雄・ 木 田 元 訳、 み す ず 書 房、 一 九 六 六 同前。
Jean-Luc Nancy, Au fond des images, Paris: Galilée, 2003, p. 23. ︵ ﹃文学空間﹄ 、粟津則雄訳、現代思潮社、 Maurice Blanchot, L’espace littéraire, Paris: Gallimard, 1955 .
一九六二年︶この巻末に補遺として収められた﹁想像的なものの二つの解釈﹂こそ、イマージュ
とは何かという問いへの決定的な回答の試みであった。
26
ベラスケスと 顔の 先 触 れ
平倉 圭
二つのリアル
ベラスケスをリアリズムの画家と呼ぶのは正しい。実際、 ︽セビーリャの水売り︾︵一六二
〇頃、図 ︶のような最初期の絵から、ベラスケスは驚くべきリアリズムの技術を示して
五七頃、図 ―
︶の前に立つとき、わたしたちが受け
2
にはおかない圧倒的なリアリズムが存在する。
ノに近接した画家として自らの絵画のリアルを現わし始める。 そこでは筆致は自由度
年頃からの絵画において、ベラスケスはむしろヴェネツィア派に、とくにティツィアー
見える。しかし中・後期の絵画、具体的には第一次イタリア旅行から帰国する一六三一
ではあるが、生硬であり、人物は強い照明の下、ポーズを決めて硬直しているようにも
絵のリアリズムは、額の皺一本、流れ落ちる水滴ひとつまでを際立たせる驚くべきもの
カラヴァジスムの強い影響下で、テネブリスム ︵明暗描法︶を駆使して描かれた最初期の
だが、その二つの絵のリアルのあいだには決定的な違いがある。セビーリャにおける
*1
そこには、 ﹁いまその場に立ち会っている﹂ 、 ﹁なかに踏み込んでいける﹂と感じさせず
るのは、描かれた部屋が現実空間の延長として実在するかのような視覚的印象である。
傑作、 ︽ラス・メニーナス︾︵一六五六
いる。それは同時に、ルネサンス マ ―ニエリスム期の観念的な理想世界に対する、スペ イン・バロックの日常生活の肯定のリアリズムを正確に表現している。あるいは後期の
1
*2
28
と柔らかさを増し、画面全体が自然な輝きを帯びてくるのだ︵たとえば︽ドン・フア
︶ 。だがそれは、たんに﹁自然さ﹂が増したという意味でリア ン・マテオス︾︵一六三二頃︶
リティが向上したということではない。そこにはなにかが余計にある。あるいは、洩れ
出ている。底光りするような、少しだけ遅れてやってくるような、なにかがある。
ケネス・クラークは﹃絵画の見かた﹄において、 ︽ラス・メニーナス︾を実際に前に する経験を次のように記述している。
ベラスケスと顔の先 触れ
29
私は最初、幻影がまったく完全であるようなできるだけ遠いところからはじめて、し
図2 《ラス・メニーナス》 1656-57 年頃
だいに作品に近づいて行くということをくり返し試みた。すると突然、ある時点で、
図1 《セビーリャの水売り》 1620 年頃
それまで手であり、リボンであり、ビロードの断片であったものが、見事な筆の跡の
混ざり合ったものに変わってしまうのであった。私は、そのような変貌が行われる瞬
間をつかまえることができれば、何かを習うことになるだろうと考えた。しかし何回
やっても、それは、眠りと目覚めのちょうど境目の瞬間のように、およそ捉えがたい ものであった。
唐突な現前にほかならない。
リティである。ベラスケス中・後期の絵画を特徴づけるのは、この第二のリアリティの
の﹁手﹂といった、 ﹁像﹂のリアリティの世界から突如として出現する、 ﹁物質﹂のリア
知しうる物質として存在している。言い換えればそれは、 ﹁リボン﹂ 、 ﹁ビロード﹂ 、少女
そこにある。筆触とキャンヴァスの肌理の反映、油絵具特有の光沢をもって、そこに触
の、他の何ものをも指し示さない物質の現前としてのリアリティである。マテリアルは
のように見える﹂という意味でのリアリティではない。絵具というマテリアルそのも
突如として姿を変えてしまう。それが第二のリアリティである。それはもはや﹁⋮⋮
しかし画面に近づくとき、その事物の幻影が、キャンヴァスの上で混ざり合う油絵具に
表象された事物がそこに実在しているように見えるという意味でのリアリティである。
らかにしている。ひとつは言うまでもなく﹁幻影がまったく完全﹂に見える、すなわち
クラークの記述は、 ︽ラス・メニーナス︾のリアリティには二つの次元があることを明
*3
30
絵具のざわめき
もちろんベラスケスにかぎらず、伝統的な西洋絵画は、いずれもなんらかの事物を表象
し、それを絵具で描き出しているのである以上、 ﹁像﹂のリアリティと﹁物質﹂のリア
リティの二次元をもつ。しかし重要なのは、ルネサンス期以来あくまで﹁像﹂の表象作
絵具は線の極端な鋭さのうちに物質性を失う︶が、ベラスケスにおい
用に従属し、前面に現われ出ることを禁じられ続けてきた絵具の﹁物質性﹂ ︵たとえば
│
マンテーニャ
ては、 ﹁像﹂を凌駕する勢いをもって現われ始めているということである。絵具を物質
的と感じさせる要素は、筆致の大まかさ、筆触の厚み、個々の色彩が混じり合いすぎな いことなどであり、後期ティツィアーノの画面をその先駆とみることができる。
以上のような指摘はしかし、けっして新しいものではない。スペインのヴァザーリ
と呼ばれるパロミーノは、すでに一八世紀初頭、ベラスケスは近くで見ればばらばらの
タッチが叩きつけられているようにしか見えないが、ある程度の距離から眺めると現実
のように見える絵画を達成したと述べている。 だが問題は、それをただ自然な﹁見か
にあげたのは、
け﹂を実現するための熟達した手腕にすぎないとみるか、そこに別の表現的課題をみる かである。 ベラスケス中期の絵画から、ひとつの異様な細部に注目しよう。図
3
ベラスケスと顔の先 触れ
31
*4
三 ―二頃︶の礼服部分である。描き出されているのは黒い麻緞子にほどこさ
現在ロンドンのナショナル・ギャラリーにある︽茶色と銀色の衣装を着たフェリーペ四 世︾︵一六三一
れた銀の刺繍である。しかしそこに叩きつけられた筆触の震え、物質性を過剰に露わに
する絵具の群れは、見る者を動揺させる。その絵具は、たんに﹁見かけ﹂を似せるため
の自然主義的な技法の冴えに帰すことができない。そう言ってしまうには、この絵具の
量は過剰である。それは描写の写実性を破壊して、文字通り前面に れ出してしまって
いる。むしろベラスケスは、画面を絵具で﹁汚して﹂いるのだと言ってもいい。 若い
ノですら、これほどまで筆触を誇示した肖像画を描いてはいない。 実際最近の研究は、
は、一七世紀のヨーロッパにおいて異例のものであると言っていい。後期ティツィアー
画面を﹁汚す﹂ようなこの粗描き的筆触を王の公的肖像画に用いたベラスケスの選択
場をキャンヴァスの表面に打ち拓いているのだ。
と汚し、破壊することで、ベラスケスは、物質の触知性へと開かれた、新たな出来事の
うちにすでに確立した﹁見かけ﹂のリアリズムの表層を、多すぎる量の絵具でたっぷり
*5
く似ていないことを明らかにしている。 ティツィアーノの画面は、油絵具の多層レイ
ベラスケスの油彩技法が従来考えられていたのとは異なり、ティツィアーノとはまった
*6
塗り︶の、たった二層だけで成立している。クラークが﹁眠りと目覚めの境目﹂と呼んだ、
るほど薄く塗られた地色と、その上に局所的にほどこされた白鉛絵具のインパスト ︵厚
ヤーによって構成される。しかしベラスケスの画面は、キャンヴァスの地が透けて見え
*7
32
﹁像﹂と﹁物質﹂のリアリティの衝撃的な分離は、この極端に切り詰められた二つのレ イヤーの不連続性によって引き起こされるものにほかならない。
ベラスケスの筆致の凄みは、細かい描き込みを省略するためにとられた技法の洗練
にあるのではない。パロミーノ以来多くの批評家が、ベラスケスはことさらに長い筆を
使っていた︵ゆえに遠くからでしかリアルに見えない絵を描いた︶にちがいないなどと
推測しているが、そのような問題の立て方は、真偽はともかく本質的なものではないだ
ろう。 問題は、キャンヴァスからの距離に応じて露わになる画面の分裂的印象を、画
家がけっして修正しようとはしなかったことにあるからだ。ベラスケスの技法は、色価
図3 《茶色と銀色の衣装を着た (部分) フェリーペ四世》 1631-32 年頃
の適切な配置が生み出す事物の完全な幻影と、ざわめくような絵具の物質性を、分裂さ
ベラスケスと顔の先 触れ
33
*8
せたまま一枚の画面に折り畳むことに賭けられている。一九世紀に至って初めて王家の
外に公開され、当時プラドを訪れたマネを驚愕させることになるその画面は、もろもろ
の事物の再現にのみ仕えるのではない絵具の物質性と、 ﹁世界の上に置かれた一枚のガ
ラス﹂ と譬えられる純粋な視覚性とを分裂的に拮抗させているという意味において、
して立ち現われることになるだろう。 ぼかされる顔
︶を見てみよう。そこで
4
いるかのようであり、はっきりとした筆触の残る画面の他の部分に比べてあまりにも柔
けがきわめて繊細にぼかされている。静止する画面の中でその顔はわずかに揺れ動いて
は絨毯や衣服を描き出す絵具の強い物質性とは対照をなすように、皇太子の青白い顔だ
晩年の作品︽皇太子フェリーペ・プロスペロ︾︵一六五九、図
においては、ただ﹁顔﹂だけがまったく異なる様相で描かれているからだ。
性などに回収しきれるものではない。問題は﹁顔﹂である。中・後期ベラスケスの絵画
だが何かが言い落とされてはいないか。ベラスケスの真の恐ろしさは、そのモダニズム
*10
の画家であるドガやモネの実践までをも内包する、起源的なモダニスト・ペインターと
ケスは、のちにマネが探求することになる視界をあらかじめ予告し、さらには眼と筆触
いわば絵画の﹁モダニズム﹂をあまりにも先駆的に予告している。そこにおいてベラス
*9
34
らかくぼかされているため、顔面の描写そのもののうちに別次元の空間が開かれている かのようにも見える。わたしたちはそれを、見尽くすことができない。
夭折するその皇太子の顔は暗い地の上にぼかされ、つねに薄らいでいくかに見えなが
ら、衣服やビロードの上に塗りつけられた絵具の層よりもはるかに強力に見る者を打つ。
それは現前する。また、みずから消え去ろうとする。その顔は緻密な柔らかさでわたし
たちの視線を吸い寄せ、しかし同時に至高の王のように、絶対的な到達不可能性を設定
│
して画面の中央からわたしたちを凝視する。画面左から﹁カーテン﹂﹁― 椅子﹂﹁― 腕﹂ ―
│
ベラスケスと顔の先 触れ
35
﹁胸にかかるエプロン﹂﹁腕﹂﹁クッション﹂と横に平板に広がっていく画面 マネ ― ― のなかで、ただ顔だけが、別の存在感をキャンヴァ のような平板さと言ってもよい
図4 《皇太子フェリーペ・プロスペロ》 1659 年
スに穿って沈黙するのだ。 あるいは︽皇太子バルタサール・カルロス騎馬像︾︵一六三四
三 ―五、図 ︶を見てみよう。
。 帽子の影を受ける右目に スの地を見せるほどにきわめて薄くぼかされている ︵図 ︶
短縮法で描かれた馬体の重々しいボリュームとは対照的に、皇太子の顔は、キャンヴァ
5
*11
ぼかされるのは子供の顔ばかりではない。 ︽ラス・メニーナス︾の画面左端、画家
溶解させてしまうこの﹁ぼかし﹂の意味は、きわめて不可解なものとなるだろう。
を飾るために描かれた王家の肖像画であることを考え合わせるとき、顔の造作を曖昧に
いたっては、失敗した目玉焼きのような滲み具合だ。この絵が、スペイン帝国謁見の場
6
。フーコーが﹁はがねのような視線﹂と形容したそ の 自 画 像 に 注 目 し て み よ う ︵図 ︶ の顔は、 よく見ると意外 なほど粗雑にぼかされてお り、胸にはっきりと描かれ た十字章の姿と対照をなし ている。その茫漠とした頭 部は、首を斜めに切断する 襟のところで遠くに追いや られてしまったかのように、 あるいは、ただ顔だけを包
図5 《皇太子バルタサール・カルロス騎馬像》 1634-35 年
*12
7
36
8
み込む分厚い空気の層に隠
図8 《鏡を見るヴィーナス》 1644-48 年頃
されているようにも見える はずだ。 顔の﹁ぼかし﹂は肖像画 だけにとどまらない。図 は中期ベラスケスの神話画 四 ―八頃︶であ
のひとつ、 ︽鏡を見るヴィー ナス︾︵一六四四 る。文字通り身体から切り 離されたヴィーナスの顔の 鏡像は、極限までぼかされ て亡霊のように消え去ろう 鏡の奥に
とすると同時に、その非現
│
実的な大きさ
小さく映るはずの顔は、反 射光学を無視して手前の頭 によって突出する
部と同じ大きさで描かれて
│
いる
ベラスケスと顔の先 触れ
37
図6 《皇太子バルタサール・カルロス騎馬像》 (図 5、部分) 図7 (図 2、部分) 《ラス・メニーナス》
*13
。 ﹁ぼかし﹂は、鏡の反 、図 ︶
ような印象を与える。そのぼかされた顔表現の異様さは、ティツィアーノやヴェロネー ゼによる同主題の絵画と比べるときに明らかだろう ︵図 10
ラスケスの奇妙な性向が明瞭に現われている。
ているのだ。ここには、ただ﹁顔﹂だけを切り離してぼかしきってしまおうとする、ベ
大きさとともに、鏡像の論理を逸脱し、見ることの論理から逃れ去る、ある過剰を示し
に消し去られている。観者の視覚を阻害するその極端な﹁ぼかし﹂は、顔の非現実的な
映を正確に描くために用いられているのではない。ヴィーナスの顔は、明らかに意図的
9
︾︵一六四四 四 三 ―五︶や︽アラクネの寓話 ︵織女たち︶ ―八頃、図 ︶の中景人物についてならば
﹁ぼかし﹂は空気遠近法であるというしばしばなされる説明も、︽ブレダの開城︾︵一六三四
言うだけでは、この顔のもつ異次元に開かれているかのような印象は説明されえない。
動物の毛並みを描き分けるのと同様に、人間の皮膚の質感をも正確に描き分けていると
いう単純な答えは、十分なものではない。ベラスケスがたんに絹やビロード、あるいは
﹁ぼかし﹂が、人間の皮膚の柔らかさを自然に表現するために必要な描法であったと
のだ。
ほかならぬ西洋絵画史上最も高名な﹁肖像画家﹂とされるべラスケスの画面においてな
の視界から隠されるように見えるのはなぜなのか。しかもそれが行なわれているのは、
中・後期ベラスケスの絵画において、 ﹁顔﹂がほとんどつねにぼかされ、わたしたち
*14
まだしも、目の前にいる人物の肖像には当てはまらない。なぜならここでは、ただ顔だ
11
38
けが空気に包まれ、同じ深さにあるはずの衣服ははっきりと描き出されるという、遠近 の深さの﹁ずれ﹂こそが問題になっているからだ。
わたしたちは、ベラスケスの絵画をたんなる﹁見かけ﹂の写実性へと引きずりおろ
して片づけることを避けなくてはならない。問題は皮膚の質感の自然な描写でも、顔の
前にある空気の層を描き出すことでもない。そのような説明をはるかに超えて、何か了
解しがたいものがベラスケスの描く﹁顔﹂からは れ出している。写実的でありながら、
ベラスケスと顔の先 触れ
39
つねにそこから逸脱していく何かがベラスケスの絵画にはあるのだ。 イラストレーション
図 11 《アラクネの寓話(織女たち)》 1644-48 年頃
二〇世紀の肖像画家であるフランシス・ベイコンは、ベラスケスについてこう述べて
図 10 ヴェロネーゼ 《化粧室のヴィーナス》 1580 年頃
いる。 ﹁ベラスケスの絵のすごいところは、いわゆる写実的絵画にとても近いのに、そ
図9 ティツィアーノ 《鏡を見るヴィーナス》 1555 年頃
れでいて人間の最も奥深くにある非常に重要な感覚を解放するという点です。だからこ
に引いたのは、そのベイコンがベラスケスの︽教皇インノケンティウス十世︾
そベラスケスは驚嘆に値する神秘的な画家なのです﹂ 。 図
*15
われていない。ただそれが もとの形をとどめつつもぼ か さ れ る こ と で、 ﹁顔﹂の 非写実的な強度が露出する のだ。 ベラスケスではどうだろ うか。もういちど正確に観 察しよう。初期の︽鎧姿の フェリーペ四世︾︵一六二八頃、
図 12 フランシス・ベイコン 《肖像のための習作Ⅶ》 1953 年
イコンの絵画においては、顔面は、ぼかされることで裸にされる。写実性は完全には失
けの写実性の奥にある強烈な感覚を表面へとめくりあげてしまっているかのようだ。ベ
のなかで蒸発しているようにみえる。そこではまるで顔面をこする刷毛の動きが、見か
くだろう。その顔は、ぼかされることでかえって強烈さをまし、剝きだしになった叫び
したちは、そこでもなぜか﹁顔﹂だけが消しとんだようにぼかされていることに気がつ
︽肖像のための習作Ⅶ︾︵一九五三︶である。わた ︵一六五〇︶をもとに描いた連作のひとつ、
12
40
図 ︶では、まだ顔面の描写
ははっきりとしており、陶
図 14 (部分) 《フラガのフェリーペ四世》 1644 年
製のコップのようにすべす べとした表面に覆われて曖 昧なところがない。しかし その顔が、中期の︽フラガ
︶で は、 わ ず か に ぼ か
のフェリーペ四世︾︵一六四四、 図
されている。その顔は以前 のように硬い表面をもたず、 無数の細かい泡によってか き乱されているように見え る。その顔は、もはやコッ プのようにつかむことがで きない。画面左上から落ち る光を静かに反射していた
ベラスケスと顔の先 触れ
41
︽鎧姿のフェリーペ四世︾ の 陶 器 の よ う な 顔 は、 ︽フ
図 13 《鎧姿のフェリーペ四世》 1628 年頃
13
14
ラガのフェリーペ四世︾においてその硬い外殻を失い、自ら光を放ち始めているかのよ
うだ。それはもはやわたしたちが自由につかむことのできるただの﹁対象﹂ではない。
三二、図 ―
︶と、
それはむしろ、画面の向こう側からじろりと見つめ返す、自立した主体の顔として存在 し始めている。
あるいは初期絵画の特徴を残す︽イザベル・デ・ボルボン︾︵一六三一
五 ―三、図 ︶の顔を比べてみよう。瞼や鼻孔、唇の輪郭
16
︽王妃マリアナ︾ ある。 モデルの造作の正確な再現はそこにはない。にもかかわらず、
そこにあるのは、顔の諸部分を曖昧に溶かし込む、ある柔らかな﹁ひとまとまり﹂で
姿である。しかし︽王妃マリアナ︾の顔には、そのような明瞭な分節が認められない。
見るのは、 ﹁目﹂や﹁唇﹂といった顔の諸部分の正確な形態と、その配置が織りなす似
の顔はきわめて緩やかにぼかされている。 ︽イザベル・デ・ボルボン︾にわたしたちが
を鋭いエッジで描き出す︽イザベル・デ・ボルボン︾の顔に対して、 ︽王妃マリアナ︾
後期の︽王妃マリアナ︾︵一六五二
15
*16
かし﹂のなかで初めて産出されている。顔は、ぼかされることで、初めて自ら見つめる
れているのではない。観者を、ある他者の現前へと直面させる眼差しの力は、顔の﹁ぼ
画面にしばしば指摘される﹁眼差し﹂の印象は、ただ視線を描きこむことだけで実現さ
顔に欠けているのは、この出会いの感覚へと否応なく巻き込む力である。ベラスケスの
がある。同じようにこちらを見つめる姿で描かれている︽イザベル・デ・ボルボン︾の
の顔には、こちらを見つめるひとりの他者との出会いのなかに観者を巻き込むような力
*17
0
0
42
何者かとして画面に現われるのだ。
三 ―九頃、口絵 ︶である。部屋の片隅
この技法がもっとも極端に展開されたのが、ベラスケス中期の絵画のなかでも異彩を 放つ︽宮廷道化師フアン・カラバーサス︾︵一六三七
からぬっと浮かび上がるその顔は、首のまわりにインパストで描き出された襟飾りや硬
い筆触の残る手指からするとありえないほど大胆にぼかされ、画面のなかに、別次元に 属する存在感を開いて輝きわたっている。
カラバーサスはわたしたちを見つめてはいない。しかし、画面の他の部分とはあま
たとえば内側からむく
ベラスケスと顔の先 触れ
43
2
りにも異なる様式で描かれたその顔は、たしかに静止しているにもかかわらず、同時に
│
図 16 (部分) 《王妃マリアナ》 1652-53 年
なにか即座には了解しがたい運動のさなかにあるかのように
図 15 (部分) 《イザベル・デ・ボルボン》 1631-32 年
│
むくとせり上がり、あるいは細かく揺れ動きつつあるかのように
も見え、不可解な
笑みとともにわたしたちの眼を動揺させる。その顔は、もはや宮廷の慰みとなるような
﹁見世物﹂としては存在していない。 それは、見る者を逆に脅かす異様な衝迫力をもっ て画面の奥から突出してくるのだ。
は個の尊厳を描き出す﹂ 、あるいは﹁べラスケスは雰囲気を描く﹂といった常套句を言
スの絵に﹁存在﹂のリアリティが開かれていると言うだけなのであれば、 ﹁ベラスケス
しかしわたしたちは、以上のような分析で納得してしまうわけにはいかない。ベラスケ
ずれと翻訳
にこの地点にほかならない。
ある。ベラスケスを西洋絵画史上いかなる肖像画家にもまさって傑出させるのは、まさ
のリアリティの裂け目から現われる、第三の、 ﹁存在﹂のリアリティと呼ぶべき何かで
ここで出会われる他者として現前する。そこに開かれるのは、いわば、 ﹁像﹂と﹁物質﹂
も逃れ去りながら、異次元から立ちのぼるかのような存在感を豊かに凝集させて、いま
や﹁道化師﹂たちの容姿のたんなる記録ではない。その顔は、観者の視線からどこまで
し、固有の存在感を獲得する。その顔にわたしたちが見るのは、過去に生きた﹁国王﹂
中・後期ベラスケスの肖像画において、顔は、ぼかされることで体軀の客体性を離脱
*18
44
い換えてみせているにすぎないからだ。 ﹁尊厳﹂ 、 ﹁雰囲気﹂ 、あるいは﹁存在﹂のリアリ
ティとは、絵画がリテラルには描きえないもの、可視的には表象しえないもののことで
ある。だがそのようなものが、いったいいかにして絵画面に定着されうるのか。分析さ
れるべきは、描きえないはずの﹁存在﹂のリアリティを画面に実現する、絵画の具体的 なメカニズムである。
くりかえし注意しておくべきことは、ベラスケスはモデルの顔の造作を正確に写し
取っているのではないということである。いま誰かの顔を描いてみるつもりで観察す
ればすぐに分かることだが、わたしたちの目に見えているのは、むしろ初期の︽鎧姿の
フェリーペ四世︾や︽イザベル・デ・ボルボン︾のような、はっきりとしたエッジをも
つ顔面に近いはずだ。目に涙でも浮かべているのでなければ、中・後期ベラスケスが描
く顔たちのように、目の前にいる人物の顔の諸部分が曖昧にぼやけて侵食しあうように
見えることなどはない。まして顔面だけが局所的にぼかされる︽宮廷道化師フアン・カ
ラバーサス︾などにいたっては、日常的な視知覚にとってはほとんど説明不可能な事態
であると言っていい。しかしここで謎であるのは、わたしたちの日常的視知覚には反す
るはずの中・後期ベラスケスの描く顔のほうが、にもかかわらず、 ﹁リアル﹂に存在し ているように感じられるということである。
ゲシュタルト心理学の影響下で芸術知覚論を展開した ・ ・ゴンブリッチは、 ﹃芸
H
術と幻影﹄のなかの﹁雲のイメージ﹂と題された章で、顔の﹁ぼかし﹂について議論し
ベラスケスと顔の先 触れ
45
E
ている。ゴンブリッチが考察の対象とするのはベラスケスではなく、一八世紀イギリス
︶に注目し、当時の批評家が行
の画家、トマス・ゲインズボローである。ゴンブリッチは、ゲインズボローの画面にし ばしば見られる﹁奇妙な引っ掻いたような筆あと﹂︵図
だという知覚理論を展開する。
されていたイメージ図式の﹁投射﹂を引き起こし、描かれた像の肖似性が補完されるの
射﹂という概念に結びつけ、描写の曖昧さこそが、観者の記憶のなかにあらかじめ用意
完成させるのだという。ゴンブリッチはこの解釈を、ゲシュタルト心理学における﹁投
いことこそが見る者の﹁想像力﹂を刺激し、観者の想像裡において﹁見事な肖似性﹂を
なった解釈を参照する。それによれば、絵画においては、最後まで画面を仕上げきらな
17
などはない。 ゴンブリッチはここで、表象のゲシュタルト的組織化を、肖似性の補完
のであり、そのうえさらに記憶のなかから選び出されたイメージが重ねあわされること
して了解される時点ですでに投射概念が説明しようとする表象の組織化を済ませている
るのは、実際には、描かれているとおりのぼかされた顔でしかないはずだ。顔は、顔と
のとは別の、 ﹁補完﹂された顔が見えてくることなどがあるだろうか。そこに見えてい
本当だろうか。ベラスケスやゲインズボローの肖像画を見るとき、そこに描かれている
よって想像裡における知覚的補完を引き起こすのだと言えることになるだろう。だが、
この理論をそのままあてはめれば、ベラスケスの肖像画もまた、ぼかされることに
*19
という問題にすり替え、絵画表象の目的を知覚的な完全性に置くことによって、絵画経
*20
46
験の実際を取り逃がしている。
ベラスケスの描く顔の﹁ぼかし﹂は、知覚的な完全性には解消されない。ベラスケ
スにおいて、まったき肖似性はけっして完遂されえない。その顔の存在感は、 ﹁見かけ﹂
の肖似性、すなわち﹁像﹂のリアリティを補完することにおいて実現されているのでは
ない。むしろそこでは、 ﹁像﹂の論理では説明がつかない、一種の﹁絵画的翻訳﹂が行
なわれているのだと考える必要があるだろう。つまり知覚的な完全性を阻害する﹁ぼか
し﹂を、画面にあえてほどこすことによって、描きえないはずの﹁存在﹂のリアリティ
図 17 トマス・ゲインズボロー 《フィリップ・ジャック・ド・ルーテルブール》 1778 年
がキャンヴァスの上に翻訳されるのだ。だがそのような翻訳がいったいいかにして可能 になるのか。
ベラスケスと顔の先 触れ
47
*21
問題は顔の描写様式の﹁ずれ﹂である。 ︽宮廷道化師フアン・カラバーサス︾の顔は、
なによりもそれが身体の他の部分の描写様式と大きな﹁ずれ﹂を示していることにおい
て、わたしたちの眼を動揺させていたのであった。この﹁ずれ﹂は、画面を連続した空
間として理解しようとする観者の視覚に対して、ある障害として現われる。人が絵画の
前に立つとき、画面に描かれたものは一挙同時に見られているのではなく、限られた部
分を見る視線が、非連続的な走査をくり返すことによって全体として経験されている。
しかし画面に知覚上の﹁ずれ﹂を描きこむ顔の﹁ぼかし﹂は、いつまでたっても明晰判
明な焦点を結ばない部分として、あたかも視線による走査が、つねにその部分において
だけ未完了に留まっているかのような効果をもたらすものとして現われるはずだ。 ﹁ぼ
かし﹂によって、顔は、解消されることのない視覚経験の未完了性を画面のただなかに
穿ちこむ。観者の視線はそこで、つねに切迫した未完了性のうちに宙吊りにされて、描
かれた顔の上を旋回しつづけることになるだろう。そのとき、顔は﹁見尽くせない﹂も
のとなる。そしてこの不断の宙吊り状態において、到来しつつある﹁顔﹂の顕現の瞬間 0
0
0
0
後期の︽フアン・デ・パレーハ︾︵一六四九
五 ―〇、図
たとえば初期作品︽バッカスの勝利︾︵一六二八 二 ―九、図 ︶に描かれた酔っ払いの顔と、
な存在感を生み出していると考えることはできないか。
に向かって身構える観者の経験の作用こそが、中・後期ベラスケスが描く﹁顔﹂の特異
0
︶の顔を比べてみよう。観者をまっ
18
すぐに見つめながらワインを差し出す︽バッカスの勝利︾の男は、今まさにわたした
19
48
ちを見つけたところだというような現在性の姿で表象されているにもかかわらず、完全
に静止してこわばっているように見える。それに対し、 ︽フアン・デ・パレーハ︾の顔
は、一見した無表情とは裏腹に、汲み尽くしがたい運動を孕んでわずかに揺れ動き続け
るかのように見える。正確に言えば、 ︽フアン・デ・パレーハ︾の顔に起きているのは、
目や頬の輪郭をかき乱す筆触のひとつひとつをはっきりと特定することができるにもか
かわらず、画面全体としてみると、なぜかその顔が謎めいた運動のさなかにあるかのよ
うに感じられてしまうという事態である。それは、実際に目に見えている顔のイメージ
が、到来しつつある明晰なイメージに対してつねにわずかに遅延した、未完了の相に留
ベラスケスと顔の先 触れ
49
0
0
0
0
図 18 (部分) 《バッカスの勝利》 1628-29 年
まらされ続け、そのわずかな﹁ずれ﹂によって顔のイメージが引き裂かれることで生み
図 19 (部分) 《フアン・デ・パレーハ》 1649-50 年
0
出される運動の感覚であるだろう。おなじ﹁笑い顔﹂である︽バッカスの勝利︾の男の
顔と︽宮廷道化師フアン・カラバーサス︾の顔を比べてみれば、この﹁ずれ﹂がもたら す不安定な運動感の姿はさらに鮮明になるはずだ。
明晰な﹁顔﹂の到来の瞬間に対して、現実の知覚がつねにわずかに遅れ続ける。こ
の﹁ずれ﹂が引き起こす運動の感覚は、あくまで宙吊りにされた顕現の瞬間に向かって
身構える観者の経験において意識されている。つまりその顔が孕む運動性とは、そこで 写真の﹁ぶれ﹂が記録するのはこのリテラルな時間である
│
、むしろ潜在的なま
運動が実際に行なわれるであろうようなリテラルな時間の流れを感じさせるというより
│
まにとどまる運動の﹁気配﹂のようなものとしてそこにある。ベラスケスが描く﹁顔﹂ が存在感を放つのは、この﹁気配﹂の時間においてである。
﹁顔﹂の存在感を翻訳するという巨大な課題からしてみれば、モデルの顔が示すもろ
もろの形態的造作とは、翻訳を遂行するための第一次的な素材、あるいは最低限それが
誰の身体に属する顔であったのかを確認しておくための取っ掛かりであるにすぎないだ
、 ろう。むしろ﹁顔﹂とは、もろもろの造作や表情であるよりも先に、まずこの﹁気配﹂
0
0
ありとあらゆる表情の運動をそこに潜在させて沈黙する絶対的な﹁先触れ﹂のことなの 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
目に見えぬ気配に縛られつつ、固唾を飲んで画面を見守るのだ。 ﹁存在﹂のリアリティ
わたしたちの注視を引き起こし続ける。わたしたちは、その柔らかな顔面に沸きあがる
であり、この不断の先触れ状態をつくりだすことにおいて、ベラスケスの描く﹁顔﹂は、
0
50
とは、この待機において不断に更新される﹁顔﹂の﹁先触れ﹂の力にほかならない。
一七世紀、肖像画が歴史画や宗教画よりも相対的に低い地位にあるものとしてしか見
られなかった時代にあって、 ﹁顔しか描けない﹂ 、 ﹁大画家は肖像画家ではなかった﹂な
どとさまざまに揶揄されたベラスケスは、 ﹁かつて本当に顔を描いた画家を私は知らな
﹁顔﹂の絵画的翻訳 い﹂と言い放ったと伝えられる。 その言葉に示されているのは、
の見かた﹄ 、高階秀爾訳、白水社、一九七七年、四一頁︶
は、 ベラスケスの師パチェーコである。 Gridley Mckim-Smith et al., Examining Velázquez, New 参照。出典は、 Francisco Pacheco, Arte Haven and London: Yale University Press, 1988, p. 34 de la pintura (Seville, 1649), F. J. Sánchez Cantón, ed., vol. 2, Madrid, 1956, p. 154. Kenneth Clark, Looking at Pictures, London: Murray, 1960, pp. 36-37︵.ケネス・クラーク﹃絵画
第一次イタリア旅行から帰国したベラスケスの筆致をティツィアーノになぞらえて絶賛したの
房、一九八三年、六一頁参照。
要約されている。エミリオ・オロスコ﹃ベラスケスとバロックの精神﹄ 、吉田彩子訳、筑摩書
ル・ゴーティエが、 ﹁だが、キャンヴァスはどこにある?﹂と口走ったという逸話に端的に
この視覚的連続性の印象は、 ︽ラス・メニーナス︾を観た一九世紀フランスの詩人テオフィ
を遂行する者の、掛け値なき自負心にちがいない。
*22
参照。出典は、 Antonio de Palomino Gridley Mckim-Smith et al.,Examining Velázquez, pp.15-16
ベラスケスと顔の先 触れ
51
1 2 3 4
5 6
de Castro y Velasco, El Museo Pictórico y Escala Óptica (Madrid, 1715-24), Anguilar, ed. Madrid, 1947, p. 905こ. のパロミーノの言葉は、ヴァザーリがティツ ィアーノを評した言葉
ときわめて似通っている。 いう概念で分析している。岡田温司﹃ミメーシスを超えて
│
美術史の無意識を問う﹄ 、勁
岡田温司は後期ティツィアーノの画面に現前する絵具を、 ﹁汚れ﹂あるいは﹁排泄物﹂と
草書房、二〇〇〇年、一六五 一 ―七七頁参照。なおベラスケスは、しばしばまったく意味
をなさない筆致を後景に残し、画面の写実的完成を破壊することがある。 Jonathan Brown and Carmen Garrido,Velázquez: The Technique of Genius, New Haven and London: Yale 参照。 University Press, 1998, pp. 39, 151 Jonathan Brown, Velázquez: Painter and Courtier, New Haven: Yale University Press, 1986, p. 参照。 88
Gridley Mckim-Smith et al., Examining Velázquez, pp. 47-48.
︽ラス・メニーナス︾で画家が手にしている筆の長さは、せいぜい四〇センチメートルほどで
神吉敬三の指摘を参照。神吉﹃プラドで見た夢﹄ 、中公文庫、二〇〇二年、七四頁。
ミシェル・フーコー﹃言葉と物﹄ 、渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、一九七四年、二七頁。
L. Stratton-Pruitt, “Introduction: A Brief History of the Litterature on Velázquez ,” The Cambridge Companion to Velázquez, Suzanne L. Stratton-Pruitt, ed., Cambridge: Cambridge 6 照。 University Press, 2002, p. 参 参照。 Jonathan Brown and Carmen Garrido, Velázquez: The Technique of Genius, p. 80
す で に 一 九 世 紀 末 に は、 ベ ラ ス ケ ス は﹁ 印 象 派 の 父 ﹂ と し て 評 価 さ れ て い る。 Suzanne
。 のような存在である﹂︵ドールス﹃プラド美術館の三時間﹄、神吉敬三訳、美術出版社、一九九一年、六三頁︶
しかない。
8
エウヘーニオ・ドールスの次の言葉を参照。 ﹁ベラスケスは世界の上に置かれた一枚のガラス
7 9 10 11 12 13
52
れをチェーザレ・リーパ﹃イコノロギア﹄の中の﹁美のアレゴリー﹂の図像と関係づけてい
アンドレアス・プレイターは︽鏡を見るヴィーナス︾における顔の﹁ぼかし﹂に注目し、そ
る。 ﹁美のアレゴリー﹂は、顔だけが雲に包まれた女性の裸身図像である。プレイターは、観
者の視的欲望を喚起すると同時に拒絶するその図像を、 ︽鏡を見るヴィーナス︾と︽ラス・メ
ニーナス︾における﹁ぼかされた鏡像﹂の問題に結びつけて展開している。しかしそれは、
﹁鏡﹂というよりむしろ、中・後期ベラスケスの﹁顔﹂表現全体を支配する問題として捉えな
│
フランシス・ベイコン・インタヴュー﹄ 、小
おされるべきであろう。 Andreas Prater, Venus at her Mirror: Velázquez and the Art of Nude 参照。 Painting, Munich: Prestel, 2002, pp. 72-76
デイヴィッド・シルヴェスター﹃肉への慈悲
林等訳、筑摩書房、一九九六年、三二頁。
おける顔の﹁ぼかし﹂に注目している。アンバーガーによればその﹁ぼかし﹂は、けっして
エミリー・アンバーガーは﹁ベラスケスと自然主義Ⅱ﹂において、フェリーペ四世の肖像画に
整っているとはいえないフェリーペ四世の顔を、理想化することなく、しかし無礼にならな
いやり方で描くためにベラスケスが採用した技法である。それは同時代の劇作家ペドロ・カル
デロン・デ・ラ・バルカの芝居に登場する、画家アペレースがアレクサンダー大王の肖像画を
描いたときの逸話と正確に対応している。しかしアンバーガーの解釈は、フェリーペ四世以
外の肖像画を考察から意図的に除外しており、 ︵もともと美しい︶皇太子やヴィーナスの肖像
,” Res 28, Autumn 1995,
Ⅱ
や︵無礼を恐れる必要のない︶道化師の肖像には適用できない論理を展開しているという点で、 説得力をもたない。 Emily Umberger, “Velázquez and Naturalism 参照。 pp. 102-109
離して強調するホルバインの肖像画を対比している。ハインリヒ・ヴェルフリン﹃美術史の基
ヴェルフリンは、顔の諸部分を全体に融合させる中期ベラスケスの肖像画と、個々の部分を分 礎概念﹄ 、海津忠雄訳、慶應義塾大学出版会、二〇〇〇年、二四四頁。
ベラスケスと顔の先 触れ
53
14 15 16 17
オンブレス・デ・プラセール
・ ・ゴンブリッ
当時のスペイン宮廷には、 ﹁ 慰 み の 人 々 ﹂と総称される身体障害者や道化師が数多く存在し ていた。
E. H. Gombrich, Art and Illusion, New York: Phaidon, 2002, pp. 167-168︵. チ﹃芸術と幻影﹄ 、瀬戸慶久訳、岩崎美術社、一九七九年、二七五 二 ―七六頁︶
E
ポ = ンティの批判を参照。モーリス・メルロー
ポ = ンティ﹃知
│ ﹃宮廷の侍女たち﹄を見る﹂、宇
覚の現象学 ﹄ 、竹内芳郎・小木貞孝訳、みすず書房、一九六七年、五四 五 ―七頁。 スヴェトラーナ・アルパースは、表象の問題を知覚的な完全性の問題に還元しているとしてゴ
る。投射概念に対するメルロー
でなければならず、投射が引き起こされようとするときにはすでにその投射は不要になってい
ある形態に﹁顔﹂のイメージ図式が投射されるためには、そこにすでに﹁顔﹂が見えているの
H
七三頁参照。 七二 ―
この逸話を伝えているのはパロミーノである。オロスコ﹃ベラスケスとバロックの精神﹄ 、
野宏子訳、 ﹃現代思想﹄ 、一九八八年十一月号、一〇四頁参照。
ンブリッチを批判している。アルパース﹁表象のない解釈
1
18 19 20 21 22
54
他者のように自己を描く│
日高 優
レンブラントの︽自画像︾
レンブラントが描いた自画像にはしばしば不思議な雰囲気が漂っているとされるのだ
が、一六五九年の一枚の自画像 ︵ワシントン、ナショナル・ギャラリー所蔵。以下、一六五九年の︽自
画像︾ 。口絵 ︶は、その謎めいた空気をいっそう強く湛えているように思われる。謎の表
レンブラントはとりわけ自画像の画家である。彼は歴史画、風景画、肖像画といったさ
自画像のタイプと変遷
像︾における︿顔﹀をめぐる考察である。
して読むことはできないか。本稿はレンブラントの一枚の自画像、一六五九年の︽自画
絵画の秘密をこの画家の個人的な人生の逸話に還元する以外の仕方で、絵画の出来事と
画家の孤独や失望、あるいは諦念から説明されてきたのである。だが、レンブラントの
満ちた豪邸を手放したころの作品にあたるから、その謎は五〇の齢を過ぎ老いつつある
たとえばこの一六五九年の︽自画像︾は経済的破綻により画家が亡き妻との思い出に
の人生のロマンチックな伝説が、その芸術のロマンチックな見方に適用されてきた。
みであったと述べたのは、スヴェトラーナ・アルパースだった。そして、レンブラント
レンブラントに対する観者の好みの多くは、謎めいたものや喚起的なものに対する好
かべているのである。
情、読むことのできない表情、表情ならざる表情のようなものを、この自画像の顔は浮
3
*1
56
まざまなジャンルを横断したが、彼の自画像は油彩画で約六〇点、版画や素描をふくめ
て七五点あまりにも及び、その膨大な作品数は絵画の歴史を通しても並ぶものがない。
また、肖似性を追求する他の画家たちのなかにあって、レンブラントの自画像は異彩
を放っていた。レンブラントが自身を描くことを始めたのは画家として歩み始めた最初
期であり、筆をおいたのは死を迎えた一六六九年である。その間、この画家はほとんど
中断することなく飽かず自身を描き続けたのだ。ところでレンブラントについてはいま
だ解明されていない史実が多く、彼の絵画は扱いが困難でもある。彼の傑作と言われて
きた作品でさえ、弟子が模写した贋作なのか、彼自身の真作なのかといった議論が今日
までもたたかわされ、いまだ決定的な結論が下されていない作品も少なくない。こうし
た判断の困難さが生じる主な理由は、レンブラント自身が多作だったこと、大規模に工
房を運営して多くの弟子を抱えていたため、弟子とレンブラントの筆が混在した作品が
多く存在することなどである。 そこで、このアトリビューション ︵作者特定︶の問題解
決を目指して一九六八年にはオランダの美術研究者集団からなるレンブラント・リサー
チ・プロジェクトが活動を開始した。このプロジェクトはエックス線鑑定など最新の科
学技術を積極的に導入しつつ、画家の描き癖や技法など詳細な調査を行ない作品の真贋
判定をしている。こうした成果をふまえながらレンブラントの自画像をみてみよう。
一口に自画像とは言っても、三〇余年にもおよぶ期間を通じて描かれたレンブラント
の自画像は、最初から最後までが同じように描かれていたわけではない。 まずレンブ *3
他 者のように自己を描く
57
*2
︶や︽泣き叫ぶように口を開けた自画像︾︵一六三〇、図 ︶など、
ラントが描いたとされるのは、 ﹁表情研究﹂のための自画像のタイプである。 ︽目を見開 いた自画像︾︵一六三〇、図
2
影に視線を投げたのだった﹂ 。 そもそも﹁表情
することが関心事だったようだ。
﹂とは、その語義からすれ ex-press-ion
次いで描いたのが、歴史画の登場人物などに扮装して自身を描き込むタイプ
ポル
で あ る ︵図 ︶ 。このようなものを自画像とみなす 3
よってなされる。また、歴史画のなかに周縁的に埋め込む形ではなく、肖像画というか
彼のもっとも顕著な身体的特徴とされる不恰好なまでに大きく盛り上がった鼻などに
か否かの判断は別として、描き込まれたのがレンブラントその人だという識別は、通常、
トレ・イストリエ ︵ portrait historié ︶
│
│
を可視化する媒体として、顔の歪み、皮膚の捩れの定型的な表現のレパートリーを収集
面の歪みをいうが、この時点のレンブラントにとって、内なる感情という不可視なもの
ば内なる感情が外に押し出された時に顔の筋肉を動かすことによって刻まれた皺や顔
*4
ばより大きな関心を抱いて、鏡で自身の特徴を詳細に観察し、表情をつくり、喚起的な
形式にはあまり注意を払うことなく、肖似性や公的イメージよりも性格や表情にしばし
表情をつくったりしているのは驚くにはあたらない。 ﹁レンブラントは肖像の因習的な
た。ここでは感情の表現パターンとしての表情が問題だったから、故意に顔を歪めたり
して生計をたて始めたレンブラントにとって、表情描写の習得は職業的にも急務であっ
レンブラントの初期のエッチングにこのタイプの多くを見ることができる。肖像画家と
1
58
トロニー ︵ trony 、オランダ語で︿顔﹀の意 ︶
│
として分類さ
たちで歴史や神話上の人物のコスチュームを着てその人物になりすまし、自画像を描く 作品群もある。
│
なかには頭部の習作
れる自画像もある。トロニーとはレイデンを中心に一七世紀オランダでさかんに描かれ
たタイプのもので、一見肖像画のように見えながら特定の人物の描写を目的とするので
はなく、多様なタイプの頭部を描出するための習作である。さまざまな衣裳を身に纏っ
他 者のように自己を描く
59
た人物の諸類型を描く訓練として描かれたという。この作例は、歴史画家ピーテル・ラ
図3 《主題不詳の歴史画》 1626 年
ストマンに学んだのち、ふたたびアムステルダムへ出るまでのレイデンでの修行期間に
図2 《泣き叫ぶように口を開けた自画像》 1630 年
多くみられたが、この時期のレンブラントはラストマンの弟子らしく崇高で劇的な主題
図1 《目を見開いた自画像》 1630 年
│
が描かれる。これらは自己省察の自
われわれがレンブラント
を描き、自画像でも光と影を大胆に配置して若者の倦怠感などをダイナミックに表現し 。 ていた ︵図 ︶
│
だったのだ。 一七世紀のオランダでは経済的繁栄によって市民層が台頭し、より自由
ンス期、さらなる深化が果たされたのはまさにレンブラントが生きた一七世紀オランダ
は神中心の世界観から人間中心の世界観への移行があり、その最初のステップはルネサ
ペリー・チャップマンが指摘するように、自己を主題に据える自画像が誕生した背景に
つは画家が自己という︿個﹀を表現するために描いた自画像が登場するのは近代以降だ。
たる。今日のわれわれにとって自画像といえばこのタイプということになるのだが、じ
画像として語られてきたもので、本稿で取り上げる一六五九年の︽自画像︾もこれにあ
の自画像として最初に想起するであろうタイプ
そして、画家が自己を描くこと自体を主題とした作品群
4
な精神風土が広がっていた。 市民層を取り込んだ絵画市場が発達して、画家の自画像
*5
│
芸術家へと存在を高めていった。 を読み取ることができる。
レンブラントの自画像にも、たしかに画家の矜持
も売買の対象になってゆき、 画家は王侯貴族のパトロンに依存する職人から自立した
*6
*7
ラ = ストマンに学んでレイデンで修行を積んだ時期、第二期
最 = 初の妻サスキ
ア = ムステルダムへ移
住してすぐさま得た成功と名声により若く自信に満ちた時期、第三期
一期
レンブラントはこのようにさまざまなタイプの自画像を描いたが、その変遷は、第
*8
60
アの死からはじまりつつましい生活を余儀なくされた時期、第四期
死 = に至る最晩年、
と彼の生の節目と平行しつつ大摑みに時期区分することができる。だが、第二期と第
三期の間には決定的な分割線があり、第四期は第三期の深化としてとらえることができ
る。 レンブラントは歴史画の登場人物に扮する自画像を比較的一貫して描いているが、
表情研究とトロニー的作品は第一期、第二期にまとめて残し、第三期以降は自己省察の 自画像に没頭している。
第二期と第三期の間の分割には、資産家の娘で若く美しい妻サスキアの死 ︵一六四二年︶
によりレンブラントが甘美で豪奢な生活に終止符を打ち、次第に社交界から身を引いて
図4 《自画像》 1628 年頃
いったという事実がぴたりと貼りついている。レンブラントの絵画は彼の生そのもので
他 者のように自己を描く
61
*9
あるから、こうした伝記的事実への関心はつねに惹起されよう。傾きつつある彼の人生
を髣髴とさせるように、描かれる画家の目は落ち窪み、髪には白髪が混ざり始め、肌の
肌理は粗くなりつやを失ってゆく。五〇年に入る頃からは絵の具の塗りや描き方も変化
してくる。一六五九年の︽自画像︾はこの第三期の頂点をなすものとして位置づけられ、
これ以降、読み取りがたく名指しえない表情をした︿顔﹀や落ち着きを取り戻したかの
ような︿顔﹀が描かれてゆく。その典型的な自画像は、死の年 ︵一六六九年︶に描かれて 。 いる ︵図 ︶
自画像にもすでに目の下の皺など老いの痕跡を刻みはじめており、 彼の一連の自画像
ティアン・テュンペルが言うように、レンブラントはじつに一六三〇年代初頭の時点の
一般的な諸事情があるだろう。自画像は画家の観察・描写欲を満たしてくれる。クリス
人の意向を気にかけず好きなように描くことができる、自由がきくといった画家のごく
対象が自己であれば描きたいと思う頭のなかのイメージを口頭で伝える困難がない、他
理由は、第一に自分を描くのであればモデルを雇う必要がないという金銭的都合、観察
画家が自己を描くとはどういうことなのだろう。レンブラントが膨大な自画像を描いた
自己を描くということ
5
を時間軸にそって深まってゆく﹁老い﹂の観察記録とみる向きも多い。
*10
62
だが、はたしてレンブラントの自画像は顔の観察記録と呼ぶべきものなのだろうか。
│
たしかに若かりしころのレンブラントは絵画に入り込んでくる過剰なまでの物たち
豪奢な羽飾りのついた帽子、オランダの黄金時代を象徴する東西の物品、動物の頭蓋骨、
をモチーフとし、そ
古代ローマの胸像など画家の財産目録に収まる品々、貪欲な収集欲をもつ画家が妻サス
│
キアの莫大な持参金と仕事の報酬をつぎ込んで買い漁った品々
れらの細部までも描き尽くそうとする画家の眼の欲望に身を任せたこともあった。言う
れかえる物の
までもなくこうした視覚的な写実性の追求がこの画家の生きた一七世紀オランダ絵画 では主流だったわけであるが、しかし四〇年代以降のレンブラントは
他 者のように自己を描く
63
細部を描く充満した絵画に背を向け、顔の細部を描きこむことからも離れてゆくのだっ
図5 《自画像》 1669 年
た。アルパースが示唆していたのは、 ﹁レンブラントの芸術が [一七世紀オランダ美術の本質
である]描写の芸術に対する外側からの批判﹂となっていったということだったが、こ
れは間違いないことだろう。 いずれにしろ、自画像の変遷という観点から考察すれば、
│
当
を捨て、厚塗りの粗描きへと向かっていっ
いと画面構成が、しだいに皺を一本一本描くような平滑塗りによる視覚的写実性
ではどうだろう。
据えられたイーゼル、握られた絵
がそろえられ、それが画家の自画像であるこ
とが絵画自体で示されている作品が注目されてきた。しかし、一六五九年の︽自画像︾
筆、身に纏う画家の作業スモッグなど
│
自画像でも画家としての存在を顕示する道具立て
│
考察することになってきたのだ。レンブラントの自画像作品もこの例に洩れない。彼の
論じるということは、しばしば画家という階層の社会的位置づけや画家の矜持について
ティが問題になるから、画家は作品制作中の姿の自己を描く。それゆえ画家の自画像を
に自画像を描く場合︵前述の自画像分類の最後のパターン︶ 、画家というアイデンティ
では、この自画像は画家としての自己を問うものだろうか。通例、画家が自己を主題
ある。
察記録とは異なる位相にあり、一六五九年の︽自画像︾はこの方向が辿りついた先に
たことが確認できる。レンブラントの技法は明瞭さを求める観察の価値にそぐわず観
時のオランダ絵画の主流が追求したもの
│
レンブラントの自画像において観察結果を丹念に描いてきたレンブラントの絵の具使
*11
64
画家の印
一六五九年の︽自画像︾の男は黒いシンプルな上着の襟を立て、黒いベレーを被ってい
る。黒いベレーは画家の自画像でしばしば好んで描かれたモチーフだが、当時のオラン
ダの一般的市民の格好からすれば古めかしい道具立てである。そしてエックス線鑑定が
興味深い事実を明らかにした。この黒いベレーは当初、白っぽい淡色のキャップに描か
れていたのである ︵図 ︶ 。 このキャップは絵画制作中の姿を描いた自画像のなかでた *12
図6 (口絵 3 )の X 線写真 《自画像》
びたびみられる作業用キャップで、画家のアトリビューションとして機能するものだ。
他 者のように自己を描く
65
6
しかし画家は製作中の姿の自画像を描いていた途上でこれを黒いベレーへと修正したた
め、それによって画中の男が画家自身であることを示す記号としてのはたらきは失われ
た。この修正は画家の印を画家みずから抹消したことの証左である。男は絵筆もイーゼ
ルも、絵画制作に纏わるものを何ももたないから、画中の男が画家自身であることを示 す道具立てはいっさい、排除されたことになる。
ポーズについてはどうだろう。ポーズもまた、画家たる印となる要素である。一六
レンブラント
五九年の︽自画像︾で最大の問題になるのは、描かれる半身の向きである。パスカル・
│
ボナフーは自画像を描くレンブラントの様子を次のように記していた
はカンヴァスをのせたイーゼルとは別のイーゼルを用意して鏡を立てかけ、その鏡をの
せたイーゼルを通常は画家の左側において描いた、と。 実際にレンブラントが描きあ
︵ボナフーが言うように鏡が半身の左側にある位置︶のである。
│
画中の身体は
という大いなる可能性を示唆しているのである。だが、一六五九年の︽自画像︾では半
いうことはそれが鏡像にそくして描かれたという痕跡であり、その作品が自画像である
左を向く。すなわち、右利きの画家によって描かれた画家自身の像が左を向いていると
こうして左右反転する鏡像にもとづいて描かれる画家の身体は
│
身の腕が鏡に映る視界を遮らないようにすると画家の半身は鏡に対して幾分右を向く
レンブラントのように右利きの画家にとって、イーゼルの前に立ち筆を持って構える自
げた自画像群をみると画中の半身は斜め左を向くものが大半だがこれは当然のことで、
*13
66
身はわずかに通常とは逆に右を向いている。レンブラントの自画像のなかで半身が右を
向く絵はこの自画像を含めて二枚しかないことには留意しておく価値がある︵もう一枚
が有名な︽笑う自画像︾︵一六六二︶で、その絵にはイーゼルと絵筆という画家の記号が
示されている︶ 。 レンブラントは一六五九年のこの自画像で鏡像を用いてはとらえる
描くことを生業とする画家にとって特権的な身体部位
│
をいかに処理するかであ
さらに自画像のポーズの問題を考えるとき、もうひとつ重要になってくるのは︿手﹀
ことのない半身の向きを描いたことになる。
│
る。つまり、描きつつある画家の手は絵筆を握っているのであり、それをどう描くのか、
ということだ。レンブラントは普段、次の仕方で自画像の手を描き分ける。もとより手
を描く必要のない構図にするか、服装の中に手を隠させるか、描く場合は画家の証であ
る絵筆を持たせて描き込むか、あるいは絵筆を構える手に本などの代替物を持たせて描 くか、である。 左向きで
│
描かれる
半身の向きと合わせてみてみると、手への配慮が明瞭になる。先にみたようにレン
│
ブラントの画中の半身の向きは鏡像をそのままひきうつして
のが通例だった。しかし手、とくに絵筆を握る手の場合、鏡像では絵筆を持つのが左
手になってしまうところを現実に合わせて頭のなかで左右反転して絵筆を持つ手を修正
し、描かれるのだ︵ ︽イーゼルのある自画像︾︵一六六〇︶や︽ふたつの弧のある自画像︾
。三浦篤が指摘するように、 ﹁右手に修正されたレンブラントの ︵一六六五 五 ―九頃︶など︶
他 者のように自己を描く
67
*14
自画像﹂は﹁あるがままに描く絵画﹂ ︵ミメーシスとしての絵画︶への画家の関心を表
わしている。 だが、一六五九年の︽自画像︾の手の処理はこのどれにもあたらない。
半身の向きは鏡面と画家の関わりをかいまみせる。こうした画家の印が埋め込まれてい
ように画家は作業着を着たり、手には絵筆を握ったり、イーゼルが置かれたりしている。
画家の自画像では多くの場合、描かれた人物が画家自身であるとあらかじめ分かる
線の構造を検討しよう。
をしているのか。このような自画像が出来した経緯を考えるために、自画像における視
ではなぜ、この自画像は画家の印をもたず、画中の男は例外的に通常とは異なるポーズ
眼差しの痕跡
身であると主張するものはほとんど何もないように思われる。
描く。画家が自己を描いた痕跡をこの絵自体に見出すことは難しく、画中の男が画家自
には絵筆も握らせず、作業用キャップも塗り消し、画家とは別の男の肖像という風情に
の印を抹消する徹底ぶりである。半身は例外的に通常の自画像とは逆向きに構成し、手
一六五九年の︽自画像︾において注目しなければならないのは、レンブラントが画家
指し示す記号としては機能していない。
両の手は組み合わされ、闇の静寂のなかに佇んでいる。手は画家の自画像であることを
*15
68
るので、自画像では通常、画家としてのアイデンティティ、自己という問題が析出して
くる。だが立ち止まって考えてみよう。自画像を描くということはそれほど単純な事態
画家が描くのが他者の肖像画であれば、画家は﹁見﹂ 、モデルは
ではない。それは本質的に視線の構造をめぐるアポリアを抱えている。
│
視線のアポリア
﹁見られる﹂ 。一枚の肖像画には、 ﹁見る 見 ―られる﹂の本来的に幸福な関係がある。し かし自己を描く自画像では﹁見ること﹂と﹁見られること﹂は本来、同時的には両立し
えない。鏡面を見つめつつ描く自画像とは、本質的に不可視の像である。鏡像はもとの
像から反転してしまうから、 ︿あるがまま﹀の自己を描くためには描くと同時に鏡の位
置に自身を見つめる目を据えつけなくてはならない。つまり、画家は、描く主体として
の画家の目から分裂した他者の目をもたねばならないのだ。それは自己を他者としない
かぎり、描くことのできない不可視の像である。これを観者の側から言えば、観者が画
中の画家の正面から、鏡の位置から見ることによってのみ、画家の自画像は成立する。
ジャック・デリダは、 ﹁正面向きの自画像﹂ を引き合いに出しつつ、自画像の根源的 アポリアについて次のように述べる。
*16
自画像、それも正面からの自画像作者としての素描画家の自画像という仮設を立てる 0
0
0
0
0
0
ためには、われわれ観者ないし解釈者は、素描画家が一点だけを、ただ一点を、彼の
0
正面にある鏡の焦点を見つめていると、すなわち、われわれが彼と差し向かいで占め 0
0
0
0
0
他 者のように自己を描く
69
0
る場所から見つめていると想像するのでなくてはならない。それがある自画像の自画
像であるのは、他者にとってでしかない。唯一の焦点の場所を、だが一枚の鏡である 0
0
0
0
はずのものの中心で占める観者にとってでしか。
0
観者はそのとき鏡に取って代わり、鏡を暗く曇らせる。鏡像的反照性は作品によって
自分がみえない﹂盲目の状況にある。デリダは言う、
の目は﹁必然的に彼と差し向かいの受信者によって鏡が取って代わられるためにもはや
けではない。見て描く当の画家の盲目性が同時に露呈するのだ。自画像の構造上、画家
だが自画像の視線のアポリアがもたらすのは、目の分裂によって出来してくる事態だ
描かれた男は画家自身とはみえず、他なる者の目によって描かれた肖像とみえる。
の背後に隠されていたものが一気に可視化してくるのだ
│ 一六五九年の︽自画像︾に
自画像﹂という︿見え﹀によって画家としてのアイデンティティや矜持といったテーマ
奪われて、一六五九年の︽自画像︾はこの秘密の構造を一挙に明るみにだす。 ﹁画家の
という安定的構造が設えられ、この視線の構造は背後に隠されている。だが画家の印を
この困難な状況には、絵画に埋め込まれた﹁画家という印﹂によって﹁画家の自画像﹂
[ 画 = 家]の目である。あるいは彼の目の分身である﹂ことを要請するのだ。しかし通常、
正面向きの自画像の視線の構造は、画家にとって他者である﹁われわれ [ 観 = 者]は彼
*17
0
70
求められているが、観者はそれを産出し、作品化し作動させることによって鏡の場所 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
署名者を盲目で打つのであり、そしてそれゆえ、同時に同じ一撃で、モデルの目を潰
で盲目にする。この観者の行為は本質的に作品によって規定されたものだが、それが
0
0
0
0
0
0
0
0
に自分を表象するためにそうさせるのである。
しているのか? 。 レンブラントの自画像の眼差 何も眼差していないのだ⋮⋮。謎﹂ しは、 ﹁何も見ない眼差し﹂と言われる。一六五九年の︽自画像︾の眼差しも、眉根を
ボナフーは嘆息している。 ﹁レンブラントの飾り気のない後期の肖像画。彼は何を眼差
*18
り作品の対象でもあるもの︶に、自分の目を潰させる、自分を見るために、また作品
すのである。あるいは彼に、つまり主題にして主体︵同時にモデルであり署名者であ
0
もはや見ない、いずれにせよ、自画像画家としての画家の自画像の対象、主体にして署
れわれが]鏡の場所に、その代わりに観者として制定された瞬間そのものとしての作者を
の盲目の眼差しは、画中の人物が画家自身の像とは了解されない事態を召喚する。 ﹁[わ
れている自画像の眼差しの構造があらわになる裂け目とみえてくる。翻っていえば画家
主体として何かを見るのではない盲目の眼差しなのだ。この男の眼差しの謎は普段隠さ
の﹁主題にして主体﹂の男の眼差しは何も見ない眼差し、凝視しているにもかかわらず
寄せ凝視しているにもかかわらず何を見ているのかさだかでない、そんな眼差しだ。こ
*19
名者である者を同定 同 = 一視することができない﹂。 一六五九年の︽自画像︾で不可能 *20
他 者のように自己を描く
71
0
な構造があらわになることで、見るとともに描く画家
モ = デルの目の盲目性がせり出し、
観者が画中の男を画家自身と判別できない状況となる。自画像の出来事を画家と分有し
ようと欲する観者にとっても盲目の画家にとっても、男の顔は画家とは別の他なる者の 顔のごとくあるだろう。 物質、顔、光
ところで、この自画像がレンブラントの自画像のなかでも例外的な存在であったことを
思い出そう。すると次いで検討しなくてはならないのは、この自画像の顔の際立った特 異な筆さばきだ。
そもそもレンブラントはオランダ絵画における粗描きの巨匠として位置づけられて
きた。 ︿ラフ﹀に描く粗描きと︿スムース﹀に描く平滑描写はともに、一七世紀オラン
ダ絵画において重要な位置を占めていた描き方である。 ここでいう︿ラフ﹀とは大胆
れてくるのに対して、 ︿ラフ﹀な粗描きの表面は過去の古いスタイルに属するものと目
表面で目を欺かんばかりに﹁そっくりに描く﹂平滑描写は﹁先進的﹂な価値をもつとさ
すぎ以降、平滑描きがオランダ絵画の主流として優勢になってくると、 ︿スムース﹀な
﹁完成度﹂が高く見える統御された︿スムース﹀な平滑描写である。一六四〇年代半ば
で自由な描き方で、ときに﹁完成度﹂は劣って見える。それと対比的に使われるのが、
*21
72
されるようになった。 だがレンブラントはこの時流に背を向けるように、よりいっそ
た、と。
対照を成していたが、後期のレンブラントにあってさえ、この筆さばきは特異﹂だっ
イナミックな筆さばき、それは服装や背景に用いられた均等なストロークと鮮やかな
喚起している︵このカタログの表紙を飾るのもこの作品だ︶。この自画像の﹁顔のダ
ンブラントの自画像研究として知られる分厚な展覧会カタログも、次のように注意を
この自画像の際立った描き方にかんしては、近年のもっとも代表的かつ包括的なレ
どの厚塗りだ。
に伸びのあるストロークで薄塗り、 ︿顔﹀は比較的細かい筆致で絵の具が盛りあがるほ
ではなく、筆致の差異によってもいっそうおし進められる。 ︿顔以外﹀の部分は滑らか
はとくに顔のみが差別化されている。そしてこの差別化は、絵の具の厚みによるばかり
にも絵の具を厚く塗り粗描きが施されている場合もあるが、一六五九年の︽自画像︾で
定的に異なっていることである。他の作品では顔だけでなくコスチュームの襟や縁飾り
すべきは︿顔﹀の部分と衣装や背景などの︿顔以外﹀の部分とでは、絵の具の厚みが決
は荒々しい筆跡もそのままに粗描きされ絵の具が極度に厚く塗られている。とくに注目
一六五九年の︽自画像︾はまさに︿ラフ﹀と呼ばれるにふさわしく、ことに顔の部分
う大胆に粗描きを駆使する方向へ向かう。
*22
レンブラントの一連の作品を通してみると、顔の描き方自体に変化がみられる。一六
他 者のように自己を描く
73
*23
四〇年代まで人物像の顔はムラのない一枚の皮膚としてつややかな肌理で描かれていた
が、第三期の五〇年代以降、描き方は粗描きへと変わってゆく。とりわけ一六五九年の
︽自画像︾では顔の部分の下塗りの薄緑がところどころ露出し、あるいは逆に絵の具が
。 隆起するほど厚塗りの細かいストロークが重ねられ、 ︿ラフ﹀さが前面に出ている ︵図 ︶
・ファン・デ・ヴェーテリングが指摘するように、画家は比較的制作の早い段階でこ
7
の作品の完成を決断したにちがいない。 完成度が劣ってみえる︿ラフ﹀な絵画では、
E
の具の物質性に触れると同時に、顔の物質性に触れる。
│ 光と影の秘密
の在
ス﹀ 、 ︿メメント・モリ﹀の定型表現との関わりで論じられている。 これが一六四〇年
影を描くこの描写法は偉大な芸術家がもつとされる︿メランコリー﹀気質や︿ヴァニタ
の劇的効果をねらって画家は顔や眼を覆うほどに影を押し広げて描いていたが、顔に陰
握してきたかをかいまみせる通路となってきた。初期の自画像で明暗法 ︵キアロスクーロ︶
り処を指し示している。レンブラントの自画像の光と影は、いかにこの画家が自己を把
絵の具の物質性はレンブラントの絵画のもうひとつの秘密
│
という顔の凹凸となった。波立つ絵の具は触覚性を呼び起こす。われわれの眼差しは絵
は絵の具自体の隆起となり、絵の具の隆起は輪郭のぼやけた皮膚の盛りあがりとへこみ
ともこれを顔とし、完成を宣言した。顔は、物質性もあらわに観者に差し出される。顔
る絵の具の物質性を対象の再現的見えに飼いならすことなく、一見、未完成にみえよう
どの時点で画家が自身の作品の完成を決断するかが重要になる。レンブラントは隆起す
*24
*25
74
代に入ると影は後退し、比較的顔全体で光を受け止めるようになってくる。五〇年代以
降の自画像群の﹁光﹂の用い方は、おおまかに二つに分けられる。比較的画面全体に光
が行き渡り画家の上半身全体が見て取りやすい絵画と、暗い闇の色彩のなかで顔を浮か
び上がらせている絵画とに、である。前者には制作中の画家の自画像や聖パウロなど別 必ずしも自画像とは絵自体から即座には了解しがたい肖像
│
の作品群がある。
人に扮装した自画像があり、後者には前者のような職業や役割の記号を担わない初老の
│
男
一六五九年の︽自画像︾はほぼ正面を向いた顔全体が光に包まれ、闇がそれを取り巻
いている。顔は光に剝き出しにさらされているが、手元には微光しか届かず半ば闇に沈
他 者のように自己を描く
75
んでいる。すなわち、 ︿顔﹀には容赦なく光を浴びせかける画家の激しさが向けられて
図7 (口絵 3、部分) 《自画像》
いるのだが、 ︿手﹀においてそれをみることはできないのだ。手はここでは特権化され 画家としての印を抹消された男の像
│
に向
るべき画家の手ではないのだろうか。この作品の翌年に制作される︽イーゼルのある自
│
画像︾には、五九年の︽自画像︾の顔 けられた眼差しの激烈さはない。
一六五九年の︽自画像︾において、観者は否応なく、ひとつの︿顔﹀に向き合わされ る。目の快楽には奉仕してくれない老いつつある孤独な男のこの顔に。
しかしもう少し注意深くこの男の顔をみてみよう。この自画像の光と闇は光周りの物
理的再現ではなく、絵画空間の内側から到来する。光は絵画の内側から放たれ、闇は光
と溶け合う。 ﹁厚塗りの絵の具が生み出すレリーフは描写のためではなく、光を捕らえ
。 レンブラントは光や影を﹁描いた﹂ので ︶その効果ゆえに用いられている﹂ る ︵ trap
では、この男の顔が自らの物質性をあらわにする一方、その表情が謎めいてみえるのは
顔のうねり
われてくる。
れにくる瞬間ごとに、光と闇は生成してくる。顔は輝く光を放って闇のなかから立ち現
性のうえに描く画家の揺れる眼差しが触れにくる瞬間ごとに、揺れる観者の眼差しが触
はなく、絵の具を光とさせ、闇とさせた。レンブラントの絵画において、絵の具の物質
*26
76
なぜだろう。一六五九年の︽自画像︾の︿顔﹀は均一に描かれてはおらず、微妙なぼか
しがいれられている。焦点は左眼の瞳を中心に合わされていて、口元や髪の生え際など
周囲にいくほどわずかにぼやける。そしてさらに周囲を取り巻くのは闇だ。この顔のぼ
かしは、スナップショット的一瞬の時間感覚と動性を生む。われわれの自然な視覚では、
眼差しはフォーカスのあった部分から絵に触れにゆき、描かれた左目にぶつかる。顔が まさにいまこちらを一瞥する。だが、何も見ない眼差しで。
かつてレンブラントが画家として表情を研究していたことはすでにみた。この表情
研究の根幹にあったのはレオン・バッティスタ・アルベルティの﹃絵画論﹄やレオナル
ド・ダ・ヴィンチの手記﹁運動と表情﹂に記された表情の把握の仕方である。 つまり、
そもそも絵画において魂の動きは身体や表情の動きという物理的動きによって可視化さ れるという、ルネサンス期に確立された定式である。アルベルティいわく、
たとえ、数々の魂の動きを模倣するのは困難なことであるにせよ、画家たるものは、
身体のすべての動きを徹底的に明らかにするということを、自然からよく学びとら
なくてはならない。実地にあたって見ない限り、笑い顔を描くつもりでも、喜ばし
いというよりむしろ悲しげな顔を描いてしまうのを避けることがどんなにむずかし
いかを一体誰が実感しただろうか。なお、口、頤、両眼、両頰、額、眉、すべてが
笑ったり、泣いたりした顔にぴったり適うような顔を、できる限りの研究をしない
他 者のように自己を描く
77
*27
で表現し得るものがあるだろうか。それ故に、これらを自然から学び、そして観察
者が現実に見える以上に、よく見えると思わせるように常にこれらのことをするの がもっともよい。
え、置かれた絵の具によって顔は物質として差し出されていたのだ。レンブラントは線
レンブラントの筆致をみてみよう。ここではむしろ表情の線を消すように重ね、押さ
の生を与えられているようにみえる。
史実から掘り起こそうとしても、この一枚の絵画は一個の画家に閉ざされず絵画として
ピソードの個別的な表情とは思われない。その表情を生み出した感情を画家を取り巻く
を読むこと⋮⋮。しかし一六五九年の︽自画像︾につかまえられたのは、そうしたエ
老の男の孤独を反映した苦悩の表情、世の浮沈を見極めた男の諦念と解される﹁表情﹂
されてきた。破産の後に次第に困窮してゆく家庭の状況や老いて死に近づきつつある初
レンブラントの後半生の﹁自画像﹂の謎めいた雰囲気はしばしば伝記的史実から読解
かっていることを示している。
画像︾の表情ならざる表情は、魂の動き、情動の定型表現とは異なるところに画家が向
る。レンブラントの後期自画像において、事態はまったく逆である。一六五九年の︽自
える以上に﹂よく伝わるように表情を描くのが良いとする態度は、完全に放棄されてい
しかしながら、後期のレンブラントの自画像では、自然から学び、ときには﹁現実に見
*28
78
を命とするとりわけ優れた版画家であり素描家でもあったが、厚塗りの油彩画では線か
ら絵の具そのものによる造形へと進んだ。絵の具の物質性を利用して︿描く﹀のではな
く︿生成させる﹀方へと赴いたのである。つまり、顔面の皺や窪み、凹凸が感情などの
︿押し出されるもの﹀ ︶とはすでに決別しているように思われるの ex-press-ion
押し出すべき内実の力によって生まれるという因果関係的把握の仕方︵魂の動き・感情 ↓表情
だ。皺や凹凸とみえるものがあってもレンブラントの描く顔には表情が希薄である。そ
こにあるのは、画家の筆がカンヴァスに触れにゆく一筆ごとに顔が物質としての相貌を
あらわにして光と闇のあいだで揺らめくようなものである。あるいはむしろ、この顔に
は﹁表情がない﹂ 、というべきなのだ。顔には、 ﹁何の表情﹂とは名指しえない皺や襞、 皮膚の捩れがある。
死のモメント
われわれが立ち至ったのは、こうした問いである。
﹁他者のようにつかまれた男の顔が、物質として差し出される﹂というこの絵画の出来事
│
をどう読むことができるだろうか
ところで、いったい、顔が物質化するとはどのような事態なのだろうか。顔を物質
として見てしまうというのは、そうよくあることではない。普段、われわれの日常にお
いて、互いに顔と顔とを差し向けあう人々の間で、顔は関係性や時間性のなかで生きら
他 者のように自己を描く
79
れている。そのとき人は顔を物質だとは思わない。人はしばしば、顔とは生きているそ
の顔の持ち主を指し示すものだとか︵人称や名と関係するものだとか︶ 、その持ち主ら
しさを表わすものだとか︵個性と関係するものだとか︶考える。生きられる顔とは、固
有の誰かの顔である。つまり、顔というのは、なにやらその人間の生をめぐってつか
まえられるものらしい。ところで自画像を描く画家は鏡に差し出す自分の剝き出しの顔
を見たいと欲望するだろうが、その望みはついぞ果たされることがない。剝き出しの顔
とは見ているという意識に先立つものだからである。鏡面に映し出された自らの顔を見
るとき、それはもはやすでに剝き出しの顔ではない。思い起こしてみよう、一六五九年
の︽自画像︾では画家としての印が捨てさられ他者の不可能な視線を向けられることで、
顔が物質化したのだった。画中の男は画家にとって他者のごとく登場してきたから、画
家の矜持やアイデンティティという解釈の重力を離れ、物質としての顔がせり出してき
た。顔は意識に先駆ける眼差しのなかで関係性や人称性が剝がれ落ちたときにはじめて、 剝き出しの物質と見えてきたのだ。
生のただなかにある顔は固有の名やそれをとりまく関係性に包まれていて、その物
のときなのだ。画家の名、自己、内
質性は誇示されない。その顔が荒々しくもその物質性を露呈するのは、関係性や名をめ
│ 死│
ぐって生きられる世界からの一挙の切断
面が充 する自画像というトポスに、視線の裂け目から人称を奪いもろもろの関係を焼
き尽くす死の時間がなだれ込む。顔が物質化してしまうモメントとは、つまり、死のモ
80
メントなのだ。他なる者の顔のごとく描かれたレンブラントの顔は観者の視線のなかで
物質と化すモメント、すなわち死のモメントを孕んでいる。死は日常の連続性において
生きる人間の自己にとっては交わりえない他者なのだが、レンブラントは不可能な顔を
凝視するなかで、死の痕跡であるような顔﹁をつかまえて/につかまって﹂しまったの
ではないか。描く主体的な画家の自己が表象されたというのとはまったく違う、盲目の
画家の自画像。死のモメントは、生きられる日常においては人間の尊厳と個の記号とさ
れる顔に、触覚的な物質感を取り戻させる。一六五九年の︽自画像︾は、生のただなか
に生成してくる死のモメントに触れた、死に眼差された顔と呼べそうなものなのである。
画家は、一枚の自画像になるはずのカンヴァスに向かいつつあるとき、画家であり
ながら、描きつつあるはずの自己自身の顔を見ることはできない。自己を見つめること、
描くことの両者を倦まず行なってきたレンブラントにとって自己の顔はもっとも遠いも
のであり、彼はその遠さにおいてとらえられる顔を肖像画が描くにふさわしいとされた
生き生きとした肖似性という仮象に還元することはなかった。レンブラントは画家とし
ての印を注意深く排除し、自画像として明示的に描くのではなく、他者を描くように自
己を描いた。風景に、歴史に、肖像に、あらゆる絵画に自己を描き込んだとさえいわれ
る画家レンブラントが、もっともレンブラントでありながらもっとも自身から遠ざかっ
たと思われる一枚の絵画、それが、一六五九年の︽自画像︾なのではないか。レンブ
ラントほど自己に立ち返る画家はいなかったが、とうとう彼は自己の終点、死にぶちあ
他 者のように自己を描く
81
│
たったのだ。ヨーゼフ・ガントナーは述べていた
繰り返し描かれる自画像のなかで、
自己の像はつねに新たな相貌を与えられ、提示される。そもそも繰り返し描くというこ
とは、自己の本質をたえず変化、更新するものととらえているということであり、それ は死に駆られた身振りなのである。
物質と化すモ
メントを意識すること。それは、死への意識を意味する。一六五九年の︽自画像︾には、
を揺らめかせる。顔が
│ ︿個﹀や︿人称﹀が賭けられるべき場処が│
レンブラントの絵画において、顔は描かれつつあるなかで生成し、表情ならざる表情
*29
れる。 ﹁変装型﹂は歴史画などの登場人物として画家が自己を埋め込むもので、レンブラント
立ち観者に視線を向けているタイプのもので、署名代わりの自己表明の機能を担っているとさ
立型﹂に分類されるものである。 ﹁列席型﹂は宗教画のような物語的場面の外側に画家自身が
一六五九年のレンブラントの︽自画像︾は、画家の個を直截に描き自己省察の側面をもつ﹁独
画像の分類として、 ﹁列席型﹂ ﹁変装型﹂ ﹁研究型﹂ ﹁独立型﹂という主要な四形式を挙げている。
三浦篤はヴィルヘルム・ヴェツォールトとルバ・フリードマンの著作を参照しつつ、一般的自
当 然、 ア ル パ ー ス も こ う し た 見 方 に 対 抗 し て い る の で あ る。 Svetlana Alpers, Rembrandt’s Enterprise: The Studio and the Market, Chicago: University of Chicago Press, 1988, p. 32. および、尾崎彰宏﹃レンブラント工房﹄ 、講談社、一九九五年を参照のこと。 Ibid.
レンブラントというひとりの男の顔があるという前に、死の痕跡であるような顔がある。
1 2 3
82
のポルトレ・イストリエでは﹁列席型﹂よりもこの﹁変装型﹂の作品が目立つ。 ﹁研究型﹂で
そのタイプと歴史について﹂ 、三浦篤編﹃自画像の美術
は画家は自己の表情や身振りを観察して研究する。初期レンブラントの表情研究はこれに相当
│
史﹄ 、東京大学出版会、二〇〇三年。
する。三浦篤﹁西洋絵画と自画像
一 ―三二頁参
H. Perry Chapman, “Expression, Temperament and Imagination in Rembrandt ’s Earliest Self-Portraits,” Art History, vol. 12, June 1989, p. 158.
│ ︿窓﹀と西洋文明﹄、世界思想社、二〇〇四年、一二七
萩野昌利﹃視線の歴史
Ibid., p. 159.
照のこと。なお、同書第五章﹁五/レンブラントの自画像﹂一五〇 一五八頁も参照のこと。 ― 綿密なレンブラントのコレクション調査を行なった尾崎彰宏によると、 ﹁一六五六年のレンブ
自己成型へ
は、一六四五年以降しばらく、自画像を描かなくなる一時期がある。この時期、自画像だ
確 化 し 決 定 的 に な っ た の は、 一 六 五 〇 年 代 に 入 っ て か ら と 思 わ れ る。 レ ン ブ ラ ン ト に
二 ―三〇頁参照。 彼 の 自 画 像 の 変 質 は 一 六 四 〇 年 代 の 後 半 に は す で に 始 ま っ て い た と 考 え ら れ、 そ れ が 明
ブラントの画家の矜持というテーマを検討したものとして、同書、一五六 一 ―五八頁、二二五
︽宮廷人に扮した自画像︾や絵画制作中の︽ふたつの弧のある自画像︾などの作品から、レン
の挑戦﹄ 、三元社、二〇〇四年、二八一頁、註六︶ 。
として売却されていたことを示す有力な証拠﹂である ︵﹃レンブラントのコレクション
│
ラントの財産目録には彼の自画像は一点も記載されていない。これは彼の多くの自画像が商品
6
け で な く 作 品 を 描 く ペ ー ス が 落 ち て い る。 Edwin Buijsen, Peter Schatborn and Ben Bross, “Catalogue,” Christopher White and Quentin Buvelot, eds., Rembrandt by himself, London and The Hague: National Gallery Publications and Royal Cabinet of Paintings Mauritshuis, 参照。 1999, p. 184
他 者のように自己を描く
83
4 5 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16 17 18
Christian Tümpel, Rembrandt: All Paintings in Colour, Antwerp and New York: Fonds Mercator distributed by Harry N. Abrams, Inc., Publishers, 1993, p. 199. Svetlana Alpers, The Art of Describing: Dutch Art in the Seventeenth Century, Chicago: University │ 一七世紀のオランダ絵画﹄、幸福輝訳、ありな書房、一九 of Chicago Press, 1983, p. 222︵﹃ . 描写の芸術 九五年、三三七頁︶
Edwin Buijsen, Peter Schatborn and Ben Bross, “Catalogue,” pp. 200-201. Pascal Bonafoux, Rembrandt, Autoportrait, Geneva: Art Albert Skira S. A., 1985, p. 131.
Edwin Buijsen, Peter Schatborn and Ben Bross, “Catalogue,” p. 200. 三浦、前掲書、二三 二 ―四頁。また、画家の描く手の処理に関して、六〇 六 ―一頁の﹁鏡像と しての自画像﹂にかんする記述も参照のこと。
ではなく、鏡に向かってまさに︿見る﹀と同時に︿描く﹀ことの問題として措定している。
ここでいう﹁正面向きの自画像﹂とは、定型表現としてのポーズの正面性を問題にするもの
七八頁︶参照。本書は素描を盲者、あるいは盲者の経験として描く記憶 ―
Jacques Derrida, Mémoires d’aveugle: L’autoportrait et autres ruines, Paris: Editions de la Ré ︵ ﹃盲者の記憶 │ 自画像およびその他の廃墟﹄、鵜飼哲訳、みす union des musées nationaux, 1990, p. 64 ず書房、一九九八年、七五
論として展開されているが、副題が示すようにとりわけ自画像における画家と観者の視線の構 造について考察している箇所を参照。
Ibid., p. 64︵.同書、七八頁︶引用は邦訳に拠った。傍点はデリダによる強調。 Ibid., p. 64︵.同書、七八頁︶引用は邦訳に拠った。傍点はデリダによる強調。デリダがここで考
察している作品は顔のクローズアップであり、そこに手は描かれていない。したがって、三
浦のように絵筆を握る手の左右反転した鏡像を修正せずにそのまま描くということを指摘して
いるわけではない。自画像を描くためには、鏡を見つめながらも同時に鏡に置き換えられるべ
き観者の側からも見つめなくてはならないのだが、当然、画家が描くと同時に観者 鏡 = の側か
84
トゥールの盲目性は片目を影で覆うというかたちで表象されたとデリダは述べている。
ら自らを眼差すことはできないのであり、それを盲目性としているのである。ファンタン ラ =
Bonafoux, Rembrandt, Autoportrait, p. 137.
七九頁︶ Derrida, Mémoires d’aveugle, p. 65︵.デリダ、前掲書、七八 ― 一七世紀オランダにおける粗描きと平滑描きの評価、およびレンブラントの粗描きにかんして
は、尾崎彰宏、前掲書、六三 ― 六七頁参照のこと。
Alpers, Rembrandt’s Enterprise, pp. 16-20. Edwin Buijsen, Peter Schatborn and Ben Bross, “Catalogue,” p. 201. Ernst Van De Wetering, Rembrandt: The Painter at Work, Berkeley: University of California Press, 1997, p. 220.
メランコリーにかんしては、尾崎彰宏、前掲書、第三章﹁メランコリーの画家﹂に詳しい。メラ
ンコリー表現の再検討を示唆するものとして、 David R. Smith, “Review: H. Perry Chapman, Rembrandt ’s Self-Portraits: A Study in Seventeenth-Century Identity ,” The Art Bulletin, vol. 参照のこと。 72, Dec. 1990, pp. 662-663 Wetering, Rembrandt: The Painter at Work, p. 178.
この定式に関しては、 Chapman, “Expression, Temperament and Imagination in Rembrandt’s
にも記述がある。チャップマン自身は、この定式の延長上にレ Earliest Self-Portraits,” p. 161 ンブラントの初期自画像を位置づける作業をしている。
五〇 頁。
レオン・バッティスタ・アルベルティ﹃絵画論﹄ 、三輪幸松訳、中央公論美術出版社、一九九二年、
一九六八年、一〇二頁。
ヨーゼフ・ガントナー﹃レンブラントとクラシック形式の変遷﹄ 、中村二柄訳、岩崎美術社、
他 者のように自己を描く
85
19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29
斬首、テーブル、反 ︲光学│
平倉 圭
ピカソ︽アヴィニョンの娘たち︾
眼窩の解剖学
ほとんど完全に人間性を欠いている。⋮⋮それは裸の問題、黒板の上の白い記号だ。
アンドレ・サルモン
︶の画面右下、ひとりの女が大股をひらき、こ
﹁しゃがむ女﹂ に対するアフリカ芸術の影響を否定している。 さらに現代の研究は、
かなる意味において﹁アフリカ風﹂なのか。ピカソ自身は、 ︽アヴィニョンの娘たち︾
顔面とともに、 ﹁アフリカ風﹂という漠然とした呼称でよばれてきた。だがいったいい
この﹁しゃがむ女﹂の変形された顔面は、画面右上の﹁カーテンから現われる女﹂の
とともに、顔面にほどこされた造形的暴力の印象を強めている。
一様に塗りこめる過熱するようなオレンジは、鼻の左側面を暗くするスラッシュ状の黒
かな鼻のラインに追いやられるようにして、顎の隅にちょこんとはりついている。肌を
照的に青く塗られた左目は、鼻梁の途中から植物の葉のように生えでている。口は鮮や
て左右に二分割されている。鼻から連続する眉のラインに白く輝く右目がはりつき、対
肥大した左手のひらの上に据えられたその顔面は、大きく引きのばされ、鼻梁によっ
背部とは逆向きに、傍若無人な正面をこちらにまっすぐ差し向けている。
ちらに背を向けてしゃがんでいる。だがその頭部は、豊かな胸と膣口を隠すピンク色の
︽アヴィニョンの娘たち︾︵一九〇七、口絵 4
*1
88
に見られるような左右非対称的な顔の描写は、アフリカ彫刻を含むいわゆるプリミティ
ヴ芸術には見当たらないことを明らかにしている。 しかし、ピカソ研究の権威として
知られるウィリアム・ルービンは、 ︽アヴィニョンの娘たち︾の起源と生成を論じた長
。 ルービンが提示するのは、 大な論文の最後に、ひとつの比較図版を掲げている ︵図 ︶
﹁病気の仮面﹂は、アフリカ彫刻のなかでは例外的に左右非対称的な造形を示すもの
﹁しゃがむ女﹂の顔面と、あるアフリカの﹁病気の仮面﹂との類似である。
*3
である。 それは梅毒によって﹁変形﹂された顔面の姿を描きだしている。 ルービン
斬首、テーブル、反‐光学
89
1
*5
にとって重要なのは、しかし、たんなる左右非対称性の事実ではない。問題は﹁梅毒﹂
図1
*2
である。ルービンの議論を背後で支えているのは、 ︽アヴィニョンの娘たち︾の初期構
(上) 「病気の仮面」 (ペンデ族の仮面、ザイール) (下) 「しゃがむ女」の頭部 ( 《アヴィニョンの娘たち》 (口絵 4、部分) )
*4
想スケッチに手に﹁頭蓋骨﹂をたずさえた医学生の姿 ︵図
﹂の表象として │ れゆえこの絵が﹁メメント・モリ ︵死を想え︶ │
︶が描かれていたこと、そ
娼館の女たちがもたらす、
構想されていたとするア
ルフレッド・バーの解釈である。 梅毒による顔面の変形を描きだすアフリカの﹁病気
当時は致死的であった﹁梅毒﹂の恐怖を伝えるものとして
2
実際にはピカソがこのアフリカの仮面を見たことはなかったにもかかわらず、
、 ︽アヴィニョンの娘たち︾が、実際の梅毒患者たちの顔 0
とって
│
あるいはそれゆえにこそ
0
ピカソが、制作以前にサン ラ = ザール病院で目撃した、実際の梅毒患者たちの﹁変形さ
を描きだしているということを証拠だてるものなのだ。 ︽アヴィニョンの娘たち︾は、
0
│
の仮面﹂と﹁しゃがむ女﹂の顔があまりにも類似しているという事実は、ルービンに
*6
0
0
れた﹂顔面の形態的記憶を反映している。 いまや︽アヴィニョンの娘たち︾の造形的
0
ド キ ュ メ ン ト
提示している。 そこには先天性梅毒によって顔面が無惨に崩壊した四人の幼児の写真
に、顔面の変形 ︵ deformations ︶に関わるのである﹂と述べ、六人の梅毒患者 の顔写真を
はないとして疑義をとなえるデヴィッド・ローマスの反論に答えて、 ﹁梅毒はたしか
証拠提出はさらに徹底される。註のなかでルービンは、梅毒が顔面を変形すること
ら、不治の身体を陳列する病棟のベッドへと移されるのだ。
起源は、画家が制作中に訪れたというトロカデロ人類博物館のアフリカ彫刻の展示棚か
*7
よる破壊に、絵画面の強度は性病と死に対する画家の恐怖に還元される。だがこれら
。証拠物件の衝撃的な列挙によって、造形的デフォルメは疾病に が含まれている ︵図 ︶ 3
*8
90
ド キ ュ メ ン ト
証拠物件の執拗な提示にもかかわらず、ルービンの議論は、そこに掲げられた図版そ
のものによって裏切られてはいないか。 ﹁病気の仮面﹂によっても、梅毒患者の写真に
よっても説明がつかないこと。それは﹁しゃがむ女﹂の両目が、大きく上下に引き離さ れているということである。
ルービンが提示した梅毒患者たちの顔面は、はげしい荒廃にもかかわらず、両目の
位置の左右対称性を正常に保持している。 ﹁病気の仮面﹂との比較は、より基本的なレ ベルで不適当だろう。仮面は、それをかぶる者の視
斬首、テーブル、反‐光学
91
野を保たなければならない以上、眼窩の左右対称性
図3 先天性梅毒、 1870-1901 年
が変更されることはないからだ。そのことは、まさ
図2 「医学生」のための習作、 1907 年 3 月
に﹁仮面﹂をかぶったような姿で描かれている右上の﹁カーテンから現われる女﹂の顔
と比較するとき、より明らかとなる。荒々しい描線で汚された野蛮な印象とは裏腹に、
﹁カーテンから現われる女﹂の眼窩の位置の対称性は壊されてはいない。 ﹁アフリカ風﹂
という曖昧なカテゴリーでまとめあげられてきたにもかかわらず、 ﹁カーテンから現わ
れる女﹂の仮面的造形と﹁しゃがむ女﹂の変形された顔面において扱われている造形的
問題はまったく異なるものである。 ﹁しゃがむ女﹂は、眼窩の解剖学を拒絶するのだ。
完成作の画面において﹁頭蓋骨﹂をもつ医学生の像が削除されたのは、ルービンが
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
ともに、骨格の構造を無視して皮膚の上を動きまわる。 ﹁しゃがむ女﹂の顔面は、絵画
ない。
近法的奥行きを追放するのとおなじように、解剖学的な立体性を放棄することだろうか。
では﹁しゃがむ女﹂の造形において真に問題となっているのは何なのか。絵画から遠
*10
に、梅毒患者を目撃したという画家の挿話的経験には還元されえない。造形は記録では
ドキュメント
死を知らぬ娼婦の顔が画面を跳梁する。その顔はアフリカ彫刻に還元されないのと同様
から解剖学的な現実性を追放するとともに、頭蓋骨を介した死の説教を無効化するのだ。
0
考えるように﹁メメント・モリ﹂の主題が、描かれた女たちの顔面の疾病的変形に内在
﹁しゃがむ女﹂の造形的達成が、ま 化されてしまったからではない。 それはむしろ、 *9
さに頭蓋骨を駆逐しているという事実に対応している。 ﹁しゃがむ女﹂の頭部は頭蓋骨 0
をもたない。その両目は眼窩の内側から生えでてきたものとはみえず、その小さな口と
0
92
だがそもそも、顔を﹁変形﹂するとは、いったいいかなる絵画的実践なのか。ピカソの 0
0
0
0
﹂というサルモンの表現は、のちにわたし 板の上の白い記号だ﹂ 。 ﹁黒板 ︵ tableau-noir ︶
ように書いている。 ﹁ほとんど完全に人間性を欠いている。[⋮⋮]それは裸の問題、黒
友人であり詩人のアンドレ・サルモンは、 ︽アヴィニョンの娘たち︾を見た印象を次の
0
がって観者を包囲し、向かってくるかのように見えるのだ。
されたカーテンや画面下部のテーブルを含むキャンヴァスの全域が、いっせいに立ち上
そこでは二メートル近い巨人として描かれた女たちだけではなく、鋭い円弧で描きだ
ず、像の正面に立つ﹁観者﹂に向かって垂直に現前するイコン的な様相のことである。
面性﹂によって特徴づけられる。正面性とは、描かれた像が絵画空間のなかで閉じられ
一九〇七年七月に完成された︽アヴィニョンの娘たち︾の画面は、殺到するような﹁正
斬首
おさなければならない。
わたしたちは、 ︽アヴィニョンの娘たち︾の起源と生成を、形態の展開において辿りな
フォーム
されている。それは﹁問題﹂を提示している。どんな﹁問題﹂か。それを知るためには、
たちにとって重要なものとなるだろう。 ﹁しゃがむ女﹂の顔は、 ﹁黒板﹂の上で﹁変形﹂
*11
しかしこの強い正面性は当初から計画されていたものではない。同年三月から四月に
斬首、テーブル、反‐光学
93
0
かけて制作されたコンポジション習作 ︵図
︶には、五人の裸の女たちのほかに、中央
ている。 女たちの顔はすべて、場違いなスーツ姿で現われた医学生のほうに向けられ
のテーブルにつく水夫と、画面左端からカーテンを持ち上げて登場する医学生が描かれ
4
しかし五月のコンポジション習作 ︵図 ︶では、医学生はカーテンを支える裸の女に
ぎない。
じられており、観者は、その自足した物語的ないし寓意的場面を遠くから覗き見るにす
ている。舞台は突然の闖入をめぐって取りかわされる左右方向の視線の交換によって閉
*12
さ ら に 六 月 の 習 作 ︵図
︶にいたると、水夫の姿も消し去られ、中央にあったテーブ
ム・バロック絵画の﹁演劇的﹂︵マイケル・フリード︶な空間構成を連想させる。
面は閉じられた物語空間というより、視線によって観者を舞台に招き入れるマニエリス
たわる女の顔は、不明瞭ではあるが観者のほうに向けられているようにも見え、その画
成されている。ただそこで中心となっている水夫と、その隣で片腕を上げて寝椅子に横
カーテンに背を向けて立つ女たちの背中によって切り閉じられる円筒状の空間として構
座る水夫の姿に集中している。場面は水夫の位置を中心とし、 ﹁しゃがむ女﹂の背中と、
求心性を増し、右側三人の娼婦たちの視線は、こんどは中央のテーブルに肘をついて
姿を変え、その背後に描かれていた女の像が削除される。画面は横方向に圧縮されて
5
の視線は、ここで初めて、はっきりと観者のほうに向けられることになる。構想をつう
ルは画面下部前景にまで追いやられている。 ﹁しゃがむ女﹂と画面中央の二人の女たち
6
94
じて、女たちの視線はなにかを追い求めるかのように次々と向きを変えていくのだ。
レオ・スタインバーグは、 ︽アヴィニョンの娘たち︾の解釈を一新した記念碑的論文
﹁哲学的売春宿﹂において作品の制作過程を詳細に分析し、次のような議論を展開して
いる。当初の︽アヴィニョンの娘たち︾のコンポジションは、男女の性交渉にまつわる
なんらかの寓意的ないし物語的場面を、描かれた人物たちの視線の交換によって構成し
斬首、テーブル、反‐光学
95
ていた。しかし、
図6 《アヴィニョンの娘たち》のための習作、 1907 年 6 月
︽アヴィニョンの娘たち︾においては、この伝統的物語絵画の規則は、非︲物語的な
図5 《アヴィニョンの娘たち》のための習作、 1907 年 5 月
対抗原理に取って代わられる。隣りあう人物像は、共通の空間や共通の行為をもって
図4 《アヴィニョンの娘たち》のための習作、 1907 年 3 月-4 月
はいない。お互いに連絡しあうことも影響しあうこともない。しかしそれぞれが、ひ
とつずつ、直接的に、観客と関係するのだ。個々の像の決定的な分裂は、行為の統一
しかしそれは、絵画の反対の極
性の責任を、観者の主観的応答に投げかけるための手段である。ある出来事、顕現、
│
とつぜんの入場、それがいまだテーマではある。
として想定された観者のほうへ、九〇度回転させられている。
験に、すなわち、絵画の経験になる。
たちによって楽しまれている冒険の表象であることをやめ、代わってわたしたちの経
アクションが観者に直面するために九〇度回転するとき、画面は一人ないし二人の男
なるのだ。
をつうじて場面は﹁九〇度回転﹂し、医学生の入場していた場所を観者が占めることに
当初の構想では、娼婦たちは画面左から入場する医学生を迎え入れていた。しかし構想
*13
姿を見せることで、二つの異質な空間をつなぐ﹁蝶番﹂として機能しはじめる。そして
ち絵画空間と観者の空間との境が曖昧になる画面の縁へと追いやられ、そこに半分だけ
る。水夫のために供されていたテーブルは、部屋の中央から画面の﹁下部﹂へ、すなわ
いまや娼婦たちに迎え入れられているのは、画面の前に立ちすくむわたしたち観者であ
*14
96
相互に無関係に見える娼婦たちの視線は、観者を﹁虚焦点﹂とすることで構造的な自律
性を獲得する。 ﹁正面性﹂とは、この虚焦点構造が絵画面によって切断された姿にほか ならない。
先の引用文において、 ﹁非︲物語的な対抗原理﹂にもとづく絵画の前例としてスタイ
ンバーグが想定しているのは、相互にコミュニケーションをもたない人物たちがばらば
五七頃、本書二九頁・図 ―
︶である。とくに同じスペインの画家であるベラ
らにこちらを見つめる一六世紀オランダの集団肖像画と、ベラスケスの︽ラス・メニー ナス︾︵一六五六
スケスの画面が、 ︽アヴィニョンの娘たち︾を描いた若き画家の想像力に影響を与えた
ことは疑いえない。 ﹁ ︽ラス・メニーナス︾における九、 十、あるいは十二人の人物たち
は、混乱し、分離されているように見える。それはただ、観者の視線に包含されること
︽アヴィニョンの娘たち︾においても︽ラス・メニー によってのみ統合される。[⋮⋮]
ナス︾と同様に、二人の人物たちがわたしたちを排除するような調和を保持することは
ない。そして中央の三人の人物たちが惜しみない直接性で観者に注意を向けるのだ﹂ 。
そしてスタインバーグは、 ︽アヴィニョンの娘たち︾こそ、絵画史上において︽ラス・
ることができないと断言する。
従来キュビスムとの関連で指摘されてきたような、画面の形式的抽象性だけでは理解す
メニーナス︾に匹敵する唯一の強度をもって観者に視線を差し向ける絵画なのであり、
*15
2
しかしここで二つのことに注意しておこう。観者への直接的現前が問題であるなら、
斬首、テーブル、反‐光学
97
*16
なぜ﹁しゃがむ女﹂はわたしたちに﹁背中﹂を向けたままでいるのだろうか。スタイン
バーグが︽アヴィニョンの娘たち︾の前史として想定している︽ラス・メニーナス︾に
は、周知のとおり、 ﹁背中﹂を見せる人物は存在しない。鏡に映る国王夫妻ですら﹁正
│
中
面﹂しか見せてはいない。 ﹁正面性﹂の支配、それがベラスケスの戦略であり、それは とはまったく異なる。
ベラスケスが参照したファン・アイクの︽アルノルフィニ夫妻の結婚︾︵一四三四︶
│
﹁しゃがむ女﹂ ︶から完成作にいたるまでのあいだに、
央奥の鏡に夫妻の背中が映し出される もう一つは、六月の習作 ︵図
よいのか。
な接合を、どう理解すれば
とまったき正面性との唐突
かない。この、背面の残存
造の要請だけでは説明がつ
観者を虚焦点とする視線構
カ ル ト 的 な 切 断 の 意 味 は、
﹁しゃがむ女﹂の頭部のオ
だ け で も よ か っ た は ず だ。
である。観者を﹁見つめる﹂ことが問題であるなら、図 のようにたんに﹁振り返る﹂
の頭部が不連続に切り離され、体軀とは逆に、完全な﹁正面﹂を向けて描かれたこと
6
6
図7 「しゃがむ女」のための習作、 Carnet 3、13R、1907 年 3 月 図8 「しゃがむ女」のための習作、 Carnet 3、47R、1907 年 3 月
98
﹁しゃがむ女﹂の生成過
図 10 《アヴィニョンの娘たち》のための習作 (図 5、部分) 図 11 《アヴィニョンの娘たち》のための習作 (図 6、部分)
程をさらに詳しく追ってみ
は、 ﹁しゃがむ女﹂は筋骨 隆々とした﹁背中﹂を見せ て大股をひらく人物として
図9 「しゃがむ女」のための習作、 Carnet 3、38V、1907 年 3 月
よ う。 ピ カ ソ は︽ ア ヴ ィ ニョンの娘たち︾に登場す るそれぞれの人物について、 個別に執拗なスケッチを行 なっている。図 から図 は、六月のコンポジション 習作にいたるまでの﹁しゃ
とができるはずだ。図 で
ソの激しい葛藤を見出すこ
性と背面性とをめぐるピカ
そこにわたしたちは、正面
が む 女 ﹂ 像 の 変 遷 で あ る。
11 7
描かれている。それが、図
斬首、テーブル、反‐光学
99
7
では、まったく同じ姿勢のまま、 ﹁正面﹂を向いた姿で描かれている。まるで正面性 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
では完全に画面の内側を向き、後頭
10
︶にいたり、
11
ア = ラン・ボワはこの正面性と背面性の葛藤に性的誘惑とその抑圧という矛盾し
ケッチにあらたな形象が登
月にいたり、画家の構想ス
突しあっていた。しかし七
正面性と背面性は互いに衝
六 月 の 習 作 の 段 階 で は、
くことにしよう。
生成過程をさらに追ってい
ここでは﹁しゃがむ女﹂の
の妥当性は次節で検討する。
た運動の衝突をみて、そこに﹁去勢コンプレックス﹂の名を与えている。 ボワの分析
イヴ
面性のはげしい交錯の結節点に、いわば妥協的に形成されていると言えるだろう。
限界まで首を回転させて﹁振り返る﹂姿勢がふたたび採用されるが、それは正面性と背
れており、決断が容易ではなかったさまをうかがわせる︶ 。六月の習作 ︵図
部から垂れる鋭いポニー・テールだけを見せている︵だがその頭部はすぐさま消し去ら
で女はふたたび背中を見せて振り返るが、図
と背面性の差異とは、胸と臍と膣を描きこむかどうかの違いでしかないかのようだ。図
8
9
*17
図 12 「しゃがむ女」のための習作、 Carnet 14、16R、1907 年 7 月 図 13 「しゃがむ女」のための習作、 Carnet 14、1V、1907 年 7 月
100
場する。図 はその最初期
の段階である。肩から背中
にまわされた左手のひらが
巨大化し、その上に、完全
17
な﹁正面﹂を向いた異様な
13
顔面が据えられている。形
斬首、テーブル、反‐光学
象は図 から図 にいたる
101
ような過程で変形し、当初
図 14 「しゃがむ女」の頭部のための習作、 Carnet 13、11R、1907 年 6 月末 -7 月初 図 15 「しゃがむ女」の頭部のための習作、 1907 年 6 月-7 月
は閉じられているとも開か
図 16 「しゃがむ女」のための習作、 Carnet 3、1R、1907 年 7 月 図 17 (部分) 《女の胸像》 1907 年 7 月
12
れているともつかなかった目に、図 で瞳が描きこまれる。さらに完成作 ︵口絵
︶にい
4
カップ
*18
に注目している。 だがここにおきているのは、首の﹁抑圧﹂ではない。盃というより
身体の解剖学的な推移を抑圧することで像の現前に攻撃的な直接性をあたえていること
スタインバーグは﹁しゃがむ女﹂の手のひらの形を﹁盃﹂にたとえ、それが首を隠し、
のか。
の背面性と顔面の正面性がここにおいて唐突に接合される。 いったい何がおきている
たり、左手のひらはほとんどもうひとつの関節とおもわれるまでに肥大化する。体軀
17
は、この炸裂的な﹁斬首﹂によってである。
14
。 ﹁しゃがむ女﹂の顔から眼窩の解剖学が失われるのは、 様 な 変 更 が ほ ど こ さ れ る ︵図 ︶
に正面を向くのと同時に、縦に大きく引き伸ばされている。つづいて目や口の位置に異
斬首の形象的効果は、背面性と正面性の接合にとどまらない。図
では、顔が完全
を﹁斬り落として﹂いるのだ。背中向きの身体に正面を向いた顔面が据えつけられるの
むしろ巨大な﹁鎌﹂とみまがうほどに肥大化した左手のひらは、あきらかに、自らの首
*19
成作の細部に注目しよう ︵口絵 ︶ 。前景にいるはずの﹁しゃがむ女﹂の髪の毛は、いさ
同時にこの斬首とともに、背景のカーテンが空間の地であることをやめている。完
斬首によってはじめて可能にされているのだ。
学的連続性を失い、同時に頭蓋骨が抜き去られる。顔面の諸パーツの遊戯的配置変更は、
﹁斬首﹂の形象が現われるのと正確に同時である。斬り落とされた頭は、体軀との解剖
16
4
102
さか無理矢理なかたちで後景の白いカーテンに巻きついている。カーテンが﹁しゃがむ
女﹂の顔面のちょうど右端 ︵観者から見て左端︶ぎりぎりのところまで迫るように描かれて
いるのは偶然ではない。 ﹁しゃがむ女﹂の頭髪は、画面奥のカーテンに絡みつき、炸裂
的斬首とともにそれを巻き取るようなかたちで前面へと押し出すことによって、娼婦た ちが位置する円筒状の内部空間を正面にむかって圧縮するのだ。
それはしかし絵画空間のたんなる﹁平面化﹂ではない。 ﹁しゃがむ女﹂が背中を残し
ている意味はここにある。 ﹁しゃがむ女﹂が背中を向けていることによって、当初の円
筒空間の﹁内部性﹂は保持される。 そこはいまだ、何者かを中に招きいれることので 0
0
︶にみられた﹁ポニー・テール﹂
10
の痕跡である。その背面性の影を切り離すように、上から輝くような白のインパストが、
。 そ れ は 五 月 の 習 作 ︵図 の よ う な 影 が 見 え る ︵口絵 ︶
﹁しゃがむ女﹂の上背部、ちょうど手のひらの屈曲部の下にあたるところに、黒い筋
部の唐突な分離に気がつく観者の意識において、無限に再演されている。
画面の正面性と内部性を同時に解放するその炸裂的斬首の瞬間は、 ﹁しゃがむ女﹂の頭
た斬首であると同時に、絵画空間全体の肉体的充実に対してほどこされた斬首なのだ。
正面の観者に向かって殺到させるというものである。それはひとつの身体にほどこされ
筒空間の内部性を保持しつつも、 ﹁しゃがむ女﹂の頭部においてそれを一挙に捻じ切り、
きる﹁部屋﹂である。ピカソがここでとっている形象的戦略は、背面の残存によって円
*20
手のひらの真下のラインにそってほどこされている。それは頭部を正面に向かって捻じ
斬首、テーブル、反‐光学
103
4
り切る斬首の瞬間を永遠に徴づける閃光的なスラッシュにほかならない。 顔というテーブル
ポニー・テールが完全に塗りつぶされていないという事実は、ピカソの制作がかなりの
スピードで行なわれていたことを示している。一方で﹁しゃがむ女﹂の顔面が厚いオレ
ンジで塗りこめられていることは、下層に描かれた顔を抑圧するための努力として理解
されるだろう。その平面的な顔は、ちょうど画面の空間的深さが最大となるところに、
つまり奥に開かれたカーテンの裂け目の真上に、奥行きの効果を封殺するようなかたち
で置かれている。 当初の構想から﹁しゃがむ女﹂の顔面がカーテンの裂け目の真上に
実際ルービンは、 ︽ヴァギナ的環境︾︵一九〇三、図
︶というピカソの一枚のスケッチ
、ここに性的な、あるいは精神分析的 ・ ︶ 13
な意味を読み込むことはさほど難しいことではない。
5
の角を男性器の象徴とみなしている。 ︽アヴィニョンの娘たち︾の画面に﹁斬首﹂の
物からなる柔らかい、膜状の﹂空間を膣になぞらえ、画面下部から立ち上がるテーブル
を参照しつつ、 ︽アヴィニョンの娘たち︾の﹁バラ色のトーンで満たされ、襞と薄い織
18
上であったことを考えあわせてみれば ︵図
配置されていたこと、しかもその位置が同時に、 ﹁カーテンから現われる女﹂の腰の真
*21
形象を認めたわたしたちは、 ﹁しゃがむ女﹂の頭部を、画面の裂け目に包み込まれて斬
*22
104
り落とされる男性器の象徴であると考えることもできるだろう。
形象的連想をさらにすすめ、 ﹁しゃがむ女﹂のひらかれた股の角度と、その上方でひ
らかれるカーテンの角度がちょうど天地を逆転した形で形態論的な韻を踏んでいること
を認めるなら、カーテンの裂け目は、隠された﹁しゃがむ女﹂の股間を鏡のように反射
して反復するヴァギナ的環境として構成されていると論じることができるのかもしれな
い。さらに﹁しゃがむ女﹂の口が、画面の女たちのなかで唯一開かれていることに気が
つき、白いインパストで縁取られて不測のなまなましさを帯びるその小さな口に性的印
象を読み込むなら、そこに抑圧された﹁裂け目﹂の回帰を見出すことすらできるだろう。
斬首、テーブル、反‐光学
105
なかに歯をのぞかせるその小さな裂け目は、一九二五年以降のピカソの絵画にくりかえ
図 18 《ヴァギナ的環境》 1903 年
だが、このような解釈にいったいどれほどの意味があるのか。ルー
し現われる﹁ヴァギナ・デンタータ ︵歯のある膣︶ ﹂の系譜を予告していると言うことがお
│
そらくできる。
ビンが﹁柔らかい﹂ ﹁バラ色の﹂と呼ぶその画面は、実際には鋭い描線と、プルシャン・
ブルーとオレンジのはげしい衝突から構成されている。多かれ少なかれ性的な衝動と関
係することをやめない絵画という行為を、その主題ゆえに安易に精神分析的な議論のエ
コノミーへと回収し、実際の画面を置き去りにしたまま、きりのない解釈を繰り広げる ことで、いったいわたしたちの絵画経験のなにが豊かにされるというのか。
︽アヴィニョンの娘たち︾を︽ラス・メニーナス︾の視線構造になぞらえるスタイン
バーグの議論を引き継いだボワは、連想を広げ、フロイトのいわゆる症例﹁狼男﹂に言
及している。 夜、寝ていると、足下の窓がひとりでに開き、窓の向こうのくるみの木 *23
の上に、六匹か七匹の白い狼が、ぴくりともせずに坐っており、じっとわたしを見つ
│
めている 0
0
0
0
カ = ーテン、ぴくりともせずに見つめる視線、患者
ニョンの娘たち︾の画面によく当てはまるようだ。ボワはさらに﹁メドゥーサ﹂をめぐ
るフロイトの議論を参照し、観者をペニスのように石化させる娼婦たちの視線を、画家
の﹁去勢不安﹂と結びつけている。なお、ボワはまったく述べていないが、 ﹁しゃがむ
女﹂にほどこされた﹁斬首﹂の形象もまた、 ﹁メドゥーサ﹂神話の連想を支持するもの
=
。それは幼児期に体験した両親の性行為 ︵原光景︶の偽装された姿である。
0
観者を襲う﹁食い殺されるのではないか﹂という恐怖感といった舞台設定は、 ︽アヴィ
たしかに、ひとりでに開かれる窓
0
106
│
であるはずだ。
だが注意しよう。ほんとうに﹁しゃがむ女﹂はわたしたちを見てい
︽アヴィニョンの娘たち︾の画面をもういちどよく観察してほしい。
るだろうか。
0
│ ﹁しゃがむ女﹂
0
の視線は観者に向けられてはいない。それどころか、その視線は、どこを見ているのか まったく分からない。
0
0
0
0
てはいない。
注目すべきは、 ﹁しゃがむ女﹂の最終段階の油彩スケッチである︽女の胸像︾︵図
︽女の胸像︾においてはまだ、女の視線は、観者に向け ︶の差異である。
17
︽女の胸像︾ではほぼ中央に据えられているが、完成作では観者から見てわずかに左に
視線にかんして変更された箇所は三つある。ひとつは瞳の位置である。右目の瞳は
られていたからだ。ここには意図的な変更がある。
完成作 ︵口絵
と、 ︶
に、画面の実際の造形を見失わせてしまうだろう。 ﹁しゃがむ女﹂は、わたしたちを見
する批評的努力は、画面を画家の挿話的経験の記録に還元してしまう類の議論と同程度
ドキュメント
線を欠いた顔の現前なのだ。精神分析その他の理論のなかで説明の整合性をつけようと
ずかに中央の二人だけである。 ﹁しゃがむ女﹂の頭部にわたしたちが見ているのは、視
いる。実際には、 ︽アヴィニョンの娘たち︾の画面でわたしたちを見つめているのはわ
ここにはピカソにおける︿顔﹀の問題を考えるうえできわめて重要な位相が現われて
0
寄せられている。そのずれの角度は、じつは左目の瞳が示すずれの角度とほぼ同じなの 0
0
斬首、テーブル、反‐光学
107
4
だが、そもそも左目が右目に対して約六〇度傾けられているために、両目の瞳の向きが 分散し、全体としてどこを見ているかがわからなくなっている。
もうひとつは左目の位置の引き下げである。 ︽女の胸像︾の左目尻と右目尻の高さは
ほとんど一致しているが、完成作では、左目尻が右目下端の高さと同じところまで位置 が下げられている。
三つ目は、左目が濃い青色で塗り直されたことである。青く塗られた左目は、白い右
目に対して現前性の印象を下げる。わたしたちの視線をとらえるのはまず白い右目であ
り、次いで青い左目がやってくる。要するにここでは、顔の左半分に﹁影﹂がもちこま れているのであり、すなわち顔の端的な﹁正面性﹂が回避されているのだ。
顔の﹁正面性﹂を損なう変更は、目の周辺だけにとどまらない。 ︽女の胸像︾の鼻の
下辺には大きさの異なる二つの鼻孔が描きこまれており、斜め前から見られた鼻の立
体的奥行きが暗示されている。しかし完成作では、鼻は完全な側面像にいたるまで画
面に平たく押しつぶされている。鼻梁を中心として顔を左右半分ずつ隠してみればわ
かるように、 ﹁しゃがむ女﹂の顔面は、 ﹁正面像﹂と﹁側面像﹂の結合として構成されて いるのだ。
﹁正面像﹂と﹁側面像﹂の結合というこの問題は、一九三一年以降のピカソの絵画に
おいて全面的に展開される。しかし一九三一年以降の絵画においては通常、口の位置が
正面と側面をつなぐ蝶番として機能させられているのに対し ︵︽鏡の前の少女︾、一九三二、図
108
、 ﹁しゃがむ女﹂では、口は正面像にあたる顔の隅に描きこまれており、そのことが ︶
観者の視線に﹁動き﹂をもたらしている。つまりわたしたちが﹁しゃがむ女﹂の顔に ネッカー・キューブのような
│
ではなく、白い右目に始まり、次いで青い左目に
経験するのは、一九三一年以降の肖像画におけるような正面像/側面像の点滅的な交替
│ 決して逆ではない
│
なのだ。わたしたちの視線は、正面像と側面像のあいだ
移り、鼻のラインをとおって口にいたり、ふたたび右目に戻っていくという時計回りの
│
運動 を、ゆるやかに回転しながら往復する。
﹁しゃがむ女﹂の顔は、画面のなかで、あきらかにもっとも強い印象で現前している。
図 19 (部分) 《鏡の前の少女》 1932 年
だがそれは一挙に与えつくされるような現前性ではない。それは咀嚼できない抵抗性で
斬首、テーブル、反‐光学
109
19
あり、観者の視線をそこに巻き込み、渦を巻かせるような、時間的に展開される現前性 なのだ。 ﹁しゃがむ女﹂の︿顔﹀の問題はそこにある。
もうひとつの重要な変更は、手のひらの大きさである。 ︽女の胸像︾の手のひらのつ
け根は、ちょうど顎の真下に位置していた。それは頭部の﹁重さ﹂を下方にまっすぐつ
たえる腕へとつながっている。 ︽女の胸像︾の左頰は頭の重みによってへこんでいるよ
うに見えるはずだ。しかし完成作では、手のひらは顎のかどを越えてのびあがって腕を
わきに追いやり、そのことによって重力の印象を消去している。その腕は、頭部を支え てはいない。 0
0
0
0
0
。いわゆる﹁青の時代﹂から﹁バ ︶など︶ 20
。しかし完成作の肥大した手のひらは、頭部の重さを横に受け流すことで、顔の ︵図 ︶
も、その手のひらは、あきらかに頭部の﹁重さ﹂を支えるものとして描き出されていた
びついている。 ︽アヴィニョンの娘たち︾の構想スケッチに斬首の形象が現われた当初
ラ色の時代﹂にかけてくりかえし描かれたその形象は、疲労と重さ、眠りと無気力に結
、 ︽母と子︾︵一九〇五、図 テスの肖像︾︵一九〇一︶
ピカソには、 ︿腕に支えられる頭部の系譜﹀というものが存在する︵ ︽ハイメ・サバル
0
0
そこではしばしば、大地に対して水平な形象の動きが、大地に対して垂直な動きと区
実際、 ︽アヴィニョンの娘たち︾の画面は重力の論理によって統制されてはいない。
ることなく動きまわるのだ。
内部に渦を巻くような運動の可能性を開いている。目や口はそこで、肉の重さに縛られ
15
110
│
別されない。
ちょうど、当初の構想では座椅子に横たわっていた画面左から二番目
の女が、座椅子を消去されることで垂直に立ち上がったように。 また画面下部のテー
ブルが、絵画面にぴったりとはりつくようにして立ち上がったように。 それはキャン
ろうとする運動のさなかに背中から切り離された﹁しゃがむ女﹂の頭部は、表象された
斬首は、顔を、絵画のこの両義的な表面へともたらしている。観者へ向けて振り返
る水平性となるような空間である。
ヴァスの両義的な表面において、大地に対する水平性が、同時にキャンヴァス面に対す
*25
身体の連続性から、絵画の物質的な表面へと唐突に乗り移り、そこにぴったりとはりつ
斬首、テーブル、反‐光学
111
*24
いたまま、顔の諸パーツの遊戯的な配置変更を開始する。視線が放棄されるのはそのと
図 20 《母と子》 1905 年
きである。それは垂直に立ち上がったテーブルとしての顔、あるいは、 ﹁黒板 ︵タブロー・ 0
0
0
0
0
0
0
よって分析している。 諸形象が遊戯的に配置される総合的キュビスムの画面 ︵図
︶は、
﹂あるいは﹁ゲーム盤 ︵ gaming table ﹂という概念に ︶ ︶ ルとタブロー ︵ the table and the tableau
クリスティーン・ポッジは、総合的キュビスム期のピカソのコラージュを﹁テーブ
﹂︵サルモン︶としての顔面にほかならない。 ノワール︶
0
21
顕在的に捉え返される﹁トラウマ﹂なのだと論じたが、 ﹁しゃがむ女﹂のこの顔の内
ンの娘たち︾にみられる女性像の様式的不統一を、総合的キュビスムにいたって初めて
﹂の垂直面へとたちあがる﹁テーブル﹂なのだ。ボワは︽アヴィニョ ﹁ タ ブ ロ ー ︵絵画︶
*26
うではないか。
22
反︲光学
フランソワーズ・ジローは、自らの肖像画である︽花の女︾︵一九四六、図
︶がピカソに
は、目や口といった顔面の諸パーツが福笑いのごとく動きまわるコラージュの舞台のよ
水平に配置されるテーブル タ = ブローの新しい局面を告げ知らせている。実際その顔面
する果物たちが必死に結集している。しかし﹁しゃがむ女﹂の顔面はすでに、諸形象が
と言いうるだろう。画面下部に垂直に立ち上がったテーブルの上では、滑り落ちまいと
部にもまた、総合的キュビスムのテーブル タ = ブロー空間の論理が鋭く予兆されている
*27
112
よって描かれたときのことを、次のように回想している。
かれ [ ピ = カソ]は一枚の紙を空色にぬった。そして、このわたしの顔の感じに合わせ
て、さまざまな卵形に切り抜き始めた。最初にまん丸いのを二つ、次に横幅を広く
というかれの考えに基づいたのをさらに三つ、四つ、切り抜いた。切り抜きが終る
と、その一つ一つに目と鼻と口の小さなしるしを描きいれた。それから、かれはそれ
らを順々に、右に左に上に下にと、かれの気に入るように少しずつ動かしては、キャ
斬首、テーブル、反‐光学
113
ンヴァスにピンで止めた。どれも最後まで、ほんとうにぴったりとは見えなかった。
図 22 《花の女》 1946 年
いろいろな場所にその他の切り抜きを全部試してみて、かれはそれをどこにおけばよ
図 21 《ヴュー・マルクの瓶、グラス、新聞》 1913 年
いかを知った。そしてかれがキャンヴァスにそれをくっつけると、その形は、かれが
くっつけた場所にまさにぴったりに見えた。それは完全に得心がいった。かれはそれ
を濡れたキャンヴァスに固定させると、離れて立って、言った。 ﹁やっときみの肖像
になった﹂ 。かれは木炭でそっと輪郭をとると、切り抜きをはずし、それから切り抜 きの上に描いた通りのものを、ゆっくりと慎重に描きこんだ。
切り抜かれた目と鼻と口の配置から、ジローの顔が浮かび上がる。この文字どおりの
*28
︽ ゲ ル ニ カ ︾︵一九三七︶な ど を 見 れ ば、 ︶や、
コラージュ的描法は、マティスの切り紙絵の影響によって採用されたと推定されてい る。 し か し 一 九 二 七 年 の︽ 人 物 像 ︾︵図
23
﹁手﹂の﹁眼﹂に対する優先という新たな問題として顕在化する。
実のところあらゆ
る絵画制作につきまとうこの︿眼と手の分裂﹀という事態を、 ﹁配置﹂からなる絵画は、
動させ、それを眺めて驚き、ふたたび次の盲目的な一手を打つ。
│
きの効果を画家の﹁眼﹂に開示する前に﹁手﹂で動かされる。形象を次の位置へと移
て先導され、制御される。しかし﹁配置﹂的構成において諸形象は、それが置かれたと
﹁手﹂は﹁眼﹂によっ 理を権利上優先させることである。物を見て描こうとするなら、
モチーフ
諸形象の﹁配置﹂で絵画を構成すること。それは﹁眼﹂の論理に対して、 ﹁手﹂の論
ることは、ピカソの形象的想像力の根幹に由来していることが理解されるはずだ。
﹁目﹂や﹁口﹂や﹁鼻孔﹂といった諸パーツの福笑い的な﹁配置﹂によって顔をとらえ
*29
114
︶を見てみよう。眼を消
︿眼と手の分裂﹀ 、あるいは描画の盲目性というこの問題は、すでに初期からピカソの 絵画において主題化されていた。 ︽盲者の食卓︾︵一九〇三、図
ぐる画家の右腕の姿と正確に対応している。 コラージュ、すなわち諸形象の配置的構
物であるかのようにテーブルの上を徘徊している。それはタブローの上を盲目的にまさ
学的構造を無視して肩からからだの前方へとつきだされており、あたかも自律的な生き
し去られた盲目の男の右手が、テーブルの上の水差しに触れる。その右腕は身体の解剖
24
成とは、この﹁手﹂そのものに内在する盲目性と触知性の論理によって、あらゆる視覚 的奥行きを触知しうる表面へと浮上させようという試みにほかならない。
図 24 《盲者の食卓》 1903 年
ピカソがベラスケスと袂を分かつのは、この盲目性と触知性の論理が顔面の描写に導
斬首、テーブル、反‐光学
115
*30
図 23 《人物像》 1927 年
入される瞬間である。諸パーツを遊動させる﹁しゃがむ女﹂の顔は、観者へ向けて収斂
するような﹁視線﹂の構造を前提としない。 ﹁見ること﹂と﹁見られること﹂のあいだ
で、奥行きの消失点を観者という虚焦点へと折り返すことで得られる︽ラス・メニーナ
ス︾の光学的絵画構造は、たしかに︽アヴィニョンの娘たち︾の中央二人の女たちの視
線によって引き継がれている。だが﹁しゃがむ女﹂の顔はそうではない。 ﹁しゃがむ女﹂
の分裂した視線は、画面の光学的統一を台なしにする。代わりに現われるのは、キャン バスの触知的表面で渦を巻く、諸パーツの反︲光学的な運動である。
︽アヴィニョンの娘たち︾の五〇年後にあたる一九五七年、ピカソは︽ラス・メニー
。ピカソはそこでかなり周到な模倣を展 ナス︾をモデルとした連作を描いている ︵図 ︶
可動的記号によって配置しなおす巡礼者のチャート式ダイアグラムなのだ。
*31
するように、ピカソの描く顔はトポグラフィックな連続体ではなく、興味のポイントを
コンに代表されるような肉の変形主義とは何のかかわりもない。スタインバーグが指摘
いった名づけられる記号的諸パーツの配置変えであり、スーティンやフランシス・ベイ
によって行なわれていることがわかる。ピカソによる顔の変形とは、 ﹁目﹂や﹁口﹂と
マルガリータ王女の顔面に注目すると、顔の変形はここでもまた、 ﹁目﹂の位置変更
問題へと収斂させまいとする画家の執拗な欲望を認めることができるはずだ。
画面の虚焦点構造を破壊している。そこにわたしたちは、絵画を統一された﹁視線﹂の
開しながら、登場人物たちの両目の向きを分裂させ、あるいは黒く塗りつぶすことで、
25
116
顔の諸パーツは、解剖学的な現実性から切り離され、位置をずらされることで、自
らを﹁記号﹂としてうちたてる。ロザリンド・クラウスとボワは、ピカソの分析的・総
合的キュビスムの画面を﹁記号﹂という観点から論じている。参照されているのはソ
シュールの言語学であり、記号の特質としてあげられているのは﹁恣意性﹂と﹁価値の
、 あるいは﹁不在の代理﹂と﹁差異の構造﹂︵クラウス︶である。 だが 示差性﹂︵ボワ︶
ヴに差異化されている。しかし絵画記号が相互に区別されるのは、画面上のアクチュア
は当然ながら、言語記号ではないからだ。言語記号は潜在性のレベルで相互にネガティ
コラージュを言語記号になぞらえて論じることは十分ではない。ピカソが扱っているの
*33
ルな距離によってである。 そこで問題となるのは、記号の空間的配置がうみだす強度
斬首、テーブル、反‐光学
117
*32
*34
図 25 《ラス・メニーナス(ベラスケスによる)》 1957 年
の効果である。
︽女の胸像︾から完成作にいたる変化のなかでわたしたちがみたのは、数センチ、あ
るいは数ミリ単位でおこなわれる配置の操作であった。わずかな配置の変更が顔の全体 的な強度を変えてしまう。それが絵画の問題である。
だが、距離の強度だけでは﹁しゃがむ女﹂の顔を理解することはできない。その顔は、
図 に見られるような諸パーツのたんなる福笑い的配置とは、異なる論理によっても貫 0
0
0
0
。 ﹁しゃがむ女﹂の顔は、その配置によってキャ い左目の角度と正確に一致する ︵口絵 ︶
出されるカーテンの下縁に引き継がれる。その角度は、 ﹁しゃがむ女﹂の傾けられた青
いる。その線は、鼻梁によって受け流され、耳の下から左下方に向かって直線的に突き
の女の胸をとおってカーテンの襞につらなる、右下がりの線の正確な延長上に置かれて
かれているからだ。 ﹁しゃがむ女﹂の白い右目は、画面左端の女の顔にはじまり、中央
23
ラに刻み落とされ、タブローのまったき表面に向かって縛りあげられる。 ﹁しゃがむ女﹂
を断ち割り、カーテンの襞を刻む。その一様な切断の論理によって物の肉体性はバラバ
軌跡にほかならない。物の形に制御されない衝動的な腕の回転が、首を斬りおとし、顔
ピカソが、手首、肘、あるいは肩を支点として筆を回転させることで残した自らの腕の
のひらの弧線と響きあっている。腕、胸、太腿、カーテンの襞とも共鳴するその弧線は、
それだけではない。顔を側面像と正面像とに裂き開く鼻梁の弧線は、斬首する左手
ンヴァスの他の領域を取り集める構造的必然性を獲得している。
4
118
の顔が開いた距離の強度は、この弧線を通じて画面の全域に浸透するのだ。
︽アヴィニョンの娘たち︾を描いた二五歳の若きピカソがつかんだ根本的問題はここ
にある。奥行きの肉体性が断裂し配置の記号性へと圧縮・転換されるとき、画面は観者
テ = ーブルの表面へと変貌する。しゃがむ
の視線を着床させる深き褥であることを止め、見ることの統一性そのものを離散的諸要 素の強度的関係によって問題化するタブロー
女の︿顔﹀はそこで、見る欲望の対象でも、見つめられる脅威の源泉でもなく、自らを
裂き開くことで絵画面そのものの強度を解き放つ恐怖の形象として立ち現われる。 ︽ア
ヴィニョンの娘たち︾はあきらかに画面左から右へと描きすすめられている。その横断
の過程で、視線の虚焦点構造から配置の反︲光学へ、肉体の連続性から記号の非連続性
への転換の瞬間を徴づけることにおいて、画面は過度に複雑な過渡性を帯びている。
フローラン・フェル ︵ Florent Fels ︶によるインタヴュー、 Action, vol. 3, Paris, April 1920, p. を参照。 25
William Rubin, “The Genesis of Les Demoiselles d ’Avignon ,” Studies in Modern Art 3 : Les Demoiselles d’Avignon, New York: The Museum of Modern Art, 1994, pp. 115-116. Ibid., pp. 116-117. Ibid., p. 116.
斬首、テーブル、反‐光学
119
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
梅毒をあらわす﹁病気の仮面﹂と︽アヴィニョンの娘たち︾の関係は、ルービンの以下の論文
において初めてとりあげられた。 William Rubin, “From Narrative to Iconic in Picasso,” The Art Bulletin, December 1983, p. 634. Alfred H. Barr, Jr., Picasso: Fifty Years of His Art, New York: The Museum of Modern Art, 1946, p. 57. Rubin, “ The Genesis of Les Demoiselles d’Avignon,” pp. 57-58. . ー マス の 批 判 は、 一 九 八 八 年 に ピ カ ソ 美 術 館 で 行 な わ れ た 大 規 模 Ibid., pp. 131-132ロ
な︽アヴィニョンの娘たち︾展にあわせてルービンが発表した仏語版の論文に対して行な
われている。 David Lomas, “A Canon of Deformity: Les Demoiselles d’Avignon and Physical Anthropology,” Art History, vol. 16, no. 3, September 1993, pp. 424-446.
Rubin, “ The Genesis of Les Demoiselles d’Avignon,” p. 58. ロ ザ リ ン ド・ ク ラ ウ ス は 別 の 文 脈 に お い て、 造 形 の 問 題 を 画 家 の 挿 話 的 経 験 に 還 元 す る
ルービンの美術史的方法を批判している。 Rosalind Krauss, “ In the Name of Picasso,” The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths, Cambridge, Mass.: MIT Press, 1985, pp. 23-40︵﹁ . ピカソの名において﹂、﹃オリ ジナリティと反復﹄、小西信之訳、リブロポート、一九九四 年、三〇 四 ―三頁︶
André Salmon, La Jeune peinture française, Paris: Messein, 1912, p. 3.
この時点で、医学生がもっていた頭蓋骨は、知を象徴する﹁本﹂に変えられている。
Leo Steinberg, “ The Philosophical Brothel, Part 1,” Art News 71, no. 5, September 1972, p. 21. Leo Steinberg, “ The Philosophical Brothel, Part 2,” Art News 71, no. 6, October 1972, p. 40. Steinberg, “ The Philosophical Brothel, Part 1,” p. 22. Ibid., p. 20.
120
Yve-Alain Bois, “Painting as Trauma,” Art in America, vol. 76, no. 6, June 1988, p. 137. 以上の制作過程についてはルービンが詳細な解説をおこなっている。 Rubin, “The Genesis of Les Demoiselles d’Avignon,” pp. 80-90.
じている。ただし本論が問題にしているのは、 ﹁部屋全体﹂の空間的厚みという意味での﹁身
Steinberg, “ The Philosophical Brothel, Part 2,” p. 44. スタインバーグもまた、背面と正面の﹁視覚的二重性﹂が﹁身体﹂の観念を再創造すると論
体 性 ﹂ で あ る。 背 面 と 正 面 の 結 合 と いう 問 題 は、 以 降 の ピ カ ソ の 絵 画 に く り 44 p. . Ibid., Leo
かえし登場するテーマである。これについてもスタインバーグの詳細な分析がある。
Steinberg, “ The Algerian Women and Picasso At Large,” Other Criteria: Confrontations with Twentieth-Century Art, New York: Oxford University Press, 1972, pp. 125-234. Steinberg, “ The Algerian Women and Picasso At Large,” p. 172. Rubin, “ The Genesis of Les Demoiselles d’Avignon,” pp. 126-127, note 105テ . ーブルを男性 器の象徴とみなすこの解釈は、スタインバーグによっても共有されている。 Steinberg, “The Philosophical Brothel, Part 1,” p. 23. Bois, “Painting as Trauma,” p. 137. Steinberg, “The Philosophical Brothel, Part 1,” p. 24. Ibid., p. 24. Christine Poggi, In Defiance of Painting: Cubism, Futurism, and the Invention of Collage, New Haven: Yale University Press, 1992, pp. 86-87.
ア = ラン・ボワ﹃マチスとピカソ﹄、宮下規久朗・関直子・田平麻子訳、日本経済新聞
六五年、一〇〇頁。
Bois, “Painting as Trauma,” p. 140. フランソワーズ・ジロー、カールトン・レイク﹃ピカソとの生活﹄ 、瀬木慎一訳、新潮社、一九 イヴ
斬首、テーブル、反‐光学
121
17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29
社、二〇〇〇年、一八九頁。
おいても採用されている。画面左端、カーテンを持ち上げて絵画面を開く女の腕は、頭上から、
︽盲者の食卓︾にみられる、体から分裂して自律する手の形象は、 ︽アヴィニョンの娘たち︾に
解剖学的に不可能な角度でつきだされている。その顔は、どこを見るともない盲目性のなかで
自閉している。 ︽アヴィニョンの娘たち︾の画面には、形式的に区別される四つの顔の様式が
混在している。ひとつは、青の時代の系譜につらなる左端の人物の盲目的顔面であり、二つ目
は中景の二人の人物に見られる、観者のまなざしを正面からとらえる顔面である︵この様式は、
﹁カーテンから現われる女﹂は、顔をデコラ ピカソが自画像を描くときに多用されていく︶。
ティヴな描線で破壊するもうひとつの様式を予告している︵おもにドラ・マールの肖像画にお
Steinberg, “The Algerian Women and Picasso At Large,” p. 166.
いて展開される︶ 。そして最後に、コラージュとして展開される﹁しゃがむ女﹂の顔面がある。
Yve-Alain Bois, “Kahnweiler’s Lesson,” Painting as Model, Cambridge, Mass.: MIT Press, 1993, pp. 65-97. Rosalind Krauss, “Re-presenting Picasso,” Art in America LXVII, no.10, December 1980, pp. 90-96.
プッサンのある風景画をめぐって﹂ 、矢橋透訳、 ﹃崇高なるプッ
サン﹄ 、みすず書房、二〇〇〇年、一六 一 ―七頁参照。
ルイ・マラン﹁画像の描写
│
そのような素通りは、絵画の﹁読解﹂を可能にする条件として肯定されるべきものであった。
ちに素通りさせてしまう、絵画記号の空間的﹁間隙﹂に注目していた。ただしマランにとって、
“The Algerian Women and Picasso At Large,” p. 166な . お、記号論的・構造主義的絵画批評 を開始したルイ・マランの記念碑的論文﹁画像の描写﹂は、分析的な言説が意味の分節性のう
スタインバーグは絵画記号の空間的﹁隔たり ︵ interval ﹂の問題を強調している。 Steinberg, ︶
31
30 32 33 34
122
オットー・ディックス│
香川 檀
観相術、その目を凝らすほどに⋮⋮
人間の顔というものを文明批評の主たる指標に据えたスイスの思想家マックス・ピカー
トは、一九二〇年代の著作で次のように書いている。顔は、みずからが表現されたいと
望んでいる、その様式をおのずから創造するほどに強力である。それどころか顔はまた、
それが表現される際の時代様式を形成するほどにも強力でありうる。つまり、顔は﹁ひ
とつの時代に対してその様式を課すことができる﹂のであると。 人間の顔貌それじた
要はそのような問題をめぐって、たとえば当時の流行であった表現主義の、厚塗り
の荒々しい筆致と現代生活のリズムとの相関性などが云々されたのだった。 顔が要請
│
がもちあがっていた。現代には現代人を描くにふさわしい顔の表現があるのではないか
くして、しかしまったく別の文脈で、ドイツの美術界でも顔の時代様式にかんする議論
尊厳を護ろうとする立場から顔の表現様式を論じたのだが、この考察とほぼ時を同じ
いを神の似姿、 ︿始原の像﹀とみなしたピカートは、あくまで描かれる像主がわの顔の
*1
0
するものであれ、顔に押しつけられるものであれ、あるいは双方の拮抗の所産であれ、
*2
こうした事情を考えあわせると、ワイマール・ドイツで肖像画の前衛として名を馳せ
代とは、個としての人間を描くことの危機がつよく意識された時代だったのである。
形姿の再現をますます放棄しようとしていたことなどがあったと思われる。一九二〇年
到来のなかで個人の顔が見えにくくなっていたことや、モダニズムの造形実験がひとの
とは注目してよいだろう。おそらくことの背景には、第一次大戦後、大衆社会の慌しい
ともかく顔の描き方には時代性があるという認識が識者のあいだで話題にされていたこ
0
124
オールド・マスターズ
ていたオットー・ディックスが、あろうことか四百年も昔の︿巨匠たち﹀の描法を採用
し、試行錯誤ののち、ついに現代性とはおよそかけ離れた古風な人物画を描くに至った
ことは、やはりただならぬ事態のように思われる。彼は、一五〇〇年当時のデューラー、
ホルバイン、クラーナハ、バルドゥンク グ = リーンら、様式的には後期ゴシックと見な
されるドイツ・ルネサンスの画家たちの作品にたち返っていく。そして彼らの技法、モ
チーフはおろか、ときには人物の顔つきや姿態、細部の装飾模様までをも模倣しながら、
北方ルネサンスの回帰
同時代のアレゴリー画や人物画を描いていくのである。その反時代性は、ほとんど挑発 的ですらある。 凍りついた微笑│
︶である。タイトルの示すとおり女性ダンサーを描いた半身立
ディックスの試行錯誤が至りついた驚くべき一点が、 ︽踊り子タマラ・ダニシェフスキ の肖像︾︵一九三三、口絵
像であり、そこでは蔦の装飾を背景に、ベルベットの服をまとい花を手にしたブロンド
の女性がこちら正面を向いて微笑んでいる。木板に油性テンペラというルネサンスの技
法をもちいて、服の質感や植物の葉脈、そして毛髪などのディテールが細密に描き込ま
れており、古ドイツ絵画の顕著な影響を見ることができる。こうした画面にあって、ひ
ときわ視線をひきつけるのは顔である。モデルの顔だちは、はたして実物にどれほど
オットー・ディックス
125
5
似せているかは不明であるが、数年を溯る一九二〇年代中ごろにディックスが描いた
一連の肖像画にみるような極端なデフォルメは影をひそめ、むしろかなり整った顔立ち
をしている。画家自身のお墨付きとされる作品集、フリッツ・レフラー著﹃オットー・
ディックス﹄によれば、この絵はディックスにしては珍しく、モデルの顔が明るく晴れ
やかに描かれていると解説されている。 実際、彼の手になる肖像画でこれほどにこや
そもそも﹁新しいスタイルの創造﹂なるモダニズムの原理に否定的だったようである。
とする立場をとるならば、これほど時代錯誤のスタイルはないだろう。ところが、彼は
たいなんと理解したらよいのだろうか。顔にはそれぞれにふさわしい時代様式がある
ディックスの肖像画スタイルにみるこの過激なまでの古典回帰を、わたしたちはいっ
時代に抗うような、凍りついた微笑をたたえて。
まるで遠い過去から抜け出してきた人物のようにアクチュアリティを失っているのだ。
う時代がかった印象がつよめられている。彼女は、絵の古色蒼然とした設えのなかで、
性を近代文明よりは自然界にちかい存在として暗示する蔦の葉の装飾によって、いっそ
を感じさせるせいかもしれない。中世の聖画像をおもわせる明確な正面性や、モデル女
切れ長の目をしたどこか北方的な面差しが、微笑の下にかくされた冷たいよそよそしさ
ルネサンスのたとえばクラーナハのルクレティアとか、デューラーの魔女たちのような、
の個人を描いたとはとても思いがたい古風な趣をたたえてはいないだろうか。ドイツ・
かに笑みを浮かべたものは他に例を見ないのであるが、それにしてもこの肖像は同時代
*3
126
一九二七年に発せられた次の言葉は、それをよく示している。
近年、あるスローガンが創造的な芸術家の世代を動かしている。 ﹁新たな表現形式を
創造せよ﹂がそのうたい文句だ。だが、そもそもそんなことが可能なのか私には疑問
に思える。いにしえの巨匠たちの絵の前にたたずむ、あるいはそうした作品の研究に
没頭するというのなら、なんらかの道理もあると認めよう。いずれにせよ私は、絵画
における新しさというものは題材の領域を拡大することにあると思う。昔の巨匠たち の場合にも中核に存在していた表現形式をふくらませることにあるのだ。
で権威におもねる精神態度や退行的心理を見てとることはやさしい。 ただ、かりにそ
こうした伝統回帰のなかに、少なからぬディックス批判者たちが見たように、守旧的
*4
うであるにしても、その根拠をたんに様式の後退などといった発展史観の単線的基準
にもとめるのではなく、彼をして古典に向かわしめた要因を、時代がもたらした新し
い人間像の把握のありかた、とりわけ顔についての知覚経験からいま一度考えてみた
いのである。その新しい知覚をもたらしたものとして、ここでメディア横断的に参照
されることになるもう一つの表現媒体が写真である。後述するように、ディックス個
人の創作環境にはポートレート写真の存在がきわめて大きく、彼自身、みずからの肖
像画スタイルを説明するについて、写真と比較しながらそれとの差異を強調している
オットー・ディックス
127
*5
からである。けれども、そのように画家として写真を﹁ライバル視﹂していた事実だ
けから彼の古典回帰が説明しつくされるわけではもちろんない。むしろ、作家の意識
の外にあってその造形の探究を支え、そしてもしかしたら裏切っていたかもしれない、
写真と古典技法との複雑な関わりを探ってみることのほうが重要である。そしてまた、
写真の普及によって促され、当時、時代現象と呼べるほどに流行した︿観相術﹀とい
う﹁顔への眼差し方﹂を、肖像画家ディックスの眼差しと重ねてみること。すなわち
ここでは、ディックスの古典回帰という美術上の出来事が、ワイマール・ドイツの写
真と、そして当時の︿顔の知覚﹀モード、という三者のダイナミズムのなかで明らか にされることになるだろう。 絵画平面のなかで彫刻する
この微笑む踊り子像を見てしまった後ではただもう驚きでしかないのだが、ディックス
が過去に、左翼シンパの前衛画家としての経歴をもっていたことは、最初にまず確認し
ておかなくてはならない。すでに大戦前、工芸学校の学生だった彼は、立体派や未来派、
ドイツ表現主義などにふれ、画面と形態を粉砕したり歪めたりすることに馴染んでいた。
第一次大戦に志願したおりの前線体験にもとづいた数点の油彩画では、まるで画面のな
かで砲弾が炸裂したかのように細かく分割された未来派的な構成のなかに、単純化され
128
た顔や動物や月などのモチーフが散在している。さらに一九二〇年には芸術破壊をうた
うダダイズムのグループ展に加わり、絵画のなかにさまざまな素材を貼り付けるコラー ジュ技法を採り入れたりもしている。
けれどもその一方、対象再現的なスタイルがまったく放棄されてしまったわけでは
︶は、画家の父母をモデルにしたもの
なく、ダダ期を過ぎた頃からはっきりとこちらの傾向がつよまってくる。カンヴァスに 油彩で描かれた︽芸術家の両親Ⅰ︾︵一九二一、図
で、緻密で克明な線描によって細部までていねいに描写されている。節くれだった骨太
の手、労働の歳月の刻まれた皺だらけの顔が、プロレタリア階級の人間の外貌︵父親は
オットー・ディックス
129
1
鋳物工である︶をよく捉えているといわれる。ディックスの場合、人物の描写にスタイ
図1 《芸術家の両親Ⅰ》 1921 年
ルを与えるときの焦点となるのは、顔と手である。なにかを摑みとろうともがくかのよ
うに不自然にひろげられた手と、それに呼応するようにかすかに歪んだ表情の顔。写実
的というよりも、顔つきの特徴をややデフォルメしたスタイルである。このころ彼の描
く顔はつねに、均整美を逸脱するすれすれまでに特徴が強調される。この再現の過剰に
よって対象の性格、その本質を凝縮して捉えるのだ、と彼はいう。デフォルメの度合い
が増すごとに、モデルに対する心理的距離は微妙にひろがり、場合によってはほとんど
カリカチュアとなる。そして、対象へのセンチメンタルな感情移入を抑えたこの酷薄な
線描を際立たせるのが、滑らかな絵画面である。ディックスは、当時まだ世間の関心が
もっぱら表現主義絵画に注がれていたときに、つまりキルヒナーやココシュカやマイト
ナーらの破砕した輪郭線と粗い筆跡が流行のスタイルとされていたときに、まるで印刷 された挿画のようにつるりとした光沢のある表面を追求していくのだ。
古典技法はこのマチエールの追求のなかで採り入れられた。彼は大戦前の工芸学校
時代に初期ルネサンスの絵画を手本に描法やモチーフの研究をしているが、作家活動
のなかで本格的に作品制作へ応用しはじめるのは一九二四年頃のことである。技法に
ついていえば、まずは絵の具の上に表面の仕上げとしてワニスなど透明な塗液をほどこ
す透明画法、そしてさらにカンヴァスでなく木板をつかう板絵の手法︵これにより、画
面はいっそう滑らかになる︶ 、さらに一九二六年からは真の古ドイツ絵画描法とされる
油性テンペラの混合技法が採用されることとなる。したがって、急転直下の伝統回帰と
130
いうわけではけっしてなく、試行錯誤の数年間のなかで辿りついた、実験精神に裏打ち
されての古典回帰だったのである。表現主義やダダを脱して写実性への志向をつよめて
いたディックスが古典技法にふたたび着目した理由については、すでにディートリヒ・
シューベルトの評伝﹃オットー・ディックス﹄に作家自身の説明が引かれている。彼に
とって形態の緻密な描写が重要になってくるにつれ、アッラ・プリマの技法、つまり印
象派や表現主義のような描法のプリマ絵画では思うような表現ができないことを感じは
じめた。ディックスが求めたのは、対象をかっちりしたフォルムとして切り出すような
線描である。簡潔にして要を得た彼の言葉がある。 ﹁私は彫刻のように絵のなかでかた かたど
かたど
ちをつくってみたい。[⋮⋮]絵画平面のなかで形態を彫刻したかのように [⋮⋮] ﹂ 。
このように、対象のかたちを象り/模りつつ、そこに固有の特徴を凝縮させることが
彼の目指すところとなる。そのために写実の厳密なスタイルを確立したルネサンスの絵
画を手本とし、油絵の具を放棄して、より線描に適した油性テンペラなどへと向かった
のだと、とりあえずは推論することもできよう。だが、そもそも彼にそのような対象把
握と造形を目指させたもの、滑らかで緻密なマチエールを求めさせたものはなんだった
のか。それもとりわけ人物の像をみずからの絵画世界のモチーフとしていたディックス
であればこそ、なおのことこの動機は問題にされなくてはならない。そこで考えてみた いのが、写真というメディアである。
ディックス個人の創作環境をみると、彼は一九二〇年頃から写真家フーゴー・エアフ
オットー・ディックス
131
*6
、
│
てみる価値はある﹂はずである。
の流れをくみ、
ると同時に、幼稚な思い違いのひとつである。写真はつねにある瞬間だけを︵しかも
を描くことが写真にとって代わられたのだとしたら、それは近代化による高慢であ
肖像画を描くことは近代以降一段低い芸術上の仕事と見なされている。[⋮⋮]肖像画
かれているのは、ディックスが晩年、肖像画と写真について残した次の文章である。
ディックスが写真に対抗しそれとの差異化をもくろんだ、という見方である。そこで引
さて、その影響関係を吟味するにあたって、シューベルトの評伝が暗示しているのは、
*7
、考え 匠たちの芸術がディックスにおよぼした影響とどのような関係にあるのか [⋮⋮]
ベルトが強調するように、 ﹁エアフルトの写真がディックスに与えた影響が、過去の巨
ねに写真の存在があったことになるのだ。ディックスの評伝作者ディートリヒ・シュー
めて透明画法を使いだすのは一九二四年頃とされているが、その前後、彼のそばにはつ
あっていたという事実は、注目に値する。先にも述べたとおり、ディックスが油彩をや
レクターとしても知られていた。この人物とディックスが継続的にお互いの姿を写し
自身の展覧会を行なうほど作家精神にとんだ写真家であったが、美術にも造詣が深くコ
いわゆる︿ 新 興 写 真 ﹀
ノイエ・フォトグラフィー
│
。ドレスデンにスタジオを構えていたエアフルトは、ポートレート ︶
ルトと交友をもち、何年間にもわたってお互いやその家族の肖像を撮ったり描いたり している ︵図 3
を中心としたストレートなリアリズム写真
2
132
まったく外観のみを︶撮ることができるにすぎないのであって、特殊な個々のかたち
をつくりだすことは決してできない。[⋮⋮]だからある人間を何百枚と写真に収めた
ところで、違った瞬間の光景を何百枚と見せているにすぎないのだ。全体を見、かた ちづくることができるのは画家だけである。
ディックスはあきらかに写真による人物ポートレートを意識しており、その欠陥をあげ
*8
つらうことで絵画による肖像の正当性を訴えようとしている。ここで彼が主張する写真
オットー・ディックス
133
の欠陥とは、そのメカニズムがはらむ時間性
図3 フーゴー・エアフルト 《マルタ・ディックス》 1925 年頃
に由来している。写真に固有の時間性をひと
図2 《犬をつれた写真家 フーゴー・エアフルトの肖像》 1926 年
ことでいえば﹁過去のある点としての瞬間﹂である。シャッターを切る一瞬の露光時間
が、感光紙に像を定着させる。一九世紀半ばの初期の写真におけるような長い露光時間、
すなわち時間の持続がつくりだした柔和で深みのある表情は、二〇世紀の写真にはも
ベンヤミンの言葉を借りるなら、 ﹁現実がこの写真の映像としての性格
はや望むべくもない。しかも、シャッターを切る瞬間というものには多かれ少なかれ偶
│
然的なもの
がつきまとっている。写真のこうした性格をふまえてみると、ディックスが
にいわば焦げ穴をあけるのに利用したほんのひとかけらの偶然、 ︿いま︲ここ﹀的なも
│
の﹂
たちが問題なのである﹂ 。
*10
﹁絵画の厳格な様式﹂が理想にかなうものとなった、と説明している。 ﹁私にとってはか
左右されたままなのだ﹂と語り、それに代わるものとして一五、 一六世紀の画家たちの
私にはこういった技法が結局は満足できなくなるだろう。あまりに多くのものが偶然に
スは面白いことを言っている。アッラ・プリマに対する不満を述べたくだりで、 ﹁[⋮⋮]
然性に対する対抗手段として捉えなおすことも可能だろう。この点にかんしてディック
ディックスにとっての古典技法の意味をそのような観点から、つまり写真の瞬間性と偶
の人物画スタイルとあの独特の顔の描法が確立されていったのだとしたなら、なるほど
ができる。そのような造形志向から、油彩が放棄されて絵画の古典技法が援用され、彼
なる瞬間の像ではない、永続性をもつ確固とした形態を追求することと言い換えること
絵画で志向した﹁全体をかたちづくる﹂という言葉の意味を、偶然性をともなったたん
*9
134
ディックスが最終的に採用した古典技法は、下塗りをした上に、薄い絵の具を何層
にもわたって重ね塗りし、最後に透明ワニスで表面を被うという手続きをとる。形態と
色彩の効果を綿密にはかっての、高度に熟練した技術が必要とされる。繊細な線、深い
色合い、細密な描写。それはまさに、偶然に左右されない﹁厳格な様式﹂というにふさ
わしかったのである。とはいえ、ディックスの古典技法の採用が、たんに写真の瞬間性、
偶然性に対抗しそれとの差異を際立たせる意図だけから生じたと結論するのは、あまり
に早計であろう。そこには、写真の時間性だけに還元されえない要素があるはずだから
である。ここでディックスの肖像画を社会的、歴史的次元に置きなおして考察する視点
が要請される。問題を︿顔﹀にひきよせて、ディックスがなぜ切り出すような彫刻的な
形態追求によって、顔を描こうとしたのかを、写真的な人間像の把握をめぐる当時の言 説に即しながらさらに考えてみたい。
ワイマールの観相術と︿顔の余剰﹀ ノイエ・フォトグラフィー
一九二〇年代にドイツでひとつのエポックをつくり出していた︿ 新 興 写 真 ﹀は、カメ
ラ・アイのもつ装置としての機能をフルに生かしてありのままの現実世界を切り取る
というストレート写真の理念を可能なかぎりおしすすめた。客観性とリアリズムの精神
を真髄とするこの即物的な写真の潮流は、当然ながら人物のポートレートにも及んでお
オットー・ディックス
135
り、二〇年代のとくに後半は、有名無名の人びとを撮り収めた写真集が大量に出版され
た。ディックスの友人フーゴー・エアフルトの仕事も、このような流れに位置づけられ
る。精度を追求し、細部まで鮮明に写しだす技術力に支えられた肖像写真である。この
ようにカメラ装置によって捉えられた﹁人の像﹂がおびている、絵画にはありえない写
真ならではの特徴ということを考えてみたい。たとえば先にディックスが批判した瞬間
性/偶然性という要素もそのひとつであろうような、装置のメカニズムに由来する特性
︶が呼びおこした反響はそ
は、そこに写された顔をどのように見せる効果があったのだろうか。 アウグスト・ザンダーの写真集﹃時代の顔﹄︵一九二九、図
ジョア的な人間観にとって由々しい事態を告げるものにほかならなかった。
ありのままの客観性をむねとしたポートレート写真が、このように顔の画一化、平
*11
の批判があがったのである。換言すればそれは、 ﹁顔のプロレタリア化﹂という、ブル
守的な陣営の側から、人間の顔がどれも同じになり、画一的で平板、空虚で醜くなると
た大部の写真集となるはずであったが、未完に終わる︶ 。この写真集に対し、おもに保
的な﹂見取り図を描こうと企てたのだった︵これはいずれ、 ﹃二〇世紀の人間﹄と題し
として選びだし記録していく。そうやって彼は、当時のドイツ社会の﹁ありのまま客観
た。農民や職人にはじまって銀行家や著名な芸術家など、有名、無名の人びとを被写体
職業、性別、そして地方から大都市住民までを代表する人びとの肖像を撮りつづけてい
の点できわめて示唆的である。ザンダーは、当時のドイツ社会を構成するあらゆる階級、
4
136
│
板化という印象をあたえてしまうパラドクス
。理由はもちろん、写真という機械が
もつ周知のメカニズムにあった。カメラ装置によって捉えられた像は、光という媒体を
介して瞬時に穿たれた刻印、あるいは転写であり、それは人間の手と精神を介在させな
い物理的痕跡であるがゆえに、純然たる物質性をおびている。その限りにおいて写真に
撮られた顔とは、肉眼では経験しえない非人間的な、モノとしての顔の複製なのである。
いやそれどころか、あえて極論するならば、物理的な因果関係や接触のぐあいによって
のみ形状が決まってくる、それじたいは﹁空虚な指標﹂︵ロザリンド・クラウス︶ですらある。
したがって写像は、写しとった対象だけを厳密に指示しつづける一方で、その対象をく
オットー・ディックス
137
りかえし写してもある不完全さをおびたダミーの連鎖にしかならず、けっして全き像に
図4 アウグスト・ザンダー 『時代の顔』 1929 年、銀行員の肖像写真
はいたらない。ちょうど貨幣に捺された顔の刻印のように、ちがった人物の肖像である
のにどれも似たりよったりの像をなすばかりなのである。かつてこのような類似性に注
目したヴァルター・ベンヤミンは、それを写真などテクノロジーによる像が大量に流通
するようになった近代の知覚のありかたに特徴的なものと見なし、同種性という概念で 説明している。
対象をその被いから取り出すこと、アウラを崩壊させることは、ある種の知覚の特
徴である。この知覚は、 ︿世の中に存在する同種性に対する感覚﹀をきわめて発達さ
せているので、複製という手段によって、一回的なものからも同種性を見てとるの である。
位置づけられる。人間の外観の機能的側面が重視され、彼らの内面性は慎ましやかに背
役割とそれに見合った服装や道具、居るべき空間などによって類型化され、分類され、
であったように、社会を構成する人びとが、唯一無二の個性としてではなく、社会的な
い人間観とも呼応していた。アウグスト・ザンダーの写真集プロジェクトがまさにそう
いる。それはまた同時に、大衆化社会の到来や社会主義のユートピア像にともなう新し
う事態は、写真が人物描写の特権的メディアとなった時代の顔の知覚経験を決定づけて
写真が人間の顔のアウラを崩壊させて、どれも似たような平板な顔に見せてしまうとい
*12
138
景へ退くのである。
人の身体的特徴からそれがどんな人間かを読みとろうとする観相術は、このような
時代にあって大いに流行した。大衆向け雑誌では、外見や顔つきから男女のさまざまな
︿タイプ﹀をもっともらしく分類する擬似科学的な記事が目立つようになる。都市生活
では氏素性の知れない隣人たちと暮らしていくために簡便な人間理解を必要とするとい
う現実の要請からだけではなく、そもそも人間の本質は内面の吐露よりも無意識的な表
情やしぐさにこそ現われる、というものの見方が広まっていた。いや人間に限らず、世
の中を観察したり研究したりする者たちのあいだにも、日常的な世界の相貌に現われ
た、一見とるにたらない表面的なことがらに、歴史の変転をしめす徴候を見てとる態度
は強まっていた。そういうとき、写真は、変動する社会の表層を読むための格好の指標
となりえたのだ。ベンヤミンがザンダーの写真集を評して、 ﹁観相学の訓練を積﹂んで、
政治地図における左右どちらの陣営から来た者かを判別するための﹁演習用の地図帳﹂
であると書いたのも、このような見方に基づいている。 面白いことに、左翼的な知識
人のあいだには、こうした観相術の社会学的な使用法への信頼と肯定があった一方で、
右派の陣営では、観相術がゲルマン民族や﹁アーリア人種﹂の身体的特徴を云々すると
きの人種理論と結びついた。観相術は、右からも左からも重宝がられたのである。
いずれにせよ、現代人の顔はひと昔前の人間の顔とは変わってしまった、平板で輪
郭がはっきりせず、どれも似たような顔つきをしている、と見なす人は少なくなかっ
オットー・ディックス
139
*13
た。 こうした趨勢を憂える思想家のなかには、人間学的な窮状を克服すべく芸術の
顔にふさわしい美的表現をもとめる者もでてきた。 本論の冒頭に紹介した﹁現代には
﹁レントゲンのような透視の目﹂を要請し、伝統のフォルムを失ってしまった現代人の
*14
なして顔の像のなかに総括されていた諸部分は、今では単に外的にお互いの隣に並べ
するのである。信仰の顔のなかで、さまざまな部分以上のものである一つの統一体を
人間が神から離れるや否や、顔は像としての性格をすべて喪失する、[⋮⋮]顔は崩壊
して像をなすための︿余剰﹀がない、と告発している。
分の寄せ集めでしかなく、部分以上のもの、人間の顔がそれじたいひとつのまとまりと
を見ていた。ピカートは、現代にはびこる﹁神から逃走する人間﹂の顔が、たんなる部
現代人の顔や、描かれた新しい顔イメージに、どちらかといえば神に背く由々しい兆候
して、マックス・ピカートのようにあくまで顔のなかに人間の尊厳をもとめる思想家は、
現代人を描くスタイルがあるはず﹂という議論もそのひとつだったのである。それに対
*15
の総和にすぎないのである。
*16
ず像をなすことはない。信仰の顔は一つの像であるが、それに反して逃走の顔は部分
頰、そのどれもが他と無関係に存在していて、その全体が一つの余剰、取りもなおさ
られているにすぎない。部分が他の部分のそばにあるだけである。鼻、口、額、眼、
0
140
ピカートのすぐれて神学的な顔論をそのまま美術における顔の表象にあてはめることは
もちろんできないが、 ︿余剰﹀という言葉で彼が言おうとしている顔の現象学的な把握
は、きわめて暗示にとんでいる。顔を像としてなりたたせるために︿余剰﹀が必要であ
るとするなら、ディックスの描く顔、その特徴をつよめて描写する︿過剰﹀への志向を、
ある種の︿余剰﹀のとりこみと考えることはできないだろうか。 つまり、写真がもた
らした顔の平板化、そしてさらには写真機という﹁観相学の機械装置﹂︵ピカート︶によっ
てもたらされた顔の分断を克服しようとする︿反︲写真﹀の試みであったと。しかし、
かりにそうであったとしても、誇張がすなわち顔の余剰となるためには、そうした強調
された特徴の現われるところに像主の人間性を肯定するような、そういう顔の見方が前 提とされるはずである。
ディックスの肖像の顔がつねにはらむ歪み、デフォルメ、そして一部の作品に見ら
れるカリカチュアへの接近については、従来、若き日のディックスが傾倒したニーチェ
の 思 想 か ら 説 明 さ れ る の が ふ つ う で あ る。 デ ィ オ ニ ュ ソ ス の 芸 術 に も と づ く 反 美 学、
すなわち美しい外観はまやかし、仮象であり、それを引き裂いて醜い姿を暴くことで
世界の真実があきらかにされるという思想である。その醜さにやどる力に確固とした
スタイルを与えることが、そもそも芸術家たるものの使命とされたのである。表現主
義芸術の解釈にしばしば適用されるこの醜の美学は、けれども一九二〇年代のディッ
クスにどこまで妥当するだろうか。みずから﹁新即物主義の考案者﹂と自称するほど
オットー・ディックス
141
*17
対象の物質的外観にこだわった彼は、もっと顔の表面に近いところを凝視しているの ではないか。
ディックスは、首都ベルリンに滞在していた二〇年代半ば、当地で接触のあった文
化人や画商らの肖像を多く手がけており、そのいくつかにはカリカチュアすれすれのデ
︶や︽画商アルフレート・フレヒトハイムの肖像︾
フォルメがほどこされている。なかでも有名な︽女性ジャーナリスト、シルビア・フォ ン・ハルデンの肖像︾︵一九二六、図
象把握のありかたを示している。 ﹁物それ自体に即して ︵ Ding an sich ﹂というディック ︶
戯画化するというかぎりにおいては、人物の内面性の関与しない、客観的で即物的な対
しかにディックスの対象との心理的距離をうかがわせ、感情移入や共感を排して対象を
く悪意をもった作品と解されることもある。こうした著しいデフォルメへの傾きは、た
人種的特徴とされていた長い鼻をわざと大きく描いており、ユダヤ人カリカチュアに傾
また画商フレヒトハイムの肖像は、彼がユダヤ人であることを強調するかのようにその
あわせて諷刺する調子が感じられ、フェミニズムの立場から批判されもする作品である。
られているが、この醜いデフォルメには、自立する知的女性を都市のデカダンスと重ね
かけ、その外貌に時代精神のあらわれを見てモデルを依頼したというエピソードが伝え
な面立ちはあきらかに実物を醜くデフォルメしている。ディックスはカフェで彼女を見
す有名な女性ジャーナリストの姿を描いたものだが、女性的な柔らかさを失った中性的
︵一九二六︶はその顕著な例といえるだろう。前者は、断髪に片眼鏡をつけ煙草をくゆら
5
142
スの創作態度にならえば、 ﹁モノとしての顔それ自体に即して﹂という顔の即物主義な のである。 しかし他方で、ディックスはこうも語っている。
外観は内面の現われであって、すなわち外観と内面とは同一なのだ。衣服の皺、人の
姿勢、その手、その耳、など画家が見ればすぐさまモデルの精神面についての情報を
与えてくれるものとなる。それらはしばしば目や口以上にものをいうのだ。肖像画家
というのはいつでも、すぐに各々の顔から隠れた美徳と悪徳とをしっかり読み取って、
オットー・ディックス
143
そののちにそれらを絵に表現していくすぐれた心理学者、人相学者と思われがちだが、
図5 《女性ジャーナリスト、 シルビア・フォン・ハルデンの肖像》 1926 年
それでは文学的な解釈になってしまう。なぜなら画家は査定するのではなく直視する からだ。私のモットーは﹁汝の目を信じよ﹂である。
│
や文学的解釈
たとえば﹁善良そうな﹂とか﹁浮き草暮らしの苦労がにじみ出た﹂と
については、きっぱりとこれを否定している。つまり、人間主義的に理解された
そこは、人間学と観相術とが鋭く切っ先を接する部分
とか宿命といった神話的・卜占的なものに隷属させたり、人種や血統といった生物学的
もちろん、急いで付け加えなくてはならないが、ここで言っているのは、人間を業
である。
している、目に見えない領域
│
定されている。内面性ましてや信仰心などとはいわないまでも、顔を顔として照らし出
な特徴にたちあらわれ、顔をたんに﹁人間のなかの自然﹂以上のものにするなにかが想
では捉えきれない領域に踏み込んでいくのである。そこでは、像主の顔つきのある微妙
観性という相反する要素を二つながら抱えもっている、通常の主観対客観という枠組み
けでもない。つまりディックスの肖像画は︿反︲内面性﹀ /客観性と、 ︿反︲写真﹀ /主
し述べたように、当時の写真に観取されたような平板な観相術の記録を意図しているわ
いわゆる内面性を顔に読み取ろうとしているわけではない。かといって、すでに繰り返
か
│
うか。ディックスは、モラルや物語を発生させるものではないと言う。顔の倫理的判断
画家が﹁直視する﹂ことによって把握したと称する対象の内面とは、なにをさすのだろ
*18
144
なものに譲り渡してしまう観相術のことではない。そうではなくて、むしろそこから人
を解き放ち自由にするもの、気骨とか志操といった意志的なものを看て取る眼差しのこ
であるところの、 ︿性
近代観相術のとるべき指針を論じたベンヤミンの言葉を借りれば、
とを指している。あるいは、こう言ってよければ、なにものにも負債を負っていない単
│
純で明快な個性
│
﹁人間という無色の︵無名の︶空にうかぶ個人という太陽﹂
格﹀という位相に目を凝らすような、そういう観相術である。ディックスが写真的な顔
の知覚に抗い、なおかつ客観的、即物的に捉えようとしていたのは、このような顔の位 相ではなかったろうか。
ザッハリッヒな視覚
ディックスが人間の顔を眼差すときの即物主義のことを、ここでもう少し、時代の傾向
に照らして考えてみよう。対象の物質的側面、つまり事物そのもののリアリティを重視
し、主観的ヴィジョンや感情表出を抑える客観性への指向は、 ﹁新即物主義﹂と名指さ
れた二〇年代ワイマール文化をつらぬく時代精神でもあった。そしてそれは、個人の内
面性や主観に対する懐疑というメンタリティのありかたのみならず、同時にまたテクノ
ロジーによる視覚の変化や、現代都市における日常生活の諸現象に対する態度の変化が
よりあわさって生まれた、新しいものの見方でもあった。新即物主義の絵画とふつう総
オットー・ディックス
145
*19
称され、広義にはディックスの作品も含められることのある一九二〇年代ドイツの具象
絵画も、特定の様式というよりはむしろ、背後に漂うこうしたものの見方、視覚の感受
性とでもいうようなものを共通項として括られている。その対象への眼差しのありかた
に認められる独特の傾向として、外界の事物を再現するにあたって人間と環境とのあい
だに得も言われぬ疎外感を漂わせていることが挙げられている。室内の事物も、窓から
見える町の景色も、人間も、それぞれが孤立して、真空の空間のなかに静止しているよ 。 うに描かれる ︵図 ︶ *20
ヒ・ヴェルフリンのデューラー研究であり、 そこではこのドイツ・ルネサンスの画家
寄与していたのである。ブームの先駆けとなったのは、一九〇五年に著されたハインリ
ク・リヴァイヴァルが、ほかでもない、この時代の︿即物的﹀という概念形成に大きく
美術にかんする研究書が続々と公にされ、展覧会が催されていた。こうした後期ゴシッ
領域でも起こっていたことである。一九二〇年代、ドイツの美術史界では後期ゴシック
特筆すべきなのは、この傾向といみじくも呼応するかのような出来事が美術史研究の
6
な画面を指向した ︵図 ︶ 。その彫塑的な明瞭性を獲得するために、特殊な器具をもちい
な絵画的画面ではなく、一つひとつが彫刻のように明確な形態をもって独立する彫塑的
リンによれば、デューラーは、人や物のかたちが相互にもつれ合い渾然一体となるよう
が確立した独自の表現様式を、 ﹁完全な即物主義﹂であると特徴づけていた。ヴェルフ
*21
て人体測定をしたり構築的な構図を試みたりして、客観的な作図をめざした。画家の自
7
146
制的な態度を反映して、画 中の人物たちもけっして情 熱的になることはなく、醒
図7 アルブレヒト・デューラー 《イナゴのいる聖母子像》
めて冷ややかである。そし
図6 ゲオルク・ショルツ 木信号》 《サボテンと腕 セ マ ホ ア ー 1923 年
て、デューラーの芸術意図 としてヴェルフリンがもっ と も 強 調 す る の が、 物 を それ固有の本質的な性質に したがって完全に表現しつ くすという点であり、こう した客観性を彼は﹁デュー ラーの物の見方に特有な 倫理的視覚﹂と呼んでい る。 それは、ヴェルフリ ンがドイツ・ルネサンスに 発見した新たな形式、新た な芸術上のものの見方だっ たのである。
*23
オットー・ディックス
147
*22
ザッハリッヒ
ワイマール・ドイツにおける美術史の諸研究が、このヴェルフリンのいう︿即物的﹀
の概念に大いに触発されたことは、ビルギット・シュヴァルツの論考に詳しい。後期ゴ
シック美術のリヴァイヴァルと受容にかんする考察のなかでシュヴァルツは、一九二〇
年代当時、 ︿即物主義﹀の概念がどのようなものとして理解されていたかを、具体的に こう説明している。
即物的と見なされたのは、たとえば後期ゴシック画家が事物のフォルムを鋭利に切り
取って見せることで生まれる、調和的雰囲気を欠いた真空の空間である。古ドイツの
巨匠たちは対象を﹁近接視的に﹂描き、それによって細部は途方もなく大きな意味を
おびてくる。この近接視性は、個々のフォルムを孤立させ、 ﹁フォルムそれ自体に即
した﹂描写を行なわせることになるが、ディックスもまさにそれを目指していたので
ある。一五世紀のタブローに見る絵画空間はもっぱら描かれた事物によって定義され、
そのさい、それら事物の素材がもつ特性はひじょうな重要性をもっていた。それを一
つひとつ丁寧に描きわけることで、光の反射のぐあいや陰影のできかたといった表面
の外観がよりよく示されるわけであるが、それはしかしつねに事物に、つまり確固と したフォルムに結びついていたのである。
モチーフをことさら精密に描写することが、それを周囲の世界から孤立させ、よそよ
*24
148
そしいものにする。対象を周囲の世界から切り取って間近に見据える眼差しのありか
た、ここでいうところの︿近接視的﹀視覚が、個々のフォルムを世界のなかにぽつんと ザッハリッヒ
置かれたもののように孤立させ、調和的な雰囲気を欠いた、よそよそしい真空の空間を
出現させる。美術史家たちはそれを︿即物的﹀と呼んだのである。この即物性の美的表
現コードが、期せずしてワイマール・ドイツの時代精神と響きあうこととなった。シュ
ヴァルツはさらに、こうした古ドイツ絵画の即物主義がもつ形態感覚が、二〇年代当時
の反仏感情にもとづくアンチ印象主義の機運ゆえに、模範的なものとされ、さらにはす ザッハリッヒ
ぐれてドイツ的なものと見なされたことを付け加えている。
こうして、 ︿即物的﹀という概念と抱き合わせにされての古ドイツ絵画の研究書がド
イツ語圏の各地で無数に出版され、展覧会が催された。したがって、いま述べたよう
なこの概念の捉え方は、当時一般の美術鑑賞者の理解であるとともに、また、熱心な
美術館通いで知られ、一九二三年頃から後期ゴシック絵画の研究に没頭するようになっ
たディックスの理解としても読めるであろう。ディックスが古典技法を縦横に駆使し、
いよいよその技法の特性や描法を活かした絵を描くようになった一九二〇年代末から
三〇年代にかけて、彼の即物性に微妙な変化があらわれる。それは、過剰なまでの細部
へのこだわりである。彼が緻密な細部とその質感に並々ならぬ情熱を注ぐようになった
のは、ルネサンス画家たちの、対象を孤立させてしまうほどの強烈な凝視、その眼差し
方に触発されるところが大きかったであろう。その頃に制作された彼の大作、 ︽大都会︾
オットー・ディックス
149
*25
︵一九二七│二八、図 ︶では、シュヴァルツが詳細に分析するように、室内の大理石、金属、
床材や家具の木目、人物が身につける貴金属アクセサリーや衣服の布、毛髪などの光沢
やテクスチュアの精巧な表現に、ルネサンス絵画の影響を見ることができる。あるとき は本物の金箔を貼るまでして、質感の再現に腐心しているのである。
こうしたディテールへの偏愛のなかで、人物の像もまた変質をよぎなくされる。画
家の注意は、顔の大づかみな印象をデフォルメの傾きのなかで描くことから、もっと微
細なところに移っていく。モデルの顔の部分や、あるいは周囲を取り巻き、背景をなす
。 地の装飾的な意匠が、職人芸的な技をもって描きだされるようになるのである ︵図 ︶
見方﹂とはまた、こうした物質性への透徹した眼差しでもあったことになる。 ﹁ザッハ
するかたちで再発見された後期ゴシックの即物性。それらに見出された﹁新しいものの
たをしているのである。ワイマール新即物主義の即物性と、そしておそらくそれと共振
の皺は、人物についてなにがしかを語る符牒として等価となる、そのような眼差されか
の精神面についての情報﹂を捉え、描きだすことに熱中している。ここでは、耳と衣服
うのだ﹂と言うときの彼は、耳や手や衣服の皺といった細部の描写に、つまり﹁モデル
面についての情報を与えてくれるものとなる。それらはしばしば目や口以上にものをい
が、 ﹁衣服の皺、人の姿勢、その手、その耳、など画家が見ればすぐさまモデルの精神
こうして、肖像を描くときの彼の態度に微妙な変化が起こりはじめる。先にも引いた
9
リッヒ﹂な視線のなかで、顔の即物性が優位をしめる。ここで改めて問われねばならな
*26
8
150
いのは、では細部を注視しはじめたとき、像主の性格とつらなる︿顔の余剰﹀はどうな るのか、という問題である。
事物の質感を捉えるべく間近に見据える眼差しのことを、もう少し考えてみよう。先
に引いたシュヴァルツは、後期ゴシック美術の即物性を特徴づけるものの見方を︿近
接視的﹀と呼んでいたが、この対象把握のモードは、わたしたちにあのアロイス・リー
グルが唱えた、やはり︿近接視的﹀な対象認識として定義される︿触覚的﹀な知覚の形
式を想い起こさせる。ヴェルフリンのデューラー研究に先立つことわずか数年、リーグ
オットー・ディックス
151
ルのそれは古典芸術の分析概念として提唱されたものである。リーグルは﹃後期ローマ
図9 《遊ぶ子供ら、 人形をもったネリーとウルズス》 1929 年
の芸術産業﹄︵一九〇一︶において古代の建築美術を論じるなかで、時代ごとに特有な知
図8 (中央パネル) 三幅画《大都会》 1927-28 年
覚形式の推移を︿触覚的﹀ / ︿視覚的﹀という対概念をもちいて分析している。 リーグ
その触感を手探りするように目で感じる。そこにおける触覚性とは、主観の介入がいま
感をとらえるため近接視的に、対象をほとんど奥行き感がなくなるほど間近にひきよせ、
リーグルが最初期の知覚モードとした古代エジプトの把握の形式においては、物質
読み替えることもできるのである。
質性から離れて主客関係の距離をとるなかで認識主体の主観がたちあがっていく過程と
覚への推移は、この主観の介入が増してくる過程でもあるという。すなわち、対象の物
︵観念︶からの類推という主観的な思考プロセスが動員されることになる。触覚から視
し奥行きを認識するためには、純粋な感覚的知覚にくわえて、経験にもとづくイメージ
された空間の奥行き、三次元性が獲得されていく。それとともに、空間の拡がり、ない
れた対象の物質性、確固としたモノとしての非貫通性は弱まり、代わって視覚的に把握
と移行する過程として捉える。そのプロセスにおいて、平面性のなかで触覚的に把握さ
的﹀で触覚的な把握から、徐々に離れた目の位置からみる︿遠隔視的﹀な視覚的把握へ
古代ギリシアをへて後期ローマにいたる芸術様式の三段階を、至近距離からの︿近接視
ろ触覚的な知覚、手触り感のようなものであるという。彼は、古代エジプトにはじまり
表現することだという。そして、そうした物質性を認識できるのは、視覚よりも、むし
個々の対象がもつ素材上の物質感をとおしてその対象の確固とした統一性、まとまりを
ルによれば、古代の造形美術が主眼としていたのは対象の﹁物質的な個別性﹂ 、つまり
*27
152
だ極小に抑えられた、即物的な客観性の段階である。そしてこの客観性、この物質性の
把握は、主客の距離を捨象し、いわば目を閉じて手探りするような接触的な身体感覚に
もとづいている。この一点において、後期ゴシック美術の︿ザッハリッヒ﹀な対象把握
ノイエ・フォトグラフィー
は、人の目と精神を介在させずに盲目的な転写をおこなう、カメラ装置による像生成の モードに近似してくるのである。
一九二〇年代のとくに半ば以降、 ︿ 新 興 写 真 ﹀の隆盛はその前衛的実験や理論面での
充実もあいまってドイツの美術界に大きな影響力をおよぼし、すでに再三指摘されてい
るように、写真と美術のあいだには緊密な参照関係が生まれていた。 技術が可能にし
た写真の表現力が時として絵画をリードしていくという現象が、ちょうど一九世紀後半
のフランス印象派絵画で見られたように、この時代でも起きていたのである。カメラ・
アイ特有の構成的な空間把握、対象を周囲の世界から切り取る︿孤立化﹀ 、それによっ ザッハリッヒ
て画面にたち現われる、凍りついたようにすべてが静止した真空な空間。そして何より
も、レンズが捉えた細部の克明さ、リアルな質感が、 ︿即物的﹀と呼ばれて新しい視覚
親縁性をもっていたのである。けれども、この
それもたんにアングルやモチーフといったレベルにおいてだけでなく、より本
の感受性を形成していった。ルネサンスの古典技法とその即物性は、こうした写真の視
│
覚と
│
質的な知覚経験のレベルにおいても
親縁性にこそ、ディックスが写真の平板さに対抗すべく古典描法においてもくろんだ意
図を、その描法がはらむザッハリッヒな視覚が裏切っていくパラドクスがひそむ。
オットー・ディックス
153
*28
それはこういうことである。ディックスがその肖像画の探究において﹁物語を発生さ
せない観相術﹂をめざしていたとき、そこに前提されていたのは、彼自身の︿目﹀の介
在であった。どれほど﹁事物それ自体に即して﹂を合言葉にしようと、それは画家個人
の感性を経た客観性、即物性であったのだ。像主の性格につらなる︿顔の余剰﹀はその
場所にこそ成立する。作家の目と精神、すなわち知覚をくぐりさらに遅れて獲得される
統覚による像のなかにこそ出来する。ところが、後期ゴシック絵画の即物的な視覚を徹
底して追求するうちに、そこに潜在する触覚的、転写的な対象把握のモードが、この事
後的にあらわれる余剰の到来を不可能にしてしまうのである。衣服の襞や手や耳といっ
た細部に肖像主の個性を表現しようとした画家の意図は、ここにおいてある困難な隘路 にはまりこむ。 終わりの︿顔﹀
︽踊り子タマラ・ダニシェフスキの肖像︾は、ワイマール・ドイツに顕著なかたちで復
活した具象絵画の、ひとつの極北を示している。写真や映画といったテクノロジーによ
る人間像の把握が人びとの視覚体験に浸透しつつあった時代にあって、なお絵筆をもっ
て肖像を描くことの真正さを保持しようとする努力の、究極の到達点である。ベルベッ
トの光沢をやどす服地の質感、蔦の装飾の精緻な葉脈、透き通るような毛髪のひと筋
154
│
ひと筋
。結果としてこの肖像画様式は、時代の視覚文化がはらんでいた問題状況、
つまり﹁歴史の転換期において人間の知覚器官が直面する課題﹂︵ベンヤミン︶に、画家
ディックスなりに応えようとしたものであった。写真のメカニズムに由来する瞬間性や
偶然性、そしてその像が与える平板さの印象に抗うために、彼はあえて古典技法を採用
したのであるが、しかしその技法と描法がともなうザッハリッヒな視覚は、潜在的に写
真のそれに接近していくという逆説をはらんでいた。主観を否定しつつ、事物に即して、 モデルネ
とはつまり顔の物質性に即して人間を描写することのアポリアがそこにはある。
触覚的な知覚による客観性は、近代の精神風土に発症したいわゆる自我の危機にさ
いして︵再︶発見された事物性であり、 ﹁抑圧されていた物質性の回帰﹂である。それ
はもはや素朴な客観的リアリズムの回帰ではありえず、どこか場違いな、あるいはよ
そよそしい雰囲気をたたえている。なぜなら、それはまた自我の揺らぎのなかで回帰し
てくる主客未分化の原初的な知覚モードでもあるからだ。総じてワイマール・ドイツの
新しい即物主義には、こうして得も言われぬ﹁不気味なもの﹂︵フロイト︶がつきまとう。
ディックスの描いた踊り子の微笑のなかにも、それが潜んでいる。ここでの不気味さは、
彼女の顔つきが北方ルネサンスに特有のあのどこか冷たく、よそよそしい表情をおびて
いることにのみ起因しているのではない。遠い昔にどこかで見たような顔として、意識
の底から呼びさまされる記憶と重なるものだとしても、この同時代女性の肖像に懐かし
さというよりは奇妙に場違いな感じを付与している真の原因は、むしろその描法、いや
オットー・ディックス
155
画家の眼差し方にあるのだ。そこにはもはや現在性はなく、無時間的な静止あるいは死
の刻印だけがある。したがって、時代精神をただよわせながら個としてあくまで存在を 訴える像主の意志的なものは、現われでる位相をもたない。
この絵が、モデルの性格把握を断念することによって時代とかかわることをやめた肖
像であることは、その絵が描かれた歴史的時点を思うと、意味深長なものがある。客観
的にして時事的な肖像の終わりが告げられたこの一九三三年という年は、くしくもナチ
スの政権掌握によってワイマール・ドイツが終焉をみた年でもあった。実のところ、こ
の絵はディックスが描いたワイマール時代最後の肖像画なのである。この肖像を描き終
えるや、ただちに彼は国内亡命という道を選んで田舎の村ランデックに隠棲するが、そ
こでの創作テーマはもっぱら風景のほうに向かっていくこととなる。かつて肖像画家と
Martin Blankenburg, “Der Seele auf den Leib gerückt: Die Physiognomik im Streit der Fakultäten,” Claudia Schmölders u. Sander L. Gilman (Hrsg.), Gesichter der Weimarer Republik,
マックス・ピカート﹃人間とその顔﹄ 、佐野利勝訳、みすず書房、一九五九年、七三頁。
して鳴らした彼のカンヴァスからは、かくして人間とその顔がふっつりと姿を消したの である。
1 2
156
ディートリッヒ・シューベルト﹃オットー・ディックス﹄ 、水沢勉・松下ゆう子・真野宏子訳、
Köln: Dumont, 2000, S. 295-296. Fritz Löffler, Otto Dix: Leben und Werk, Wien/München: Anton Schroll & Co., 1967, S. 83-84.
たとえばベンジャミン・ブクローによれば、両大戦間期におけるそうした具象絵画への回帰
6
ヴァルター・ベンヤミン﹁写真小史﹂ 、浅井健二郎編訳﹃ベンヤミン・コレクションⅠ﹄ 、ちく
同書、一〇九頁。
同書、一一二頁。
シューベルト、前掲書、一〇八頁。
ベンヤミン﹁写真小史﹂ 、五七四頁。
五九三頁。
ヴァルター・ベンヤミン﹁複製技術時代の芸術作品﹂ 、前掲書﹃ベンヤミン・コレクションⅠ﹄ 、
Gunther Sander (Hrsg.), August Sander: Menschen des 20. Jahrhunderts - Portraitphotographien 1892-1952, Text von Ulrich Keller, München: Schirmer/Mosel, 1980/1994, S. 66-67.
シューベルト、前掲書、一〇七│一〇八頁。
ま学芸文庫、一九九五年、五五八頁。
7
。 ︶ Design, 1983
and Modernity: the Vancouver Conference Papers, Halifax, Nova Scotia: Press of the Nova Scotia College of Art and
う ︵ Benjamin H. D. Buchloh, “Figures of Authority, Ciphers of Regression,” Buchloh et al., eds., Modernism
はいずれも権威主義が横行する政治的反動期と重なっており、心理的退行の表われだとい
パルコ美術新書、一九九七年、一二二頁。
4 8
うな人間のタイプ﹂がいなくなったと指摘し、 ﹁だれか日がな一日、ウンター・デン・リンデ
ヴァルター・ラーテナウは慧眼にもすでに一九一二年の手記で、当世の肖像画から﹁以前のよ
オットー・ディックス
157
3 5 9 10 11 12 13 14
ンを行ったり来たりぶらついてみても、古いタイプの人間をただの一人も見かけない、という
。 ︶ ことがありうるだろう﹂と書いている ︵ Blankenburg, “Der Seele auf den Leib gerückt,” S. 295
Ibid., S. 295-296.
一九六三年、一七八頁。
マ ッ ク ス・ ピ カ ー ト﹃ 神 よ り の 逃 走 ﹄ 、 坂 田 徳 男・佐 野 利 勝・森 口 美 都 男 訳、 み す ず 書 房、
あると言われることにも、顔を部分の集合である以上の像としてなりたたせる何かの存在
近年、日本の犯罪捜査において、犯人のモンタージュ写真よりも似顔絵のほうが効果的で が窺いしれよう。 シューベルト、前掲書、一一〇頁。
│
Walter Benjamin, “Schicksal und Charakter,” Rolf Tiedemann/Hermann Schweppenhauser (Hrsg.), Gesammelte Schriften: Zur Kritik der Gewalt und andere Aufsätze, Bd. II. 2, Frankfurt 暴力批 a. M.: Suhrkamp, 1976, S. 178︵﹁ . 運命と性格﹂、野村修訳、﹃ヴァルター・ベンヤミン著作集 判論﹄ 、晶文社、一九六九年、四九頁︶
事物への孤立化する眼差し﹂と題した一章をもう
デューラーの芸術﹂︵注 の、おそらく数版めのもの︶の序論となったという。
め、一九二二年に三十二ページの小冊子で出版され、改訂を加えたものが﹁アルブレヒト・
画﹄ 、岩崎美術社、一九七六年、一七│一八頁。訳者の海津氏によれば、このテキストははじ
ハインリヒ・ヴェルフリン﹁アルブレヒト・デューラー﹂ 、海津忠雄編訳、 ﹃デューラーの版
Heinrich Wölfflin, Die Kunst Albrecht Dürers, München: Bruckmann, 1905.
け、一九二〇年代の絵画に見られるこのような傾向を分析している。
かで、 ﹁新即物主義のイコノグラフィ
│
た と え ば、 ゼ ル ギ ウ ス・ミ ヒ ャ ル ス キ ︵ Sergiusz Michalski ︶は、 Neue Sachlichkeit: Malerei, のな Graphik und Photographie in Deutschland 1919-1933, Köln: Benedikt Taschen, 1994
1
ディックスが﹁画面のなかで彫刻する﹂ような堅牢なフォルムを指向したことも、このデュー
21
15 16 17 18 19 20 21 22 23
158
Birgit Schwarz, “‘Otto Hans Baldung Dix’ malt die Großstadt: Zur Rezeption der altdeutchen Malerei,” Otto Dix, Galerie der Stadt Stuttgart, Ostfildern(Germany): Hatje, 1991, S. 230.
ラー研究の影響として説明することが可能であろう。
Ibid.
図 ︶は、過剰な細密描写が画面のなかに疎外を導き入れた顕著な例である。そこでは、寝転
ディックス自身の二人の幼子を描いた︽遊ぶ子供ら、 人形をもったネリーとウルズス︾︵一九二九、
24
一九二九年には、新即物主義絵画の指導的な批評誌﹃芸術草紙 ︵ Kunstblatt ﹄に、新即物主義 ︶
世紀末の視覚体験を共有したことにもよるであろう緊密な対応関係、アナロジーがある。
う画期的な視座をひらいた。それでもなお、両者のいう︿近接視的﹀なものの見方には、一九
きな相違があり、前者の歴史主義的フォルマリスムに対して後者は知覚と認識の時代変化とい
Alois Riegl, Spätrömische Kunstindustrie, Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 2. Auf lage, 1927も. ちろんヴェルフリンとリーグルの あいだには、美術史の方法論のうえで大
てしまっている。
飾のマニエリスムのなかに投げ出された幼子らは、寄る辺のない哀れなセルロイド人形と化し
ぶ子供たちの存在を、下に敷かれた絨毯の稠密なアラベスク模様が圧倒してしまっている。装
9
写真のマニフェストともいうべきワルター・ペトリの写真論﹁事物への固着 ︵ Bindung an die ﹂が掲載されている。 ︶ Dinge
オットー・ディックス
159
25 26 27 28
︿顔﹀への応答│
橋本 悟
アルベルト・ジャコメッティの実践
ここに、アルベルト・ジャコメッティが最晩年にあたる一九六五年に描いた一枚の人物
。しかし、この作品はふつうの意味での人物画とは言え 画︽女と頭部︾がある ︵口絵 ︶
に終始するだろう。
そして同時に︿顔﹀を描く行為がはらむ問題であった。本論はこの一枚の人物画の解釈
めてラディカルな問題が記録されているように思うのである。それが︿顔﹀を見る行為、
ところがこの失敗作のような作品には、ジャコメッティの制作が逢着していたきわ
あるとはいえ、署名もされていないのである⋮⋮
はないか。だとしたらこの作品はたんなる失敗作なのだろうか。しかも制作年の記載は
大きなサイズで描き直される全身の足先が、キャンヴァスの下からはみ出てしまうので
で、全身像を描き直そうとしていたのだろうか。だがそうだとしたら、そのときはより
の像も次の瞬間には塗りつぶしてしまい、今はまだ遊離しているこの顔に釣り合った形
かの上に描かれたものであることがわかる。ではジャコメッティは、残された肩から下
描き残されており、今われわれが見る肩から下の全身像も、すでに塗りつぶされた何層
コメッティの絵画作品にしばしば見られる画面の縁取りが黒の矩形で何重かに重なって
とはおよそ不釣り合いな位置にひとつの顔が重ねて描かれた。また背景を見ると、ジャ
かれていた部分が消されたのである。そして消された部分の上から、今度は元の全身像
ようとしていた。ところがそれはあるとき中断され、その肩から上、間違いなく顔が描
ないかもしれない。一目見てわかるように、この油彩にははじめ女性の裸体像が描かれ
6
162
﹁フォルムの崩壊﹂からの出発
われわれはまず、ジャコメッティの制作の軌跡を一九三五年以前を中心として辿ってお
こう。断片的に書き残された自伝的記述や、インタヴューで語られた回想を追いながら 見ていきたい。その出発点にはひとつの断絶の経験があった。
ある対話でジャコメッティは若い頃の制作について回想している。少年ジャコメッ
ティはデッサンや彫刻を自負をもってこなし、 ﹁わたしのヴィジョンとそれを作る可能
性の間には何の困難もないという印象﹂をもっていた。ところが一九一九∼二〇年頃
にあたる十八から十九歳の時、そうしたすべては失われたという。続けて語る。 ﹁その
ときわたしは、わたしにはまったく何ひとつできないという印象をもったのだった!
楽園は次第に失われた⋮⋮ 現実はわたしから逃げていった。以前はものが非常に明 晰に見えると思っていた。すべてのものに対し、宇宙そのものに対し、一種の親密さが 0
0
0
0
0
ある作品の伝記﹄の著者、イヴ・ボヌフォア
は、この発言を同じ時期について語られたもうひとつの回想と結び合わせている。それ
大著﹃アルベルト・ジャコメッティ
│
あった⋮⋮ そして突然、それが異質なものになる。あなたはあなたであり、宇宙は 外側にある。宇宙は非常に厳密に暗澹たるものになる⋮⋮﹂ 。
0
は、やはり著名な芸術家であった父、ジョヴァンニ・ジャコメッティのアトリエで当時
〈顔〉への応 答
163
*1
ノ ル マ ル
梨の写生を試みたときのことについて語ったものである。アルベルトはそのとき﹁静物
画を描くさいの普通の距離におかれた机の上の梨﹂をデッサンしようとしたが、つねに
実物大でリンゴを描くことのできた父とは違って、梨は﹁いつも微小のものに﹂なり、
いくら修正しようとしても意に反して繰り返し小さなものになったという。 ボヌフォ
アはこの﹁普通の距離﹂について、 ﹁そこから描くと、人が梨を容易に解読できる﹂
それはたとえば、頭を描こう
れた頭についての観念、頭についての習慣﹂ であるだろう
│
が問題視され、反省さ
とするときであれば、 ﹁人が頭について現実にもっているヴィジョンから完全に切断さ
経ると、それまでの制作の自然さを保証していたもの
│
がかつての﹁親密さ﹂を喪失して﹁異質﹂なものとして現われている。一度この経験を
そのときまで自然にうまくいっていた制作がそれまでのようには進まなくなり、現実
距離だと述べているが、父と息子はこの﹁普通﹂さを共有できなくなっていたのである。
*3
*2
│
この問題を、一九二〇∼二一年のイタリア滞在時の彫像制作においても
そのとき制
、また二二年に
とは不可能だった。[⋮⋮]しかし反対に、鼻の先端といったひとつの細部の分析から始
作においても、抱え続けることになったと語る。 ﹁ひとつの人物像の全体をとらえるこ
初めてパリに赴き、以後二七年まで学んだアントワーヌ・ブールデルのアトリエでの制
作された二つの胸像は滞在の最後の日に壊され、放棄されたという
│
ジャコメッティはそれを﹁全体﹂と﹁細部﹂の間の乖離の問題として語っている。彼は
れるのである。ではこのとき制作は具体的にどのように困難なものとなったのだろうか。
*4
164
めるとやはり迷ってしまった。[⋮⋮]フォルムは崩壊し、それはもはや暗く深い空虚の 0
0
0
0
0
0
0
うで、限界がなく、何ひとつ固定されず、すべては見落とされる﹂ 。
いう最終的には解決のないジレンマから来ている。 それでもジャコメッティは﹁自
ために個々の細部がもつべきフォルムは、いざ全体を描いてみなければわからないと
は じ め か ら 全 体 の フ ォ ル ム を 一 気 に 描 く こ と は で き ず、 か と い っ て 全 体 を 構 成 す る
フォルムの崩壊。形式的に説明すると、これは、全体を細部から構成してゆくとき、
*5
上を動いている砂粒にすぎない。小鼻の一方から他方までの間の距離はサハラ砂漠のよ
0
る。 周知のように、キュビスムは対象を単純な幾何学的フォルムをもつファセット ︵切
を作ろうと努めた﹂ 。そこで彼がまず試みたのが、キュビスムへの接近だったのであ
て制作することを始め、このカタストロフィから救い出すことのできるわずかなもの
分が見ているものを少しでも実現したいと思って、やむなく、自分の家で記憶によっ
*6
り子面︶に分解して描くという手法を生み出した。この手法はザッキン、ローランス、リ
プシッツらによってすでに彫刻のジャンルにも応用されていた。一九二五∼二七年の彫
︶
刻作品の形態的特徴は、ジャコメッティがこの時期たしかにキュビスムに可能性を見て
いたことを伝えている。ブランクーシの影響が読み取れる︽トルソー︾︵一九二五、図
二 ―七頃︶を見てもわかるように、この
時期対象の細部は単純な幾何学的フォルムによってとらえられ、全体を構成している。
や、 ︽キュビスムのコンポジション 男︾︵一九二六
1
しかしこうした形態的特徴が彫刻に見られるようになったのが実際にキュビスムの
〈顔〉への応 答
165
*7
影響を受けてのことであるとしても、ジャコメッティの残したデッサンを見てみると、
対象をファセットに分解してとらえるという手法は実際のキュビスムの影響とは関係
︶は、
のないかたちですでに見られる。それはむしろブールデルのアトリエで教授されてい 二三頃、図 ―
ユ = ベルマンが報告しているように、ブールデル
た手法に関係している。デッサン︽座った裸婦、背後より︾︵一九二二
た﹂ のである。
い、ヴォリュームをファセットに分解することで﹄とらえるという描画法さえ教えてい
は、 ﹁全体としての像を﹃輪郭上のある一点から他の一点に引かれた直線によって囲
そのときの習作であろう。ディディ
2
だが他方で、 ﹁ジャコメッティがこれらのデッサンにおいて幾何学化をラディカルに 0
0
0
0
0
押し進め、それはセザンヌのデッサンでもブールデル自身のデッサンでもはっきりと 0
0
に赴き、そのラディカルさを原始美術に直接求めてゆくことになった。 このことはや
アール・プリミティフ
この点にかんしてあるラディカルさをもっていた。そしてジャコメッティはさらに先
*9
︶に﹁黒人様式﹂を認め、そこには﹁特定の彫刻的源泉
スティル・ネーグル
はり形態的特徴として一九二六∼二七年の彫刻作品に確認される。クラウスは、とくに
*10
が不在﹂だが、 ﹁アフリカ原始美術の一般的な性格﹂が見て取れると述べている。 キュ
一九二六年の︽カップル︾︵図
3
ら強い影響を受けていた。ジャコメッティもその動きのなかで、たしかにそこに独自の
ビスム自体がそうであるように、この時代、西洋の芸術はとくにアフリカの原始美術か
*11
0
*8
0
示されることがなかったということに注意﹂ をする必要がある。キュビスムはやはり
0
166
可能性を見ていたのである。 形態論的な視点から見る と、なるほど対象の単純な 幾何学的フォルムへの分解 によって、あの全体と細部 の間の乖離という困難を乗 り越える道が開かれるよう に思える。というのも、幾 何学的フォルムをもった ファセットは、対象のしか るべき細部を表象すると同 時に、全体のなかでの他の
図3 《カップル》 1926 年、59.6 38 37.1cm
細部との調和をファセット 同士のフォルムの調和とし て追求する可能性を与える からである。だがこの道も
〈顔〉への応 答
167
けっして一方通行の解決法 にはならなかった。という
図1 《トルソー》 1925 年、58 25 24cm 図2 《座った裸婦、背後より》 1922-23 年頃(部分)
のも、ジャコメッティ自身が確認していたように、それは﹁わたしを外部の現実から遠
ざけ﹂ 、そのとき﹁わたしをオブジェそれ自体の構成にだけ熱中させる傾向﹂があるか
らである。 つまり作品がフォルムのためのフォルムの探求にとどまり、それを超えた
。おもにこの時期の作品に脈 くオブジェ﹂と呼ばれた数々の作品を制作している ︵図 ︶
〇年シュルレアリスムの運動に参加し、三五年にブルトンと決裂するまで、 ﹁黙して動
現実への類似性を失う危険性がつきまとってしまうのである。ジャコメッティは一九三
*12
ときにあえて無価値の棄てられるべきものとして作られることさえあった。 いずれに
れを中空のものにしたり、実際に動くものにしたりしたというのである。またそれは、
かして﹁現実についてのわたしのヴィジョンに可能なかぎり近い﹂ものにしようと、そ
うとするかのようにそれらの作品の展開を説明している。すなわち、オブジェをどうに
絡をつけて紹介しようとした﹁ピエール・マチスへの手紙﹂で、彼はこの危険性を証そ
4
続く﹂ 紆余曲折したものだった。
せよその歩みは、 ﹁代わるがわるあらわれ、相互に矛盾し、また対立することによって
*13
化はたんに事故的な思いつきによるかのように語られている。 だが後のいくつかのイ
は原始美術への参照の中断をも意味した。 ﹁ピエール・マチスへの手紙﹂では、この変
デルを前にして写生によって制作することを始めたのである。それはキュビスムあるい
ムによる対象の把握の道を後にする。その一九三五年、ジャコメッティは再び現実のモ
このシュルレアリスムからの離脱を期に、ジャコメッティは単純な幾何学的フォル
*14
*15
168
ンタヴューを見ると、それは二〇年代から続けられてきたフォルムの探求の道を放棄す
る決断として語られているのである。その﹁十年間わたしはもはや作り直すことしかし
なかった﹂ 。 それは﹁真実の外﹂ だった。それらの﹁抽象的作品は完全にできあがっ *17
│
﹁源泉に立ち戻りすべてを再開し いっさいの冒険は終わってしまっていた﹂ 。 そこで、
ていた﹂のであり、 ﹁仕事を続けることは同様の作品を生み出すことだっただろうが、
*16
なければならなかった﹂ 。 0
0
0
0
0
0
0
*19
*18
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
いる。 ﹁モデルを見つめれば見つめるほど、モデルの現実とわたしとの間のスクリーン
それでは再びモデルを前にして、そこには何が現われたのか。彼は次のように語って
0
図4 「黙して動くオブジェ」 、 『革命に奉仕するシュルレアリスム』 No.3( 1931 年 12 月)に掲載。
が厚くなっていった。ポーズをしている人物を見るところから始めるが、次第に可能な
〈顔〉への応 答
169
0
0
0
0
0
0
かぎりありとあらゆる彫刻が介在してくる⋮⋮ 。 現実に 人物と作る者との間にね﹂ 直面しようとすればするほど、それが既知のフォルムによって遮られてしまったという 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
*20
り、消え失せそうになってしまった﹂ 。 すなわち現実のヴィジョンを遮るフォルムを
く取り除こうとするのである。だがその結果、 ﹁一九四〇年には頭部は極微のものにな
のである。そこで彼は、それら﹁スクリーン﹂として介在してくる﹁彫刻﹂をことごと
0
粉になって消滅してしまうほど﹂ になるにまで至っていたのである。
なるがままに任せ、 ﹁小さい像はいよいよ微小になり、しばしば小刀の最後の一突きで
しかし彼はそこで別の新たなフォルムを作ることはできなかった。むしろ頭部が小さく
取り除こうとすると、作品にもほとんどフォルムが残らなくなってしまったというのだ。
*21
響関係を確認することはできた。だがわれわれは、そうした形態的影響関係を確認した
作品を参照するに至ったということである。右で見たように形態的特徴によってその影
重要なのは、そこでジャコメッティが、キュビスムを経て、原始美術という過去の芸術
そのために、われわれはまずそれ以前の﹁抽象﹂の試みについて考えたい。そのさい
われわれはこの変化の意味を理解しなければならない。
生まれ、そしてわれわれが取り上げている︽女と頭部︾が描かれるのもこれ以後である。
何学的フォルムは見られなくなる。有名な長身の人物像や、歩く男と立った女の連作が
的特徴だけを見ても、それ以後の作品にはたしかにそれ以前に見られたような単純な幾
この三五年を境に、ジャコメッティの作品は本質的に変化するように思われる。形態
*22
170
だけではけっしてとらえきれない、この過去の参照という行為の意味を理解しなければ
ならない。ジャコメッティは、 ﹁フォルムの崩壊﹂以後いかなる仕方であれ形態的特徴
を﹁普通に﹂とらえることができるような自然な視線それ自体をひたすら問題にしてき
たのだから、われわれ自身も彼とともに、その作品そのものをも含む現実の対象の見え
方の普通さや自然さそれ自体を反省しつつ進まなければ、少なくともその意味を理解す ることはできないように思うのである。
絶対的な類似
0
﹁フォルムの崩壊﹂の経験を経て、二〇年代からシュルレアリスム期に至る制作が矛盾
をはらみながらも続く険しい道であったのは、そのラディカルな﹁抽象﹂の追求が現実
0
の対象という目的をつねに携えていたからである。ここでわれわれは次の発言を聞こう。 0
あなたは、ある作品が真実であればあるほどそれはいくらかのスタイルをもつという
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
とも類似したように見える頭とは、もっとも写実的ではない頭、つまりエジプト、中
レアリスト
これは奇妙なことだ。ところが、誰でもよいがわたしが街路で出会う人の頭ともっ
ことに気がついたことがあるだろうか。スタイルとは現われの真実ではないのだから、
0
国、それに古代ギリシア、あるいはカルデアの彫刻なのだ。わたしにとって、もっと
〈顔〉への応 答
171
0
アンヴァンシヨン
も偉大な 創 意 はもっとも偉大な類似に結びついている。夏、裸の女を見るとそのこ 0
は各々の瞬間に残存するヴィジョン、つまり意識的なものになるイメージしかけっし
実主義はグラスを⋮⋮ ており、直接的でない芸術に類似しているのだ⋮⋮ テー 写 ブルの上にあるとおりに模写することに存するのだと思って良い。だが実際には、人
レ ア リ ス ム
とに驚かされる。彼女たちはエジプト絵画に、つまり何よりも象徴的で、再構成され
0
て模写することはない⋮⋮ あなたはけっしてテーブルの上のグラスを模写するの ではなく、あるヴィジョンの残滓を模写するのだ。わたしは少しずつ彫刻と呼ばれる 0
0
0
0
0
0
0
。 によって表わしうるものだ [⋮⋮]
レ
タッシュ
ともよく実現されている。ここでまさに、現実の対象を自然に︵写実的に︶表現するフォ
される類似とは、やはり写実性を棄てたエジプト彫刻などの作品においてこそまずはもっ
対象から訪れ、残滓として残るヴィジョンをこそ表わすべきである。しかもそこで追求
いる。作品は、写実とはまったく異なる仕方で対象との類似を獲得するために、現実の
間の類似を論じ、同時に﹁ヴィジョンの残滓﹂としての現実の現われ方について語って
ジャコメッティは、ここで﹁スタイル﹂によって実現される芸術作品と現実の対象との
*23
なもののみがわたしに訪れる。それはとても小さな筆跡によって、とても小さな色点
ト
フォルム、その光から、見つめるごとに、限界を決めるのが非常に難しい非常に小さ
ある種の現象の実態がわかってきた。わたしがグラスを見つめると、その色彩、その
0
172
ルムを拒んでなお救いうる対象との類似を、キュビスムを経て、原始美術という過去の
芸術作品を参照しながら得ようとしたあの制作の道筋が再び語られているのである。
言い換えれば、現実の対象に類似したフォルムが、過去の芸術作品を引用したいわ
ば古いフォルムによって追求されたのである。それは、実際には過去の芸術作品の﹁模 0
0
0
0
契機であり、実際、残されたデッサンには多数の芸術作品の模写が含まれている。 彼
写﹂を通して獲得されるものであった。模写はジャコメッティの制作において本質的な
0
遡行しなければならなかったのだろうか。換言すれば﹁類似﹂とはたんなる﹁写実﹂と
だがなぜ対象との類似の追求のために﹁スタイル﹂と必要とし、古いフォルムにまで
をとらえようとしたのである。
は過去の芸術作品の模写を繰り返すことで﹁スタイル﹂を手に入れ、それによって現実
*24
どこが異なるのだろうか。それは次の発言において語られている。 ﹁フォルムは絶対的 0
0
0
0
0
0
0
な仕方で、意志によって固定されなければならず、恣意的なフォルムのように放棄され 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
てはならない [⋮⋮] ﹂ 。 すなわちジャコメッティが求めるフォルムは絶対的に描かれな
0
0
0
0
*25
0
0
0
0
たかもしれない。だが求めるべきは絶対的な類似なのである。
なる﹁写実﹂や、何らかの新たに作られたフォルムによってしかるべく得ることができ
ければならず、恣意的であってはならなかったのである。恣意的な類似であれば、たん
0
0
0
0
われわれが理解したいのは、この絶対的な類似がなぜ過去の作品を参照しながら追求
0
0
0
0
0
0
されたのかということである。そのためにまず、ジャコメッティが求め続けた﹁類似﹂
〈顔〉への応 答
173
0
0
の意味を考える必要がある。すでに一九三五年以前に焦点を当てて制作の足跡を辿って
きたわれわれは、 ﹁フォルムの崩壊﹂の経験を経て、表現すべき対象が眼の前に自然に
存在するという通俗的な安定した現実は、制作するジャコメッティの手を離れていたこ
とを理解すべきである。引用箇所で、彼はグラスをテーブルの上に存在するがままに描
くという﹁写実﹂を拒み、非常に小さな﹁ヴィジョンの残滓﹂のみが到来するのだと述
べながら、いつも微小のものになったというあの父のアトリエでの梨の写生の記憶を繰
り返している。すなわち、 ﹁類似﹂というとき、彼は自然に存在する対象をそれに似た
像で表現することを目指していたわけではない。むしろ文字通り、彼は対象の自然な存
在を前提にしない、対象それ自体への類似、もっと言えば対象であることへの類似を追 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
ある。だが彼は、それ自体がそうした自然な対象性の手前に留まり、現実の対象そのも
求していたのである。そもそもジャコメッティの作品とは自然な意味で現実の対象でも
0
のに似ているということを目指していたのである。それは自然な対象性の手前に位置す 0
0
0
ヒエラルヒーはもはや拒まれ、対象と作品とがまったく同時に
│
対象が作品のように、
ても語っていた。このとき、あらかじめある対象とそれを後から表現する作品といった
も、自然な対象性の手前のこうした類似性の次元において見るという視覚の行為につい
わす必要性と同時に、 ︵作品ではない︶たんなるひとつのグラスのような現実の対象を
現実を﹁ヴィジョンの残滓﹂によって見るジャコメッティは、それを作品において表
る、対象への類似性である。
0
174
│
作品が対象のように
存在する次元が開かれる。この次元で、対象と作品との間に類
似関係が生じるのである。ジャコメッティが対象への﹁類似﹂と言い、 ﹁表現﹂とはあ えて言わないとき、目指されていたのはこの次元である。
そこでジャコメッティがまず言及した特権的な作品が、過去の芸術作品であった。す
なわち、現実の頭を﹁エジプト、中国、それに古代ギリシア、あるいはカルデアの彫
刻﹂のように見ると語るとき、その視点はたしかに対象を作品のように、作品を対象の
ように見る類似性の次元を開いているが、このときこれらの過去の彫刻作品とは、 ﹁誰
でもよいがわたしが街路で出会う人の頭﹂という、現実の頭部一般をそのように見るべ
き、範例的なフォルムなのである。それは対象との類似性を範例的に与えるフォルムで
あり、類似の恣意的な可能性のひとつではない。それを彼は﹁スタイル﹂と呼んでいた のである。
われわれは、ジャコメッティが類似性を追求しながら、キュビスムを経て原始美術の
作品を参照していった歩みを追った。それは幾何学化のラディカルな追求と言うことも
できる歩みであった。だがこのとき、幾何学的なフォルムがたんなる恣意的な三角形や
四角形としてではなく、あくまでラディカルに、過去の芸術作品を参照するというかた
ちで追求されねばならなかったのは、それがこの﹁スタイル﹂となる範例的なフォルム
である必要があったからにほかならない。ところで、あるフォルムの範例性とは、歴史
によって構成されるしかない。幾何学化がキュビスムの参照を経由し、それを超えて原
〈顔〉への応 答
175
始美術へと彼の視線をラディカルに導いていったのは、範例的なフォルムそれ自体が必 要とする歴史性、つまりその古さのゆえなのである。 0
現実を相手にしている以上、むしろそのつどの現在に応じて新しいフォルムを創造す
追求する必要があったのだ。ところが、すぐさま次のようにも言えるだろう。つまり、
ジャコメッティは古い範例的なフォルムによって、現実の対象との絶対的な類似を
0
0
0
レ
したがってその古さは、実際の歴史的な古さであるだけではなく、現在の視点から遡行
逆に言うと、それは新しい仕方でのみ﹁古い﹂ものとして引用されるフォルムであり、
フォルムとは、まさに制作の現在においてこそ発見される新しいフォルムでもあるのだ。
するジャコメッティの視線において開かれているものだった。したがって、参照される
性の次元において見られていたことを思い出そう。その類似性の次元とは、まさに制作
たわけではない。現実の対象同様、作品それ自体も、自然な対象性の手前の、あの類似
の芸術作品を参照したとしても、けっしてそれをたんに﹁写実的﹂に引き写して模倣し
それはフォルムの古さそれ自体の二重性にかかっている。ジャコメッティは、過去
とらえているこのフォルムの古さと新しさという二重性について考える必要がある。
ていないアンフォルムな要素だとも語っていたのである。われわれは次に、彼の制作を
や﹁とても小さな色点﹂といった、むしろ古さとは無縁の、まだフォルムとして成立し
タッシュ
わち、描くべき﹁ヴィジョンの残滓﹂を表わすことができるのは、 ﹁とても小さな筆跡﹂
ト
べきではないのか。だがジャコメッティはそうだとも語っていたように思われる。すな
0
176
的に見出されるアナクロニックな古さでなければならないのである。 ﹁模写﹂とは、こ
のアナクロニックな古さを発見しようとする引用の行為である。ここで古さは、現在の ト
レ
﹁創意﹂の行為においてのみ生起することができる。さらに言えば、その生起は最も新 タッシュ
しいフォルムをまさに描こうとする筆や指のアクション、 ﹁とても小さな筆跡﹂や﹁と
ても小さな色点﹂というアンフォルムな要素を残すそのアクションにこそ賭けられてい
るのだ。それゆえ、ジャコメッティが描こうとするフォルムは、古さと新しさの二重性 をはらんでいたのである。
ところで、そもそもジャコメッティにとって、過去の芸術作品とはアナクロニックに
回帰してくるフォルムとしてこそ意識されていた。 ﹁模写についての覚え書き﹂におい
て、彼は今まで自分が繰り返してきた模写のクロノロジーを書き記すことが不可能でし
かないことを何度も口にしている。模写を想起するジャコメッティの脳裏は、彼自身の
あらゆる自伝的な記憶、そして同時に、あらゆる時代のあらゆる文明を貫くことができ
る美術史の空間の表面となる。その空間とは、時間に取って代わるような広がりであり、
模写の記憶は、 ﹁終わりもなく、名前もないこの海﹂の表面へと、アナクロニックな仕 方で﹁不意に﹂浮かび上がってくることしかできないのである。
ここまでわれわれは、ジャコメッティが対象との絶対的な類似を、過去の芸術作品を
引用することで実現しようとしたことについて見てきた。そこでジャコメッティの制作
は、古いものは新しい視点との関係においてしか成立せず、逆に新しい視点は恣意性を
〈顔〉への応 答
177
*26
拒むかぎりで古い範例を引用しなければならないという、古さと新しさのアナクロニッ
クな循環関係の真っただなかにある。 ﹁抽象﹂によって対象との絶対的な類似を追求し
た紆余曲折する道のりは、この古さと新しさの循環に積極的に巻き込まれるなかで歩ま れたのである。
ここでわれわれは一九三五年の時点に戻ろう。そのときジャコメッティは、それま
で十数年に及んだ自分自身の制作を否定し、モデルと制作者の間に介在してくる﹁可
能なかぎりありとあらゆる彫刻﹂を拒もうとし、現実の対象に直面しようとしたので
あった。それはまさに過去の作品の記憶の拒否である。彼は﹁終わりもなく、名前も
ないこの海﹂の表面に浮かぶ船を降り、 ﹁現実﹂に戻ろうとしたのだろうか。ところ
で、一九六五年、船を降りパリのアトリエに戻ったジャコメッティは、再び次のように
書くことになる。 ﹁すべての芸術作品と、何であれ直接的な現実との間の開きがあまり
にも大きくなってしまった、そして実際、わたしはもはや現実にしか興味がないのであ
﹂ 。 だが、過去の作品の記憶が﹁不意に﹂想起されるしかないのであれば、そ り [⋮⋮]
コメッティの身振りが意味するものとはいったい何だろうか。
するなら、一九三五年、そしてまた新たに一九六五年、過去をふりほどこうとするジャ
したら、それは再びあの古さとの循環関係を呼び出さずにはいないのではないか。だと
れを実際に拒むことはできないのではないか。それに恣意に陥らない新しさを求めると
*27
178
︿顔﹀を見ること
。彼はその頃作品が極度に縮小するにいたっ 、 ︶
すでに予告的に触れておいたように、一九三五年を境にしてジャコメッティの制作は文 字通りひとつの極点に達していた ︵図
た。そこで再び記憶によって作ろうとした。それはとくにこの間の写生による仕事すべ
ディエゴの頭部像を制作しようと試みた。だがひたすら習作以上の成果は得られなかっ
た経緯を具体的に物語っている。一九三五年から四〇年までのあいだ、彼はひたすら弟
6
てから﹁わたしに残っているものを知るため﹂ であった。頭部像が縮小したのはこの
〈顔〉への応 答
179
5
*28
図 6 《二つの台座の上の小さな胸像》 1940-45 年頃、11.2 6 5.8cm
ときである。また別の回想では、頭部が縮小した理由は次のように語られている。 ﹁モ 図5 1948 年のアトリエ、ブラッサイによる写真
デルがそこにいてポーズを取り、わたしがそれを作る。だがわたしは細部しか見ず、頭
部の全体が見えなかった。そこで、全体が見たかったので、わたしはそれを引き下が
らせた。そしてそれが引き下がるにつれ、彫刻は小さく、小さくなっていった⋮⋮﹂ 。
直接的な現実に向かったジャコメッティであったが、五年間という写生の試みのなかで
たどり着いたのは、再び対象から時間的・空間的に距離を取ることだったのである。彼
はこの五年間習作以上のものは生まれなかったと語っていたが、実際この期間の作品は
ほとんど残されていない。そこで再び対象から距離を取ることで、彼は何を追求してい たのだろうか。
死後刊行されたインタヴューには次のように読める。 ﹁人物像を自然の大きさにする
ことはもはやけっしてできない。カフェにいるとき、わたしは眼の前の歩道を通り過ぎ メルヴェイユー
る人々を見つめる。わたしには彼らが、微細な小像のように、とても小さく見える。そ
*29
れは驚異だと思う。だがわたしには彼らが自然の大きさをしていることが想像できない。
。 対象から距離を取ったこの視 彼らはこの距離から見た現われ方だけになっている﹂ 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
*30
そして最小の関係を与える。すなわち、それがなければその対象は視界から消え去り、
対象に類似した最小限のフォルムである。それは作りうるフォルムと対象との最後の、
う﹂なフォルムに見えるという。十分距離を取ったとき、その最後のフォルムは、その
次元を開く視線である。この距離から見ると、眼の前を通り過ぎる人々は、 ﹁小像のよ
線とは、対象の自然な見え方を拒み、それをまさに﹁小像のように﹂見る、あの類似の
0
180
同時に描かれなかったことになるだろう、絶対的な関係を与えるものであると言える。
この最後のフォルムが﹁細部﹂である。そして描くべきなのは対象との類似を絶対的に
0
与えるこの﹁細部﹂にほかならない。 ﹁細部がわたしの情熱をかき立てる。小さな細部
だ、顔の中の眼や木の上の苔のような。もちろん全体もだ。というのも細部と全体をど 0
0
0
0
0
0
うして区別しえよう﹂ 。なぜなら﹁細部﹂がなければ、そもそも対象それ自体が見えず、 0
0
0
0
0
0
0
ているのは細部にほかならないのだ﹂ 。 そして﹁眼﹂や﹁頭部﹂とは、ジャコメッティ
なかったことになるだろうから。 ﹁全体を作っているのは⋮⋮あるフォルムの美を作っ
0
たのである。
にとって、それさえ作れれば﹁すべて﹂を作ることができるだろう、この﹁細部﹂だっ
*31
したのは、この一点以外ではなかった。この点を見るかぎり、一九三五年以降の制作は、
去の作品から引用することを拒んでなお、対象とのあいだに距離を取りながら彼が追求
は対象との絶対的な類似を与えるひとつのフォルムだろう。その絶対的なフォルムを過
対象と作りうるフォルムとの最後の関係にまで切りつめること。そこで現われるの
*32
0
われわれが前節で見た古いフォルムを引用した制作とほとんど重なるように思える。そ
0
0
0
0
回帰させていたかのようなのだ。
後のフォルムも、やはり古さと新しさの循環に深くとらえられており、古いフォルムを
のうえ、結果として、そこで彼の脳裏に浮かび上がり、彼のヴィジョンに残ったこの最
0
というのも、このことを証すかのように、諸家はジャコメッティの戦後の作品がそれ
〈顔〉への応 答
181
0
自体でもつ古さを口にしているのだ。ミシェル・レリスは﹁ジャコメッティの最近の彫 0
でそっくりそのまま、自分の頭脳の中から取り出したがっているようだ﹂ 。 またジャ
彼自身の発見品にかんしては、ジャコメッティ [⋮⋮]は、足の先から頭のてっぺんま
絶とがひとつになっている。すなわち長い過去の総計であるかのような像の突然の出現。
掘り出すような発見品のなかでは、何千年も前の古代と、時間の目もくらむばかりの断
墟と、風や嵐や灰にもかかわらず、新鮮なまま残った壁画を思わせる何か。考古学者が
刻が帯びている発見品といった様相﹂について次のように書いている。 ﹁ポンペイの廃
0
│
それ
に腐食され、あの風格を、甘美にして過酷
﹁彼の立像たちは、ある過ぎ去った時代に属しているように見える。時間と夜 がこの立像たちを巧みに鍛え上げたのだ
│
ン・ジュネの見事な﹁アルベルト・ジャコメッティのアトリエ﹂には次のように読める。
*33
な、過ぎ去る永遠の風格を与えられた後、発見されたもののように。あるいはさらに、 0
0
0
0
0
0
*34
るのだ。それはけっしてクロノロジックで直線的な継承ではなく、むしろアナクロニッ
作品を見るレリスやジュネの視点において、この折りたたまれた古さが再び生起してい
は、前節で論じたような、新しい仕方でしか得られない古さである。ジャコメッティの
ここでレリスやジュネが同時代の作品であるジャコメッティの彫像に見ている古さ
の制作の炎であり、まったく同時に、歴史の炎であるだろう。
るはずだったというような。/だが、何という炎だろうか!﹂ それはジャコメッティ
それらは炉から出てきた、恐るべき焼成の残滓である。炎が消えた後、こんなものが残
0
182
クで錯綜した回帰である。
しかしわれわれは、一九三五年、そしてそれ以後繰り返し古いフォルムの記憶をあえ
て振り払おうとし、現実の対象へと直面しようとする行為において、ジャコメッティの
制作が、この古さと新しさの循環からはみ出す、もうひとつ別の実践を垣間見せている 0
0
0
0
0
0
0
モデルを前にした制作では
作品を含めアトリエに並べられた数々の制作途中の作品の前をさまよいながら、次々に
作品は修正を重ねられた。また記憶による制作では、三ヶ月以上も前に取り組んでいた
る。いくつかの証言からは、次のことが読み取れる。
│
すら執拗な修正の反復に貫かれていたことは、つとにそのモデルたちの語るところであ
晩年の肖像画および彫像の制作が、写生によるものにせよ記憶によるものにせよ、ひた
冒頭にも述べたが、この作品︽女と頭部︾は、たび重なる修正を経ている。とくに
録となっているように思うのだ。
に直面していたのである。われわれが選んだ作品︽女と頭部︾は、この新たな制作の記
間見られる別の実践において初めて、繰り返し初めて、ジャコメッティは現実の︿顔﹀
がいったい行為としてどのような意味をもっていたのかということだ。そしてここで垣
古さを回帰させたのではなかったか。ここでわれわれが問いたいのは、彼の戦後の制作
たいわけではない。そもそも恣意的な新しさは無力であったし、新しいフォルムこそが
ように思うのである。だがもちろん、そこでまったく新しいフォルムが作られたと言い
0
*35
修正してゆくことが繰り返された。彼にとって顔を描くことはひたすら﹁不可能﹂でし
〈顔〉への応 答
183
0
かなかった。だが彼はその不可能性のただなかでも、 ﹁進んでいる﹂と信じることをや 0
0
0
のはその めなかった。 ﹁わたしは毎日進んでいると思う。ああ! わたしが信じている ことなのだ。それがほとんど目には見えなくても。そして徐々に、わたしは毎日進むの 0
0
0
0
ではなく、たしかに毎時間進んでいるのだと考えるようになっている﹂ 。 モデルたち
0
描かれることの反復であり、結局すべてが失敗に終わる可能性も十分にあった。彼はつ
けっして累積的な﹁進歩﹂ではなかったのだ。制作は文字通り塗りつぶされては新たに
した修正の反復によって作品が徐々に良くなっていくということではなかった。それは
だが彼らの客観的な観察においても、またジャコメッティ自身の意識のなかでも、そう
は、つねに彼の﹁明日にはわかるだろう﹂という言葉を聞き、繰り返しポーズを取った。
*36
。
ねに﹁仕事をするたびごとに、前日の仕事を一時もためらうことなく崩壊させる用意が
│
できている﹂ のだった
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
を読み取りたい。その最大の特徴である修正の跡について考える前に、われわれはまず、
われわれはこの作品︽女と頭部︾から、ジャコメッティの制作を物語る三つの記録
断絶を見過ごしたかのようでさえある。
れていたはずの顔とはほとんど関係がないかに見える。ジャコメッティの修正は、この
見られる顔の修正は、身体とのはっきりとした断絶に見て取れるように、それまで描か
かれるだろう線との関係を度外視しさえしながら繰り返される修正。われわれの作品に
﹁進んでいる﹂と信じながらも、実際には、これまで描かれた線、そしてこれから描
*37
184
顔が消され、背景に塗り込められるようにして描かれた全身像について見よう。ジャコ
メッティの戦後の一連の肖像画を見ると、そのなかにはモデルの顔や全身がほとんど背
景に消え入りそうになっている作品が何枚も存在する。たとえば︽ディエゴ︾︵一九五六、
図 ︶では、モデルの胸から上はほぼ背景にとけ込んでおり、顔や肩の輪郭がかろうじ
て白のハイライトで縁取られているにすぎない。われわれはすでに、対象の﹁細部﹂を
描き出すためにモデルから十分に時間的・空間的な距離を取ろうとするジャコメッティ
の視線について見た。 ︽女と頭部︾において、背景に塗り込められるようにして描かれ
た全身像は、やはりモデルについて描きうる最後のフォルムを見るために、それが背景
図7 《ディエゴ》 1956 年、100 81cm
に消え入ってしまう危険をあえて冒して、モデルとのあいだに限界的な距離を取ろうと
〈顔〉への応 答
185
7
するジャコメッティの眼差しについて物語っている。
第二に、この作品に見られる描線の特質について見ていこう。ここにはもはや幾何
学的抽象の意図は見られない。むしろ、描線は幾何学的フォルムを象るどころか、その
細部に注目すると、対象の表現のためには明らかに過剰な線が残されている。それは
腕先を丸く囲むように描出する曲線や、足先を上下に往復するように表現する折れ線と
いった筆跡に見て取れるだろう。対象をとらえるために前提にしうるフォルムをすべて
放棄し、むしろそのために迂回をするようなこうした過剰な描線は、ジャコメッティが
︶では、モデルをとらえるために迂回を重ねる筆跡の束がその全身を
戦後に描いたデッサンに広く見られる特徴である。たとえば、 ︽座った男︵ディエゴ︶ ︾ ︵一九四九、図 、
9
もった︽自動的なデッサン︾︵図 ︶
に見ることができる。 *38
ならなかったのだ。だがここで﹁外﹂とは、たんに自然的な外部ではなく、 ﹁私﹂には
とであった。すなわち、それは何らかの﹁外﹂からの触発に応答した自動性でなければ
んに意識によって支配されていないだけではなく、ただ偶然的な運動でもないというこ
論を辿ると、シュルレアリスムの基礎をなすこの自動性にとって重要なのは、それがた
よる﹁自動記述﹂の実験である。 ﹃シュルレアリスム宣言﹄などにおけるブルトンの議
れ、シュルレアリスムの始まりを画したアンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポーに
この題名からすぐさま想起されるのは、一九一九年、詩集﹃磁場﹄において試みら
10
覆っている。こうした過剰な描線の純粋な現われを、われわれは一九四三年の日付を
8
186
制御できない﹁他﹂という 意味である。ブルトンはそ の例として、入眠の間際に 不意に到来する言葉につい て語っていた。だが問題は、 意 識 を 逃 れ た 手 の 運 動 が、 つねにそうした﹁外﹂から の触発に応じたものになる とは限らないということで あ っ た。 自 動 性 に と っ て、 エクリチュールやデッサン の過剰さは不可避的だった
図 10 《自動的なデッサン》 1943 年、32.5 24.5cm
のである。 対象のヴォリュームに回 り道をしながら寄り添おう とするかのように、ジャコ
〈顔〉への応 答
187
メッティの過剰な描線は折 り重ねられ、束ねられてゆ
図8 《座った男(ディエゴ) 》 1949 年、64 50cm 図9 《座った男(ディエゴ) 》 (図 8、部分)
サンサシヨン
く。この迂回の道筋の上で、ジャコメッティはあとで﹁感覚﹂と呼ばれることになる現
実のヴィジョンによる触発に、筆先によって応答しようとしていた。彼は、対象をとら
えるために前提としうるあらゆるフォルムを拒みながら、現実のヴィジョンそのものを
まさにその到来において描き止める瞬間を、この迂回した描線の上で待機していたので ある。
実際、この到来するヴィジョンを描こうとする行為の突端において起こること、それ
がまさに、この作品︽女と頭部︾において、全身像と新たに描かれた顔との間に口を開
けた空間に記録されている。われわれは第三に、この作品に残された修正の跡について 考えよう。
ジャコメッティはいつ、それまでに描いた線を消すのだろうか。それはたんに不意
になされるわけではない。彼にとって、すでに描いた線は、それが現実をよりよく見る サンサシヨン
ためでさえあれば、消されてもよいものであった。 ﹁根本的なことを言うと、わたしは
もはや仕事をしている間に感じる感覚のためにしか仕事をしない。もしその後でわたし
がよりよく見るようになれば、つまりもし仕事を離れ、わたしが少し別の現実を見るよ
うになれば、結局のところ、タブローにあまり意味がなく、またそれが壊されたとして サンサシヨン
も、いずれにせよわたしには得るものがあったのだ。わたしは新しい、自分がこれまで
にまったくもっていなかった感覚を得たのだ﹂ 。 現実をよりよく見るとは、 ﹁別の現実﹂
を見ること、現実についてまったく新しい﹁感覚﹂を得ることである。この新しい現実
*39
188
を見るためであれば、それまでに描いてきたものが壊されたとしても、それは問題では ないのである。
一九三五年以降、ジャコメッティは古いフォルムの記憶を拒み、現実の対象に直面し
ようとした。われわれの作品︽女と頭部︾からは、第一に、背景に消え入ってしまう危
険をあえて冒して対象から限界的な距離を取ろうとし、第二に、前提となるフォルムを
すべて放棄しながら過剰な線を残したその制作の記録を読み取ることができた。すでに
述べたように、対象から時間的・空間的に限界的な距離を取ろうとする眼差しの行為と
は、対象との絶対的な類似をその一点でとらえることのできるフォルムの追求であると
言ってよい。 ︽女と頭部︾の全身像からも、われわれはその跡を読み取ることができた。
しかし、さらにそのひとつひとつの描線に寄り添ってみると、それらが必ずしもそうし
た一点を目指した緊密な運動ではなく、むしろ多分に余剰を含んだ過剰な運動を見せて
いることが分かるのだ。ジャコメッティは、たしかに対象との絶対的な類似を作り出そ
うとしていた。しかしそれは、目指すにも目指しようのない、ヴィジョンの到来におい
てとらえられねばならなかったのである。それがいつ到来するのかを言うことはできな
い。それゆえ、それは古いフォルムによってもとらえることができるかどうか分からな
い。その絶対的な到来を待機するために、 ︽女と頭部︾の描線はあのような迂回を必要 としたのだ。
ところが、自然に前提にされる現実はすでに彼の手にはなく、そのうえで現実の見え
〈顔〉への応 答
189
方それ自体が別のものになるのだから、この瞬間の﹁前後﹂をつなぐ現実は存在しない。
その瞬間、現実とそれを見る視覚が、新たに同時に生起するのである。それゆえ、ジャ
コメッティはこの新たな現実を描き止めるために、それまでの迂回の軌跡をためらうこ
となく犠牲にすることができなければならないのだ。われわれの作品には、そのためら いのない修正の跡が生々しく残されているのである。
われわれがこの作品︽女と頭部︾から読み取ることができるのは、ジャコメッティ
がこのように、古さと新しさの循環関係に巻き込まれながら現実の対象の絶対的なフォ
ルムを得ようとすることから制作をさらにラディカルに進め、それを現実の対象それ
自体が視覚に与えられる出来事そのものにおいて描こうとしていたということである。
一九三五年以降、前提としうるあらゆるフォルムを拒み、繰り返し現実に直面しようと
したジャコメッティが取り憑かれていたのは、まさにこのヴィジョンの到来という視覚
の出来事だったのである。それは、絶対的な類似を求めるかぎり、どれだけ新しいフォ
ルムを創造しようとしても回帰してしまう古さとの循環関係それ自体を、あるときすべ て犠牲にすることを求める絶対的な出来事である。
0
ジャコメッティは、なぜ制作を再開するのかと問われ、 ﹁それはもはやわたしが物に
対してもつヴィジョンを実現するためではなく、それがなぜ失敗するのかを理解するた 0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
め﹂ であるとさえ答えている。いざこれまでの制作のすべてを犠牲にする決断がなさ *40
れたとしても、別の仕方で与えられる新たな現実を実際に見るようになる保証などどこ
0
190
にもないのだ。したがって修正は、不可避的に盲目的な跳躍となる。だが制作は繰り返
し再開された。われわれの作品には、この跳躍が繰り返された痕跡が、修正の層の堆積
として残されているからである。ジャコメッティは繰り返し盲目になったにちがいない。
われわれがこの反復の行為から、保証の不在にもかかわらず棄てられることのなかった
現実を見ることへの盲目的な確信を読み取るとしたら、それは飛躍にすぎないだろうか。
それは繰り返される修正のただなかでも﹁進んでいる﹂と﹁信じる﹂ことをやめず、た
えず﹁明日にはわかるだろう﹂と口にし続けたジャコメッティの確信である。しかしこ
の確信だけが、盲目的な跳躍を繰り返すその制作の実践を許すことができたにちがいな い。それは何の確証もない、ジャコメッティ自身の確信である。
われわれは、作品︽女と頭部︾に残された身体像と顔との間の空間に、この盲目的
な跳躍としての修正の跡を見ることができる。そこで描き直された︿顔﹀とは、まさに
ジャコメッティがこの確信の下に見つめ、そして描こうとし続けたものだったのである。
すなわち︿顔﹀とは、彼にとって、ヴィジョンの到来という視覚の出来事においてよう
やく見ることができ、また見なければならない特異な存在であり続けていたのだ。ジャ
コメッティは語ったという。 ﹁私は顔を描いてはならない。顔そのものがやって来なけ
ればならないのだ﹂ 。 彼にとっては、この到来を迎え入れることこそが、 ︿顔﹀を描く
ことでなければならなかった。そして、現実の対象を描こうとするジャコメッティを駆
り立ててその制作をさらにラディカルに進めさせ、ヴィジョンの到来という出来事その
〈顔〉への応 答
191
*41
ものをとらえようとするところにまで赴かせたもの、われわれはそれをこの︿顔﹀の要
求と呼ぶことができるだろう。彼はその必要性を自問しながらも、 ︿顔﹀を描くという
欲望に深く取り憑かれ、 ︿顔﹀に幻惑させられながら、まさにその制作の軌跡を残して
いっていたのだ。 ︿顔﹀とは、そこで﹁未知のしるし﹂として輝きながら、いつも新た
に見られることを求めている。 それは新たに見られるために、見ることを犠牲にして
た。ジャコメッティのこの作品は、 ︿顔﹀のこの途方もない要求への応答の記録であり、
求である。そしてそれこそが、ジャコメッティにそのつど制作を再開させるものであっ
なお見ることを﹁信じる﹂ことを要求する。 ︿顔﹀の要求とは、この限界的な確信の要
*42
Ibid., p. 289︵.同書、四三三頁︶ Yves Bonnefoy, Alberto Giacometti: Biographie d’une œuvre, Paris: Flammarion, 1991, p. 68.
以下翻訳は必要に応じて変更した。
﹃エクリ﹄ 、矢内原伊作・宇佐見英治・吉田加南子訳、みすず書房、一九九四年、三九三│三九四頁︶強調引用者。
Alberto Giacometti, Ecrits, présentés par Michel Leiris et Jacques Dupin, préparés par Mary Lisa Palmer et François Chaussende, Paris: Hermann, 1990, p. 263︵.アルベルト・ジャコメッティ
それゆえそれは、ジャコメッティの制作の軌跡そのものを記録する、一枚の自画像で あった。
1 2 3
192
ト、一九九三年、六六頁︶
│
︵イヴ・ボヌフォワ﹃ジャコメッティ作品集
彫刻・絵画・オブジェ・デッサン・石版画﹄ 、清水茂訳、リブロポー
Giacometti, Ecrits, p. 288︵.ジャコメッティ、前掲書、四三一│四三二頁︶ Ibid., pp. 38-39︵.同書、九二│ 九三頁︶強調引用者。
細部同士が必要な関係性を保ち、弁証法的に全体を構成するという課題は、まさにこの問題を
抱えていた一九二四年頃に書かれたメモに読み取れる。 Ibid., p. 114 ︵同書、一九一頁︶また同 . 同書、一八九頁︶も参照。 じ年に書かれた別のメモ ︵ Ibid., p. 112.
ユ = ベルマンによる引用の出典は、 D.
Ibid., p. 39︵.同書、九三頁︶ Georges Didi-Huberman, Le Cube et le visage: Autour d’une sculpture d’Alberto Giacometti, │ キューブと顔﹄、石 = ベルマン﹃ジャコメッティ Paris: Macula, 1993, p. 31︵.ジョルジュ・ディディ ユ
井直志訳、リブロポート、一九九五年、三〇 │三一頁︶ディディ
である。 Marquis Sébie, Le Message de Bourdelle, Paris: L’Artisan du Livre, 1931 Ibid., p. 32, note 3︵.同書、二七四頁、註二九︶強調引用者。
可能性はしばしば指摘されている。だがこのラディカルな幾何学化は、単純にブールデルの属
周知のように、そもそもキュビスム自体、その誕生においてアフリカ美術の影響を受けていた
する伝統に対するアンチ・テーゼと見なすわけにはいかない。それはつとにディディ ユ = ベル
マンの指摘するところである。というのもブールデルによる描画法は、対象の﹁多角形還元﹂
の手法に関わるものであるが、それは﹁プロポーションというきわめて古い問題﹂であり、伝
統的に問われてきたものだからである。その問題は、すでに一六世紀の芸術家たち︵とくに
デューラー︶がデッサンの理論書において﹁ ﹃キュビスム﹄を思わせる驚くべき形象によって表
同書、三二│三四頁︶ 。ラディカルな幾何学化は芸術に取り憑いた 現﹂している ︵ Ibid., pp. 35, 38-39.
同書、三四頁︶されるものなのではないだろうか。 ある根源的な契機として﹁想起﹂︵ Ibid., p. 35.
Rosalind Krauss, “No More Play,” The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist
〈顔〉への応 答
193
4 5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26
Myths, Cambridge, Mass.: MIT Press, 1985, p.48︵.ロザリンド・クラウス﹁ノー・モア・プレイ﹂、﹃オ リジナリティと反復﹄ 、小西信之訳、リブロポート、一九九四年、四八頁︶
Giacometti, Ecrits, p. 41︵.ジャコメッティ、前掲書、九五│九六頁︶ Ibid., pp. 39-41︵.同書、九三│ 九六頁︶ Ibid., pp. 41-42︵.同書、九六頁︶
体の構造を理解するだけのために、一つか二つの写生による習作を︵わたしが考えたところで
﹁それからわたしはいくつかの人物による構成を作りたいと思った。それには、頭部や身体全
真実の外で
│
記憶で作った﹂︵ Ibid., p. 271. 。 同書、四〇七頁︶
は、素早く、ついでに︶する必要があった [⋮⋮] ﹂︵ Ibid., p. 43. 。 同書、九七頁︶
│
Ibid., p. 263︵.同書、三九四頁︶
﹁わたしは十年間
Ibid., p. 264︵.同書、三九五頁︶ Ibid., p. 272︵.同書、四〇八頁︶強調引用者。 ︵同書、同頁︶強調引用者。 Ibid. Ibid., p. 273︵.同書、四〇九頁︶ Ibid., p. 44︵.同書、九八頁︶ Ibid., p. 273︵.同書、四〇九│四一〇頁︶強調引用者。
製によって、わたしをことに感動させ、熱中させ、興味を引くあらゆる芸術作品を模写したい
﹁つねにわたしは、たしかにさまざまな動機から、オリジナルによって、しかしほとんどは複
という願望、欲望、また模写することの悦びを感じていた。わたしはなぜ模写するのかを考え 。 同書、一七一頁︶ る前にすでに模写し始めていた﹂︵ Ibid,. p. 98.
Ibid., p. 241︵.同書、三六二頁︶強調引用者。 Ibid., pp. 95-96︵.同書、一六五│一六八頁︶一九六五年一〇月四日、一八日、そして一一月三〇
日という三つの日付をもち、一部は大西洋の横断中に船上で書かれたこのエッセイにかんして
194
は本来ならば全文を引用すべきだが、とくに次の箇所を見よう。
﹁ここに複製された模写は、とくにオリジナルから小さな写生帖に模写したものについては
その多くが失われてしまったわたしの模写のうち、ごくわずかな部分にすぎない、と不意に、
ローマのボルゲーゼ美術館でその日最大の発見の一枚であったルーベンスを模写しているわた
しを見る、だがその同じ瞬間、わたしの全過去のなかに同時にいるわたしを見る。つまり、ス
タンパで、窓の近く、一九一四年頃ある日本の版画の模写に夢中になっている、わたしはその
細部のすべてを描写できよう、そして一五年、デューラー、そしてレンブラントの全版画、さ
らに一枚のピントゥリッキオが浮かび上がり、システィーナ礼拝堂にあるクワトロチェントの
画家のあらゆるフレスコ、だがわたしはまた、四〇年後、夜パリのアトリエに戻り、本をめく
りながらこれこれのエジプト彫刻やカロリング朝のミニアチュール、またマチスをも模写して
いるわたしを見る。こうしたすべてをどのように語ればよいのか。過去の、あらゆる時代の、
あらゆる文明の芸術がわたしの前に浮かび上がり、あたかも空間が時間に取って代わったかの
ように、すべては同時である。当惑してわたしは立ち止まる。語るべきことが多すぎる。どう
やって語ればよいのか。芸術作品の思い出は、感情的な思い出と、わたし自身の仕事と、わた 。 同書、一六五│一六七頁︶ し自身の全人生とに混ざり合う﹂︵ Ibid., p. 95.
Ibid., p. 98︵.同書、一七二頁︶ Ibid., p. 43︵.同書、九八頁︶ Ibid., p. 283︵.同書、四二三│四二四頁︶ Ibid., p. 289︵.同書、四三四頁︶強調引用者。 Ibid., p. 274︵.同書、四一一頁︶強調引用者。
部を﹃作る﹄ことができるなら、あとのすべては作れるだろうからだ。頭部が作れなければ、
﹁わたしは風景を描きたいと思うが、結局はさしあたって頭部に帰ってしまう。というのも頭
。 ﹁このすべてを彫刻するには、 同書、四〇四頁︶ 何も作れない、とにかくわたしには﹂︵ Ibid., p. 270.
195
〈顔〉への応 答
27 28 29 30 31 32
33 34 35 36 37 38 39 40 41 42
眼が彫刻できさえすれば十分だろう﹂︵ Ibid. 。 同書、四〇五頁︶
Michel Leiris, “Pierres pour un Alberto Giacometti,” Brisées, Paris: Gallimard, 1992, p. 174.
︵ミシェル・レリス﹁アルベルト・ジャコメッティのような人物のためのいくつかの石﹂ 、 ﹃ピカソ ジャコメッティ 、岡谷公二編訳、人文書院、一九九九年、一三五頁︶ ベイコン﹄
Jean Genet, “L’Atelier d’Alberto Giacometti,” Œuvres complètes, tome V, Paris: Gallimard, 1979, pp. 55-56︵. ジ ャ ン・ジ ュ ネ﹃ ア ル ベ ルト・ジ ャ コ メ ッ テ ィ の ア ト リ エ ﹄、 鵜 飼 哲 訳、 現 代 企 画 室、一九九九年、二八頁︶
とくに、矢内原伊作﹃ジャコメッティ﹄ 、宇佐見英治・武田昭彦編、みすず書房、一九九六年、
︵ジェイムズ・ James Lord, A Giacometti Portrait, New York: The Museum of Modern Art, 1965
ロード﹃ジャコメッティの肖像﹄ 、関口浩訳、みすず書房、二〇〇三年︶を参照した。
Giacometti, Ecrits, p. 268︵.ジャコメッティ、前掲書、四〇一頁︶強調引用者。 Ibid., p. 275︵.同書、四一三頁︶強調引用者。 この題名は次の展覧会カタログに見られる。 Cat. exp., Alberto Giacometti, The Museum of Modern Art, New York; Kunsthaus Zürich, 2001. Giacometti, Ecrits, p. 275︵.ジャコメッティ、前掲書、四一三頁︶ Ibid., p. 284︵.同書、四二五頁︶強調引用者。
矢内原伊作﹃ジャコメッティとともに﹄ 、筑摩書房、一九六九年、一九二頁。
﹁なぜわたしは顔を描く必要、そう、必要があるのか。なぜわたしは⋮⋮ どういったらいい
か⋮⋮ 人々の顔に、それもずっと、ほとんど幻惑させられているのだろうか⋮⋮ 未知の しるしのように、あたかも一目見ただけでは見えない何か見るべきものでもあるかのように。
。 ︵ ジャコメッティ、前掲書、三九二│三九三頁︶ え? いったいなぜだろうか﹂ Giacometti, Ecrits, p. 262.
196
肖像画と顔の﹁動き﹂ │
大原宣久
フランシス・ベイコン︽イザベル・ロースソーンの習作︾
一九〇九年に生まれ、二〇世紀なかばの抽象芸術隆盛の時代に画壇に登場しながら、い
かなる流派にも属さずに、極度にデフォルメされた奇怪な人物像を描くという独自の表
現方法をとりつづけたイギリス出身の画家、フランシス・ベイコンの絵画からは、一見
したところ、モデルの極端な変形に︵たとえば、歯をむきだしにして引きつったような
叫びをあげる人物をベイコンはしばしば描く︶ 、あるいはそのフォルムをひと筆で描き
きってしまうかのような速度を感じさせる筆づかいに、ときに鮮烈な赤に代表される激
しくあざやかな色あいもあいまって、ほかに比類のない力を、いうなれば、モデルに対
する、あるいは現実に対する一種の暴力性を見出すことができる。とはいえ、ベイコン
が行なっているのは写実性、肖像性の破壊だけではない。たしかに、彼は顔がそれと同
定できないほどゆがめられた絵画を数多く描いてはいるものの、その一方で、この画家
あるいは、写実とは別種のあらたな類似性が獲得され
が拘泥しつづけた絵画の一ジャンルである肖像画においては、モデルとの類似性がぎり
│
ように見えないだろうか。だとすると、その際の画家の意図はどこにあり、
ぎりのところで保たれている
│
ている
またその類似性はどこからきているのか、探っていくことにしよう。
二人の画家
まずは、おおまかにこの画家の歩みを振りかえってみることも無駄ではない。とりわけ
198
本論の主題である﹁顔﹂に焦点をあてるときにまず注目すべき事実は、本格的に画業に
取り組みだした一九四〇年代には、人物の顔を題材としてクローズアップすることの少
なかった画家ベイコンが、一九五〇年代になってから突如としてある人物像、肖像を繰
︶だ。
りかえし描くようになったということである。きっかけになったのは一枚の作品、ベラ スケスが一七世紀に描いた肖像画、 ︽法王インノケンティウス一〇世︾︵一六五〇、図
当時この作品を目にして感銘を受けたベイコンは、一九五〇年代初頭から六〇年代前半
肖像 画と顔の「動き」
199
にいたるまで、この法王のパロディ的な作品群を描きつづけることになるのである。
*1
1
だが、そもそもいったい、ベラスケスの法王のなにがベイコンにそれほどの感銘をあた えたというのか。
図1 ベラスケス 《法王インノケンティウス 10 世》 1650 年
ベラスケス後期のこの作品は、一見モデルの顔が忠実に再現されているように見えるけ
れども、実のところ、緻密なタッチではっきりと表情が描かれているわけではなく、当
時の肖像画としては破格といえるほど、むしろぼやけたような自由奔放な筆致がもちい
られている。とくに顔の光の反射をあらわした白い部分、ブラウンをもちいてひげを描
いた部分などでは絵の具そのものの物質性を強く意識させるほどだ。それでいて、ゴツ
顔の中心に向
ゴツとした陰影︵眉間や頬、あごに注目したい︶ 、鮮烈な赤で真一文字にきつく結ばれ
│
た口、さらには正面を見すえたモデルの視線や峻厳さをたたえた表情
かって各部位が収縮するかのように、気難しげにしわを寄せた眉毛のラインと口ひげの
字型に交叉し、その中心軸たる鼻は手前に向かって突き出
から、見る者はモデルの異様な存在感にいやおうなく直面させられる。
ラインが鼻を中心にして
│
る。たとえばそのひとつ、 ︽法王Ⅱ︾︵一九五一、図
︶で
というよ
︶や︽座った人物︾︵一九五五、図
│
のみである。また、ベラスケスの法王が黒い背景のなかから
描かれた法王からは表情がほとんど消えさり、目もつぶれ、残ったのは口
3
を呼びおこす﹁叫び﹂と、ある種の静謐さが奇妙に同居しているのだ。だが、エイゼン
まとった法衣の紫からして背景と溶けあい、引きこもった印象をあたえる。不安な感情
鮮やかな赤い服をまとってぬっと浮かびあがってくるのに対し、ベイコンの法王は身に
りも歯、あるいは叫び
│
2
そのまま借用しているものの、見る者に著しく異なった印象をあたえる作品となってい
それに対し、ベイコンが繰りかえし描いた一連のパロディは、構図こそベラスケスを
してくる
X
200
シュテインの映画﹃戦艦ポチョムキン﹄やプッサンの絵画︽嬰児虐殺︾に登場する﹁叫
び﹂に惹かれてベイコンがテーマ化したこの﹁叫び﹂という主題を、法王のパロディの なかに描いたということはどういった意味をもつのだろう。
図3 《座った人物》 1955 年
ベ イ コ ン の イ ン タ ヴ ュ ー 集 を 参 照 し て み て も、 イ ン タ ヴ ュ ア ー で あ る デ イ ヴ ィ ッ
ド・シルヴェスターによる、なぜ法王の絵を選んだのかという問いに対し、ベイコン
は、一九六二年のインタヴューで﹁あの絵は歴史上、最高の肖像画だと思ったからで す﹂ ﹁あの絵の崇高な色に惹かれたのだと思います﹂ と、 ︽法王︾に対する入れこみようが伝わってくるだ けで、説明としては不明瞭な答えかたをしているに
肖像 画と顔の「動き」
201
*2 図2 《法王Ⅱ》 1951 年
すぎない。ただし、このときのインタヴューの終わりのほうで、ベイコンはベラスケス
の絵画を自らがめざすべき﹁写実主義的でありながら、そこから逸脱している絵﹂ で
した動機について、 ﹁あの絵の記録、ゆがんだ記録を残そうとがんばったのです﹂ と
あると定義しており、一九六六年のインタヴューになると、 ︽法王︾のパロディを制作
*3
に生まれたものなのである。
のだが、それはいわばベラスケスに見られた現実への変容を極端におしすすめたはて
あげる法王は、たしかに写実的に描かれた人物とはほど遠いところまできてしまった
あったのだ。ベイコンの描いた非人間的な顔の持ち主たる法王、視覚を奪われ叫びを
を導入したのだといえるのではないか。すくなくとも画家の意図はそういうところに
にこそベイコンは惹かれ、そういったゆがみのしるしとして法王の絵のなかに﹁叫び﹂
説明をするようになる。ということは、ベラスケスにおける写実からの逸脱、ゆがみ
*4
頃、図 ︶を以下のように説明しているのは興味深い。
のを見出すべきだろう。ベイコン本人がドガのパステル画︽湯浴みの後︾︵一八八八
九 ―二
ベイコンにおけるこのような﹁叫び﹂への執着には、彼の肉や骨への執着と同種のも
*5
気づきます。背骨が自然に首までつながっているように描かれていれば、このような
ゆがんだ印象をあたえるので、見る者は身体のほかの部分もバランスが危ういことに
女性の背骨の最上部は皮膚から飛びださんばかりなんですよ。この背骨が人目を惹き、
4
202
ことはありません。ところがドガはそうは描かず、できた絵は背骨が肉から突き出て
いるように見えます。[⋮⋮]見る側は不意に背骨を意識すると同時に、普通ならそれ を覆っているように描かれる肉にも注意を向けるのです。
ベイコンがドガに見た、人間のからだの表皮の内側をあばこうとする運動、そしてそれ
によって獲得されるなにがしかの身体性をベイコンは好んだのである。たとえば、ドガ
に類似したやりかたとして、ベイコンは身体を屈曲させた人物を、場合によっては奇形
それが実際
肖像 画と顔の「動き」
203
的にゆがんだ、現実にはありえない関節の動きをしたような人物をもさかんに描いてい
│
図5 《室内の二人の人物》 1959 年
*6
る ︵︽室内の二人の人物︾、一九五九、図 ︶ 。このような身体の極度のねじりに
図4 エドガー・ドガ 《湯浴みの後》 1888-92 年頃
5
ベイコンの絵画を見る者は、人間の関節の動きという普段なら意識せざる不思議さ
にはおこりえないほどのものであっても、場合によってはそうであるがゆえにいっそう
│
︶などのように、しばしば肉屋の
に、あるいはその魅力に直面させられることになるのだ。 また、ベイコンは︽ペインティング︾︵一九四六、図
を意識させもするのである。
そ
常から逸脱してものを描くといっても、ベイコンの場合けっして抽象芸術に入りこむの
化効果をもちうるのである。ただし、この異化効果をもちうる要因のひとつとして、日
い経験ともなりうる。つまり、ベイコンの絵画を見るということは、日常への強烈な異
によって慣習的だった自分の感覚を意識せざるをえなくなり、身体の活動がなまなまし
そこに描かれたものはたしかに現実の世界とは異なったものではあるが、見る者はそれ
﹁肉性﹂の意識化などである。ベイコンは日常の身体感覚を異様なものにゆがめて描く。
た表情を崩壊させる﹁叫び﹂ 、直立不動の状態を突きくずす関節のねじれ、表皮の下の
とっての日常の固着した状態からの逸脱が問題となっているのだ。すなわち、つくろっ
肉や骨を好んで描いていることと類似した意図が見出せる。いずれの場合も、人間に
そして、先に述べたベイコンが﹁叫び﹂に執着していることにも、彼が身体のゆがみ、
う気にさえなってくる
│
もそもベイコンの絵画で吊るされているのはもしかしたら人間の肉なのではないかとい
ことで、獣肉と人間との、普段ならば忘却しているなんとも居心地の悪い近しさ
│
店先で見られるような枝肉を登場させてもいるが、このように枝肉を人物像と並置する
6
204
ではなく、あくまで人間を描くことに固執したこと、あくまで人間の感覚に近いところ
にとどまったということには留意したい︵この点については、のちほど再度論じるこ
とにしよう︶ 。さらに、ベイコンが人間の静的な状態、固着した状態ではなく、ゆがみ、
ねじれというある種の動的な状態を描きつづけていることも、ここでひとまず指摘して おこう。
失敗作
肖像 画と顔の「動き」
205
ところで、ベイコンによるパロディたる前述の法王シリーズについて、驚くべきことに
図6 《ペインティング》 1946 年
ベイコン本人はこのシリーズ全体をまったくの失敗作だと考えているようである。 ﹁完 と。
全な失敗でした。いまでは後悔しています。愚かなことをしたものです。[⋮⋮]あの絵 [ベラスケスの︽法王︾ ]は完璧で、手を加える余地などなかったのです﹂
に多用するようになり、いわば色彩を失っていたということがあげられる。五〇年代に
いを好んでいたそれまでの作品から一転して、黒を基調としたおだやかな色調を背景
かびあがってくる。ひとつはこのシリーズを制作していた一九五〇年代、強烈な色づか
ヴューを参照しつつ、彼の作品の変遷をたどることで、すくなくともふたつの原因が浮
が、なぜベイコンがそこまで自らの作品を否定するのかは一考に値する問題だ。インタ
画家本人によるこうした評価をわたしたちが共有する必要はもちろんないわけだ
*7
︶や︽座った人物︾︵図 ︶を、四〇年代の作品
3
︶と比較してみれば一目瞭然だろう。モデルとなっているはず
描かれた法王のパロディ、 ︽法王Ⅱ︾︵図 ︽ペインティング︾︵図
2
と、理論をこばむような答えか *8
たをしているだけで、当時の真意を探るのは困難ではある。実際のところ、このような
﹁暗い絵に飽きただけです﹂ 技法をやめたのかと問われれば︶
を使わず暗くしたほうがずっと絵が強烈になる気がしていたのです﹂ 、︵ではなぜそういった
ベイコン本人は一九六二年のインタヴューに際し、 ﹁その時期 [五〇年代] 、背景には色
暗色が支配する作品となっているのである。
郭がわずかに白く描かれているだけで、衣装の紫色も背景と溶けあっており、全面的に
の人物、法王は画面全体のうちでわずかな面積をしめているにすぎず、またその顔の輪
6
206
暗い背景の絵が﹁強烈﹂な印象をあたえるかというとかなり疑わしくも思われるが、い
ずれにしてもベイコンにとってこの時期は、刺激的な色づかいで、形象もこまごまと描
きこんでいた四〇年代までのやりかたをいったん捨てて、ごくかぎられた色をもちい、
モデルの形象もひどくぼかして描くという、禁欲的な試みをした十年間だったといえよ
う。そうして生まれた深い陰影にわたしたちは、乗りこえられるべき一時期のものとし
て当時の作品を否定的にとらえるベイコンの判断とは裏腹に、それ以前の作品にもそれ
以後の作品にも見られない静謐さ、そこからくる一種の高貴さを感じることもできる。
とはいえ、画家にとっては、振りかえってみるとこの期間には不満の残るものしか
描けなかったのである。当時の色彩に関する不満は、一九七一・七三年のインタヴュー における次の一節でうまく語られている。
法王が叫ぶ絵は、あんなふうにはしたくなかったのです。口の色やなにかを美しく
描き、モネの日没のようにしたかったのであって、法王が叫ぶ様子を描きたかったわ
けではないのです。絶対にしたくないことですが、万が一、もう一度描くことがあれ
ば、モネのように描くでしょう。[シルヴェスターの質問﹁口腔も黒ではなく⋮⋮﹂に対して]ええ、 黒ではありません。
モネの描いた太陽といえば、半熟卵のように茫洋としたかたちをした赤い色が思いう
肖像 画と顔の「動き」
207
*9
かぶ ︵︽印象、日の出︾、一八七三、図 ︶ 。そのような揺らぎをもった赤で口のなかを描きたい
ティウス一〇世という特定の人物をモデルにした作品を描きながら、それと同定できぬ
そうであったあまりに、ベイコンはパロディを制作するにあたって、法王インノケン
における﹁ゆがんだ記録﹂ 、写実からの逸脱にこそ惹かれたのではないかと推測したが、
られる理由をあげておこう。さきほど、ベイコンの発言をもとに彼はベラスケスの法王
だがその前にもうひとつ、ベイコンが法王のパロディを失敗作だと断定するのに考え
むことになる。
である。だから、色彩を渇望したベイコンは暗色の絵画から離れ、次の段階へとすす
赤も念頭にあるだろう。だがそのようには描かなかったことをベイコンは悔悟するの
という願い。そこには、黒い背景から浮かびあがるベラスケスの法王がまとっていた
7
︶を見てほしい。はっきりとした輪郭を失い、叫んでいると
ほどまでにモデル自体から逸脱してしまったのではないか。もういちど、 ︽法王Ⅱ︾︵図 ︶や︽座った人物︾︵図
3
ン自身が﹁似せるつもりがないなら、肖像画を描く意味がありません﹂ と述べている
作品は、肖像画としての境界を越えてしまっているといえまいか。というのも、ベイコ
いうこと以外には表情をうかがうことも、顔の各部位を見つけることも困難なこれらの
2
品を見ただけで︵ベイコンやベラスケスに関する知識なしで︶ 、これが法王インノケン
くなくともモデルに似せようという意志をもって描くものだ。それなのに、これらの作
ように、肖像画とは定義上、作品を見る者に対してモデルがだれだかわかるように、す
*10
208
ティウス一〇世を描いたものだとわかるものはほとんどいるまい。
このことは、一九六〇年代に入ってからベイコンのなかでわきあがってきた、具体
的なもの、とりわけ人物を描きたいという願望に反することである。一九六二年のイ
ンタヴューにおいて、これまでに扱った宗教的なテーマは十字架にかけられたキリスト
と﹁悲劇の主人公のように玉座に座らされ﹂た法王のふたりだけであることを指摘され、
さらに﹁そういう特殊で悲劇的といってもいい立場がもっている雰囲気こそ、あなたが
いちばん求めているものではありませんか﹂とシルヴェスターに聞かれたベイコンは、
﹁そうは思いませんね。とくに最近は、もっと具体的なものを求めるようになりました。
姿かたちを記録したいんです﹂ と答えている。具体的なもの、特定の人物をモデルに
肖像 画と顔の「動き」
209
*11
図7 クロード・モネ 《印象、日の出》 1873 年
することではじめて描きたいという明確なイメージを得ることができる︵ベイコンが抽
象絵画を嫌悪する理由もここにある︶ 。そして、そのことによってはじめて、さらにそ
れを突拍子もないイメージに作りかえることが可能になるのだが、イメージを変形する
際にも﹁きわめて非合理な描きかたでどれほどモデルに似せることができるか﹂という
ことばかりベイコンは考えているのだという。こうした文脈のなかで、写実主義的であ
りながらそこから逸脱している画家、そのことで﹁人間の最も奥深くにある非常に重要
な感覚を解放する﹂神秘的な画家としてベラスケスの名があげられるのだ。 だからこ
考えることができる。すでに述べたように、初期においてベイコンは背景に赤やオレン
以上のような意味において、一九六二年ごろをベイコン絵画におけるひとつの転換点と
具象と抽象とのあいだの形象
なところにありそうだ。
欠如を感じずにはいられないのである。法王シリーズを失敗作だと断言する根拠はこん
そこにはシルヴェスターのいうような﹁悲劇的な雰囲気﹂しかなく、具体性、肖像性の
そ、この時点になってから自らの行なったベラスケスのパロディを振りかえってみると、
*12
︶や︽磔刑の下の人物三習作︾︵一九四四、図 ︶のように。それが
ジを多用していたが、オブジェの形象も比較的鮮明に、しかも細かく描きこんでいた。 ︽ペインティング︾︵図
6
8
210
一 九 五 〇 年 前 後 に な る と、 背景にもっと穏やかで暗い 色調をもちいるようになり、 それにともなって形象も不 明瞭でぼかされたものにな
図9 《二人の人物》 1953 年
︶や︽座った人物︾
︶の よ
いる場面を描いた︽二人の 人物︾︵一九五三、図
い絵に飽き﹂ 、もっと具体
時 期 の 特 徴 だ。 さ て、 ﹁暗
下に走っている作品もこの
うに、カーテン状の筋が上
うなものもある。後者のよ
9
的なもの、特定の人物を描
図8 《磔刑の下の人物三習作》 1944 年
る。法王シリーズの︽法王 ︾︵図 ︶に し て も そ う だ し、
2
ふたりの男がセックスして
︵図
Ⅱ
きたいという願望をかかえ
肖像 画と顔の「動き」
211
3
たベイコンはどんな絵を描くようになったのだろうか。
二〇〇四年にパリのマイヨール美術館で開かれたベイコンの回顧展での展示方法は、
この一九六〇年代前半までとそれ以後という分岐をはっきりと意識させるものになって
いた。というのも、この企画展は当美術館の一階と二階にわかれて展示されており、そ
の分類がおおまかにいって、暗いトーンを基調にしていた﹁第二期﹂ベイコンとその後
の﹁第三期﹂ベイコンとの境界に対応していたのである。 階段をのぼって二階の展示
、 ︽裸体像と鏡 えさせられもした。 ︽イザベル・ロースソーンの習作︾︵一九六六、口絵 ︶
ていたのだ。そして、さらには﹁ひとが描かれている﹂というはっきりした感覚をおぼ
室へ入っていくと、そこでは暗く沈んでいた世界から一転して、色の洪水が待ちかまえ
*13
、 ︽トリプティク に映った人物の習作︾︵一九六九、図 ︶ 人体の習作︾︵一九七〇、図 ︶な どである。これらの作品からは、エンジに近い色からグラデーションのかかったピンク
7
11
じるものがある。
法王の紅潮した顔と、それに共鳴するかのような赤い法衣がおびていたエネルギーに通
傷が想起させる痛々しさを見る者に感じさせもするのだ。そこにはベラスケスの描いた
つまり、生のエネルギーとなるものがもつ原色の美をあらわしているのと同時に、血や
在の、生きる証でありながら死の象徴にもなりうる両義性を強烈にアピールしている。
だのところどころから吹き出たように見える赤。血潮を思わせるこの赤は、血という存
まで違いはあるが、バックを飾る赤がまず目に入ってくる。それから、人物の顔やから
10
212
︽イザベル・ロースソーン の習作︾を例にとり、その 色づかいを分析してみよう。 背景に使われた一色塗りの 赤茶色。目、鼻、口といっ た顔の各器官のラインを描 くため、および顔の陰影や 髪をあらわすのにもちいら れた黒、顔の地の部分にも ちいられた赤と白、そして それらが混ざりあってでき
図 11 《トリプティク 人体の習作》 1970 年
たグレー。一見したところ 不気味な表情で見る者に対 峙してくるこの絵画が、よ く見てみれば以上であげら れたわずかな色のみで描か
肖像 画と顔の「動き」
213
れていることに驚かされる。 そして、このゆがめられ
図 10 《裸体像と鏡に映った人物の習作》 1969 年
│
たモデルの存在が
│
あたりまえといえばあたりまえのことなのだが
近寄って見れ
ば、絵の具のマチエール自体の存在によるものだと気づかされる。つまり、目や口の周
辺に見られる網目状の赤はおそらく布などでこすったりぼかしたりする技法 によって
塗られているし、 顔の地の部分にもちいられた白、たとえば左側の目の脇から鼻の下
す﹂ と語っているが、彼の試みは写真のイマージュを破壊し、見る者の感覚を具象絵
ているだけでなく、写真や映像による経験というフィルターを通して見てもいるわけで
写真や映像にさらされています。だからわたしたちがなにかを見るとき、それを直接見
からは、もはや退屈なだけで意味のないものだ。ベイコン自身、 ﹁人間の視覚はいつも
画は、とりわけ現実を忠実に写しとるという機能をそなえた写真というものが誕生して
なクリシェでありつづけた。ベイコンにとって自然主義的リアリズム、表象としての絵
はルネサンス以降の西洋絵画において現実の再現という役割をになわされ、それは強力
こうした技法は、第一に具象絵画への反抗である。ベイコンにいわせれば、具象絵画
の力によってモデルはなりたっているのである。
れはすでに五〇年代の﹁第二期﹂から見られた現象である︶ 。いわば、筆の速度と偶然
る作品とは対照的に、ある程度の偶然にまかせたタッチでどこも塗られているのだ︵こ
が想像される。細部を描きこんでいた一九四〇年代の、ベイコン﹁第一期﹂に分類され
あたりまでのびている部分は、大きめの筆か刷毛をもちいてひと筆で一気に描いたこと
*14
画のクリシェから解放することをめざすのである。
*15
214
そうはいっても、ベイコンは具象を完全にすてて抽象へと向かうわけではないのだ。
彼は、抽象画は具象のクリシェからは逃れられても、具体的な物事、オブジェを描き、
記録しようとすることなしに﹁ひとつのレベルにとどまっていて、パターンや形態の美
しさにしか目を向けない﹂ものであり、その結果﹁そのような表現は弱すぎてなにも伝
えられない﹂ と批判する。いささか分析的になるが、そこで選ばれた、前述のように
偶然にまかせたアンフォルメルのようなタッチ、アクション・ペインティングじみた所
作︵実際、ベイコンはキャンバスに向かって絵の具を投げつけることもあるという︶
は、たしかにベイコンの批判する抽象芸術の描きかたとは正反対のものだ。ジル・ドゥ
ルーズは﹃感覚の論理﹄のなかでベイコンの抽象画批判を厳密に分析しているが、それ
によれば、第一に、モンドリアンのような抽象芸術における、絵画を視覚的な﹁コー
ド﹂とする試み、筆をもつ画家の手が目に従属する描きかたは、具象絵画的な現実の再
現というクリシェからはのがれられても、必然的に﹁[そのコードは]脳髄的で、感覚 [⋮⋮]
を、すなわち神経組織への直接のアクションを欠いている﹂ 。 大脳を通過することに
イコンにとって退屈なものとなるのである。
│
で目と脳の支配から逃れた手は、従属した関係のもとでは隠蔽
ベイコンがあえて偶然にまかせること
│
﹂なタッチ ︵ manuel ︶
ドゥルーズの言葉を借りれば、 ﹁手跡的
より、神経系に直接作用しないというのだ。結果として、物語的な具象絵画と同様にベ
*18
されていた力をここにおいて自由に発揮し、その手によって塗られた絵の具の線は非論
肖像 画と顔の「動き」
215
*17
*16
理的に動きまわる。肖像画の場合ならば人物の顔を大胆にひと筆で描ききってしまうよ
うなこの力は、モデルの顔に襲いかかっていると見ることもできるし、それがモデルを
描きあらわすものであるのだから、むしろその顔に、理性によって測れない一種の躍動 性を付与していると見ることもできる。
だが、アンフォルメルにも似たタッチや絵の具を投げつけるといった所作が、ベイコ
ンにあってはそういったジャクソン・ポロックのような抽象表現主義とは異なり、タブ
ロー全面には広がっていない。ドゥルーズ風にいえば、そうすることでカオスに陥るこ
形象、輪郭があることによって
とを防いでいるのだ。それは、そのようなタッチによって描かれたものがあくまで一個
│
の形象となっていること、輪郭をたもっていること
によるのである。 ﹁輪郭を守ること、ベイコンにとってそれ以上に重要なことは
はじめて鑑賞者になにかを、そしてその存在感を伝えることができるとベイコンは考え
│
る
ない﹂ 。 ベイコンのタブローにはアクション・ペインティングのもつ力動性と、具体
肖像画、写真、顔│︽ イザベル・ロースソーンの習作︾
うに全面的なカオスに支配されるのを防ぐことに一役買っているのである。
を取り囲む一色塗りの背景の存在も、自由な領域をあえて制限し、アンフォルメルのよ
的なものを描こうとする意志が共存するのだ。それに加えて、描かれた人物、オブジェ
*19
216
ところで、すでに述べたようにベイコンは一九六二年の時点で、描きたいという明確な
イメージを得るために具体的な人物の姿かたちを記録したい、さらにそれを非合理な描
きかたでイメージを変形させつつ、なおかつモデルに似せたいという願望を語っていた。
たしかに、本論の冒頭でもかかげたように、ベイコンには肉が流失しかかったような奇
形的にゆがめられた肉体を好んで描いた暴力的な画家というイメージがある一方で、と
りわけ第三期になってから、つまり六〇年代以降、顔のアップである肖像画を熱心に描
きつづけた人物でもあるのだ。この両面性を考えるために、さきほど﹁第三期﹂のもと
に提示した作品群における人物の描きかたの違いについて、一度考えなおしてみたい。
まず︽トリプティク 人体の習作︾︵図 ︶では、モデル︵この場合にも特定のモデル がいるのかどうかはわからないが︶への類似性、肖像性はもはやめざされていないよう
に思われる。現実にはありえない関節の曲がりかたをしながら平均台の上を這うような、
見る者までからだの節々がうずいてくるような左右のパネル、そしてもはや顔が消失し
た中央のパネル、これらにおいて描かれた怪物的なオブジェは、人間と物体、顔と肉の
境界を行き来しているというよりも、完全に後者の側に入りこんでしまっているといえ
るだろう。それにしても、中央パネルのこうもり傘の下に置かれた顔のない人体はじつ
に象徴的だ。四肢を切断されたうえ、首も斬られ、さらに首筋から腹まで裂かれたよう
なこのからだは、しかしそうした悲劇性よりも、左右に突き出た乳房や逆三角形に描か
れた陰毛によって、またそのからだがあたかも板にのって差し出されたかのように描か
肖像 画と顔の「動き」
217
11
れていることによって、セクシュアルな部分を強調させた作品となっている。こうした
部分こそが人間存在の根幹にあるものだというベイコンの訴えを感じとることもできる
のだが、この性的な力は当然ながら特定の人間にだけ属するものではない。だれにでも
あるものだ。むしろ、個人を支配し、そのアイデンティティを奪いかねない、非人称の、
匿名のおそるべきエネルギーとしてベイコンは性を描き、またそのことの象徴として顔 を消失させているのではないか。
ベイコンはインタヴューにおいて、なぜ風景画を長期にわたって描きつづけなかっ
たのか尋ねられ、 ﹁わたしはやはり風景にはあまり興味をもてないのです。わたしが思
うに、芸術とは生き物に対するこだわりであり、結局、わたしたちは人間ですから最も
こだわるのは人間ということになります。次が動物で、最後が風景でしょう﹂と答えて
いる。さらに、絵画の伝統的ヒエラルキー︵宗教画、肖像画、風景画、静物画という序
列︶を肯定するのかと疑義をはさまれると、 ﹁描くのに最も苦労する肖像画を一番にし
ましょう﹂ と、風景画や静物画よりも意義あるものとして肖像画をその最高位に位置
左右のパネルにおける、グロテスクな動物のような様相を呈した、顔がその形態をのが
から、 ︽トリプティク 人体の習作︾のような作品においては、顔を個々の人間を代表 し識別させるものと認めたうえでの、その偶像破壊を行なっているのだ。ドゥルーズは、
の帰結として肖像画の、すなわち顔の特権化をも行なっているということができる。だ
づけているのだが、それはつまり、描く対象として人間を特権化し、それと同時に、そ
*20
218
れていく運動を﹁動物生成﹂と名づけたうえで、次のように分析する。 ﹁肉
頭 = 部、そ
れは人間の動物生成である。そしてこの生成において、すべての身体は流れ出ようとし、
形象は物質的構造 [背景のこと]に合流しようとする。[⋮⋮]しかしながら、形象はまだ
物質的構造のうちに消滅せず、背景の一色塗りに合流してそこで真に消えさり、分子的
テクスチャーと混ざり合うことはなかった。だが、もはや色彩や光でしかないある種の
正義が、もはやサハラ砂漠でしかない空間が支配するためには、そこまで行かなければ
ならないだろう。それが重要なものだとしても、動物生成は、より深い、形象が消滅す
る知覚しえないものへの生成へと向かう一段階でしかないということだ﹂ 。 形象、モ
段階であるとドゥルーズはいうのである。 中央パネルの顔の﹁消失﹂の前段階として、
らだから肉は流失しようとするが、そのような﹁動物生成﹂は完全なる消失への途中の
デルを孤立させている﹁物質的構造﹂としての一色塗りの背景に向かって、モデルのか
*21
左右のパネルにおける顔の脱形態化があるということだ。しかし、こうした見解ははた してベイコンの肖像画にもあてはまるのだろうか。
︽イザベル・ロースソーンの習作︾をふたたび見てみよう。鑑賞者に対してはすに構
この二
えたこの人物は、漆喰のごとく無造作に塗られた白、その白と混ざったり、上から網目
│
ベイコンの﹁サハラ
、そして陰影をあらわす黒で描かれているわけだ
状に塗られたりしていて、あたかも顔から噴きだしているようにも見える赤
│
色が顔の地の部分を形成している
│
が、キャンバスの中心にぽっかりと大きな穴があいたような鼻
肖像 画と顔の「動き」
219
*22
│
、顔
砂漠のような広がりがあるように見える肖像画を描きたくなるのです﹂ というせりふ
ル、イザベル・ロースソーンの写真 ︵図
︶と肖像画をくらべてみよう。モデルがそば
せよう﹂とする意志も強く存在しはしまいか。それを検証するためにまずは、このモデ
だろうか。それにしては、ベイコンが肖像画で行なっていることには、モデルに﹁似さ
た変形をドゥルーズのいうように顔、形象の消失への過程とのみ断定することはできる
だが、この点にかんしてはドゥルーズの分析に対して疑義を呈すことになるが、こうし
かたはしていない。かなりの変形、歪曲をこうむった顔であることは疑いようがない。
の輪郭をも越えて画面左下に向かって流れていくような口と、たしかに写実的な描かれ
から連想するなら、さながらサハラならぬ顔の中心にできたブラックホールだ
*23
に、 ﹁オリジナルにはないイメージが付け加わっている﹂ ともいう。こうした写実と
そうした写真が﹁踏みつけられたりしわくちゃにされたりしてぼろぼろ﹂であるがゆえ
にもとづいたある程度の写実性はあってしかるべきなのだが、ベイコンのアトリエでは
にいたとしても、ベイコンは必ずそのモデルの写真を見ながら描いたというから、写真
12
されているし、画面の左下、および下方向へ流れていく絵の具の帯を除けば、輪郭も思
さらには髪の生えかたなど、単純化されたタッチではあるがモデルの特徴が正確に再現
すると、ベイコンの絵画では、ぎょろっとした目つきや目の下のたるみ、眉のライン、
︽イザベル・ロースソーンの習作︾の構図に比較的近い、この横向きの写真から判断
それを越えるイメージの二面性について考えてみるべきだ。
*24
220
いのほか忠実に描かれていることがわかる。ベイコンの肖像画には輪郭自体がゆがめら
れているものも少なくないが、その場合でも輪郭のライン自体ははっきりしており、背
景とあいまいに融合することはほとんどない︵口の周辺からの絵の具の﹁流出﹂にし
ても、背景、外部ではなくあくまでモデル自身のからだの上にある︶ 。このことからも、
ベイコンの肖像画は背景、外部に向かって顔が消失していく運動というよりも、顔、あ るいは個人の内側での動き、流動性としてとらえられないだろうか。
﹁ゆがみ﹂を﹁動き﹂としてとらえること、それはベイコンのねらいとは必ずしも一
致しないのかもしれないが、たしかに可能に思われる。 ﹁偶然ひと筆加えたために、突
肖像 画と顔の「動き」
221
如として、常識的な描きかたでは表現できないような生き生きとした姿かたちになるこ
図 12 イザベル・ロースソーン (撮影:ジョン・ディーキン)
とがある﹂ とベイコンはいう。常識的な描きかた=写実とは、モデルにかんしてすで
*26
る︶ 。第三期以降の、とりわけ肖像画に見られるベイコン固有の技法はことごとく、作
模様をずっとながめているときに覚えるような、めまいに似た感覚をひきおこすのであ
具がたがいに浸透しあって混ざっていく動きを思い浮かべさせられるものだ︵大理石の
るし、これまたベイコンならではといえる色彩のマーブル状の混交も、それぞれの絵の
ンフォルメルのような筆づかいはそれ自体が見る者に動きや勢いを意識させるものであ
頰の部分に見られるような、顔の輪郭をひと筆で描ききってしまう、偶然性に頼ったア
形象にあたえる﹁動き﹂という観点からもう少し詳細に分析するならば、たとえば額や
たように描くベイコン流のデフォルメによってもたらされる顔の﹁動き﹂ 、その原理を、
のあたりに見える残像、こういった動きを思わせるものがたしかにある。対象をぶれ
が大きく広がらんばかりになにかに驚いた様子、たとえば不意に振りかえったときに口
イザベル・ロースソーンのこの顔には、目をかっと見ひらいた一瞬の動き、鼻の穴
いうせりふも、 ﹁動き﹂を求めるがゆえのものだといえるのである。
す。それで、いうなれば、顔をサハラ砂漠にすることができたら、と思うのです﹂ と
という発言、 ﹁絵を見ているうちに、ふと、口が顔を横切って行けるように見えてきま
と換言できよう。先にも引用した、サハラ砂漠のような広がりのある肖像画を描きたい
脱させ、ぶれを作りだすこと、それはつまり予想もつかない﹁動き﹂を作りだすことだ
にできあがったイメージを再生産することにすぎない。そういった固着した存在から逸
*25
222
品に、つまり顔になんらかの動きをもたらすものなのである。こうした技法が一般に
いって写実性から離れていく所作であるのはたしかなのだが、現実の歪曲それ自体のレ
ベルで完結するわけではなく、そこからさらに顔の動き、流動性という別の段階がめざ
されるのだとしたら、この最後の段階において︵写実とは別種の︶ある意味での﹁類似
性﹂が獲得されうるわけで、ベイコンが写真にもとづいて制作し、作品をモデルに似さ
せようとする意志をもちながら、同時にそのモデルを途方もなくデフォルメさせて描い てもいるという両義性の真相もこのようにして説明されうるのだ。
定着させることなしに定着させる
形象のうちに残像めいたうねりをかかえたベイコンの絵からは、たしかに、動いてい
る物体を撮影した、像のぶれた写真を喚起させられる場合が多々ある。 それはキネ
。つまりベイコンの試みは、連続写真を一枚のタブローのなかに作 書のようなものです﹂ ︶
描くことがしばしばあったという ︵﹁マイブリッジの写真は人間の動きを記録しようという試みで、辞
現にベイコンは、一九世紀の写真家マイブリッジの撮った連続写真を参照しながら絵を
ティック・アート以上の運動性、流動性が存在するひとつの証拠だともいえるだろう。
*27
りあげてしまうことだとさえいえるのである。
この問題に関連して、詩人・作家にして美術評論家でもあるミシェル・レリスは、ベ
肖像 画と顔の「動き」
223
*28
イコンにとっての肖像画の重要性を﹁肖像画家ベイコンにおいて、彼に高度な緊張なし
ですまなくさせるような絵画技法が、白熱するほどの熱をおびているのは、おそらく、
資料的な正確さと絵画上の真実との衝突が、肖像画の場合その頂点に達しているからで ある﹂と分析したうえで、次のように述べている。
生きた存在を書きうつそうとすること、生きた存在にとって本質的なものであるその
生をのがすことなしにありのままに書きうつそうとすること、それはその存在を定着 なぜなら、定着させることとは殺すことであるから
│
を、逆説
させることなしに定着させることであり、定着されえないものを、そして定着させて
│
はならないもの それが成功したとしても
│
[⋮⋮]エスキスのほとばしり出るような、あるい
的に定着させようとすることである。[⋮⋮]それゆえ、このような意図に応じた作品
│
は
は取り乱したような外観をとるしかない。画家は結局のところ、このような作品を、
│ 仕上がり、成功し、﹁完成﹂ いつの日か試み以上のものと見なしうるような作品 │ としてでなく、つねにやり直
した、もはや凝固して生の彼方に去っていった作品
さねばならない、必ずというわけではないが異なった基盤をもとに再びとりあげなけ ればならない [⋮⋮]オブジェとして扱うからである。
あくまで肖像画を、不動のもの、固定したものとしてではなく、なまなましい存在のま
*29
224
ま描こうとする際にはらむ問題を見事にとらえた一文だ。モデルの生、つまりは顔に見
られるような止むことのない﹁動き﹂をそのままにうつしとりたいと望んでも、作品と
してキャンバスにモデルを固着させる以上、写実のような一般的な方法で描いたのでは
その﹁動き﹂を必然的に殺してしまうから、この矛盾を克服するには﹁動き﹂をそのま
ま表現した﹁エスキスのほとばしり﹂としてモデルを描くよりほかない、というベイコ
ン絵画における両義的な方向性とその融合をレリスは看破しているのである。また、レ
リスにしたがえば、ベイコンが同一のモデルをもちいた肖像画をたびたび繰りかえし描
いているという事実︵ベイコンは、 ﹁顔立ちのいい人を描きたい﹂ という彼の望みゆえ、
多くの人物の肖像画を描くよりも、比較的かぎられた人数の肖像画を、自画像も含め複
数描く傾向にあった︶も、変動しつづける顔を﹁定着させることなしに定着させる﹂た
めなのだといえるだろう。トリプティク、三連画という、本来は宗教画でもちいられた
スタイルを肖像画やその他の絵画でもベイコンがしばしば採用しているのも、同一の対
象を三通りにとらえることで、モデルのうちに宿る止まらずに流れる時間を追いかけよ うとするものであり、作品のうちに流動性を生みだすことに一役買ってもいる。
そしてこの、写実から逸脱してゆがめられることで﹁定着させることなしに定着さ
せ﹂られた、まさに動きつつあるベイコンの絵画は、肖像画においてこそいっそう意味
をもちうる。というのもそれは、顔を描くことの困難さを克服しうる、じつに有効な手
段であるかもしれないのだ。わたしたちが肖像画を描こうとするときにつねに直面せざ
肖像 画と顔の「動き」
225
*30
るをえない問題として、わたしたちはどんなに﹁似させよう﹂と努力したところで、た
すくな
とえば描かれた顔の持ち主はその顔とは別のところで生きているという事実によって、
│
その一瞬を引きだすことしかできないという
あるいはまた、たえず変化する、少しもとどまっていない顔というものから
│
くとも、写実的な努力をしただけでは
事実によって、作品を鑑賞するものは実際のモデルと肖像画とのあいだのどうしようも
ない隔絶を意識させられてしまうという問題があげられる。顔の表象とはそういうもの
でしかありえないといっても過言ではないわけだが、そのような意味からいえば、たん それは同時に老いゆく、そして死にゆく
│
顔
に写実的な肖像画よりも、ベイコンのように﹁動き﹂ 、つまりは一種の時間の流れをは
│
らんだものとしてのみ、生きている を描くということが可能になるのだ。
ベラスケスの︽法王︾におけるなまなましいリアリズムに対する回答を、パロディ
における﹁失敗﹂をも乗りこえて模索しつづけたベイコンがついにたどりついた地とは、
そしてそれはやはり特異なリアリズム
写真に則った肖像性の獲得とそこからの暴力的なまでの逸脱とのあいだで引き裂かれな
│
獲得された、顔の動きにおいての人間の生の
がら、そのふたつを同時に成しとげることで
│
というしかない思想に支えられながら
リズムや時間性の実体化という、肖像画表現における極北だったのである。
226
その作品数は、おおやけにされているものだけでも四五にのぼり、紛失したり画家によって破
同書、四〇頁。
同書、三二頁。
デイヴィッド・シルヴェスター編﹃肉への慈悲
れ﹂でも考察されているので、参照されたい。 シルヴェスター編、前掲書、五二 五 ―四頁。 同書、四〇頁。 同書、一二 一 ―四頁。 同書、八二 八 ―三頁。 同書、一五九頁。 同書、三〇頁。 同書、三二頁。
という。 Peppiatt, Francis Bacon: Le sacré et le profane, p. 11.
クティヴを開きうるような﹁聖と俗﹂というテーマの軸にそって作品を集め、展示したものだ
順に作品を追って展示する正統的な回顧展ではなく、ベイコン作品におけるあらたなパースペ
もっとも、この展覧会の企画立案者であるマイケル・ペピアットによれば、この展覧会は年代
フランシス・ベイコン・インタヴュー﹄ 、 ――
2
ベラスケスがベイコンに与えた影響については、本書所収の平倉論文﹁ベラスケスと顔の先触
棄されたりしたものも含めれば五〇に近いという。 Michael Peppiatt, Francis Bacon: Le sacré et le profane, Paris: Fondation Dina Vierny - Musée Maillol, 2004, pp. 11-26.
3
小林等訳、筑摩書房、一九九六年、二八、 三〇頁。
4
﹁ぼろきれに絵の具をしみこませて、絵に網目模様をつけるのです﹂︵シルヴェスター編、前掲
肖像 画と顔の「動き」
227
1 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
。 書、一〇三頁︶ 同書、三五頁。 同書、六五頁。 ﹁絵の具を手のひらに絞り出して、それを投げつけるのです﹂︵同書、一〇二頁︶ 。
│
画家フランシス・ベーコン論﹄ 、山縣熙訳、法政大学出版局、二〇〇四年、一〇二頁︶
Gilles Deleuze, Francis Bacon: Logique de la sensation, Paris: Seuil, 2002, p. 102︵.ジル・ドゥ ルーズ﹃感覚の論理 ︵同書、同頁︶ Ibid.
シルヴェスター編、前掲書、六九頁。
Deleuze, Francis Bacon: Logique de la sensation, p. 33︵.ドゥルーズ、前掲書、二七頁︶
まったく消滅してしまうことはないとも言っている。そうなってしまっては、ベイコンの嫌う
しかし、繰り返しになるが、ドゥルーズは別の箇所で、脱形態化の動きが完遂されて形象が 抽象表現主義、アンフォルメルのようなカオスに陥ったものになってしまうからだ。 シルヴェスター編、前掲書、六三頁。 同書、四四頁。 同書、一二〇頁。 同書、六三頁。
真は写実的なものといえるのかという問いに対して、ベイコンは﹁形を変えた写実です。カメ
もっとも、輪郭がぼやけているなどして、非常にあいまいで刺激的な効果を生みだしている写
ラで直接記録するのと違うのは、画家が生きた現実をそのままとらえるには、いってみれば罠
をしかけなくてはならないのです﹂と答えている。つまり、ベイコンが行なおうとするのは、 という表現のみに回収されるものではない。
現実に対して罠をしかけること 絵 = 画にしかできない歪曲であって、それはけっして﹁残像﹂ シルヴェスター編、前掲書、三五頁。
228
Michel Leiris, “Ce que m’ont dit les peintures de Francis Bacon,” Francis Bacon ou la brutalité du fait, Paris: Seuil, 1995, pp. 24-25︵.ミシェル・レリス﹁フランシス・ベイコンの絵画が私に語ったも の﹂ 、 ﹃ピカソ 、岡谷公二編訳、人文書院、一九九九年、一七五 一 ―七六頁︶ ジャコメッティ ベイコン﹄
シルヴェスター編、前掲書、一四八頁。
肖像 画と顔の「動き」
229
29 30
口絵 8 《マリリン》1967 年
カムフラージュの技法│
日高 優
アンディ・ウォーホルの︽マリリン︾
われわれが記憶の貯蔵庫からマリリン・モンローのイメージを引き出してくるのは、そ
映
う困難なことではない。捲くれ上がる純白のワンピースの裾を押さえる仕草、艶かしい
│
拡散し、われわれの生活に浸
脚線美、弾けるような笑顔。マリリンのイメージはさまざまなメディアを通して
│
画のスクリーンやピンナップ、雑誌やテレビを通じて
透してきた。マリリンが生きたのはアメリカがかつてない経済的繁栄を謳歌していた時
代で、彼女の豊かで溌剌とした肉体とコケティッシュな笑顔は、そんな五〇年代の﹁豊 かな社会﹂と輝かしい自由を象徴するとされた。
そんなマリリンのイメージに惹きつけられた芸術家はアンディ・ウォーホルだけでは
ない。ウォーホルとほぼ同時代、ウィレム・デ・クーニングは女シリーズの油彩画で胸
のふくらみなどダイナミックで荒々しくもあるペインタリーな筆致でマリリンを描いた。
ジェイムズ・ローゼンキストはマリリンの顔をバラバラに切断して文字デザインと組み
合わせ、エロティックな手つきで縫合してみせた。アメリカを離れたイタリアでも、マ
リリンは笑顔をふりまいていた。ミンモ・モレッラは壁に貼り重ねられたポスターから
着想を得、斜め下から見上げる視線のセクシーなマリリンの姿をデコラージュし、ポス
ター形式の作品にしていたのである。これらの作品からも窺えるように、マリリンのイ
メージはその肉感性あるいはセクシーさ、無垢な時代の輝きを感得させるものだったし、
今日でも失われた輝かしいアメリカの一時代を追慕させるものとして機能している。
アンディ・ウォーホルにとっても、マリリンは彼の病弱な少年時代から日常に彩り
232
を添えてくれる輝かしいスターのひとりだったはずだ。その証拠にウォーホルは雑誌な
どの写真をスクラップしてマリリンの写真を収集し、私家版アルバムをつくりあげるほ
︶はエロティックさを印象づけるでもなく、溌
どだった。しかし、奇妙なことに、マリリンの唇が反復されるようなごく一部の作品を 除いて、ウォーホルの︽マリリン︾︵図
剌とした肉体の曲線を見せつけるでもなく、ただ顔のみに切りつめられ、静かにこちら
を向いている。ウォーホルの︽マリリン︾は、さまざまなメディアを通して社会に浸透
していたマリリンとはやや異なった趣きをもって、われわれにせまってくる。つまり、
ウォーホルの︽マリリン︾は、一般的に理解されるようにメディアが流通させたマリリ
カムフラージュの技法
233
1
ン・モンローという記号を表わしているというよりもむしろ、他の問題を前景化させて
図1 《マリリン》 (口絵 8、1967 年)より
いるように思われるのだ。では、ウォーホルは︽マリリン︾において何をしたのか。 マリリンとの出会い
ウォーホルは映画やビデオ、写真やドローイング、シルクスクリーンなど、さまざまな
メディアでファクトリーに集う友人や有名人のポートレイトを残してきたのだが、マリ
リンはなかでも彼にとって特権的なモチーフだった。ウォーホルはマリリンを最初に作
品化して以降、飽かず繰り返し︽マリリン︾を産出しつづけている。ウォーホルにとっ
てマリリンというモチーフとの出会いは決定的な意味をもっていた。なぜならまずはそ
作品をヴァリエーション化しつつ工業製品のごと
れがウォーホルが死というテーマを展開していく重要な契機になったからであり、次い
│
で、シルクスクリーンという手法
との出会いをもた
・ ・ケネディ大統
│
くメカニカルに大量生産する彼の作品制作システムを支える技術 らし定着させたからである。
│
ウォーホルの︽マリリン︾は死をめぐる彼の一連の作品群
F
の重要な源泉のひとつに位
眠薬自殺﹂とされる彼女の死を報じるニュースを知ったときだったという。 ﹁たまたま
置づけられている。マリリンの顔がウォーホルの注意をひいたのは、公式発表では﹁睡
飛び降り自殺のイメージなどを作品化した惨劇シリーズ
│
領暗殺時のジャックリーヌの顔シリーズ、電気椅子シリーズ、自動車事故や人種暴動、
J
234
ぼくの最初の﹃マリリン﹄ものだった﹂ 。
その月 [一九六二年八月]にマリリン・モンローが死んだので彼女の美しい顔をシルクスク
│
リーンにしようと思いついた
アンディ・
写真やシルクスクリーン作品、絵画など多岐にわたっている。 ︿顔について﹀というタ
ト作品の制作年代は一九五〇年代から八〇年代にまで及び、作品形態も映画やビデオ、
ウォーホルのポートレイト﹀ が開催されている。この展覧会で取り上げたポートレイ
うしたウォーホルのキャリアを概観する展覧会、その名も︿顔について
│
このとき使用したのはポラロイドなどで自ら撮影した写真である。一九九九年にはこ
をとってポートレイトを描く仕事を本格化し、七〇年代にはこの仕事が増大してくる。
たが、六七年にフレデリック・ヒューズをマネージャーに雇って以降は有名人から注文
掲載された有名人のポートレイト写真を版にしたシルクスクリーン作品が中心であっ
のポートレイトを活動初期から晩年まで制作したのである。六〇年代は雑誌や新聞に
つづけてきた。彼はモハメド・アリやイヴ・サンローラン、政治家など有名人や知人
そもそもウォーホルはポートレイトのアーティストとして幾多の人々の顔を見つめ
かび上がってくる過程でもあった。
確立されていくのだが、その過程はウォーホルの作品における︿顔﹀という問題系が浮
六〇年代の三つの時期に集中していて、この時期を通じて次第に一定の作品スタイルが
ウォーホルがマリリンを作品化したのは彼女の死の直後の六二年、六四年、六七年と
*1
イトルが示唆するように、いくつかの作品ではポートレイトというより一歩踏み込んで、
カムフラージュの技法
235
*2
ウォーホルの顔に対する関心が前面に出ている。たとえば、展覧会カタログに寄せられ
たダグラス・クリンプのテクスト﹁フェイス・バリュー﹂において論じられているのは、
ウォーホル初期のサイレント映画︽ブロウ・ジョブ︾︵一九六四︶である。この映画にお
いて、 ︽ブロウ・ジョブ︾というタイトルが指し示す口淫という行為が直接、撮影され
ることはない。行なわれているはずのこの行為はほのめかされつづけるがフレーム外で
の出来事であり、われわれが四一分間も延々と見せつけられるのは、カメラをまわしっ ぱなしにして撮影された、口淫されているのであろう男の顔の方なのである。
マリリンの顔をシルクスクリーンにしようと決めたとき、ウォーホルが目をつけたの
。ウォー は映画﹁ナイアガラ﹂︵一九五三︶の宣伝用に撮影されたスチル写真だった ︵図 ︶
豊かな肉体はフレーム外に排除され、彼女の肉体が担ったシンボル性は後退し、顔への
するさい、マリリンの顔を中心にトリミングしていく。トリミングによってマリリンの
でスタティックなポートレイトだった。しかも彼はこの写真をシルクスクリーンの版に
動的で生き生きとしたものが主であったのに対して、ウォーホルが選んだのは正面向き
せつけたり体をくねらせていたり、コケティッシュにスカートを押さえたりする仕草の
セックス・シンボルとして流通していたマリリンの像といえば、自由奔放に脚線美を見
レスを纏ったマリリンのバストアップの肖像が収められている。豊かさや自由の象徴、
制作されたものである。このモノクローム写真には白襟で胸元の大きく開いているド
ホルの手になる数々のマリリン作品で転写される顔はすべて、この写真の顔を版にして
2
236
注視が促されることになる。六二年から六七年の定型表現の定着へと至る︽マリリン︾
制作のプロセスのなかで、顔への注視をもたらすウォーホルの視線を確認しておこう。
まず︽マリリン︾の制作が開始される六二年当初には、マリリンのバストアップの
背景の色を作品ごとに赤や緑など
スチル写真はやや縦長の形にトリミングされ、二〇インチ×一六インチ ︵五〇・八センチ ×四〇・六センチ︶に引き伸ばされて使用されていた。
の単色で塗り分けるというヴァリエーションのアイディアもこの時点ですでに作品に
取り込んでいる。そして彼はトリミングしたただひとつのマリリンのイメージをさまざ
カムフラージュの技法
237
*3
まな色彩パターンで変奏してみせた。このヴァリエーションの﹁あるものは香りの名前
(ウォーホルによる書き込み)
1953 年
︵チェリー、レモン、カンゾウ、そしてミント︶にちなんで名づけられたり、またある
図2 映画「ナイアガラ」のスチル写真
ものは背景の色によって、 ︽ブルー・マリリン︾や︽グリーン・マリリン︾ ﹂ というよ
る。 トリミングで正方形にしたことでマリリンの顔への注視がいっそう促されたこ
化 し て 六 七 年 に は 三 六 イ ン チ × 三 六 イ ン チ ︵九一・四センチ×九一・四センチ︶が 一 般 的 に な
の作品ではやや縦長だったフレームは結局、正方形に落ち着き、サイズもさらに大型
こ こ か ら 六 七 年 の 定 型 表 現 へ 至 る み ち す じ は、 顔 へ の 集 中 の 過 程 で あ る。 六 二 年
るアイディアをすでに六二年の時点で作品化している。
四人のマリリン、二五人のマリリン、一〇〇人のマリリンと複数のマリリンを反復させ
うに呼ばれたりするのもこの頃からだ。さらにウォーホルは一枚のカンヴァスのなかに
*4
│
も知られた︽マリリン︾シリーズの定型 ︵口絵 ︶
自前の会社ファクトリー・アディ
が完成する。実質上この制作をとりしきっ
8
とになる。
一セットとしてエディション化され、ファクトリーでメカニカルに多産されていくこ
でアシスタント任せでも作品は次々と出来上がっていった。以後、 ︽マリリン︾は十枚
たのはウォーホルというよりアシスタントで、ウォーホルはアドヴァイスをする程度
ションズによる、初のポートフォリオ
│
のマリリンの顔ひとつを色の組み合わせによって十作品に変奏する、ウォーホルの最
るのは顔そのものへと切りつめられる構図となったのである。こうして六七年、同一
上縁から顎までが正方形のカンヴァスに収められることになり、カンヴァスに描かれ
とになる。当初顎下にみえていた首はカットされワンピースの襟の面積も減って髪の
*5
238
シルクスクリーンとの出会い
シルクスクリーンの手法はウォーホルの仕事をなかば自動的に推し進めていくシステム
を支える基盤となった。だが、 ︽マリリン︾に接近するためには、ウォーホルとシルク スクリーンとの出会いの意味についてもう少し考察しなくてはならない。
シルクスクリーンをアートの世界に認知させ定着させたのは、何といってもウォーホ
ルの功績である。 五〇年代末にはロバート・ラウシェンバーグもシルクスクリーンを
試みているが、ウォーホルが︽マリリン︾を制作し始めた頃にもまだ、シルクスクリー
ンは芸術として定着するに至っていない。 ︽マリリン︾が流通しウォーホルの名声が
写真をしばしばタブロイド紙のニュース写真や広告写真、映画のスチルなど身近なソー
リーンは写真原理と版画原理の複合として理解できる。ウォーホルが版として使用する
品が数としてもっとも多いだけでなく、重要な意味をもつ。写真製版によるシルクスク
版法、カッティング法などに分類できるが、ウォーホル作品では写真製版法による作
シルクスクリーンと一口に言われる手法は版の作り方によって直接描画法や写真製
実情に近い。
高まるにつれてシルクスクリーンがアートの世界で認知されるに至ったと考えるほうが
*7
スから採用したことは周知のとおりだ。キャンベル・スープ缶やブリロ・ボックスと同
カムフラージュの技法
239
*6
様、ウォーホルのアートの源泉は日常生活に れるもののなかから見出された。シルク
スクリーンにとって表面の均質な写真は版にしやすく、自由に色をのせやすいという便
利さもあった。ウォーホルがモチーフを拾い出していた雑誌では五〇年代半ば頃からイ
ラストレーションに代わり写真が優勢となってきていて、ウォーホルがシルクスクリー
ンに着目したのはこのことにも対応している。コマーシャル・アーティストとして成
功を収めたウォーホルが、写真というメディアに注目しながら芸術界へと転身を図り始
めたのは、まさにこうした時期に当たっている。 しかしそうした時代の要請だけでは
なく、ウォーホルと写真の関わりはそもそも長く親密なものであった。 少年時代から
*8
が﹁今日的﹂なのであって、シルクスクリーンの作品は何よりも時代に即しているよう
ホル自身が述べるように、時間のかかりすぎる手描きの絵画に比してメカニカルな手段
から写真を複製するようにメカニカルに大量に複製することが可能になるのだ。ウォー
なった写真を刷り込む。シルクスクリーンは版の原理を用いているから、あたかもネガ
クやナイロンの布地に写真を転写して版をつくり、インクでカンヴァスや紙にその版と
製を安価に大量生産することを可能にする。シルクスクリーンでは乳剤を塗布したシル
他方、シルクスクリーンの版画の原理は手描きの労力を省略化し、同一イメージの複
たりして、写真イメージを仕事に活用していたのである。
シャル・アーティストとして活躍していた時代にも雑誌写真をトレースして輪郭をとっ
はじまる銀幕のスターたちのスクラップ写真は膨大なコレクションとなったし、コマー
*9
240
に思われた。 だが、彼がシルクスクリーンを採用したことの意義は、そうした同時代
的な社会の要請に対応する技術的な意味ばかりではない。トーマス・クロウが指摘する
ように、 ﹁[マリリン・]モンローのシリーズの開始は、ウォーホルがシルクスクリーンに コミットした時期と一致し、技術と意味の間には密接な関係がある﹂ 。
てはならない。なぜなら、ウォーホルは主体的にマリリンの顔を描いたのではなく、既
ここで︽マリリン︾を版として支える写真イメージについて、別の視角から検討しなく
擬似コミュニケーションとメディア空間
在様態において、 ︽マリリン︾が産出されていくのである。
い。どれもがマリリンであるが同時に唯一のマリリンはないという非決定的な差異的存
とは無関係のところで増殖しつづけるのだ。 ︽マリリン︾の決定的な一枚など存在しな
れていくことになる。原理上、 ︽マリリン︾はウォーホルというアーティストの主体性
ヴァリエーションによってマリリンの顔のさまざまなパターンが次々と自律的に産出さ
たからだ。エディション化という発想はシルクスクリーンが可能にするもので、配色の
ションとして作品を生み出すという発想をアーティストに新たに与える契機にもなっ
シルクスクリーンが重要な意味をもつのは、シルクスクリーンとの出会いがエディ
*11
存の写真イメージを引用し、自らの作品に転用したからである。転用したイメージを
カムフラージュの技法
241
*10
は、多様なメディアが送り出す映像の精妙なディテール
艶っぽい口元のほくろ、カールしたブロンドの髪、少し目じ
ウォーホルが自らの作品においていかに機能させたのかを考えなくてはならないのだ。
│
マリリンのイメージ
│
りの下がった気だるい感じ
や陰影を通して総合的にわれわれの心に刻みつけられてきた。だからわれわれは、異
なる写真を見てもその新しい姿を自己の記憶のマリリン像と照合して類似性を拾い出
し、マリリンという同一人物として結びつけることができる。写真は対象を﹁実物ど
おりに﹂描いているという経験的で日常的な刷り込みによって、人々はマリリンと直
接対面したことはなくとも、彼女の写真によってマリリンその人を見出したと考える。
そしてその幻想のもとに、ほほえみかけるマリリンと観者の間にコミュニケーション が開かれる。
写真のなかでこちらに向かってほほえみかけるマリリンの像と観者との間に開かれ
るのはあくまでも擬似的コミュニケーションにすぎないのだが、それを開く通路となっ
ていたのは写真における像の、対象物との類似性である。そして、マリリンの両の目が
こちらを向いていることが肝要だ。マリリンの写真の観者はこちら側を眼差すようでど
こともつかない場所を見つめるマリリンの視線と自分の視線とを合わせ、幻想のコミュ
ニケーションを生きる。われわれは写真のイメージに恋さえするし、恋する人の似姿を
求めてブロマイドを買い漁りもする。こうした仮想的コミュニケーションの可能性は、
ひとえに写真の類似性にかかっている。人々は、自分はぺらぺらの紙の表面ではなくマ
242
リリンという生きた︿個﹀に恋をしたと考える。引きこもりがちの青年期からマリリン
のブロマイドを蒐集していたウォーホルにとって、マリリンはやはりそのような輝かし
くも愛しい対象であったろう。実際、ウォーホルはマリリンを顔に注視させたうえで実
物大以上に引き伸ばし、描かれる目の効果を高めている。マリリンの顔は視線を一身に
受け止めるように正面を向いている。フレームいっぱいを顔が占める背景には何も描か
れず固有のコンテクストは排除されているから、予示される物語も存在しない。物語化
に拘束されることなく、観者はマリリンとの視線を交わすことができるのである。 ︽マ
リリン︾の目は、コミュニケーションの回路となる。観者は︽マリリン︾に視線を送り、
︽マリリン︾も視線を送り返す。そして観者はウォーホルの︽マリリン︾をみて、 ﹁これ はマリリンの顔だ﹂と言うだろう。
だが、このような観者と︽マリリン︾のコミュニケーションの回路が像の類似性や
視線のやりとりであるとして、このコミュニケーションが可能となり強化されるのはメ
ディアが生成させる空間においてである。ここで、ウォーホルの︽マリリン︾の顔の出
現を、同時代のメディア空間の状況に照らしてみておこう。ウォーホルがマリリンの死
を知り、彼女の顔でシルクスクリーン作品を作り上げようと決意した一九六二年は、メ
マスコミが製造する事実﹄を、マーシャル・マクルーハンが﹃グーテ
ディアの問題が明確にせり出してきた時期で、奇しくもダニエル・ブーアスティンが
│
﹃幻影の時代
ンベルクの銀河系﹄を発表した年にあたる。ブーアスティンは、メディアはイベントを
カムフラージュの技法
243
製造するのであって ︵﹁擬似︲ イベント﹂︶ 、視聴者はそのイベント自体を楽しむというより 0
それがメディアの存在意義であり、メディアが開く
に、国民的スター、マリリンのイメージを反復し合い増幅し合ってきた。 しかし本来、
事の写真を通じてマリリンの顔に親しんでいた。こうしたさまざまなメディアは複合的
メディア空間において、顔は浮遊している。ウォーホルは映画やテレビ、ゴシップ記
空間において人々は共同幻想を生きるとされていたのだ。
に、出来事をでっち上げること
│
進行しているように思われたのだ。出来事自体ではなくそのイメージを楽しませるよう
のイメージが切り離され、シミュラークルとして消費されるところまで、事態はすでに
はそのイメージを楽しむのであると述べた。そして、モノや人、出来事自体からそれら
0
│
これが写真の時間性である
、メディアを漂う。だがマリリンのイメージが人々
されつつ、たえず私的な香りを漂わせながら、リビング・ルームや寝室という私的空間
近に感じることができたから、人々は彼女に夢中になった。イメージやゴシップに媒介
画や写真の映像ではそのディテールや陰影の織り成す︿自然な見え﹀によって彼女を間
て私的で生きられる自然な雰囲気を装うことができるか否かにかかっていた。彼女の映
の間に浸透していくには、そこからハリウッド女優という公的なよそよそしさを排除し
│
られた顔ではない。マリリンの顔の写真は、一瞬に裁断されて生きられる時間を奪われ
ものだとすると、ウォーホルの︽マリリン︾の顔は時間のただなかで生成してくる生き
顔は他者に差し向けられ、他者との関係性のなかで変化する時間性において生成する
*12
244
でマリリンは消費されたのである。
通常、アンディ・ウォーホルの︽マリリン︾シリーズは、メディアを通じて浸透し
たハリウッド女優マリリン・モンローの記号性を結晶化させた作品だと説明されること
が多い。その証拠にウォーホルの︽マリリン︾の顔は冷淡でよそよそしく、人工的では
ないか。ウォーホルがメカニカルにマリリンの顔を増殖させるのは、それが個性や人格
を奪われてメディアによって作り上げられた﹁公的な顔﹂ 、 ﹁ハリウッド製の仮面﹂ で
相互貫入させてその区別を曖昧化する空間を開く。 メディアはむしろ公私を相互浸透
区別を問うことは、すでにみたように本質的な問いではない。メディアは公私の要素を
あることをシンボリックに示す表現である、と。しかし、メディア空間において公私の
*13
させることで擬似的であれコミュニケーションの回路を開通させるのであり、とにかく
それが、 ︽マリリン︾の産み出された
もマリリンの顔を生きさせる力、観者に共犯的にそのコミュニケーションに参加させて
│
楽しませる力を有しているかのように見えた
六〇年代初頭のアメリカにおけるメディアを取り巻く状況だったのだ。したがって、次
のように述べるアーサー・ダントウの観察は正しい。 ﹁われわれはイメージに取り巻か
れて暮らしている。そして、これらのイメージがわれわれの存在の現実を定めているの
である。マリリン・モンローが実際のところ、誰だったのであれ何だったのであれ、彼
女のイメージがある程度、女性の本質というものを定義していることの重要性に比べ
れば、それはほとんど重要ではなかった。[⋮⋮]彼女はスクリーンのなかで、雑誌のな
カムフラージュの技法
245
*14
かで、彼女のイメージ︿だった﹀ 。彼女が日常生活に入ってきたのは、こういうかたち
でだったのだ﹂ 。 重要なのは、受容の観点である。つまり、観者にとって肝要なのは、
│
公私の交錯する空間で、一人の女性のポートレイト写真が
固有の時間、固有のコ
かろうじて生きられるのは、
人工性がマリリンの顔の公的性質を印づけるものではないとすると、では、それは何を
ばけばしい色彩の層に均質的に塗り込めることで人工性を際立たせる平面となる。顔の
で塗り込めていった。顔は色彩の層に隔てられ、隠されていく。 ︽マリリン︾の顔はけ
ジではもちえた顔の類似性や陰影、ディテールを剝ぎ取り、死化粧を施すように色の層
性や眼差しは工業用インクの下からかいまみえるにすぎない。ウォーホルは写真イメー
ルは写真を版としたのであって、版となった写真のマリリンのディテールや陰影、類似
動させるのとは逆のベクトルを強めていたことには留意しなくてはならない。ウォーホ
だが、ウォーホルはマリリンのイメージを採用しながらも、コミュニケーションを作
み落としたのである。
ションの欲望とメディアの思惑が合致したこの時期に、ウォーホルは︽マリリン︾を産
の欲望によってでしかない。幻想であれ他者と通じ合いたいという観者のコミュニケー
意識的なものであれ無意識のものであれ、観者の側から作動されるコミュニケーション
ンテクストを奪われて一瞬に凍りついたマリリンの顔が
│
にあるがごとくに装われ、コミュニケート可能と錯覚させられることだったのである。
ノーマ・ジーンなどという女性とはまったく関係ない地点で、 ︽マリリン︾の顔がそこ
*15
246
意味するのか。 顔の人工性
六二年から六七年に定型表現にたどり着くまでの一連の︽マリリン︾作品を通してみ
ると、ウォーホルが次第に顔の人工性をあらわにする方向をとったことが分かる。シ
ルクスクリーンの手法では色彩は一色ごとに版を塗り分けてプリントされるから、マリ
リンは色彩の層から構成されていると考えることができる。六二年当初の作品では、写
真製版をつくる際の黒インクの刷りが色の層の背後からが透けてみえ、マリリンの写真
が保持していた陰影やディテールをいくぶんかは残していた。このとき選択された色も
薄橙色など人肌として比較的不自然ではない淡色系の色だったことを考え合わせてみる
と、顔の人工性を強調することが当初から目指されていたわけではなさそうだ。しかし
ウォーホルは次第に原色に近い鮮やかで強い色彩を用いるようになり、黒インクで刷ら
れたマリリンの顔は色彩の層に塗り込められていくことになる。それに応じて、黒イン
クが転写していたはずの顔のディテールや陰影も色彩の層に塗り込められていく。赤や
緑、黄色や青など鮮やかな色彩によって顔面、髪、背景とパーツごとに大胆に塗り分け
られることによって、マリリンの顔は次第に色面構成と化し、フラットさを強められる。
インクの塗り方はほぼ均一でインクの隆起などもないため、いっそう、顔のフラットさ
カムフラージュの技法
247
が際立つ。彼がコマーシャルの世界から︿芸術﹀の世界へと打って出ようとしていたと
き、彼の前にはペインタリーな抽象表現主義絵画が立ちはだかっていたのだが、ウォー
ホルの︽マリリン︾は大量生産されたポスターというほうが近いものになった。こうし
│ 平面性、目を て、一九六七年の︽マリリン︾の顔において、ウォーホルのスタイル │ が完成した。 奪う派手な色彩の構成、ディテールを剝奪された均質性といった諸特徴
そして顔が︿個﹀の賭けられるべき場処だったとすると、この過程は他方で顔が顔な
らざるものへと向かう過程でもあったと言える。肖像画は通常、 ﹁忠実な物理的類似性
をつかまえるという目的と、その描かれる対象を心理的に考察するという目的の、双子
の目的を目指してきた﹂ 。 だが、マリリン自身の顔との類似性を希薄化し、厚化粧の
輪郭を浮き立たせてしまい、作り込みすぎて失敗した化粧のようになる。こうしてマリ
接合されるため不自然である。色は顔のパーツごとに塗り分けられるため、各パーツの
たせてしまう。たとえば、顔面と髪の生え際を隔てる色彩の差異は、色面の対立として
接しあうパーツは自然な連続性を欠き対立し合って浮き立ち、顔の人工的な構成を際立
だが、ウォーホルの︽マリリン︾ではしばしば接しあう色彩が互いを主張し合うために、
るようにみえるが、化粧は普通、その人工性とは裏腹に自然にみえるのが肝要である。
に色を塗り分け、画面をフラットに均質的に整える仕方は一見化粧の原理と通底してい
リリンの顔を︿個﹀の場処としてみるどころか、その否定を意味した。顔のパーツごと
ごとき色彩の層でディテールを塗り込めて顔面を覆ってしまうウォーホルの行為は、マ
*16
248
リンの顔は平板化し、均質化し、画一化するとともに、人工性をあらわにする。ウォー
ホルは観者と︽マリリン︾のコミュニケーションに障壁を設け、このコミュニケーショ ンの仮想性、擬似性をちらつかせているのだ。
ウォーホルの︽マリリン︾のフラットな顔は、写真に刻まれていた陰影とディテール
が揺らめかせていた輝きを失い、けばけばしい色彩に塗り込められた、平板で画一的な
イメージと化している。マリリンの顔を人工的でフラットな顔とみせることで、ウォー
ホルはマリリンの︿顔﹀と観者のコミュニケーションの仮想性を暗示する。ウォーホ
そのコミュニケーションは擬似的なものだった
ルは自らの作品とのコミュニケーションへと観者を手招きしながら、皮肉をこめつつ
│
︽マリリン︾の顔を差し向けさせる のだ、と。 顔とカムフラージュ
しかしウォーホルの自動的作品生産システムは、ウォーホルをもっと先まで運んでしま
う。色彩を施された顔は化粧を施された顔を越えて、最後には輪郭をはみ出してせめぎ
合う色面の相互浸透として展開されていくことになるのである。当初、 ︽マリリン︾の
背景は単色で均一に塗られ、顔面は肌色、髪は黄色、唇は赤、アイシャドーは鴬色とい
うように、基本的に色面は顔を構成するパーツごとに塗り分けられ、色ごとの版の輪郭
カムフラージュの技法
249
はパーツの輪郭として示されていた。だからそれは顔としての相貌を保持していた。と
ころがこうしたパーツごとの塗り分けは、ときに版のずれによってパーツの輪郭線を
。輪郭をずらされることによって、目や口、髪といったパーツと 分断し、ずらす ︵図 ︶
。ここでは目が眼差しのやりとりを通じてコミュニケーションを誘発する器官 る ︵図 ︶
機能しなくなる作品が産出されてしまったことは、事態をいっそう進展させることにな
しての自立性が薄れ、顔は模様のようにみえてくる。とりわけ偶然にも目が目として
3
│
それが仮想的なものであれ
コミュニ
ターンやゆがみの要素を与えることになり﹂ 、 ウォーホルはこうした効果も積極的に
か。 ﹁シルクスクリーンの形式と過程の﹃失敗﹄は、しばしばイメージに関係のないパ
しかしウォーホルはこの事態からカムフラージュの技法を見出したのではなかろう
立せず挫折する境域にまで運ばれてしまうのである。
自律的作品産出システムによって擬似的、仮想的にすらもはやコミュニケーションが成
ケーションを成立させるものとして差し出していたのだが、その意図を超えて、自らの
ることでウォーホルは︽マリリン︾の顔を
│
はマリリンであることが肝要であり、マリリンの顔をそれと認識できる地点を保持す
なり、マリリンの顔とみていたものが単なる色面構成の産物とみえてくる。 ︽マリリン︾
ではなく、色のパーツと化している。すると観者と作品のコミュニケーションは不全と
4
落としていく。そしてついにはその名もまさしく︽カムフラージュ︾というタイトルの
活用する。以降、ウォーホルはカムフラージュの技法を逆手に取って暗示的作品を産み
*17
250
シリーズに行き着くのである。
︽マリリン︾においてはそもそも顔が存在していたのではなく、事態は反転して色面
構成にすぎないものが顔に偽装していたとみえてきた。そして後の作品をみていくと、
ウォーホルはカムフラージュの技法を次第に転調させつつ、積極的に採用していくこと
になる。つまり、偽装するための方法から偽装のうらに隠されるものを︿探す﹀ための
手法へとカムフラージュの技法を転調させてさかんに用い始めたのである。そもそもカ
ムフラージュとはあるものが何か他なるものを装って偽装する身振りをいうのだが、そ
カムフラージュの技法
251
れは同時にそのものの実体を隠すことでもある。カムフラージュは、隠されるべきもの
図4 《マリリン》 (口絵 8、1967 年)より
が存在するという約束のもとに作動する。たとえば︽シャドウ︾シリーズ ︵一九七八│七九、
図3 《マリリン》 (口絵 8、1967 年)より
図 ︶や︽ロールシャッハ︾︵一九八四、図 ︶をみてみよう。タイトルでこれが何かの影で
6
ジュというふたつの問題系 が交錯しつついっそう明瞭 に立ち現われてくる。顔と
ポートフォリオのひとつ)
カムフラージュという問題 系に対するウォーホルの身 振 り は 振 幅 を も っ て い て、 ときにどちらかが前景化さ れたり後退させられたりし ながらウォーホルの仕事を
図5 《シャドウズⅠ》 1979 年 ( 6 点のシルクスクリーン・
さらに七〇年代以降のウォーホルのポートレイト作品を参照すると、顔とカムフラー
りつけられ、そこに観者は何かを幻視し、読み込むようにと誘われるのだ。
物とも思われるその模様が描くものには何かが隠されているのだというメッセージを送
らない。そうしたことは暗示されるだけで、観者には隠蔽されている。しかし偶然の産
のしみの作り出した図柄をみても、そこにどんな心理状態を読み取るべきなのかは分か
るのだ。ロールシャッハテストが性格や心理状態を説明すると知ってここにあるインク
し出される以上、そこに影をみて影を作り出すものの実体を探すよう、観者は要求され
あることは分かっても、何の影なのかは分からない。しかし、影と言われそのように差
5
252
図8 《フランツ・カフカ》 1980 年 ( 《 20 世紀のユダヤ人 10 人の肖像》より)
貫いている。一九七二年の
図7 《ミック・ジャガー》 1975 年 ( 10 のポートフォリオのひとつ)
︽毛沢東︾のシリーズでは、
図6 《ロールシャッハ》 1984 年
まだ顔面と服、髪と背景が 異なる色に塗り分けられて いたのだが、一九七五年頃 からは顔と他の部分を隔て る輪郭が無視されて彩色を 施 さ れ る 作 品 が 登 場 す る。
︶や︽ 二 〇 世
ミ ッ ク・ ジ ャ ガ ー の 作 品 ︵一九七五、図
紀のユダヤ人十人の肖像︾
︶
シリーズで描かれたポート レイト作品 ︵一九八〇、図
いを深め、ついに顔は迷彩
ルはカムフラージュの度合
りと見て取れる。ウォーホ
にはこうした方向がはっき
8
模様に覆われて他のものと
カムフラージュの技法
253
7
紛らわしいものとなる ︵図 ︶ 。迷彩に隠れて背後からこちらを眼差す、そんな顔が繰り
。顔はせ 返し登場してくる。タイトルそのものも︽カムフラージュ︾の作品群だ ︵図 ︶
9
ハル・フォスターの論
仕事といった多くの大きな主題については饒舌におしゃべりをしたが、死のこととなる
文はこの問題を考えるのに大きなヒントを与えてくれる。ウォーホルは愛や美、名声や
なくてはならない。カムフラージュするウォーホルの身振り
│
ジュの技法の謎を解くには、この死というテーマとアーティストの主体の問題を検討し
メージ⋮⋮。ウォーホルはさまざまな死のモチーフを反復したのだったが、カムフラー
リリン、死の床にあると噂されたリズ・テイラー、自動車事故や自殺者、電気椅子のイ
では、カムフラージュの技法をどのように考えればよいだろうか。謎の死を遂げたマ
戯れとトラウマ
向かうしかない。
しているのではないか、迷彩の背後には何かが秘匿されているのではないか、と作品に
カムフラージュの技法を前にして、観者はそれでもこの迷彩を偽装する何ものかが存在
れているはずだと探してみても、そこには何もあるはずがない。しかし迷彩模様という
フレームを埋め尽くし、そこから透けて見えるものは何もない。こうなると何かが隠さ
めぎ合う色彩の背後に退く。しまいには迷彩模様だけが繁茂する植物のごとく増殖して
10
254
と様子は違った。フォスターはウォーホルの発言、 ﹁ぼくは死ぬということを信じてい
ない、起こった時にはいないからわからないからだ。死ぬ準備なんてしていないから何
もいえない﹂ を自らの思考の出発点とする。ウォーホルにとって死はつねに早すぎる
か遅すぎる。 ところでフォスターが端的に示しているように、ウォーホルの芸術のみ レファレンシャル
ならず、写真に依拠した戦後芸術に対する大半の読解は、ふたつの路線に分かれる。す
なわち、指示的なものとしてのイメージという読解と、シミュラークルとしてのイメー
ジという読解である。 そしてフォスターは、ウォーホルにおける死との︿出会い損ね﹀
をラカンにならってトラウマと呼ぶこととし、 トラウマ的リアリズム ︵トラウマ的題材を
*20
*21
図9 《ヨーゼフ・ボイス追悼》 1986 年
図 10 《カムフラージュ》 1987 年
用いたリアリズム︶という観点を導入することでふたつの路線を接合し、ウォーホル作品を
カムフラージュの技法
255
*19 *18
読み解こうとする。
トラウマ的リアリズムという観念をおし進めるひとつの方法は、 ﹁僕は機械になりた
い﹂という、ウォーホルの仮面の有名なモットーを通過することである。通常、この
せりふは芸術家も芸術も、じつは [神話的な存在でも何でもない]空っぽなのだということ
を確認するために引き合いに出される。しかしそれは空っぽな主体を指し示している
というよりも、ショックを受けた主体を指しているのであって、ショックを受けた主
体が、このショックに対する防御として模倣的に自分にショックを与えるものの性質 を身にまとっているのである。
﹁機械になりたい﹂ とつねづね語っていたウォーホルは、自己消去のアーティストと
*22
量消費の社会を反映する没個性的なものの記号として機能させたと読むことも間違って
機械になりきった彼が︽マリリン︾を画一的で人工的な顔にし、その顔を大量生産・大
ばなされてきたのは、ごくまっとうなことである。また通例ではそう説明されるように、
きったウォーホルが大量生産品をつくるように作品を作りつづけたという解釈がしばし
うちだといわんばかりにみえたのだ。ウォーホルの作業は用意周到だから、機械になり
術痕すら写真に撮影させて発表させたほどで、自己の死という究極の出来事すら計算の
されてきた。ウォーホルはヴァレリー・ソラニスに狙撃されて死の淵に立ったときの手
*23
256
はいない。だが、ウォーホルが必然的に自己という問題に向き合わされることになる自
身の﹁セルフ・ポートレイト﹂作品の数々と大量生産品の記号として評価されてきたシ
ルクスクリーンのポートレイト作品とを対にして考えるとき、 ︽マリリン︾の﹁顔﹂に 新しい視角がみえてくる。
ニコラス・バウムが述べるように、 ﹁ウォーホルのセルフ・ポートレイトはつねに仮面、
*25
影、カムフラージュ、そして死というものに言及している。多くの作品において、写
図 11 《女装のセルフ・ポートレイト》 1986 年
︶ 、影 の イ メ ー ジ
カムフラージュの技法
257
真におけるウォーホルの顔の痕跡は、すべてが消滅していく脅威にさらされている﹂ 。
、 髑 髏 を 頭 に の せ た り ︵図 ︶
図 12 《頭蓋骨をのせたセルフ・ポートレイト》 1981 年
*24
ウォーホルは女装やウィッグによる変装をしたり ︵図
11
12
になったりして ︵図 ︶ 、数々のセルフ・ポートレイトを残した。バウムは、ウォーホル
︿自己︲創造﹀の人工 ﹁ ︿個﹀は着ることのできる一種の服﹂ のようなもので、彼は﹁
の主題は︿個﹀を人工的につくりあげることだと説明している。ウォーホルにとって
13
性の快楽﹂ を楽しんでいるというのだ。すると、ウォーホルの変装写真の数々は、彼
*26
創造物のようにいくらでも改変可能なものではないし、だからといって決定的な確固た
あることを指し示す偽装工作、カムフラージュの身振りなのではないか。自己は人工的
ラスをし、女装をして周到に自己を隠蔽したようにみせて、逆に秘匿されるべき自己が
は、おかしい。そうではなくて、こうしたウォーホルの身振りは、厚化粧をしてサング
と、 ﹁ウォーホルの顔の痕跡はすべてが消滅していく脅威にさらされている﹂というの
せることだけが問題となるはずで、消滅の技法を用いる意味がなくなる。そうだとする
したら、そもそも消去すべき自己などすでになくただただ無数のヴァリエーションをみ
たということもできるだろう。けれども自己は着替えのようにつねに改変可能なのだと
ン化したように、ウィッグや衣裳のパターンで自己イメージを絶え間なく改変して戯れ
ることを楽しんでいただけなのだろうか。マリリンを色彩のパターンとしてエディショ
る。しかしウォーホルは自己を自由に作り上げいつでも衣服を着替えるように取り替え
は︿個﹀を人工的に創造するというウォーホルの身振りを裏づけているようにも思われ
とになろうか。たしかにウォーホルは自己イメージを操作して戯れていた。このこと
が人工的につくりあげた複数的な︿個﹀を軽やかに着こなした証拠物件とでもいうこ
*27
258
る自己が見出せるわけではない。観者はウォーホルの誘いにのって隠されたはずのもの
の痕跡を探し出そうとする。そしてそれは延々とつづけられるゲームの様相を帯びるだ
ろう。エディションのなかに次々と生み出されてほほえむ︽マリリン︾はどれもがマリ
リンでありながらどれもがマリリンではないから、終わらないマリリン探しのゲームが
始まるのだ。カムフラージュの身振りはこのようにイメージの戯れという軽やかな様相
も帯びるのだが、そして同時に不可能な顔を、自己の痕跡を幻視しようとする身振りで
もあったのではないか。顔との、自己との出会い損ねというショックは、繰り返される。
カムフラージュの技法
259
ウォーホルの自律的作品産出システムは、ウォーホル自身をも観者をもともに非決定性
( 3 連作のひとつ)
の織り成す差異の場所に宙吊りにし、そのただなかでマリリンを見よと要求しつづける
図 13 《セルフ・ポートレイト シャドウ》 1981 年頃
のだから。
こうして彼が憑かれたように繰り返し描きつづけた、何かの背後に消えかかったポー
トレイトの意味がみえてくる。ウォーホルが﹁機械になりたい﹂ということは、機械
になれない、ということだ。機械になりたくてなりきったのであれば、機械になるとい
うことはもはや問題にならない。しかも機械にはなれないが、別物になれるわけでもな
い。ウォーホルはこのアポリアにおいて、消滅という技法を見出したのである。消えゆ
く︿顔﹀が、消えゆく︿個﹀があるふりをする。メディア空間を浮遊するのはすでに顔
ならざる顔だ。そして顔をみたいという果たされることのない欲望のために、ウォーホ
ルはカムフラージュの技法を用いた。ウォーホルは顔を色彩の層に、迷彩の背後に隔て
。すでに見えない顔を描くためには、顔を見えにくくし隠されるべきもの ていく ︵図 ︶ れば、顔はそこに幻視されるはずなのだ。 顔の存在は死の存在なしには成立しない。ウォーホルにとって、 ﹁消滅
可能性を開くようにみえた一時代が去っていった。シルクスクリーンや映画、ロックバ
せず、死すらないところに立ち至っていたのだ。メディアが擬似コミュニケーションの
ホルはそもそも生きられたマリリンの顔などなく、擬似的コミュニケーションすら成立
ン︾においてついには擬似的にもコミュニケーションが頓挫させられた地点で、ウォー
ぞ果たされない未完のプロセスとしてある。六〇年代を通じて産み落された︽マリリ
死 = ﹂はつい
として描くしかない。ついには迷彩しか描かない。しかしカムフラージュのルールによ
14
260
マルチメディア・アーティスト、ウォーホ
ンド﹁ヴェルヴェット・アンダーグラウンド﹂とのコラボレーション、インタヴューの
│
みから成る雑誌﹃インタヴュー﹄の創刊
ルは生涯にわたって、さまざまなメディアを横断し、粛々と乱痴気騒ぎのゲームを反復 していく。
︽マリリン︾をそのひとつの端緒としてウォーホルは死のモチーフを追いつづけたが、
彼は自己の作品において﹁死がここにある﹂というのではなく﹁ここには死がない﹂と
いうことを反復するためにのみ、死のモチーフを手放さなかったのではないか。大量生
産品を作るために手の痕跡を消去していくようにみえたウォーホルの作品が七〇年代に
カムフラージュの技法
261
入って再び手の痕跡を湛え始めたのは、このことを考えるのに多くの示唆を与えてくれ
図 14 《セルフ・ポートレイト》 1978 年
る。 ウォーホルは死と出会い損ねつづけるなかで、手の痕跡を通して生の残滓を、死
しかし期待は挫
リリン︾は、ウォーホルがカムフラージュの身振りを手に入れる最初の地点にあった。
された作品が事態を推し進めて反転させ、色面が顔を偽装しているとみえてくる。 ︽マ
ンとしてエディション化し、増殖させていった。だが、自らのシステムにおいて産出
なかで、ウォーホルは軽やかにそして冥く︽マリリン︾の顔を色彩のさまざまなパター
かれるためにある。そもそも顔は存在しなかったのだから。メディアの浸透した社会の
見ることができるかもしれないというあわい期待が賭けられている
│
は色彩のせめぎ合うなかに隠されていく顔には、何か自己の痕跡のようなものを透かし
るものの価値を逆照射し、かたちづくる行為でもあることだ。色彩の層の下に、あるい
ここで改めて思い起こされるのは、カムフラージュという行為がカムフラージュされ
の残滓を作品に取り戻そうと見果てぬ夢をみつづけたのではないか。
*28
頁︶引用は邦訳に拠った。
Andy Warhol and Pat Hackett, POPism: The Warhol ’60 s, New York: Harcourt Brace │ The Warhol ’60s ﹄ 、高島平吾訳、リブロポート、一九九二年、三五 Jovanovich, 1980, p. 22︵﹃ . ポッピズム
ウォーホルの︽マリリン︾には︿顔﹀がなく、 ︿個﹀もなく、 ︿死﹀すらなかった。
1
262
About Face: Andy Warhol Portraits, exhibition catalogue, Hartford and Pittsburgh: The を参照。 Wadsworth Atheneum and The Andy Warhol Museum, 1999
一三枚のうち二枚の例外を除いて、マリリンの顔ひとつで構成される作品のサイズは二〇
一九六〇年代後半になると、ポートレイト一般のサイズは、四〇インチ× 四〇インチに定着。
インチ× 一六インチで制作されている。 Georg Frei, ed., Andy Warhol Catalogue Raisonné: Paintings and Sculpture 1961-63, London: Phaidon Press, 2002, p. 227. Ibid., p. 249.
Nicholas Baume, “About Face,” About Face: Andy Warhol Portraits, p. 86. シルクスクリーンは、ポスターや看板の製作などコマーシャル・アートで用いられてきた技法
︵公共事業促進局︶の要請の下、連邦美術計画の一環として、オリジナ
W P A
関 し て は、 Benjamin H. D. Buchloh, “Andy Warhol’s One-Dimensional Art: 1956-1966,”
ウォーホルは六六年の時点でもシルクスクリーンを擁護しなくてはならなかった。この点に
ン︾をシルクスクリーンに作品化した六二年に解散している。
影で社会主義リアリズムや風俗画は低調で、同協会は奇しくもウォーホルがはじめて︽マリリ
ラフィ協会が誕生する。しかし、一九五〇年代から六〇年代は抽象表現主義絵画が興隆する
一九四〇年には、商業的利用と区別する目的でセリグラフィと命名されてナショナル・セリグ
ルの芸術作品を購入する余裕のない大衆にも入手可能な版画として制作され、注目を浴びた。
慌下アメリカで、
絵画としても芸術としては拒絶されてきたシルクスクリーンであったが、一九三〇年代の大恐
で、とくに第一次世界大戦頃からアメリカで商業的技術として発達してきた。版画としても
5
Annette Michelson, ed., October Files: Andy Warhol, Cambridge, Mass. and London: MIT Press, 2001, p. 21. Donna De Salvo, “God is in the Details: The Prints of Andy Warhol,” Andy Warhol Prints: a Catalogue Raisonné 1962 - 1987, Frayda Feldman and Jorg Schellmann, eds., rev. and
カムフラージュの技法
263
2 3 4 6 7 8
expanded by Frayda Feldman and Claudia Defendi, New York: D. A. P./Distributed Art Publishers in association with R. Feldman Fine Arts: Andy Warhol Foundation for the Visual │ アンディ・ウォーホルの版画﹂、﹃アンディ・ウォーホル Arts, 2003, pp. 21-22︵﹁ . 神はディテールに宿る
全版画﹄ 、木下哲夫訳、美術出版社、二〇〇三年、二二頁︶この時期、イラストレーションを描いていた
ウォーホルへの注文も減ってきていたという。
ポラロイド作品やウォーホルと写真の関わりに焦点を当てた書物などの刊行が相次ぎ、注
目 を 集 め て い る。 と く に Andy Warhol: Photography, exhibition catalogue, New York and が詳しい。 Pittsburgh: Edition Stemmle and The Andy Warhol Museum, 1999 Buchloh, “Andy Warhol’s One- Dimensional Art: 1956-1966,” p. 21. Thomas Crow, “Saturday Disasters: Trace and Reference in Early Warhol,” October Files: Andy
Warhol, p. 51.
たことは重要である。マリリンが活躍した映画メディアは、歴史的には移民労働者たちがア
マリリンの顔が大量生産・消費されることになった背景には、スター・システムの発達があっ
メリカ的生活様式を知る手っ取り早い手段であり娯楽としてアメリカ国民の創生に寄与した
メディアだった。制作と上映を系列化するブロッキング制度が発達して﹁メジャー﹂の独占体
制がハリウッドに確立されるようになると、全国的な映画の配給が可能になり、国民的映画ス
ターも数多く誕生するようになった。ラジオのネットワーク化や地方新聞のチェーン化、さら
に決定的に作用したテレビの全国放送の開始によって、全国的に話題が共有されることになる。
・ ・ケネディの若々しいイメージが僅差でリードしていた対立候補のニ
こうしてスター・システムも強固なものになる。一九六〇年にはほぼ全世帯にテレビは普及し、 テレビ討論での
F
Baume,“About Face,” p. 92後 . 述するように、バウムは、顔に課せられたこのような要請 を ウォーホルが必ずしも批判的にとらえていたわけではないことも同時に指摘していることに
クソンを追い落としてこの若き大統領を誕生させていた。
J
9 10 11 12 13
264
留意。
性の私性化について論じるユルゲン・ハーバーマスの議論は、アメリカ社会におけるマリリ
メディア論はしばしば公私の区分を前提に論じられることが多いが、メディアによる公共
│
市民社会の一カテゴリーについての探求﹄ 、細谷貞雄・山田正行訳、未來
ン・モンローの存在について考えるのに示唆にとむ。ユルゲン・ハーバーマス﹃[第二版]公 社、一九九四年、二二七頁を参照のこと。
共性の構造転換
Arthur C. Danto, Philosophizing Art: Selected Essays, Berkeley: University of California Press, 1999, p. 81. Baume,“About Face,” p. 87. Ibid., pp. 89-90. Andy Warhol, The Philosophy of Andy Warhol: from A to B and back again, New York: Harcourt Brace Jovanovich, 1975, p. 123︵﹃ . ぼくの哲学﹄、落石八月月訳、新潮社、二〇〇二年、一六七
Hal Foster, “Death in America,” October Files: Andy Warhol, p. 69.
頁︶引用は邦訳に拠る。
Ibid., pp. 69-72.
反復﹂の]このセミネールにおいて、ラカンは現実との出会い損ねをトラウマ的なものと定義
フォスターは述べている。 ﹁[ウォーホルの︽アメリカにおける死︾シリーズとおおよそ同時代の﹁無意識と
している。し損ねられたがゆえに現実は表象されえない。それはただ反復されうるだけであり、
浮遊するシニフィアンの]シミュレーションという意味での再生産ではない。むしろ、反復はトラ
まさに反復されねばならない﹂ 、 ﹁ウォーホルにおける反復は [指示対象の]表象や [純粋なイメージ、
ウマ的と理解される現実を遮蔽するのに役立つ。しかしまさにこの要求が現実を指し示し、反 0
0
0
0
0
0
0
。フォスターが次のように指摘してい 復という遮蔽幕を切断するのはこの点においてである﹂ 0
0
ることに留意。反復とはそれによってトラウマの効果を失わせトラウマを統御する防衛的方法
カムフラージュの技法
265
0
14 15 16 17 19
18 20 21
22 23 24 25 26 27 28
でもあるが、同時にそこにおいてはトラウマを生産してしまうという矛盾が起こる。また、強
︶という彼の言葉遣いには、反復強迫が含意されている。右 の引 迫的反復 ︵ compulsive repetition
用はすべて Ibid., pp. 72-73傍 . 点はフォスターによる強調。 Ibid., p. 71. Gene Swenson, “What Is Pop Art? Answers from Eight Painters, Part I,” Art News, no. 62, Nov. 1963, p. 26.
フ・ポートレイト写真もそれで頻繁に撮影するようになる。ウォーホル作品におけるポラロ
ウォーホルは一九七〇年にポラロイドの﹁ビック・ショット﹂カメラを入手して以後、セル
イドの意味については、 Vincent Fremont, “Sometime around 1970, Andy Warhol Bought a Polaroid Big Shot Camera,” Andy Warhol: Photography, p. 157. Baume, “About Face,” p. 97.
Ibid., p. 92. Ibid., p. 97.
ディアは、大量生産品に取り巻かれる現代社会において、差異をもって︿個性﹀を表わそう
手の痕跡を排除し、版の刷りによるヴァリエーションだけで作品を増大させていくというアイ
とする社会に捧げるにふさわしかった。しかし、七〇年代以降に本格化したポートレイトの注
文仕事では、他の後期の作品と同様、ウォーホルの手描きの輪郭線が目立っている。ウォーホ
ルのポートレイト作品を大量生産品の象徴とみる延長で、後期の作品における手の痕跡の増大 タナトス
エロス
を芸術的後退、回帰とみる向きもある。また、このようなウォーホルの眼差しの変化を、日向 ト、一九八七年、一五三│一七三頁︶ 。
あき子は﹁死 ︵シルク絵画︶から生 ︵映画︶へ﹂で考察している ︵﹃アンディ・ウォーホル﹄、リブロポー
266
編者あとがき
︽モナ・リザ︾の顔がないではないか、と難詰する方もいらっしゃるかもしれない。フェル
メールやラ・トゥールの光や明かりに照らされた静かな横顔もないではないか、いや、マネ
の︽オランピア︾はどこにいったのか、クレーが描くすべて本質的に天使のものでしかない
あのイノセントな顔はどうした、と言う方もいることだろう。だが、言うまでもなく、われ
われははじめから美術史上の﹁顔﹂のべスト七を選ぶことを試みたわけではない。七という
およそ七つの
│ ﹁顔﹂の
数字は、最低限の多様性を保証するぎりぎりの閾という意味で要請されたものであり、また それ以上のものではない。
│
さ ま ざ ま な 異 な っ た 時 代 か ら、 個 別 的 で 具 体 的 な 描 か れ た
読解・分析を通して、絵画というものの謎めいた秘密に接近すること、それこそわれわれが ここで試みようとしたことである。
顔は、見えるもののただなかにあって、見えるものでありながら、しかし他の見えるもの
とはまったく違っている。そのことは、誰でも少しでもみずからの経験を反省してみればた
ちどころに理解できるはずである。われわれは、他の物体や風景を見るようには、顔を見る
ことができない。逆に言えば、顔はけっしてそこにそう見えている物体というわけではない。 ル・プレザンタシオン
それは、強いて言えばエピファニーと呼ぶにふさわしいものなのだ。
だ が、 そ う だ と す る と、 顔 は、 厳 密 な 表 象、 す な わ ち 再︲ 現 前 の 原 理 か ら 出 発 し た︵ 西
267
欧︶絵画において、ある意味ではその可能性を危うくするものでもある。顔は表象可能性の
彼方に﹁ある﹂のである。顔という限界現象が、表象をその限界にまで連れ出すと言っても
いいかもしれない。その意味で絵画はつねに顔を目指し、顔を欲望していたのでもある。絵 画とは顔の問いである。逆に顔こそが絵画が何であるかを照らし出す。
この顔の問いを、われわれはそれぞれの画家のコンテクストのなかで問うてみようとしたの である。
本書の出発点は、二〇〇一年度に東京大学大学院総合文化研究科・超域文化科学専攻 ︵表象
文化論︶で 開 講 し た﹁ 顔 ﹂ を 主 題 と し た 講 義・ セ ミ ナ ー に あ る。 大 学 院 生 を 中 心 と し た 若 い
研究者たちの発表の水準がかなり充実していたことを受けて、わたしとしては﹃文学の言語
された十数本のレポートをわたしの責任において審査し、優秀作を数名選び出し、レポート
行為論﹄︵未來社刊︶に引き続いて、もう一度共同論集を出すことを計画した。年度末に提出
を出発点にして論文へと発展的に書き直すことを命じたものである。本来ならば、その作業
はすみやかに終了して出版にまでこぎつける予定であったが、わたしの多忙も含む諸般の事
情で進行は遅れた。その間、若い研究者たちは自分たちで研究会を組織し読み合わせをした
り相互批判をして改稿につとめた。当初のレポートより格段に深化し発展した論となったも
のである。少し時間が経過したこともあって、当初の計画とは違った部分も出てきたが、全
体として﹁絵画とは何か?﹂という共通の問いが深められたことは、わたしとしては嬉しく 思っている。
268
人文系の若い研究者たちの論文発表の場が急速に縮小、いや消滅しかかっている現今の出版
状況を日頃から憂いているわたしの言葉を聞いて、﹃文学の言語行為論﹄に続いて今回もま
た積極的に協力を惜しまなかった未來社社長・西谷能英氏には、今回の執筆者全員とともに
お礼を申し述べたい。また個人的にも、氏の変わらない友情に感謝を捧げる。また、編集の
面で全面的にお世話になったのが、未來社の若き編集者・中村大吾氏である。かつてフラン
小林康夫
ス語ほかの教師でもあったわたしの編著に丁寧な編集作業で対応してくれた氏にも﹁ありが とう﹂を申し上げる。
二〇〇五年五月一五日
269
執筆者プロフィール
小林康夫︵こばやしやすお︶一九五〇年生。東京大学大学院博士課程、パリ第一〇大学大学院博士課程修了。現在、東京大学大学院
総合文化研究科教授。表象文化論、哲学、フランス文学。著書に、 ﹃不可能なものへの権利﹄ ﹃無の透視法﹄ ︵ともに書肆風の薔薇︶ 、 ×
﹄ ︵共著、思潮社︶ 、 ﹃青の美術史﹄ ︵ポーラ文化研究所、のちに平凡社ライブラリー︶ほか。編著書に、 ﹃知の技法﹄ ﹃知の論
﹃起源と根源﹄ ﹃大学は緑の眼をもつ﹄ ﹃表象の光学﹄ ︵ともに未來社︶ 、 ﹃光のオペラ﹄ ﹃身体と空間﹄ ︵ともに筑摩書房︶ 、 ﹃モデルニテ
3
│
スティーヴン・ショアの写真について﹂ ︵ ﹃アメリカ研究﹄三七号︶ 、 ﹁ ︿あわい﹀の感覚、歴史の形象
身体﹄東京大学出版会︶ほか。
ガール﹄ ︵共編、三修社︶ 、論文に﹁アレゴリー的身体
│
アンドレ・ブルトンにおけるシュルレアリスムの論争と実践﹂ ︵修士学位論文︶ほか。
東松照明試論﹂ ︵ ﹃芸術
│ ﹃幻
トゥルニエ﹃フライデー、あるいは太平洋の冥界﹄論﹂ ︵ ﹃言語態﹄四号︶ 、 ﹁ミシェル・レリスとアフリカ人女性
のアフリカ﹄から﹃フルビ﹄へ﹂ ︵ ﹃レゾナンス﹄二号︶ほか。
性行動
│
大原宣久︵おおはらのりひさ︶一九七七年生。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍中。フランス文学。論文に、 ﹁無人島の
﹁応答と待機
│
橋本悟︵はしもとさとる︶一九八〇年生。東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍中。フランス文学、表象文化論。論文に、
人形装置と︿聖なる憂い﹀ ﹂ ︵小林康夫・松浦寿輝編﹃表象のディスクール
世紀美術、ドイツ文化研究、ジェンダー論、表象文化論。著書に、 ﹃ダダの性と身体﹄ ︵ブリュッケ︶ 、編著書に、 ﹃ベルリンのモダン
香川檀︵かがわまゆみ︶一九五四年生。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、武蔵大学人文学部教員。二〇
/批評﹄一号︶ほか。
│
メリカ論、写真論、表象文化論。著書に、 ﹃現代写真のリアリティ﹄ ︵共著、角川書店︶ 。論文に、 ﹁ロードの感覚、イメージの出来事
日高優︵ひだかゆう︶一九七二年生。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、群馬県立女子大学講師。現代ア
﹁ゴダール的連結と﹁正しさ﹂の問題﹂ ︵ ﹃表象文化論研究﹄三号︶ 、 ﹁マティスの決断﹂ ︵ ﹃未来﹄二〇〇五年二月号︶ほか。
平倉圭︵ひらくらけい︶一九七七年生。東京大学大学院学際情報学府博士課程在籍中。イメージ分析、哲学、生態心理学。論文に、
同﹃インファンス読解﹄ ︵共訳、未來社︶ 、デリダ﹃シボレート﹄ ︵共訳、岩波書店︶ 、デュラス﹃緑の眼﹄ ︵河出書房新社︶ほか。
來社︶ 、ほか。訳書に、 ﹃ミシェル・フーコー思考集成﹄ ︵共編訳、筑摩書房︶ 、リオタール﹃ポスト・モダンの条件﹄ ︵書肆風の薔薇︶ 、
理﹄ ﹃知のモラル﹄ ﹃新・知の技法﹄ ﹃表象のディスクール﹄ ︵共編著、いずれも東京大学出版会︶ 、 ﹃文学の言語行為論﹄ ︵共編著、未
3
3
美 術 史 の つの 顔
定価
発行
編者 発行者
二〇〇五年六月一五日
七 ̶
二 ̶ 八七三八五 ̶ 五 五 二 一︵ 代 ︶ ̶
本 体︵ 二 六 〇 〇 円 + 税 ︶ 小林康夫 西谷能英 株式会社未來社 東京都文京区小石川三 三 ̶ 三八一四 ̶
振替 〇〇一七〇
http://www.miraisha.co.jp/
電話 〇三
©Yasuo Kobayashi 2005
戸田ツトム+鈴木美里
ISBN4-624-71088-6 C0071
造本装幀
印 刷・製 本 萩 原 印 刷
発行所
7