シ ベ リア の 歴 史
加 藤 九 祚
精選復刻 紀伊國屋新書
は
じ
め
に
る古 い墓 地 を他 の場 所 へ移 し 、 そ の跡 を 公 園 に か え る作 業 が行 な わ れ て いた 。 市 の発 展 と ...
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シ ベ リア の 歴 史
加 藤 九 祚
精選復刻 紀伊國屋新書
は
じ
め
に
る古 い墓 地 を他 の場 所 へ移 し 、 そ の跡 を 公 園 に か え る作 業 が行 な わ れ て いた 。 市 の発 展 と と も に付 近 に 住 宅 が 密
一九 四 九 年 ご ろ 、 東 部 シベ リ ア の由 緒 あ る都 市 イ ル ク ー ツ ク で は 、 市 街 の山 の手 (ア ンガ ラ川 岸 と 反 対 ) に あ
集 し 、 し か も係 累 の な い墓 が多 いと み え て墓 地 内 は す で に か な り 荒 れ て いた が 、 一帯 が 市 の中 心部 を川 岸 ま で 一
望 の も と に 見 わ た せ る 高 台 であ る た め 、 夏 の夕 暮 と も な ると 幾 組 も の若 い男 女 の語 ら い の場 所 に な って い た 。 だ
か ら 、 こ の墓 地 を 公 園 に改 修 す る こと は 、 新 ら し い時 代 の処 置 と し て か な ら ず し も 不 当 と は思 わ れ な か った。 ロ
シ ア 正 教 独 特 の十 字 架 の下 に 名 前 を刻 み こ ん だ 石 の墓 が 、豪 壮 な も のか ら貧 弱 な も のま で無 数 に 並 ん で い た が 、
テ ギ ン (新 蔵 の ロ シ ア名 )、 ヒ ョド ル ・ ス テ パ ノ ビ チ ・ソ テ フ コ フ (庄 蔵 の ロシ ア 名 ) と いう 名 の つ つ ま し い墓
主 の な い墓 石 は ど し ど し 公 園 の石 塀 や 石 だ た み な ど に か わ って い った 。 そ の中 に 、 ニ コラ イ ・ペ ト ロビ チ ・ コ ロ
石 は な か った だ ろ う か。
に あ った 日本 語 教 習 所 の教 師 を し て 生 涯 を終 った も の で あ る 。 一七 九 二年 光 太 夫 ら の帰 国 願 い が か な え ら れ て イ
こ の両 名 は いず れ も伊 勢 の漂 民 大 黒 屋 光 太 夫 の 一行 で、 凍 傷 のた め に 足 を 手 術 し 、 イ ル ク ー ツ ク に残 って こ こ
ルク ー ツ ク出 発 の際 は 、 庄 蔵 は ま だ病 院 に い た が 、 前 も って 、 光 太 夫 と 一緒 に 帰 国 し た磯 吉 の旅 宿 へよ び 出 さ れ 、
や が て 悲 痛 な 別 れ を 告 げ ら れ る 。 ﹃北 槎 聞 略 ﹄ の こ の 一節 は 、 いわ ば 〝イ ルク ー ツ ク の別 れ 〟 と も題 す べ き 印 象
的 な 一状 景 で あ る。
﹁さ て 五 月 に 至 り漸 々舶 よ そ お ひ も 調 し よ し に て 、 二 十 日 の己 の刻 計 り に イ ル コ ツ カ を発 足 す 。 か ね て療 病 院
よ り 庄 蔵 を 磯 吉 が旅 宿 へよ び よ せ お き し が 、 わ ざ と 発 足 の事 をば か く し お き 、 立 ぎ は に俄 に いと ま ご ひ を な し け
互 の面 を 見 お く べ し と 、 ね ん ご ろ に離 情 を の べ、 い つま で お
れ ば 、 庄 蔵 は只 呆 れ て物 を も いわ ず 忘 然 と し た る 体 也 し が、 光 太 夫 立 よ り 手 を と り て、 今 別 れ て 再 び会 べ き と も お ぼ え ず 、 死 し て別 る ゝ も 同 じ 道 な れ ば 、 よ く 〓
し む と も つき せ ぬ な ご り な れば 心 よ わ く て は 叶 は じ と 、 彼 邦 の な ら いな れ ば 、 つと よ り て 口 を 吸 い、 思 ひ き り て
か け 出 せ ば 、庄 蔵 は 叶 は ぬ足 に て 立 あ が り こけ ま ろ び 、 大 声 を あ げ 、 小 児 の如 く な き さ け び悶 へ こが れ る 。 道 の
ほ ど暫 のう ち は そ の声 耳 に の こ り て腸 を断 計 に お ぼ え け る 。 同 じ 国 土 のう ち に て し ば し の別 れ だ に も 生 別 離 ほ ど
か な し き は な き な ら ひ な る に 、 ま し て 此年 月 の辛 苦 を し のぎ 、 生 死 を と も に と た の し み も の ゝ、 し か も 不 具 の身
と な り て同 行 の者 に別 れ 、 異 国 に残 り 留 る 事 な れ ば 、 さ ば か り の か な し み も 理 り な り。﹂ (亀 井 高 孝 校 訂 ﹃北 槎 聞
略 ﹄ 五 一︱ 五 二頁 ) 光 太 夫 ら の後 、同 じ く 漂 流 民 と し て シベ リ ア を経 由 し た 石 巻 の津 太 夫 ら 一行 は 、 一七 九 六年
(寛 政 八 )イ ル ク ー ツ ク で こ の新 蔵 に会 い、﹁誠 に 不思 議 の面 会 に て候 な ど と 申 し候 。 扨 段 々 の次 第 奉 行 へ申 達 候
様 子 に て相 済 み 、 其 上 に て 即 新 蔵 同 道 に て、 同 人 宅 へ連 れ 参 り 、 家 内妻 へも 逢 わ せ 申 侯 。 右 妻 何 か 挨 拶 有 レ之 候
得 ど も 、 言 葉 通 不 レ申 、相 分 り か ね候 ﹂ と つた え 、新 蔵 が す で に ロ シ ア婦 人 と の あ いだ に 男 子 二 人 、 女 子 一人 を も
う け 、 の ち さ ら に後 妻 を め と った こ と を報 じ て いる。 (大 槻 玄 沢 著 ﹃環 海 異 聞 ﹄ 一六 八 ︱ 一六 九 頁 )
シ ベ リ アと 日 本 と の関 係 は、 最 近 刊 行 さ れ た ア メリ カ の レ ン セ ンや ソ連 の フ ァ イ ンベ ルク の 日露 交 渉 史 にか ん
て い る。 た と え ば 、 一九 六 三年 二 月 ︱ 三 月 長 崎 県 の福 井 洞 穴 (北 松 浦 郡 吉井 町 ) か ら 日 本 で は じ め て 土 製 、 石 製
す る 著 作 で も重 要 な位 置 を し め て いる が 、 こ の関 連 は遠 い旧 石 器 末 以 後 す で に 存 在 し た 可 能 性 が あ る と 考 え ら れ
の ﹁有 孔 円 板 ﹂ 三個 (石 製 品 は破 片 ) が 発 掘 さ れ た 。 こ の有 孔 円 板 と 呼 ば れ る も の は 、 隆 起 線 文 土 器 の破 片 を 加
工 し た と 思 わ れ る直 径 六 ・五 セ ン チ、 厚 さ七 ミ リ の土 製 品 、 直 径 一 一 ・四 セ ンチ 、 厚 さ 五 ミ リ の大 小 二 つ の砂 岩
質 の石 製 品 で 、 ど ち ら も第 三 層 で 細 石 器 と 共 存 し て いた。 考 古 学 者 芹 沢 長 介 氏 は こ れ に つ い て、 ﹁シ ベ リ ア の マ
ルタ 遺 跡 で出 土 し た 貝 製 品 や、 中 国 東 北 部 の チ チ ハ ルに 近 い昂 々渓 に あ る オ ロ ス (俄 羅 斯 ) 貝 塚 から 出 た 土 製 品
を 仲 立 ち と し て 、 日 本 と 大 陸 と の関 連 が つか め そ う ﹂ と 重 視 し て い る こ と が報 ぜ ら れ て いる 。 ( ﹃朝 日新 聞 ﹄ 昭 和
三 十 八 年 三 月 十 六 日夕 刊 ) マ ルタ 遺 跡 は バ イ カ ル湖 の近 く に あ る シベ リ ア最 古 の遺 跡 の ひ と つで 、 後 期 旧 石 器 時 代 末 に属 す る も のと 推 定 さ れ て いる 。
ま た 岡 正 雄 教 授 は、 仮 説 的 で は あ る が、 日本 に お け る ﹁先 史 時 代 の いち ば ん 古 い、 こん に ち ま で わ か って いる
も っと も古 い層 位 は、 シベ リ ア、 少 な く と も 東 部 シ ベ リ ア の方 に連 関 が あ る こと は否 定 で き な い と思 う ﹂ と の べ 、
江 上 波 夫 教 授 は ﹁大 勢 と し て は北 方 ユー ラ シ ア の旧 石 器 時 代 か ら新 石 器 時 代 に至 る古 代 文 化 が 、 満 鮮 あ る い は 日
本 島 ま で 、 す な わ ち北 太 平 洋 岸 ま で波 及 し て 、 そ れ ら の 地 方 の最 古 の文 化 層 を 形 成 し た と いう こ と も いち お う 考
え ら れ る よ う に思 う ﹂ と 語 って い る。 (平 凡 社 版 ﹃日本 民 族 の起 源 ﹄ 一九 八︱ 二 〇 五 頁 )
ま た ア イ ヌ の原 郷 の問 題 で も シ ベ リ ア は 重 要 な 位 置 を し め て い る。 ソ連 では 多 く の学 者 (た と え ば シ ュテ ル ン
ベ ルグ ) が 南 方 説 (東 南 ア ジ ア方 面 の オ ー スト ロネ シ ア系 と す る説 ) を と って いる の に た いし 、 日本 で は 、 た と
え ば岡 正雄 教 授 の ﹁アイ ヌ族 文 化 に お け る狩 猟 お よ び 河 川 漁撈 的 性 格 、 そ の文 化 的 諸 要 素 の シベ リ ア的 色 彩 な ど
を も あ わ せ 考 え 、 ア イ ヌ は か つて き わ め て遠 い過 去 に お い て、 ウ ラ ル族 と 比較 的 に 近 接 し た 地 域 に いた の で は な
いか ﹂ と いう 想 定 に み ら れ る よ う に、 シ ベ リ ア説 が 比 較 的 有 力 で あ る 。 ( 前 掲 書 二 九 九 頁 ) こう し た 北 方説 の傍
証 と し て は 、 江 上 波 夫 教 授 に よ る アイ ヌ の チ ャ シ (丘 岬 に つづ く背 後 の部 分 に 空 濠 、 土 塁 な ど を 設 け て 、 これ を
区 切 って、 そ の細 長 い三角 形 の 地面 内 に竪 穴 を作 って 住 む 一種 の堡 砦 ) と 西 シ ベ リ ア の ゴ ロ デ ィ シ チ ェ (フ ィ
ン ・ウグ ル族 の紀 元 前 後 の遺 跡 ) と の類 似 説 、 大 林 太 良 氏 に よ る ア イ ヌ家 屋 の原 型 と フ ィ ン ・ウ グ ル族 のそ れ と
の同 一系 統 説 な ど が あ げ ら れ る。 し か し こ の説 に つ い て も 少 な か ら ぬ難 点 が 指 摘 さ れ て い る 。 (レ ー ビ ン ﹃極 東
諸 民族 の人 種 人類 学 お よ び 人 種 起 源 の問 題 ﹄ 民 族 学 研 究 所 論 集 第 三 六 冊 二 八 五 ︱ 二 九 五頁 )
新 石 器 時 代 に お け る 沿 海 州 の文 化 と東 南 ア ジ ア や 日本 の文 化 と の連 関 に つ いて は 、 レ ナ川 岸 の村 落 に 生 れ育 っ た有 名 な シ ベ リ ア考 古 学 者 オ ク ラ ー ド ニ コ フが く り か え し 力 説 し て い る。
こう し て、 シ ベ リ ア の古 代 に か ん す る知 識 は 日本 の古 代 文 化 を語 る う え で必 須 の も の と な って お り 、 そ の中 世 以 後 の 歴 史 も ま た 日 本 の歴 史 と 無 関 係 と は いえ な い の であ る 。
シ ベ リ ア の歴 史 は 、 以 上 の べ た よ う に、 古 く か ら 日本 と の 関 係 が 想 定 さ れ る に も か か わ らず 、 いわ ば東 洋 史 と
西 洋 史 と の中 間 に あ って 、 し か も 言 語 や資 料 の制 約 の た め に 、 日本 で は こ れ ま で系 統 的 な か た ち で あ つ か わ れ た
ェグ ロ フ、 ア ンド リ エビ チ 、 オ グ ロブ リ ン、 ブ ツ ィ ン スキ ー 、 オ ク セ ー ノ フ、 オ ゴ ロ ード ニ コ フな ど 多 く の学 者
こと は な か った 。 ソ連 で は 革 命 以 前 か ら 、 十 八 世 紀 の ミ ル レ ル以 後 ス ロ フ ツ ォ フ、 シ チ ャポ フ 、 ワ ー ギ ン、 シ チ
の シ ベ リ ア史 概 説 や 研 究 書 が発 表 さ れ てき た が 、 さら に 最 近 で は ノ ボ シ ビ ル スク に あ る科 学 ア カ デ ミ ー ・ シベ リ
ア 支 部 の業 績 と し て 大 量 の研 究 書 が出 版 を 予 定 さ れ て いる 。 本 書 は 限 ら れ た 資 料 に よ る 未 熟 な 労 作 で は あ る が 、
わ が国 で は じ め て遠 古 か ら 現 代 ま で の シベ リ ア の歴 史 を 概 観 し よ う と し た試 み で あ る。
目
第 七 章 ロシ ア 人 の シベ リ ア 進 出 と 移 住
第 六 章 紀 元 一千 年 紀 の シ ベ リ ア
第 五章 紀 元 前 一千 年 紀 以 後 の シ ベ リ ア
第 四章 青 銅 器 時 代 の シベ リ ア
第 三章 シベ リア の新石 器時代 文化
第 二章 最古 の時代 の文 化
第 一章 シベ リア の自然
八八
六八
六一
四六
三八
二七
一 八
九
次
第 八 章 シ ベ リ ア と流 刑
一 〇〇
三
第 九 章 シ ベ リ ア への自 由 移 民 と 産 業 の発 達
一 二二
は じめ に
第 十 章 シ ベ リ ア の教 育 制 度
第 十 三章 シ ベ リ ア の少 数 民 族
第 十 二章 シ ベ リ ア の歴 史 ・地 理 に関 す る主 要 な 古 文 献 (十 七 ︱ 十 八世 紀 )
第 十 一章 ロ シ ア革 命 と シベ リ ア
一五九
一 三五
一 二四
一 八七
一 七八
文献
二〇一
第 十 四章 シベ リ ア の開 発 と そ の展 望 ︱︱ 結 び に か え て
あと がき
第 一章 シベ リ ア の自 然
ソ連 で は ふ つう 、 シベ リ ア と いう 地 域概 念 のう ち に極 東 地 方 と よ ば れ る地 域 は 含 ま れ な い。 ﹁シ ベ リ ア ﹂ は面
積 約 一〇 〇 〇 万 平 方 キ ロ で、 西 は ウ ラ ル山 脈 東 麓 か ら東 は 太 平 洋 側 の分 水 嶺 ま で を さ し 、 ﹁極 東 地 方 ﹂ に は そ れ
以 東 の全 ソ連 領 土 (面 積 約 三 五 〇 万 平 方 キ ロ) が 含 ま れ る。 本 書 で は便 宜 上 、 シ ベ リ ア の範 囲 を ウ ラ ル山 脈 以東
央 シ ベ リ ア、 南 シ ベ リ ア山 地 、 北 東 シ ベ リ ア山 地 、 お よ び極 東 地 方 (こ こ で は 沿 海 州 、 ア ム ー ル
広 大 な シベ リ ア の大 地 は 地 形 的 に見 て 五地 域 に分 け て考 え ら れ る 。 す な わ ち 西 シ ベ リ ア低 地 、 中
太 平 洋 岸 ま で の大 陸 部 ソ連 領 (カ ザ フ ス タ ン お よ び中 央 ア ジ ア を の ぞ く ) と 考 え る こ と にす る。
地形 の概観
川 下 流 域 、 カ ム チ ャ ツ カ な ど) で あ る。
西 シベ リ ア 低 地 は 、 北 は カ ラ海 か ら 南 は カ ザ フ スタ ン の ステ ップ ま で約 二 五〇 〇 キ ロ、 西 は ウ ラ ル山 脈 か ら 東
は エ ニ セイ 川 ま で約 二 、 〇 〇 〇 キ ロ の 地域 で、 面 積 は 約 二 〇 〇 万 平 方 キ ロ で あ る。 標 高 一〇 〇 ︱︱ 二〇 〇 メ ー ト
ル の ほ と ん ど 理 想 的 に平 ら な低 地 で 、 南 半 分 で は 西 方 お よ び西 北 方 へわ ず か に傾 斜 し て いる 。 オ ビ 川 の落 差 は ノ
ボ シ ビ ル スク か ら 河 口ま で約 三 、 〇 〇 〇 キ ロに つ い て わ ず か 九 〇 メ ート ル にす ぎ な い。 ま た オ ビ 川 や イ ルテ ィ シ
シ 川 と のあ いだ の広 大 な ワ シ ュガ ニ エ湿 地 は 代 表 的 で あ る 。 南 の バ ラ ビ ン ス ク草 原 お よ び ク ル ン ジ ン スク 草 原 で
川 の河 谷 は幅 数 十 キ ロに達 し て い る。 川 と 川 と の あ いだ の 地 域 に は湿 地 や 沼 地 が 多 く 、 と く に オ ビ 川 と イ ルテ ィ
は 高 さ 二︱ 一五 メ ー ト ル の帯 状 の尾 根 が 北 東 方 に何 本 も走 って い る。 幅 は ま ち ま ち で 、 長 さ は数 キ ロ に達 す る。
中 央 シ ベ リ ア は 、 西 は エ ニ セイ 川 、 南 は東 サ ヤ ン山 地 、 沿 バ イ カ ル 地 方 お よ び ザ バ イ カ ル 地 方 北 部 、 東 は ウ ェ
ル ホ ヤ ン スク 山 脈 山 麓 に接 す る 地 域 で あ る。 こ の中 に は タ イ ミ ル半 島 の山 地 と 低 地 、 中 央 シ ベ リ ア台 地 、 ヤ ク ー
チ ヤ中 央 低 地 など が 含 ま れ る 。 タ イ ミ ル半 島 の ビ ラ ン ガ 山 地 (標 高 約 一、 一〇 〇 メ ー ト ル) の南 方 エ ニ セイ 川 、
オ レ ニ ョク 川 お よ び ハタ ン ガ 川 下 流 部 には 北 シ ベ リ ア低 地 が ひ ろ が る。 中 央 シ ベ リ ア台 地 は 地質 学 的 に は シ ベ リ
ア ・プ ラ ト フ ォー ム に 属 し てお り 、 標 高 約 五 〇 〇 ︱ 七 〇 〇 メ ー ト ル、 河 谷 によ って 深 く 侵 食 さ れ て い る 。 北 西 部
のプ ト ラ ナ 山 地 が 高 く 、 標 高 一、 五 〇 〇 ︱ 一、 七 〇 〇 メ ー ト ル に達 す る 。 台 地 は ほ ぼ ニジ ニ ャ ヤ ・ツ ング ー スカ
川 、 ア ン ガ ラ川 、 ビ リ ュイ 川 な ど の流 域 に属 す る が 、 ま れ に 輝 緑 岩 、 玄 武 岩 か ら な る山 稜 が 見 ら れ る ほ か は 水 平
台 地 を な し 、 水 の流 れ場 が な く て 湿 地 に な って い る と ころ も あ る。 ヤ ク ー チ ヤ 中 央 低 地 は 標 高 約 七 五 ︱ 二 〇 〇 メ
ート ル、 そ の いち じ る し い部 分 が レ ナ川 や ビ リ ュイ 川 の段 丘 で占 め ら れ て い る。 ア ルダ ン高 原 は平 均 標 高 五〇 〇 ︱ 八 〇 〇 メ ー ト ル で南 は ス タ ノ ボ イ 山 脈 の北 麓 に達 し て い る。
南 シベ リ ア 山 地 は 、 北 方 の平 原 お よ び 台 地 と 中 央 ア ジ ア高 原 と を 分 か ち 、 ア ルタ イ 山 地 、 サ ヤ ン山 地 、 ト ゥ ー
バ 地 方 、 沿 バ イ カ ル地 方 、 ザ バイ カ ル 地 方 、 スタ ノ ボ イ 山 脈 な ど が 含 ま れ る 。 山 脈 は ふ つう 標 高 一、 五 〇 〇 ︱ 二 、
五 〇 〇 メ ー ト ル で 、 山 脈 と 山 脈 と は 深 い河 谷 や広 大 な構 造 盆 地 に よ って へだ て ら れ て い る。 山 地 の西 端 に な る ア
ルタ イ 山 地 が も っと も 高 く (ベ ル ー へ山 四 、 五 〇 六 メ ー ト ル)、 け わ し く て狭 い稜 線 上 に先 端 の尖 った 頂 上 が そ
び え て い る。 ア ルタ イ に は 約 八 〇 〇 の氷 河 が あ り、 総 面 積 は約 六〇 〇 に達 す る。 雪 線 は 二 、 三 〇 〇 ︱ 三 、 五 〇 〇
って い る 。 ザ バ イ カ ル地 方 のゆ る や か な 山 な み の あ い だ に は波 状 の起 伏 を も つ広 い盆 地 が あ り 、 ステ ップ 的 様 相
メ ート ル。 バ イ カ ル湖 周 辺 の山 地 は 標 高 一、 五 〇 〇 ︱ 二 、 〇 〇 〇 メ ー ト ル、 大 部 分 西 南 西 か ら東 北 東 に 平 行 に走
を 示 し て い る。 な お 、 ア ル タ イ か ら バ イ カ ル湖 周 辺 一帯 は 地 震 が 多 い。
北 東 シ ベ リ ア山 地 は西 は レナ 川 、 東 は コリ マ山 脈 の あ い だ の地 域 で、 外 縁 は ウ ェル ホ ヤ ン ス ク山 脈 、 コリ マ山
な って い る。 ウ ェル ホ ヤ ン スク 山 脈 の南 東 部 が も っと も 高 く 、 標 高 二 、 九 五 九 メ ー ト ル に達 す る。 チ ェル スキ ー
脈 に と り ま か れ て い る 。 海 岸 低 地 か ら ヤ ナ川 、 イ ンデ ィギ ル カ川 、 コリ マ川 の下 流 域 に か け て ひ ろ く 低 地 が つら
山 脈 は こ の山 脈 と ほ ぼ 平 行 に走 る が、 いた ると ころ 深 い河 谷 と 古 代 氷 河 の痕 が あ り 、 人 間 の近 づ き に く い難 所 と
な って い る 。 イ ンデ ィギ ル カ川 と オ ホ ー タ川 の上 流 に は 約 二 〇 〇 以 上 の氷 河 が 発 達 し、 中 に は 長 さ 一〇 キ ロ にわ た るも のがあ る。
極 東 地 方 で は 、 ま ず 北 端 に チ ュク チ (ア ナ デ ィ ル) 山 脈 (最 高 一、 八 〇 〇 メ ー ト ル) が走 り 、 そ の南 に は ア ナ
ツ ク 海 岸 に沿 って ジ ュグ ジ ュ ル山 脈 が 走 る が、 標 高 は ふ つう 五〇 〇 ︱ 一、 五 〇 〇 メ ー ト ルで 、 多 く の川 が急 流 と
デ ィ ル低 地 (標 高 二 〇 〇 メ ー ト ル 以 下 ) が ひ ろ が る。 そ の南 に ベ ー リ ン グ海 岸 に沿 って コリ ヤ ー ク山 脈 、 オ ホ ー
な って海 に 注 い で い る。 ブ レヤ 山 脈 の東 斜 面 と シ ホ テ ・ア リ ン山 脈 の西 斜 面 と の あ いだ に あ る 興 凱 湖 周 辺 お よ び
ア ム ー ル川 下 流 域 の低 地 は 、 ア ム ー ル川 と ウ ス リ ー川 に よ って灌 漑 さ れ る が 、 標 高 約 一〇 〇 メ ート ル、 多 く は
湿地 と な って い る。 シ ホ テ ・ア リ ン山 脈 (標 高 八 〇 〇 ︱ 一、 〇 〇 〇 メ ー ト ル) は 日 本 海 岸 の方 が 急 斜 面 で、 西 側 は
比較 的 ゆ る や か であ る 。 比 較 的 新 ら し い玄 武 岩 か ら な る台 地 に は し ば し ば 湿 地 が見 ら れ る。
カ ム チ ャ ツ カ も 大 部 分 山 地 で、 約 一八 〇 の火 山 が あ り 、 う ち 二 三 は 活 火 山 で あ る 。 こ の半 島 最 高 の ク リ ュチ ェ
フ ス カ ヤ火 山 (四 、 七 五 〇 メ ー ト ル) は そ の秀 麗 な 山 容 に よ って 有 名 であ る 。 中 央 山 脈 の西 側 よ り も 東 側 の方 が
急 斜 面 を な し 、 中 央 山 脈 と東 部 山 脈 と の あ い だ に は幅 六 〇 キ ロに 達 す る低 地 が あ る。
気 候
シ ベ リ ア 、 そ れ よ り東 の極 東 地 方 の三 つに 区 分 し て 考 え ら れ る。 気 候 の説 明 に は こ の 方 が便 利 で あ る。
シベ リ ア は ま た ウ ラ ル か ら エ ニ セ イ 川 ま で の西 シ ベ リ ア と、 エ ニ セ イ 川 か ら 太 平 洋 側 分 水 嶺 ま で の東
シベ リ ア の気 候 は ま った く 大 陸 性 気 候 であ るが 、 わ ず か な が ら 大 西 洋 か ら の気 団 の影 響 を 受 け る西 シベ リ ア と
一六 ︱ 五 〇 度 位 で 、東 に 寄 る ほ ど 寒 く な る 。 年 間 降 水 量 は オ ビ 川 、エ ニ セイ 川 の中 流 で四 〇 〇 ︱ 五 〇 〇 ミ リ 、南 端
大 陸 性 の度 合 い の き び し い乾 燥 し た東 シ ベ リ ア と で は か な り 異 な って い る 。 西 シベ リ ア の 一月 の平 均 気 温 は 零 下
お よ び北 西 端 で 二〇 〇 ︱ 三 〇 〇 ミ リ で あ る 。 雨 は夏 に多 く 、 雪 は 北 部 で九 月 、 南 部 で十 一月 に は じ ま る。 雪 解 け
は 四 ︱ 五 月 。 積 雪 量 は オ ビ 川 、 エ ニセ イ 川 の下 流 で約 九 〇 セ ン チ、 西 シベ リ ア の南 端 で 三 〇 ︱ 四 〇 セ ン チ であ る。
東 シ ベ リ ア は 大 西 洋 と 太 平 洋 の影 響 が そ れ ぞ れ同 じ 位 で、 し か も き わ め て僅 少 で あ る。 ヤ ク ー チ ヤ東 部 では 七
月 の最 高 気 温 と 一月 の最 低 気 温 と の差 が 九 五度 ︱ 一〇 五 度 に達 す る 。 ヤ ク ー チ ヤ地 方 で は 冬 季 零 下 四 〇 度 以 下 の
日 が 多 く 、 世 界 の寒 極 と も いわ れ るウ ェル ホ ヤ ン ス ク、 オ イ ミ ャ コ ン で は 最 低 気 温 約 七 〇 度 を 記 録 し た 。 全 体 と
し て西 シ ベ リ ア よ り は約 二〇 度 低 い。 ま た 北 氷 洋 の オ ビ 湾 よ り も 、 そ こか ら 二 、 〇 〇 〇 キ ロ南 にあ る チ タ の方 が
は る か に寒 い こ と も 注 意 さ れ る。 年 間 降 水 量 は 一〇 〇 ︱ 四 〇 〇 ミ リ 。 大 部 分 夏 に降 る。 雪 は九 月 末 か ら十 月 に か
け て降 り は じ め 、 積 雪 は お よ そ 一〇 ︱ 四 〇 セ ン チ 、 雪 解 け は 四 月 末 ︱ 六 月 で あ る。 東 シ ベ リ ア の南 部 で は ま れ に
き な 特 徴 で あ る。 こ のた め 、 き び し い寒 さ も 比 較 的 耐 え やす い。
旱 魃 の年 が 見 ら れ る。 な お 、 東 シ ベ リ ア の冬 は シベ リ ア高 気 圧 の支 配 下 に あ り 、 無 風 、 晴 天 の 日 が多 い こと は 大
極 東 地 方 は 太 平 洋 岸 の幅 五 〇 〇 ︱ 一、 〇 〇 〇 キ ロ の地 帯 であ る が 、 モ ン ス ー ン気 候 が そ の特 徴 で あ る 。 ま た 冬
は 北 方 か ら 海 岸 沿 い に寒 気 が南 下 し 、 大 陸 奥 地 か ら の風 が 卓 越 す る 。 こ のた め 太 平 洋 の影 響 は 比 較 的 少 な く 、 ウ
ラ ジ ボ ス ト ク で も 非 常 に寒 い。 湿 気 は 太 平 洋 か ら 入 り、 年 間 降 水 量 は チ ュク チ半 島 で 一〇 〇 ︱ 二〇 〇 ミ リ 、 カ ム
チ ャツ カ南 西 部 お よ び沿 海 州 で七 〇 〇 ︱ 一、〇〇〇 ミ リ で あ る。 沿海 州 で は 圧 倒 的 に 八 ︱ 九 月 に雨 が多 い。 降 雪
ン チ 以 上 、 沿海 州 の大 部 分 は 二 〇 ︱ 四 〇 セ ン チ、 雪 解 け は 五︱ 六 月 で あ る 。 風 は 、 冬 は 大 陸 か ら、 夏 は海 か ら 吹
は チ ュク チ半 島 で 九 月 末 、 沿 海 州 で 十 一月 初 旬 に は じ ま り 、 積 雪 量 は 樺 太 お よ び カ ム チ ャツ カ南 東 岸 で 一二〇 セ
で い る。 これ ら の川 は水 量 の多 い こと が大 き な特 徴 の ひ と つ で、 た と え ば エ ニ セイ 川 は 下 流 部 で年 間
シ ベ リ ア の大 河 は 間 宮 海 峡 (タ タ ー ル海 峡 ) に そ そ ぐ ア ム ー ル川 を の ぞ い て、 ほ と ん ど 北 氷 洋 に 注 い
く こと が 多 い。
水 系
五 四 八 立 方 キ ロ (ボ ルガ 川 の二 倍 )、 オ ビ 川 は 三 九 〇 立 方 キ ロ、 ア ム ー ル川 は 三 四 六 立 方 キ ロ の水 を 流 す 。 ほ と
ん ど の川 は南 シベ リ ア の山 地 に発 し 、 春 の雪 解 け と 夏 の雨 の水 を流 す が 、 こ のた め季 節 に よ る水 位 の変 動 が 大 き
い。 夏 のは じ め オ ビ 川 や レナ 川 で は 下 流 部 で 一〇 メ ー ト ル、 エ ニ セ イ 川 は 一五 ︱ 一八 メ ート ル、 ニジ ニ ャヤ ・ツ
ン グ ー スカ 川 は じ つに 二 〇 ︱ 二 三 メ ー ト ル も水 位 が 上 が り、 広 大 な 地 域 に氾 濫 す る 。 川 は暖 か い期 間 に 一年 間 の
総 流 量 の八〇 ︱ 九 〇 パ ー セ ント を流 す が 、 た と え ば ヤ ナ川 な ど は夏 季 の最 大 流 量 は 冬 季 の最 小流 量 の五 〇 〇 倍 に
達 す る。 氷 結 期 間 は 川 に よ って も ち が う が、 北 部 で 八カ 月 、 南 部 で 五カ 月 以 上 で あ る。 東 シ ベ リ ア では 川 が 底 の
方 か ら 凍 る現 象 や、 ま た 氷 上 に あ ふ れ出 た 水 や 地 下 水 が盛 り あ が って厚 く 凍 る ナ レジ の現 象 も 見 ら れ る。 河 川 交
通 で は オ ビ 川 と ア ム ー ル川 が も っと も 重 要 で 、 イ ル テ ィ シ川 (オ ビ川 の支 流 ) に は 一八 三 七 年 シ ベ リ ア最 初 の汽
え る が、 氷 結 期 間 の長 い のが な に よ り の難 点 で あ る 。
船 が 出 現 し 、 主 と し て軍 隊 や囚 人 の護 送 に用 い ら れ た 。 現 在 シベ リ ア の川 の可 航 距 離 の総 延 長 は 一〇 万 キ ロを越
シ ベ リ ア の川 の包 蔵 水 力 は 全 ソ連 の五 四 パ ー セ ント (極 東 地 方 の川 を のぞ く ) に達 し 、 そ の圧 倒 的 部 分 は 東 シ
ベ リ ア に集 中 し て い る。 と く に エ ニ セイ 川 と そ の支 流 ア ン ガ ラ 川 に最 近 続 々と 建 設 さ れ て い る大 水 力 発 電 所 の こ
と は 日 本 で も よ く 知 ら れ て いる 。
湖 で は構 造 盆 地 に形 成 さ れ た バ イ カ ル湖 、 テ レ ツ コ エ湖 な ど が 有 名 であ る が 、 と く に バ イ カ ル湖 は そ の多 数 の
に お け る南 か ら 北 への景 観 帯 の変 化 は 、 三 、〇〇〇 メ ー ト ル以 上 の高 山 を登 ると き の植 物 景 観 の
シ ベ リ ア は 植 物 景 観 に よ って いく つ か の地 帯 に分 け ら れ る。 大 ざ っぱ な 比 喩 であ る が 、 シベ リ ア
固 有 種 動 物 と と も に 、 そ の成 因 に つ い ても 少 な か ら ぬ謎 を 秘 め て いる 。
植 物 と動 物
移 り か わ り を想 起 さ せ る。 山 のふ も と に草 原 が あ ると し て (ス テ ップ に 相 当 )、 中 腹 一帯 に樹 林 が ひ ろ が り (森
う し て 頂 上 は 荒 れ た 裸 の岩 場 であ る が 、 こ れ は極 地 の荒 野 に相 当 し よ う 。 こ う し た景 観 帯 の変 化 が 正 確 な 帯 状 を
林 地 帯 に相 当 )、 山 頂 に 近 づ く に つれ て植 物 が低 く ま ば ら に な り 、 や が て 苔 類 だ け と な る (ツ ンド ラ に 相 当 )。 そ
な し て 重 な って い る のは 西 シベ リ ア で あ る 。
ツ ンド ラ は ウ ラ ル山 脈 北 部 か ら コリ マ川 ま で 、 北 氷 洋 岸 沿 い に幅 約 五 〇 〇 ︱ 六 〇 〇 キ ロで 切 れ目 な く つづ い て
い る 。 シ ベ リ ア 北 部 の典 型 的 ツ ンド ラ は 、 川 と 川 と の あ いだ に低 く ゆ る や か な 丘 陵 の つら な る平 原 であ る 。夏 、
こう し た 丘 上 に立 って周 囲 を 見 ま わ す と 、 一面 緑 褐 色 の コケ類 に お お わ れ 、 と ころ ど ころ 大 き な斑 点 の よ う に 鮮
や か な 地 衣 類 が 密 生 し て い る。 ま た そ こ こ こ に明 緑 色 の草 に縁 ど ら れ た 無 数 の 小 湖 が に ぶく 光 り、 わ ず か に低 く
な った 場 所 や 狭 い 凹 地 に は 北 極 ヤ ナギ や倭 小 な カ ン バ類 が 生 え て い る。 典 型 的 ツ ンド ラ に は 樹 木 ら し いも の は ま った く な い。
沿 岸 で は 平 均 気 温 零 度 以 上 の 月 は 二カ 月 だ け で あ る。 太 陽 のほ と ん ど 沈 ま な い七 月 で も 月 の平 均 気 温 は 摂 氏 一〇
シ ベ リ ア の ツ ンド ラ帯 は 、 雪 に お お わ れ た 冬 が 八カ 月 以 上 つづ き 、 夏 は 約 三カ 月 に す ぎ な い。 タ イ ミ ル半 島 の
度 以 下 で あ る 。 夏 季 に 地 表 の ほ ん の 一部 が と け るだ け で、 そ の下 は 永 久 凍 土 であ る。 湖 沼 の水 深 は ふ つう 三〇 ︱
四 〇 セ ン チ を越 え な い が、 水 の下 は 同 じ く 永 久 凍 土 で あ る。 年 間 降 水 量 は 一〇 〇 ︱ 三〇 〇 ミ リ 。 植 物 の種 類 は 約
四 〇 〇 を 数 え る が、 す べ て気 候 に順 応 す べ く 低 く 地 を は って お り、 ほ と ん ど が多 年 性 で常 緑 で あ る。 これ は短 か
い春 と夏 に葉 を つく る エネ ルギ ー を は ぶ き 、 わ ず か な 光 と 熱 を す べ て成 熟 に利 用 す るた め であ る。 ツ ンド ラ は 冬
季 低 温 のた め に地 表 が細 か く ひ び 割 れ る極 北 ツ ンド ラ 、 そ の少 し 南 の コケ ・地衣 類 ツ ンド ラ 、 さ ら に そ の南 の低
ト ナ カ イ は 冬 期 ヤ ゲ リ (俗 に ﹁ト ナ カ イ ゴ ケ﹂ と よ ば れ る ) を飼 料 と す る が 、 こ れ を 足 の蹄 で 雪 か ら 掘 り出 し て
木 ツ ンド ラ に 分 け ら れ る が 、 こ のう ち 経 済 的 に 重 要 な も の は ト ナ カイ 飼 養 に役 立 つ コケ ・地 衣 類 ツ ンド ラ であ る。
食 す る 。 ヤ ゲ リ の生 育 は じ つに 緩 漫 で、 年 間 約 二 ︱ 三 ミ リ にす ぎ ず 、 一度 放 牧 し た と こ ろ は 五︱ 一〇 年 間 使 え な
いと い わ れ る。 動 物 は ト ナ カ イ 、 レ ミ ング 、 小 ネ ズ ミ に似 た 小動 物 な ど で あ る が種 類 は 少 な い。
ツ ンド ラ帯 の南 、 タ イ ガ と よ ば れ る森 林 帯 と のあ い だ は 森 林 ツ ンド ラ と よ ば れ る過 渡 的 地 帯 で あ る。 こ の地 帯
の冬 は極 北 ツ ンド ラ の場 合 よ り も 一カ月 以 上短 か く 、 七 月 の平 均 気 温 は 八 ︱ 一〇 度 で あ る。 積 雪 も 比 較 的 多 い。
こ の地 帯 の特 徴 は と ころ ど こ ろ樹 木 の見 ら れ る こと で あ る が、 し か し 樹 齢 一〇 〇 ︱ 一五 〇 年 を 数 え る カ ラ マ ツ で
も 直 径 一〇 ︱ 一五 セ ン チ位 で あ る。 南 に な る に つれ て樹 木 は高 く な る が、 樹 種 に はカ ラ マツ 、 モミ 、 シ ラ カ バ な
ど が多 い。 こ の地 帯 の住 民 の 生 業 は主 に ト ナ カ イ 飼 養 であ る 。 ト ナ カイ は交 通 機 関 と し て も 重 要 で、 冬 期 道 が よ
け れば 二 頭 立 て橇 に 二 五 〇 ︱ 三 〇 〇 キ ロを積 ん で 一日 二 五︱ 三 〇 キ ロ走 る こ と が で き 、 一五 〇 キ ロほ ど の荷 物 な
ルと さ れ て い る。 (ミ ハイ ロ フ ﹃シ ベ リ ア﹄ 一六 五 頁 )
ら ば 一日 五 五 ︱ 六 〇 キ ロを 走 破 で き る。 一頭 の ト ナ カ イ が ひ と 冬 必 要 な ツ ンド ラ の面 積 は約 五〇 ︱ 七 〇 ヘク タ ー
森 林 ツ ンド ラ の南 に は 、 シ ベ リ ア の誇 る 大 森 林 地 帯 (タ イ ガ ) が ひ ろ が る。 樹 種 は マツ、 カ ラ マツ、 モミ 、 シ
ラ カ バ な ど で あ る が 、 欧 露 と は ち が って針 葉 樹 が 圧 倒 的 に多 い。 年 間 降 水 量 は 三 五〇 ︱ 五〇 〇 ミ リ で、 エ ニ セイ
川 以 東 で は雪 が少 な く 、 い た ると ころ 永 久 凍 土 が 見 ら れ る。 カ ラ マ ツ は湿 地 の建 築 材 と し て 優 れ て い る が 、 比 重
って 翌 年 の夏 と け る こと に よ って確 保 さ れ る。 同 じ 理 由 に よ って 、 こ の地 帯 で は農 耕 も 可 能 で あ る。 夏 季 で も 地
が 重 く 川 に流 す と 沈 む こと が難 点 で あ る。 永 久 凍 土 地 帯 で の植 物 の水 分 は 、 雪 解 け に よ る ほ か、 前 年 の秋 雨 が 凍
下 一︱ 二 ・五 メ ー ト ル以 下 で は凍 結 し て い る た め、 樹 木 の根 は 主 に横 に の び 、 し た が って風 によ る倒 木 が少 な く な い。 こ の密 林 に は リ ス、 テ ン、 ク マな ど の動 物 が 住 ん で い る 。
ゴ ド と よ ば れ 、 秋 口 に黒 ま た は 紫 の実 が で き る が 、 猟 師 な ど にと って渇 を い やす 有 力 な 食 料 であ る。 十 八 世 紀 末
さ て森 林 ツ ンド ラ帯 お よ び森 林 帯 の地 表 に は高 さ 約 二〇 ︱ 二 五 セ ン チ の常 緑 の低 木 が 密 生 し て い る。 こ れ は ヤ
シ ベ リ ア を 旅 行 し た 大 黒 屋 光 太 夫 は こ れ に つ いて 、 ﹁葉 は 細 に て茎 は 蔓 のご と く 地 上 には ひ、 節 々よ り根 を 生 す 。
も唇 も く ろ く 染 る﹂ と の べ て い る。 (﹃北 槎 聞 略 ﹄ 二 七 二 頁 ) ま た ツ ンド ラ お よ び森 林 帯 で は 夏 季 グ ヌ ー ス と よ ば
子 は麦 門 冬 のご と く に て 青 黒 色 な り 。 八 月 此 熟 し た る を と り 、 桶 に つめ お き 、 冬 中 菓 子 と な す 。 こ れ を 食 え ば 舌
れ る ブ ヨ のよ う な 吸 血 虫 が無 数 に発 生 し 、 湿 地 で は蚊 が も のす ご い。 こ れ ら は 人 間 や動 物 の生 活 に大 き な 影 響 を
あ た え る。 原 住 民 や移 民 た ち は これ に悩 み、 ク マで さ え も こ れ を 避 け て 風 通 し の よ い斜 面 な ど に逃 げ ると いう 。
光 太 夫 は ﹁昼 夜 と な く 蚊 夥 敷 、 乗 た る馬 の見 へざ る程 に と り つき 、 鼻 口 辺 よ り は 血 の し た ゝ る に至 る ﹂ と の べ て
いる 。 (前 掲 書 五 五頁 ) た だ グ ヌ ー スや 蚊 は 一般 に朝 露 の乾 い た後 に猛 威 を発 揮 し は じ め る。
ア か ら 中 央 シ ベ リ ア を 経 て ヤ ク ー ト 地 方 に達 し 、 じ つ に 一五 〇 万 平 方 キ ロを焼 き は ら った 。 タ イ ガ の焼 け 跡 が も
森 林 帯 は しば し ば 山 火 事 の た め に大 損 害 を受 け る 。 た と え ば 一九 一五 年 春 か ら 夏 に か け て の山 火 事 は 西 シベ リ
と ど お り にな る の は じ つに 困 難 で 、 一〇〇 年 以 上 も の歳 月 を 要 す る と いわ れ る。
西 シ ベ リ ア の揚 合 、 森 林 帯 の南 に は森 林 ステ ップ 帯 が ひ ろ が る。 これ は ウ ラ ルか ら オ ビ 川 ま で幅 約 二〇〇 ︱ 三
〇 〇 キ ロ、 ス テ ップ のな か に シ ラ カ バな ど の樹 林 が斑 点 のよ う に点 在 す る 地 帯 で あ る。 年 平 均 気 温 は 二度 か ら 零
で、 主 要 な農 業 地 帯 を 形 成 し て い る 。
下 二度 の あ い だ で、 年 間 降 水 量 は 三 〇 〇 ︱ 四〇 〇 ミ リ 。 こ の地 帯 の特 徴 の ひ と つは チ ェル ノ ゼ ムと よ ば れ る土 壌
西 シ ベ リ ア の最 高 部 に は幅 約 一〇 〇 キ ロの ま った く 樹 木 のな い ス テ ップ 帯 が 見 ら れ る 。 こ の地 帯 の景 観 は 単 調
で、 集 落 間 の距 離 も か な り遠 い。 年 平 均 気 温 は ふ つう 零 度 以 上 で、 春 は 短 か く 、 急 速 に 暑 い夏 が や って く る。 七
ッ歯 目 の も の が多 く 、 鳥 類 は カ モな ど き わ め て 豊 富 で あ る 。
月 には ま れ に 四〇 ︱ 四 二度 に達 し、 年 降 水 量 は 二〇 〇 ︱ 三 五 〇 ミ リ、 こ れ も 年 に よ って 差 が激 し い。 動 物 で は ケ
極 東 地 方 の南 部 で は 広 葉 樹 林 の あ る こと が 重 要 な 特 徴 で あ る。 シ ベ リ ア鉄 道 で南 下 す ると 、 樹 種 の変 化 がし 車窓
か ら よ く 見 え る。 し か し 全 体 と し て は 針 葉 樹 が多 く 、 全 体 の四 分 の 三 を 占 め て い る。 興 凱 湖 沿 岸 お よ び ゼ ー ヤ ・
ブ レヤ 平 原 は 独 特 の森 林 ステ ップ の景 観 を 示 し て い る。 ウ ス リ ー地 方 では ト ラ や ク マが い る が 、 こ の地 方 の自 然
と 動 物 の状 態 に つ い て は 日本 で も ア ル セ ー ニ エ フ の ﹃ウ スリ ー紀 行 ﹄ な ど に よ って紹 介 さ れ て い る。
第 二章 最古 の時代 の文化
シベ リ ア に 人類 が 進 出 し た の は、 今 か ら 三 ︱ 四 万 年 前 、 ト ナ カ イ や北 極 ギ ツ ネ 、 タ ビ ネ ズ ミ な ど と と も に マ ン
モ スや 毛 サ イ の生 存 し て い た ビ ュ ル ム期 以 後 の時 代 で あ ろ う と さ れ て い る。 す な わ ち 現 在 ま で 判 明 し て い る シベ
リ ア 最 古 の遺 跡 は 旧 石 器 時 代 も 末 期 に属 す る も の で、 地 質 学 者 の研 究 に よ れ ば 、 シ ベ リ ア の主 要 河 川 の段 丘 が す
で に 形 成 を 終 って い た時 期 の こ と で あ る 。 こ の時 代 に ヨー ロ ッパ で は ソ リ ュー ト レ期 が終 り、 新 ら し い マド レ ー
ど の遺 跡 が 、 二 五〇 〇 万 年 の古 さ を も つと いわ れ る バ イ カ ル湖 か ら あ ま り遠 く な い地 域 に分 布 し
シ ベ リ ア最 古 の遺 跡 で あ る イ ル ク ー ツ ク陸 軍 病 院 構 内 の遺 跡 、 ア ン ガ ラ川 岸 の マ ル タ、 ブ レ チ な
ヌ 期 が は じ ま って いた 。 東 シ ベリ ア
て い る こと は 興 味 深 い。 こ のう ち 一八 七 一年 イ ルク ー ツ ク 陸 軍 病 院 構 内 で 発 見 さ れ た 住 居 址 は、 マ ン モ ス の牙 製
の彫 刻 品 (大 き な 環 を 含 む ) お よ び装 飾 品 、 月 桂 樹 葉 状 の石 製 槍 首 な ど か ら 判 断 し て 、 年 代 的 に 最 古 で あ る と さ
れ て い る が 、 残 念 な が ら出 土 遺 物 が 一八 七 九 年 の火 災 で焼 失 し 、 発 掘 も そ の後 行 な わ れ て いな い。
マ ルタ 遺 跡 は 一九 二八 年 に、 ブ レ チ 遺 跡 は 一九 三 六年 に発 見 さ れ 、 前 者 は主 と し て ゲ ラ シ ー モ フ、 サ スノ フ ス
キ ー に よ って 、 後 者 は オ ク ラ ード ニ コフ に よ って 調 査 さ れ た 。 こ の両 遺 跡 の年 代 に つ い て は 学 者 間 に意 見 が 分 か
れ て い る が、 オ ク ラ ード ニ コ フ に よ ると 、 陸 軍 病 院 構 内 の遺 跡 よ り も 少 し 後 代 の同 一時 期 に属 し 、 ヨ ー ロ ッパ的
ル ク ー ツ ク か ら 約 八〇 キ ロ) に あ り 、 直 線 距 離 で三︱ 四 キ ロし か は な れ て いな い。 出 土 品 の文 化 的 特 徴 も お ど ろ
標 準 で いえ ば マド レ ー ヌ初 期 に あ た る。 両遺 跡 は と も に バ イ カ ル湖 か ら 流 出 す る ア ン ガ ラ川 の流 域 (マ ルタ は イ
く ほ ど 類 似 し て お り 、 同 一グ ル ープ の住 民 の遂 次 的 移 動 の跡 で あ る か、 あ る い は 相 互 に 密 接 な 関 係 に あ る 二 つ の グ ル ープ の同 時 代 の住 居址 で あ ろ う と 考 え ら れ て い る。
な り 細 部 ま で明 ら か に さ れ て い る が 、 そ の主 な特 徴 は 、 長 期 間 の使 用 を め ざ し た 強 固 な 住 居 か ら な る集 落 で あ っ
マ ル タ で は約 八〇〇 平 方 メ ー ト ル以 上 、 ブ レ チ で は 約 四 〇 〇 平 方 メ ー ト ル の土 が掘 返 え さ れ、 遺 跡 の内 容 は か
た こと で あ る。 マ ルタ 遺 跡 は 一九 五 九年 に 発 掘 調 査 を 終 った が、 そ の う ち 比 較 的 保 存 のよ い住 居址 に つ い て見 る
と 、 長 さ 四 メ ート ル、 幅 三 メ ー ト ル の石 灰 岩 の板 に よ って 区 切 ら れ た長 方 形 を な し 、 中 央 に 三 枚 の石 板 か ら な る
炉 が あ った 。 炉 と そ の周 辺 に は多 量 の灰 が あ り、 近 く に マ ン モ ス の牙 と 四個 の女 性 裸 像 が 発 見 さ れ た 。 動 物 の遺
骨 で は ト ナ カイ が 圧 倒 的 に多 く 、 マン モ ス、 毛 サ イ 、 北 極 ギ ツネ な ど も ま じ って いた が 、 こ れ ら は遺 跡 が 明 ら か
に狩 猟 民 に属 し て い る こと を 示 し て い る。 住 居 の形 式 は 多 様 で、 円 形 のも の、 方 形 のも の、 夏 季 用 のも の、 冬 季
用 の半 地 下 室 な ど が あ った 。 石 器 と し て は、 小 さ い石 刃 を利 用 し た 尖 頭 器 、 彫 器 が 多 いが 、 一般 に シ ベ リ ア に お
け る 他 の旧 石 器 時 代 遺 跡 の そ れ に比 べ て形 が 細 か い こ と は特 に注 目 さ れ る。燧石 製 の石 器 を装 着 し た 骨 製 の柄 も
見 ら れ る が 、 数 は少 な い。 考 古 学 者 エフ ィ メ ン コは 、 マル タ の石 器 や骨 角 器 が 全 体 と し て、 ウ ク ラ イ ナ の旧 石 器
時 代 遺 跡 で あ る メジ ン の そ れ に類 似 し て い る こ と を 指 摘 し て い る 。 装 飾 の文 様 は円 、 渦 、 波 形 な ど が 多 い。
こ の ほ か マ ルタ 遺 跡 で は シ ベ リ ア最 古 の埋葬 が 発 見 さ れ た 。 こ こ に は 三 ︱ 四 歳 の小 児 の骨 格 が 残 って お り 、 石
灰岩 の板 で棺 が つく ら れ、 住 居 の床 下 の黄 土 に似 た 砂 質 粘 土 中 に 埋 め ら れ て い た。 二枚 の石 板 で両 側 を か こ い、
一枚 は上 か ら か ぶ せ て あ った 。 墓 の底 は 赤 土 が し か れ て い た 。 小 児 は仰 向 け に横 た わ り 、 そ の頭 の と ころ には マ
ン モ ス の骨 製 のよ く 磨 か れ た 頭 飾 り が お か れ、 胸
の と こ ろ に は 一二 〇 個 の骨 製 ビ ーズ と 七 個 のさ げ
飾 り か ら な る首 飾 り の ほ か 、 一つ の鳥 の像 が 、 さ
ら に骨 盤 の あ た り に は 蛇 を あ ら わ し た ジ グ ザ グ 模
様 のま る い骨 製 の飾 板 が あ った 。 ま た 足 のと ころ
に は大 き な 骨 製 槍 首 、 燧 石 製 の剥 片 お よ び 尖 頭 器
が あ り 、 右 肩 の骨 に は、 マ ン モ ス の牙 で つく った
腕 輪 の残 片 が 残 って い た 。
こ の埋 葬 は 、 当 時 死 者 を 埋 葬 す る に あ た って 、
生 前 使 用 し て いた 装 飾 品 、 道 具 お よ び食 物 、 と き
大 腿 骨 が 一端 を 地 中 にし て シ ンメ ト リ カ ルに 固 定 さ れ て い た。 こ れ は いわ ば 支 柱 で あ った。 ま た住 居 内 の床 に は
の床 が 掘 ら れ、 そ こか ら 川 へ通 じ る狭 い廊 下 が つく ら れ て いた 。 掘 開 さ れ た 床 の周 囲 に は、 一二 本 の マン モ ス の
ブ レ チ遺 跡 で は 四 つ の住 居址 が発 見 さ れ た。 こ のう ち 比 較 的 保 存 の よ いも の に つ い て見 る と 、 地 下 深 く 正 方 形
頁)
と 愛 情 ﹂ のあ ら わ れ で も あ る。 (オ ク ラ ード ニ コフ ﹃沿 バ イ カ ル地 方 の新 石 器 時 代 と 青 銅 器 時 代 ﹄ 第 三 部 一四〇
いう こと が で き る﹂。 (ソ連 科 学 ア カデ ミ ー 版 ﹃世 界 史 ﹄第 一巻 七 二 頁 ) ま た こ の埋 葬 は、 ﹁子 ど も に た いす る配 慮
で に、 霊 魂 の観 念 が 、 ま た 死 者 が こ の世 と 同 じ よ う に 狩 を し 、 生 活 を お く る〝 死 者 の国〟 の観 念 が 生 れ て いた と
に は道 具 や武 器 を つく る材 料 を 副 葬 す る 風 習 のあ った こと を示 し て お り 、 こ の こ と か ら 推 し て、 ﹁こ の時 代 に す
マルタ,小 児 の墳墓 出土 の装 飾品 と石器
ク ラ ー ドニ コ フ に よ る) 像 復 原 図(オ ブ レ チ の住 居,想
多 く のト ナ カ イ の骨 が発 見 さ れ た が 、 こ れ は 明 ら か に 屋 根 の骨 組 であ った と 考
え ら れ る。 住 居 の中 央 には 炉 が あ り 、 床 に は さ ま ざ ま な 石 器 や骨 角 器 が 見 ら れ た。
ブ レ チ の住 居 お よ び こ れ に類 似 す る マ ル タ の住 居 は 、 形 式 や 建 築 上 の特 徴 か
ら お し て、 シ ベ リ ア北 東 部 の沿 海 地 方 に住 む 定 着 し た 種 族 が 十 八︱ 十 九 世 紀 ま
で造 営 し た住 居 に酷 似 し て い る こと が 指 摘 さ れ て い る 。 た と え ば チ ュク チ人 の
住 居 であ る半 地 下式 の ワ リ カ ル は、 マン モ ス の骨 の か わ り に ク ジ ラ の骨 を 利 用
し て お り、 大 き さ (約 二 五平 方 メ ー ト ル) ま で ほ ぼ同 じ で あ った 。 衣 服 も 、 ブ
レ チ出 土 の女 性 像 か ら判 断 し て、 最 近 ま で の チ ュク チ 人 や エ ス キ モー 人 と 同 じ
よ う に、 上 下 つな が った 作 業 衣 に似 た 毛 皮 の密 閉 服 を 着 て 、 頭 に はす っぽ り 頭
巾 を か ぶ り 、 住 居 内 で は 裸 で坐 って い た と 考 え ら れ る。 こう し た 類 似 を も って、
エ スキ モ ー人 の起 源 が 旧 石 器 時 代 の マド レ ー ヌ人 で あ る と 考 え る学 者 も あ るが 、
こ れ は 結 論 を いそ ぎ 過 ぎ る と いう べ き で あ ろ う 。
マル タ、 ブ レチ の遺 跡 か ら は マ ン モ ス の骨 で つく った 女 性 像 が 出 土 し て い る。
前 者 か ら 約 二〇 個 、 後 者 か ら 五 個 発 見 さ れ た が 、 大 き さ は 五︱ 一〇 セ ン チ、 多
く は ヨ ー ロ ッパ 地 域 の旧 石 器 時 代 遺 跡 か ら 出 土 し た も の が 、 遠 く バ イ カ ル湖 付
近 に ま で 及 ん で い る こと は き わ め て興 味 深 い。 多 く は 女 性 の裸 像 で、 手 足 は 単
純 化 さ れ て い る が 、 乳 房 や腰 な ど性 的 な特 徴 が 強 調 さ れ て い る。 こ の女 性 像 が
当 時 の人 間 生 活 では た し た役 割 に つ いて 、 世 界 の学 者 の あ い だ に議 論 が分 か れ て い る。 あ る 人 は エ ロチ ック な 芸
術 作 品 と 考 え 、 ま た あ る学 者 は 豊 穣 信 仰 の対 象 であ った と し て い る。 ま た 、 氏 族 を 存 続 さ せ るた め の 一種 の護 符
で あ った と も 、 ﹁炉 の女 主 人 ﹂ で あ った と も 考 え ら れ て い る。 民 族 学 者 ト カ リ ョ フは 、 北 方 諸 種 族 の習 俗 を 研 究
こ そ は 女 性 像 が表 現 し た も の で あ ろ う 。﹂ (ト カ リ ョフ ﹃旧 石 器 時 代 の女 性 像 の意 義 に つ い て﹄ ソ ビ エト 考 古 学 一
し て つぎ の よ う に書 い て い る。 ﹁ま さ に家 庭 の炉 の守 護 者 ! ま た は 炉 の女 性 的 人格 化 、〝炉 の女 主 人 〟 ︱︱ これ
九 六 一年 第 二 号 一四 頁 )
は ク ラ ス ノ ヤ ル ス ク市 付 近 にあ る ア フ ォ ン ト ワ山 遺 跡 で あ る。 こ れ は エ ニ セイ 川 左 岸 の古 代 段 丘 で 一八 八 四年 に
マル タ 、 ブ レ チ に つづ く 後 期 旧 石 器 時 代 遺 跡 は 現 在 で は 多 数 発 見 さ れ て い る が 、 そ のう ち 年 代 的 に最 古 のも の
発 見 さ れ、 一九 三 〇 年 ご ろ ま で ア ウ エ ル バ ッ ハ、 サ ス ノ フ スキ ー、 グ ロ モ フ ら の学 者 に よ って調 査 さ れ た 。 こ の
ん ど 共 通 し て い る 。 出 土 品 も よ く 似 て い た 。 マ ン モ ス の骨 な ど と と も に発 見 さ れ た 人骨 に つ い て、 人 類 学 者 デ ベ
遺 跡 (二 号 ) の含 む 動 物 が マル タ お よ び ブ レ チ の そ れ と異 な る と ころ は 、 毛 サ イ を 欠 く だ け で あ り 、 あ と は ほ と
ツ が モ ン ゴ ロイ ド に属 す る と結 論 し て い る こ と は き わ め て 注 目 さ れ る。
よ び こ れ と 同 時 代 の ア ン ガ ラ川 岸 の遺 跡 (オ ロ ン キ、 ウ スチ ベ ー ラ ヤ) 、 さ ら に は レ ナ 川 や セ レ ンガ 川 の河 谷 に
旧 石 器 時 代 末 に 属 す る エ ニ セイ 川 岸 の遺 跡 (ペ レ セ レ ン チ ェ スキ ー プ ン ク ト 、 コ コ レ ワ村 のザ ボ チ カ な ど ) お
あ る遺 跡 か ら は も は や マ ン モ ス の骨 は 出 土 し て いな い。 す な わ ち サ イ だ け で な く 、 ず っと 後 ま で生 残 った マン モ
スも 死 滅 し 、 ま た 北 極 ギ ツネ も 消 え て し ま った 。 かわ り に ア カ シ カ 、 イ ノ シ シな ど森 林 の動 物 が 登 場 し た 。 新 ら し い氷 河 期 後 の時 代 が は じ ま った の で あ る。
住 民 の文 化 的 、 生 活 的 様 相 も 一変 し た 。 長 期 の使 用 を め ざ し た 強 固 な 住 居 は な く な り 、 季 節 的 ま た は 一時 的 に
し か 残 って い な い。 こ の よ う な 変 化 は、 サ イ や マ ン モ スな ど巨 大 な草 食 動 物 が 絶 滅 し 、 人 び と は 以 前 に比 べ る と
使 用 さ れ た 地 上 住 居 が 多 く な った 。 し た が って遺 跡 の文 化 層 は 薄 く 、構 築 物 と し て は 炉 ( 直 径 六 〇 ︱ 七 〇 セ ン チ)
ず っと 小 さ な 獲 物 を追 って 移 動 し な け れ ば な ら な か った か ら で あ る 。 ま た 気 候 が暖 か く な って き た こと も、 半 地 下 式 住 居 のな く な った 理 由 の ひ と つで あ ろ う 。
遺 跡 にあ ら わ れ た 石 器 の形 、 大 き さ 、 製 造 技 術 の変 化 も 深 刻 で あ る。 マ ン モ スや サ イ を獲 物 と す る 狩 猟 民 の残
し た ア ンガ ラ 川 岸 や レ ナ川 岸 の遺 跡 で は 、 細 か く優 美 な 形 の石 錐 や 石 刃 な ど が 多 く 、 ヨー ロ ッパ の後 期 旧石 器 時
に 出 っぱ った 刃 部 を も つ半 月 形 の大 型 掻 器 や 、 礫 の 一端 を横 に割 って、 部 厚 い、 ほ と ん ど 垂 直 の刃 を つけ 、 こ れ
代 の石 器 と も 共 通 点 が 少 な く な か った が 、 今 や これ と は ま った く 異 な る 粗 大 な 石 器 が 多 く な った 。 主 と し て 孤 状
に わ ず か の打 調 を 加 え た握 器 が多 く な った 。 刃 は 真 っす ぐ であ る が 、 ま れ に は 内 側 に曲 って い るも のも あ った 。
こと は さ ら に意 外 で あ る。 こう し た 石 器 が あ ま り に古 風 な た め に 、 サ ベ ン コ フな ど は は じ め 、 後 期 旧 石 器 時 代 末
ま た ヨー ロ ッ パ で はず っと 以 前 の ム ス チ エ期 に知 ら れ て い るよ う な 古 風 な 円板 状 の石 核 や 、 製 作 技 法 が 見 ら れ る
の石 器 を 後 期 旧 石 器 時 代 の初 期 (ア シ ュー ル期 お よ び ム スチ エ期 ) に 比 定 し た ほ ど で あ った 。
し か し 、 古 風 な 石 器 と と も に 新 ら し い型 の石 器 も 見 ら れ た 。 円 錐 形 や 三 角 形 の石 核 、 細 長 いナ イ フ状 の剥 片 、 細 か い尖 頭 器 な ど が そ れ であ る 。 骨 角 器 も よ く 発 達 し て い た。
こう し て研 究 者 の前 に は き わ め て 興 味 あ る問 題 が 提 起 さ れ た 。 す な わ ち 、 ヨ ー ロ ッパ で は数 千 年 の時 間 を へだ
て て い る新 旧 二 つ の型 式 の石 器 が 、 シベ リ ア の後 期 旧 石 器 時 代 遺 跡 で は 、 何 故 同 じ ひ と つ の文 化 層 に 混 在 し て い
る の か。 こ れ にた いし て、 サ スノ フ スキ ー や オ ク ラ ー ド ニ コ フは 、 こ の古 風 な 石 器 は む し ろ 、 マル タ 、 ブ レ チ の
文 化 か ら の独 自 的 な 発 展 であ る と 考 え、 サ ビ ツ キ ー や ア ウ エ ル バ ッ ハは、 モ ン ゴ リ ア や中 国 の旧 石 器 時 代 文 化 が
シ ベ リ ア に 影 響 し た た め で あ ると し 、 グ ロ モ フは シベ リ ア の石 器 の材 料 が 独 特 で あ る か ら だ と 説 いた 。 オ ク ラ ー
ド ニ コ フは さ ら に住 民 の生 活 環 境 の変 化 を 考 慮 に いれ 、 ﹁ 技 術 的 特 徴 か ら み れば ま だ 本 来 の石 器 時 代 内 部 で あ り
な が ら、 こ こ で は し た が って、 新 ら し い型 の大 型 握 器 ︱ 後 に成 熟 し た新 石 器 時 代 文 化 の石 斧 に転 化 し た石 器 が 形
成 さ れ る と いう 進 歩 的 プ ロ セ ス が 行 な わ れ た の で あ る﹂ と 書 い て いる 。 (オ ク ラ ード ニ コフ ﹃シ ベ リ ア の 古 代 住 民 と そ の文 化 ﹄ シベ リ ア の 民 族 三 四 頁 )
こ の ころ シ ベ リ ア で は 他 地域 よ り も 早 く は め こ み式 道 具 の製 作 技 法 が あ ら わ れ た 。 た と え ば イ ル ク ー ツ ク市 付
近 の ウ ェル ホ レ ン ス ク山 遺 跡 、 ウ 〓 ン ウデ 市 付 近 の オ シ ュ ル コボ遺 跡 で発 見 さ れ た 骨 製 槍 先 であ る 。 骨 に深 い溝
が 彫 ら れ 、 そ こ に燧 石 製 の石 刃 が は め こま れ て い た。 骨 の柔 軟 さ と 石 の固 さ を 合 成 し た こ の技 法 は 、 後 に 一そ う
の発 達 を 見 る も の で あ る。 ま た ア フ ォ ン ト ワ 二 号 遺 跡 か ら は 、 家 畜 化 さ れ た オ オ カ ミ と 思 わ れ る イ ヌ の骨 も 発 見
さ れ た が 、 こ の事 実 は 、 こ の時 代 の猟 民 の生 活 に イ ヌ が参 加 し た こ と を 推 察 さ せ るも の で あ る 。
最 近 の発 掘 に よ れ ば 、 シ ベ リ ア の後 期 旧 石 器 と よ く 似 た 文 化 が 同 じ時 代 に ウ ラ ル の チ ュソ ワ ヤ川 流 域 、 ア ルタ
文 化 層 か ら な る。 こ の最 下 層 の文 化 は 前 氷 河 期 ま た は 間 氷 期 に属 す る と 考 え ら れ、 中 間 の文 化 層 は気
沿 海 州 で最 古 の遺 跡 は 、 ウ ス リ ー スク 市 付 近 オ シ ノ フ カ村 の も の で、 時 代 的 に ま った く 異 な る 三 つ の
イ 、 さ ら に イ ル テ ィ シ川 の 上 流 に も 存 在 し た こと が 判 明 し た 。 沿海州
候 が 現 代 と あ ま り変 り な か った 新 石 器 時 代 に あ た る と さ れ て い る。 一九 五 五年 ︱ 五 七 年 の あ いだ に、 興 凱 湖 の 周
辺 や ア ム ー ル川 流 域 の遺 跡 で も オ シ ノ フ カ の最 下 層 と 同 じ 形 の石 器 が発 見 さ れ た 。 こ こ で も っと も特 徴 的 な も の
は 礫 を も ち い た 握 槌 状 石 器 と 、 お な じ く 礫 を 利 用 し た 円 盤 状 掻 器 で あ る。 こ の文 化 を 調 査 し た オ ク ラ ード ニ コ フ
は 、 こ の地 の握 槌 状 石 器 と 東 南 アジ ア の チ ョ ッパ ー ( 打 器 ) と の類 似 に着 目 し 、 さ ら に 日 本 の権 現 山 遺 跡 に か ん
す る マー リ ンガ ー の研 究 に基 づ い て、 大 胆 で は あ る が 興 味 あ る仮 説 を提 出 し て い る 。 ﹁日 本 に お け る前 土 器 時 代
石 器 の い ち じ る し い部 分 が (東 南 ア ジ ア の ) ハオ ビ ン文 化 と 関 連 が あ り 、 後 期 旧石 器 時 代 お よ び中 石 器 時 代 に属
す る こと は 十 分 可 能 性 の あ る こと で あ る。 関 東 ロー ム層 と関 係 のあ る こ れ ら 最 古 の石 器 が、 沿 海 州 の オ シ ノ フ カ
型 の石 器 と 関 連 を も って い る可 能 性 は あ る 。 日 本 で も 沿 海 州 で も 、 こ れ ら の製 品 は 新 石 器 時 代 に 先 行 す る。 両 者
は同 じ よ う に 独 特 で 古 風 な 様 相 を帯 び て い る。 そ の最 大 の特 徴 は 、 東 南 ア ジ ア の ハンド ア ック スお よ び チ ョ ッパ
ー を 思 わ せ る 大 型 握 槌 状 石 器 の存 在 で あ る。 こ れ に関 連 し て、 日 本 列島 へ人 間 が は じ め て 移 住 し た のは 、 沿 海 州
か ら で は な い に し て も 、 オ シ ノ フ カ の文 化 に似 た 旧 石 器 お よ び 中 石 器 の古 代 文 化 が存 在 し た はず の東 北 、 遼 東 、
朝 鮮 方 面 か ら で あ る こ と も あ り 得 な い こと で は な い。﹂ (オ ク ラ ード ニ コ フ ﹃沿 海 州 の遠 古 ﹄ 三 六 頁 )
こ の仮 説 は 多 く の難 点 を も って お り 、 反 対 す る学 者 も 少 な く な い。 し か し 沿 海 州 の こ の時 代 の文 化 が 、 シ ベ リ
ア 奥 地 の同 時 代 の文 化 に比 べ て か な り異 な って い る こ と は 明 ら か で あ る 。 沿 バ イ カ ル地 方 の よ う な 住 居址 の な い
こと も ひ と つ の特 徴 で あ る 。 沿 海 州 の文 化 が 東 シベ リ アと は 異 な った 系 譜 に 属 し 、 む し ろ 南 方 と の関 連 が 深 い こ と は 、 新 石 器 時 代 に いた って 一そ う 顕 著 に な って く る 。
人 類 の北 アメリ ウ ラ ジ ボ スト ク 北 方 六 〇 キ ロに あ る チ グ ロワ ヤ遺 跡 は、 旧 石 器 末 お よ び新 石 器 初 頭 に 比定 さ カ 移 住 の 問 題 れ て い る。 オ ク ラ ー ド ニ コ フ は こ の遺 跡 か ら 出 土 し た石 器 のう ち 、 石 核 を 利 用 し修 正 に よ っ
て 先 端 を 半 楕 円 形 に調 整 し た掻 器 に 注 目 し 、 これ の 分 布 か ら 人類 の北 ア メ リ カ移 住 の問 題 に ふ れ て い る。 ア メ リ
カ の学 者 ネ ル ソ ン は 一九 二 六年 に こ の種 石 器 が ゴ ビ砂 漠 で 発 見 さ れ た こと を 報 告 し 、 オ ク ラ ー ド ニ コ フ も 一九 四
九 年 に同 じ も の を ゴ ビ で 、 つづ いて 五 四年 に は ブ ラ ゴ ベ シ チ ェン スク 付 近 の ア ム ー ル川 岸 で発 見 し た 。 そ の ほ か
スウ ェン ・ ヘデ ィ ン の調 査 団 も 内 蒙 古 で 発 見 し た こと を つ た え 、 さ ら に ト ル フ ァ ン盆 地 で も 見 出 さ れ て いる 。 ネ
ル ソ ンは こ の種 の石 器 が ア ラ ス カ の フ ェア バ ンク ス市 付 近 で出 土 し て い る こと に着 目 し 、 人 間 が内 陸 ア ジ ア か ら
ベ ー リ ング 海 峡 を 経 て ア メ リ カ へ移 住 し た と いう 仮 説 を 提 出 し た 。 オ ク ラ ー ド ニ コフ は 、 チ グ ロワ ヤ遺 跡 が ゴ ビ
と ア ラ ス カ と の中 間 を なす も のと 考 え 、 さ ら に チ ュク チ半 島 の新 石 器 文 化 と ア ラ ス カ 方 面 のそ れ と の類 似 を 指 摘 し 、 ネ ル ソ ン の仮 説 を 実 証 し よ う と試 み て い る。
ア ジ ア か ら ア メ リ カ に は じ め て 人 間 が 移 住 し た こと は 、 ア メ リ カ ・イ ンデ ィ ア ン の人 類 学 的 特 徴 が モ ンゴ ロイ
ド に近 い こ と に よ って も 明 ら か だ とす る 説 が あ る が 、 ま た そ の時 期 に つ い て も 諸 説 が あ る 。 若 干 の根 拠 に よ って 、
現 在 の メ ラ ネ シ ア 人 や オ ー スト ラ リ ア 人 に 近 い集 団 も ア メ リ カ に移 住 し た と 推 定 さ れ て い る。 そ の経 路 は 海 路 で
の に な い手 が 主 に南 ア メ リ カ に集 中 し て い る こ と は 、 彼 ら の移 住 が 第 一波 で あ り、 そ の後 新 ら し い移 住 者 で あ る
あ る か 、 そ れ と も 当 時 陸 つづ き で あ った ベ ー リ ン グ 海 峡 経 由 であ る か。 ﹁オ ー ス ト ラ リ ア ・メ ラ ネ シ ア 人 的 特 徴
﹃世 界 史 ﹄ 第 一巻 八 三 頁 ) こ こ で は 明 ら か に ベ ー リ ング 海 峡 を経 由 し た こと が前 提 と な って い る。
モ ンゴ ロイ ド に よ って 北 ア メ リ カ か ら南 へ追 わ れ た と 考 え る こ と も 十 分 可 能 で あ る。﹂ (ソ連 科 学 ア カデ ミ ー版
角 田文 衛 教 授 は、 人 類 の ア メ リ カ 移 住 が 前 記 の ネ ル ソ ン や オ ク ラ ード ニ コフ の説 よ り もず っと 古 い時 代 、 お そ
ら く は マ ル タ 期 の時 分 に 開 始 さ れ た と 考 え 、 つぎ のよ う に 書 い て いる 。 ﹁マン モ ス を追 う シ ベ リ ア の猟 人 た ち の
お も う 。﹂ (誠 文 堂 新 光 社 版 ﹃世 界 史 大 系 ﹄ 第 一巻 二 三 四 頁 ) こ の問 題 は し か し 非 常 に複 雑 で あ り 、 満 足 な 解 答 は
集 団 が氷 河 の南 辺 に沿 って東 進 し 、 つ い に ア ラ スカ に渡 り 、 こ こ に 新 大 陸 の歴 史 が 開 幕 さ れ た と 考 え て も よ いと
な お得 ら れ て いな い。 両 大 陸 の ベ ー リ ング 海 峡 に 近 い 地 域 の考 古 学 的 調 査 、 ア メ リ カ大 陸 に お け る 最 古 の文 化 の 系 統 的 調 査 な ど が ま ず 第 一の前 提 で あ ろ う 。
第 三章 シベ リ ア の新 石 器 時 代 文 化
シ ベ リ ア の新 石 器 時 代 文 化 は紀 元 前 四 千 年 紀 ご ろ か ら と さ れ て い る。 こ の地 域 の新 石 器 時 代 初 頭 の文 化 は ま だ
さ れ た ヒ ン文 化 期 で あ る。 こ れ は ヨ ー ロ ッパ の後 期 中 石 器 に相 応 す る も の で、 最 大 の特 徴 は 基 部 の片 側 の 欠 か れ
研 究 が 不 十 分 で あ る が 、 も っと も 編 年 のす す ん で い る 沿 バ イ カ ル地 方 に つ い て見 れ ば 、 そ れ は 少 数 の墳 墓 の発 見
た 石 鏃 で あ る。 こ れ は 細 長 い剥 片 の先 端 を 再 加 工 し て尖 ら せ た 燧 石 製 の石 刃 鏃 で あ る が 、 こ れ に似 た 石 鏃 は 西方 遠 く ウ ラ ル、 西 シ ベ リ ア に も 分 布 し て い る。
沿バ イカ ル地 方 こ の 地 方 の 調 査 は 最 近 二 〇 年 間 、 主 と し て考 古 学 者 オ ク ラ ー ド ニ コ フ に よ って 調 査 さ れ た 。 の 新 石 器 時 代 発 達 し た 新 石 器 の最 初 の段 階 は 、 典 型 的 遺 物 を 出 土 し た 地 名 に よ って イ サ コボ 期 (紀 元 前 四
千 年 紀 ) と よ ば れ る 。 墳 墓 か ら オ オ シ カ、 シ カ な ど 野 生 の動 物 の骨 が 多 く 出 土 し た こと か ら 判 断 し て、 住 民 の生
業 は 狩 猟 で あ った と 考 え ら れ る 。 遺 物 の な か で は 、 先 端 の側 縁 に溝 を もう け て燧 石 製 の石 刃 を つけ た 見 事 な 骨 槍
が と く に 注 目 さ れ る。 こ れ は 前 述 の よう に 、 シ ベ リ ア の旧 石 器 時 代 にす で に見 ら れ た も の で あ る。 石 鏃 は基 底 が
ツ バ メ の尾 のよ う に内 側 に曲 が った 無 茎 鏃 で、 左 右 の長 さ が同 じ で な いも の が 見 ら れ た。 装 飾 品 は す べ て野 生 動
物 の骨 や歯 で つく ら れ 、 死 者 は槍 、 弓 、 矢 筒 、 狩 猟 用 の小 刀 と と も に仰 臥 伸 展 葬 さ れ た 。 土 器 は ま だ 発 生 し た ば
か り の よ う で、 卵 を 半 分 に切 った 形 のま る い深 底 に か ぎ ら れ 、 細 か い網 目 が ほ ど こ さ れ て いた 。 こ の文 化 に は 、
た と え ば 大 型 の楕 円 形 の掻 器 な ど 、 旧 石 器 時
代 末 のも の と の類 似 も 認 め ら れ る 。
つぎ に セ ー ロボ 期 (紀 元 前 四 ︱ 三 千 年 紀 )
にち な む が 、 土 器 の形 式 や 装 飾 が 複 雑 に な り 、
が は じ ま る 。 こ れ は ア ン ガ ラ川 岸 セ ー ロボ村
な か に は吊 下 げ る た め の耳 の つ い た 容 器 ま で
出 現 し た。 櫛 目 文 ・窩 文 、 直 線 的 ・幾 何 学 的
文 様 が広 く 普 及 し た 。
期 に 相 応 す る遺 跡 の年 代 比 定 のう え で重 要 な 指 標 と も な って い る 。
た め に利 用 し た こ と が報 じ ら れ て い る。 こ の魚 形 石 製 品 は ミ ヌ シ ン ス ク 地 方 でも 若 干 出 土 し て い る が 、 セ ー ロボ
キ モ ー、 ネ ネ ツ、 コリ ヤ ー ク な ど の民 族 が 最 近 ま で 冬 季 氷 に 穴 を あ け 、 こ の石 製 品 で魚 を お び き よ せ 、銛 で突 く
形 を し た 魚 形 石 製 品 が発 見 さ れ た こと は 興 味 深 い。 こ れ は 明 ら か に お と り に用 い ら れ た も の で 、 エベ ン キ 、 エ ス
割 し か も って いな か った が 、 網 や銛 が利 用 さ れ た 。 こ れ に 関 連 し て、 副 葬 品 のう ち に カ ワ メ ンタ イ 、 サ ケ な ど の
の資 料 と いう こと が でき よ う 。﹂ (平 凡 社 版 ﹃世 界 考 古 学 大 系 ﹄ 第 九 巻 四 三 頁 ) 漁撈 は 狩 猟 に比 べ れば 副 次 的 な 役
か け て の 諸 民 族 の あ い だ に 特 異 な 発 達 を と げ て き た が 、 こ の セ ー ロボ 文 化 の墳 墓 に副 葬 さ れ た も の は 、 世 界 最 古
授 は こ れ に つ い て つぎ の よ う に書 い て い る 。 ﹁彎 弓 ま た は合 わ せ 弓 は 、 古 来 北 ユ ー ラ シ ア か ら 北 ア メ リ カ 大 陸 に
位 の骨 製 の細 板 が出 土 し た が、 こ れ は 木 と 骨 と を は ぎ 合 わ せ た合 わ せ 弓 の材 料 と な った も の で あ る。 八 幡 一郎 教
住 民 の主 な 生 業 は依 然 と し て狩 猟 であ った 。 ア ン ガ ラ川 岸 お よ び レ ナ川 岸 の墳 墓 か ら 、 長 いも の は 人 間 の身 長
沿バ イカル地方 の新石 器時代古墳 出 土の石器 と骨角器 左 上燧石製 鏃 左下骨 製短 剣 中央 石刃 を装 着 した骨槍 右 上軟玉 製ナイ フ 右 下石斧
セ ー ロボ 期 の住 民 は 季 節 的 に移 動 し た と 見 ら れ、 川 沿 い の深 い谷 や 山 の斜 面 な ど に、 川 原 の丸 石 を 環 状 に積 ん
こ の よ う な 住 居 址 が見 ら れ る。 住 民 は 氏 族 集 団 を な し て 生 活 し た と 考 え ら れ、 副 葬 品 に貧 富 の差 は 見 ら れ な い。
だ炉 のあ る住 居 址 が 残 って い る。 た と え ば バ イ カ ル湖 北 西 洋 、 ム ホ ー ル 入 江 に あ る有 名 な ウ ラ ンカ ダ 遺 跡 に も、
弓 と 矢 は 男 女 いず れ の墳 墓 に も 副 葬 さ れ て い る。 芸 術 的 遺 物 のな か では 、 写 実 的 な 動 物 像 、 と く に オ オ シ カ の像
が 注 目 さ れ る。 これ は北 アジ ア の狩 猟 民 の あ い だ で オ オ シ カ が 信 仰 の対 象 にな って いた こ と と 関 連 し て 興 味 深 い。
セ ー ロボ期 の つぎ に は キ ト イ 期 (紀 元 前 三 千 年 紀 ) が 登 揚 す る。 こ の期 の墓 地 は ア ン ガ ラ川 の支 流 キ ト イ 川 岸
で 一八 八 一年 に発 見 さ れ た も のが 最 初 で あ る が、 埋 葬 の重 要 な 特 徴 は 鉱 物 性 赤 土 の使 用 で あ る。 ま れ に は 墓 坑 を
こ れ は 当 時 にお け る 漁 撈 の重 要 な 役 割 を 物 語 って い る。
に あ る墳 墓 か ら は 、 あ ご ひ げ と 結 髪 の あ る男 子 頭
拠 と 考 え ら れ る 。 ア ンガ ラ川 岸 の ラ ス プ チ ノ付 近
これ は 同 一氏 族 の成 員 間 に 不 平 等 が あ ら わ れ た 証
品 に貧 富 の差 が 明 白 に みと め ら れ るよ う にな る。
え で 重 要 であ る 。 ま た こ の時 代 に は じ め て、 副 葬
は シベ リ ア に お け る こ の時 代 の文 化 交 流 を 知 るう
ン山 地 と キ トイ 川 上 流 で あ る が、 こ の製 品 の分 布
器 の多 い こと で あ る。 こ れ の原 産 地 は 付 近 のサ ヤ
つぎ に、 キ ト イ 期 の重 要 な 特 徴 は緑 色 軟 玉 の石
全 部 砂 ま た は 土 を 混 ぜ た赤 土 で 埋 め る こ と も あ った 。 ま た 独 特 の組 立 式 釣 鈎 が ど の墳 墓 に も 副 葬 さ れ て いた が、
沿バ イカル地 方 の新 石器 時代 1魚 形石製 品 2,6バ ザ イハ出土 のオ オ シカ像 3,4グ ラズ コボ出土骨 製像 5 ラスプ チノ出土大 理石 製像
3,4,9は 現 代 の 装 飾
ア ム ール 川 流 域 住 民 に お け る新 石 器 時 代 の装 飾 と現 代 の 装 飾 の
は 氏 族 の長 を あ ら わ し た も の で あ ろ う か。
部 の像 が 出 土 し て い る が、 こ れ は 先 祖 ま た
アムー ル川下 いわ ゆ る極東 地方 に含 ま 流域 と沿 海州 れ る この地 域 の新 石器 文
シ ベ リ ア の森 林 地 帯 に存 在 し た 文 化 と は異
化 は 、 こ れ ま で の べた 沿 バイ カ ル 地 方 な ど
な る 独 自 の性 格 を も って い た こと が 指 摘 さ
れ て い る。 両 者 は 生 活 の基 礎 か ら す で に ち
が って いた 。 東 部 シ ベ リ ア で は オ オ シ カ な
ど 森 林 の動 物 に 対 す る 狩 猟 が 生 活 の基 礎 で
あ った が、 極 東 地 方 の住 民 は 狩 猟 と と も に
漁 撈 を 生 活 の基 盤 と し た 。 一年 のう ち 一定
の時 期 に な る と、 サ ケ な ど が 無 数 に産 卵 の
た め 川 を さ か のぼ る が 、 彼 ら は そ れ を獲 っ
多 く の磨 製 石 斧 、 石 鏃 、 掻 器 、 石 錐 、 ナ イ フ、 大 魚 を打 殺 す た め に用 い た ら し い石 棒 、 装 飾 品 、 多 く の 土 器 片 な
に は 広 い半 地 下 式 住 居 の跡 が 残 って いた 。 深 い堅 穴 が掘 ら れ、 そ の壁 ぞ い に柱 穴 が 列 を な し てお り 、 な か か ら は
ア ム ー ル川 下 流 域 の新 石 器 時 代 遺 跡 と し て は 、 まず 一九 三 四年 に発 見 さ れ た ス ー チ ュー島 の そ れ で あ る。 こ こ
て 貯 蔵 し た 。 中 国 人 が 彼 ら の こと を 魚 皮韃 子 と 称 し た こと は故 の な い こ と で は な い。
比 較 1,2,5,6,7,8は 新 石 器 時代
ど が 発 見 さ れ た 。 土 器 は 沿 バ イ カ ル地 方 と は ち が って、 す べ て 平 底 であ り 、 外 側 か ら の網 目 文 は ほ ど こ さ れ て い
の文 化 を 想 起 さ せ る。 ま た 、 東 ヨ ー ロ ッパ や シ ベ リ ア の森 林 地 帯 に特 徴 的 な 直 線 的 ・幾 何 学 的 文 様 と は ち が って、
な か った 。 か わ り に櫛 目 文 ・窩 文 が帯 状 に ほ ど こさ れ、 火 山 岩 製 の石 棒 や 曲 玉 に 似 た 曲 った 飾 り な ど は 日 本 列 島
渦 巻 や 巴 な ど 曲 線 文 が多 い こと は き わ め て重 要 であ る 。 こと に、 よ く 磨 か れ 、 下 地 塗 の あ る赤 い土 器 は 、 中 国 の 仰 韶 期 や 沙 鍋 屯 洞 穴 の文 化 と の関 連 が 想 定 さ れ て い る。
東 部 シベ リ ア と 極 東 地 方 と の あ い だ の文 化 的 相 異 は 、 十 九 世 紀 の旅 行 家 に よ っても 指 摘 さ れ て い る が、 こ れ は
新 石 器 時 代 か ら の文 化 的 伝 統 を暗 示 し て いる 点 で 興 味 深 い。 す な わ ち 十 九 世 紀 の旅 行 家 ミ ッデ ンド ル フ は 、 言 語
的 に も 人 種 的 に も ツ ン グ ー ス族 に起 源 し 、 ア ム ー ル川 下 流 域 の定 着 住 民 の文 化 を 身 に つけ て い る ネ ギ ダ ー ル人 の
集 落 に は い った と き 、 旅 行 中 東 部 シベ リ ア で ツ ング ー ス語 を よ く 聞 き 慣 れ て いた に も か か わ らず 、 自 分 が な に か
や金 属 の飾 り な ど は ﹁異 な る 流 行 の中 心 に由 来 し 、 他 の風 習 や趣 味 に起 源 す る﹂ こと を 示 し て い た と の べ て い る 。
新 ら し い種 族 の な か に い る か の よう な 印 象 を う け た と い って い る 。 衣 服 の形 や 着 つけ 、 そ こ に縫 いと ら れ た 模 様
(オ ク ラ ー ド ニ コ フ ﹃沿 海 州 の遠 古 ﹄ 八 〇 頁 ) 有 名 な 民 族 学 者 シ ュ レ ン ク も 同 様 な こ と を 報 告 し て い る。
こう し て オ ク ラ ード ニ コ フ は、 ア ム ー ル川 下 流 域 を 含 む極 東 地 方 の住 民 の遠 い先 祖 が 、 東 部 シ ベ リ ア な ど と は
い の、 ア ム ー ル川 河 谷 を と り ま く き び し い自 然 に そ ぐ わ な い特 徴 が見 ら れ る。 ゴ ルド 人 (ナ ナ イ 人 ) に 対 し て 、
ち が って、 南 方 に由 来 す る も の と想 定 し て い る。 た と え ば 、 ア ム ー ル川 下 流 域 の種 族 の伝 説 には 、 北 方 に 不 似 合
ハバ ロ フ ス ク 付 近 のサ ク チ ・ア リ ヤ ン村 川 中 に あ る岩 に刻 ま れ た 絵 の由 来 を 質 問 し た と き 、 彼 ら は 、 こ の絵 が で
い熱 の た め に石 が や わ ら か く な り 、 容 易 に絵 を 描 く こ と が で き た と いう の であ る 。 他 にも これ に似 た 伝 説 が あ る
き た の は空 に ひ と つ の太 陽 で は な く 、 三 つ の太 陽 が あ った 遠 い昔 の こと だ と 答 え て い る。 三 つ の太 陽 のも のす ご
が 、 オ ク ラ ード ニ コフ は こ れ に つ い て ﹁お そ ら く は ど こ か南 方 で発 生 し 、 そ の南 方 か ら の移 住 民 が 遠 い石 器 時 代
の 昔 に 北 方 へも た ら し た も の であ ろ う ﹂ と 書 いて い る。 ( ﹃古 代 文 化 の跡 を た づ ね て﹄ 二 四 四 頁 ) そ の移 動 の経 路 と し て彼 は 、 仰 韶 か ら 沙 鍋 屯 の線 を 想 定 し て い る。
沿 海 州 の新 石 器 文 化 の遺 跡 は、 現 在 ま で調 査 さ れ て い る限 り で は、 ウ ラ ジ ボ スト ク か ら 朝 鮮 と の国境 に 至 る あ
いだ の海 岸 一帯 、 海 岸 沿 い にず っと 北 方 に あ る チ ェチ ュ へ付 近 、 そ れ に ウ ス リ ー ス ク か ら 興 凱 湖 に至 る 一帯 の 地 域 に分 布 し て い る。 つま り 大 別 し て 三 地 域 であ る。
チ ェチ ュ へ遺 跡 の最 下 層 か ら は 、 一九 五 五 年 以 後 の 調 査 で、 よく 加 工 さ れ た石 鏃 、 ナ イ フ、 平 底 の 土 器 な ど が
多 数 出 土 し た。 ま た 半 月 形 の断 面 を も つす ば ら し い磨 製 石 斧 、 骨 製 ま た は 木 製 の短 剣 、 石 刃 を つけ た 骨 槍 な ど が 発 見 さ れ た 。 こ の新 石 器 文 化 は紀 元 前 三 ︱ 二 千 年 紀 に 比 定 さ れ て い る。
そ れ か ら 約 一〇 〇 〇 年 後 (今 か ら約 四 〇 〇 〇 年 前 ) 住 民 の生 活 に は 本 質 的 な変 化 が お こ った 。 以 前 の狩 猟 民 の
集 落 の 上 に、 長 期 の定 着 生 活 に 耐 え る 強 固 な 半 地 下 式 住 居 の集 落 が 形 成 さ れ た 。 ひ と つ の住 居 の面 積 が 約 一〇 〇
平 方 メ ート ル に も達 し 、 物 資 の貯 蔵 所 と 思 わ れ る 穴 と数 個 の炉 の跡 が 見 ら れ た 。
と ころ が そ のす ぐ 隣 り に は、 丸 味 が か った ほ ぼ 正 方 形 の住 居 址 が あ った 。 内 部 の中 央 にひ と つ の炉 が あ り 、 南
東 と 北 東 の二 側 か ら 炉 に向 って階 段 が つく ら れ、 中 央 部 は 一段 高 く な って いた 。 こ の住 居 の床 に は投 槍 、 銛 な ど
の石 器 と そ の材 料 が 見 ら れ た 。 オ ク ラ ー ド ニ コ フ は こ こ で 、 さ き に のべ た 数 個 の炉 址 の あ る住 居 は生 活 の場 所 で
あ り 、 中 央 に ひ と つし か 炉 のな い住 居 は 、 周 囲 に棚 を め ぐ ら し た 仕 事 場 で あ った だ ろ う と 推 測 し て い る。 こ の時
代 の チ ェチ ュ へ には 、 こう し た 形 の半 地 下 室 が 巣 箱 のな か の ハチ の巣 の よ う に数 十 ず つ密 集 し て いた 。
こ の遺 跡 か ら は 多 く の石 製 穀 す り 棒 が 出 土 し て い る。 こ れ に つ い て オ ク ラ ー ド ニ コ フ は農 耕 の萠 芽 で あ る と考
え て いる が、 ス モリ ャク ら は こ の説 に疑 い を は さ み 、 む し ろ 木 の実 な ど を 擦 る の に用 いた も の だ ろ う と 考 え て い
こ の ほ か バ イ カ ル地 方 産 の軟 玉 で つく った磨 製 手 斧 は他 地 域 と の交 渉 を 示 す こと で注 目 さ れ る。
る。 (ス モ リ ャク ﹃沿 ア ム ー ル地 方 お よ び 沿海 州 の古 代 民 族 史 の諸 問 題 ﹄ ソビ エト 民 族 学 一九 五 九 年 一号 三 二 頁 )
南 の、 朝 鮮 と の国 境 付 近 で は多 く の遺 跡 が 発 見 さ れ た が、 そ の う ち も っと も よ く 調 査 さ れ た のは グ ラド カ ヤ 一
号遺 跡 で あ る 。 これ は ポ シ エト 港 付 近 の同 名 の川 岸 に あ り、 ア ンド レ ー エフ と いう 人 は ザ イ サ ノ フ カ 一号 と 名 づ
け て いる 。 黒 曜 石 の石 鏃 、 石 刃 、 石 錐 な ど の ほ か 、 平 底 の よ く 発 達 し た 土 器 が 出 土 し て い る。 紡〓 車 の出 土 は と
く に注 目 さ れ る。 三 上 次 男 教 授 は こ のザ イ サ ノ フ カ遺 跡 の土 器 と 小 営 子 遺 跡 (延 吉 県 長 安 村 に あ る豆 満 江 流 域 地
方 で最 重 要 な 石 棺 墓 の群 集 地 ) の 土 器 と を 比 較 し て、 後 者 の ﹁中 心 的 土 器 で あ る赤 褐 色 無 文 土 器 お よ び黒 色 土 器
と ザ イ サ ノ フ カ貝 塚 上 層 土 器 と の間 の顕 著 な 類 似 ﹂ を指 摘 し て い る。 (三 上 次 男 ﹃満 鮮 原 始 墳 墓 の研 究 ﹄ 四 八 六
頁 ) オ ク ラ ード ニ コ フは さ ら にす す ん で 、 こ の文 化 が朝 鮮 や 中 国 東 北 地 方 、 さ ら に は 日本 の当 時 の文 化 と関 連 の あ る こと を 強 調 し て い る。
の比 較 的 や わ ら か い石 で つく った 磨 製 石 斧 、 黒 曜 石 の石 鏃 や、 槍 先 、 平 底 と 思 わ れ る 土 器 な ど が出 土 し て いる 。
ウ ス リ ー ス ク 付 近 で は 、 さ き に の べ た オ シ ノ フ カ遺 跡 の第 二層 が代 表 的 であ る。 半 地 下 式 住 居 址 は な く 、 緑 色
か な り 差 異 が あ る こ と は 見 の が さ れ な い。 た と え ば ア ム ー ル川 流 域 と 沿 海 州 と の相 異 は も っと 明 ら か に さ れ る 必
極 東 地 方 の文 化 は 全 体 と し て、 シ ベ リ ア の森 林 地 方 と は 対 照 的 で あ る が、 し か し 極 東 地 方 のな か で も 地 域 的 に
さ れ た 。 こ のう ち 最 古 のも の は ヤ ク ー チ ヤ 地 方 南 部 の ユ エデ イ 遺 跡 、 ヤ ク ー ツ ク 市 北 方 四 〇
この地方 の古 文化 も最 近 調査 がす す めら れ、 いく つか の代 表的遺 跡 の年代的 順序 も明 ら か に
要 が あ る であ ろ う 。
ヤクー チヤ地 方
キ ロ の ク ラ ッテ イ遺 跡 、 ジ ガ ン ス ク 市 付 近 の ウ オ ル バ遺 跡 な ど で あ る。 ユ エデ イ と ウ オ ルバ の特 徴 は側 縁 だ け が
いる 。
加 工 さ れ て い る古 風 な 石 刃 鏃 の存 在 で あ る。 ウ オ ル バ湖 岸 一帯 に は 湖 沼 漁 撈 民 の新 石 器 時 代 住 居 址 が多 数 残 って
ユ エデ イ 型 遺 跡 に つづ く も の は 、 ヤ ク ー チ ヤ地 方 南 部 、 オ レク ミ ン ス ク市 付 近 の マー ル イ ・ム ン ク川 岸 の遺 跡
で、 表 土 下 の初 期 鉄 器 時 代 文 化 層 の下 に新 石 器 時 代 の狩 猟 ・漁 撈 民 の豊 富 な 文 化 層 が発 見 さ れ た 。 石 鏃 が多 く 、
組 合 せ式 骨 製 釣 鈎 、 骨 銛 が 多 数 出 土 し て い る。 石 器 は、 ビ チ ム川 流 域 に産 す る白 色 軟 玉 な ど す ぐ れ た 材 料 に め ぐ
ま れ、 よ く 発 達 し て いた 。 土 器 は 尖 底 で、 底 部 にし ば し ば 突 起 が あ り、 織 布 文 が 多 か った 。
れ は典 型 的 な 湖 沼 漁 撈 民 の も の で、 住 民 は 多 年 にわ た って季 節 的 に住 ん だ と考 え ら れ て い る。 文 化 層 の厚 さ は 炉
つぎ の時 期 に属 す る も の と し て、 ヤ ク ー ツ ク市 北 方 六 〇 キ ロに あ るイ ミ ャ フタ フ湖 岸 の遺 跡 が あ げ ら れ る。 こ
址 付 近 で 六 〇 ︱ 七 〇 セ ン チ に達 し て いた 。 土 器 の数 は 少 な い が、 織 布 文 は な く な り 、 口縁 に山 形 刻 文 のあ る単 純
な も の が多 く な った 。 紐 状 の貼 文 を つけ た 磨 研 土 器 の破 片 も 出 土 し て い る。 石 器 で は 三角 形 の石 鏃 、 多 角 柱 形 の
石 核 状 彫 刀 な ど が 注 目 さ れ る。 こ の ほ か 多 く の魚 骨 、 オ オ シ カ の骨 と と も に 、 焙 ら れ た痕 のあ る 一体 分 の人 骨 が 出 土 し た 。 オ ク ラ ー ド ニ コ フ は 、 人 肉 を 食 し た 痕 跡 だ ろ う と 考 え て い る。
址 は 上 下 二 層 に な って お り 、 下 層 か ら は 墳 墓 の場 合 と 同 じ く 、 古 風 な 石 刃 鏃 が発 見 さ れ た が 、 こ の ほ か全 面 を 加
ウ オ ルバ 湖 岸 の墳 墓 で は 、 ア ン ガ ラ 川 岸 の キ ト イ 期 墳 墓 と同 様 に、 死 者 は 鉱 物 性 赤 土 で埋 め ら れ て いた 。 住 居
工 さ れ た 三 角 断 面 の石 鏃 も 見 ら れ た。 上 層 の石 鏃 は 下 層 と は異 な って有 茎 鏃 で あ り 、 多 角 柱 形 彫 刀 も 見 ら れ 、 縞 目 押 捺 文 の 土 器 が多 か った 。
ヤ ク ー チ ヤ 地 方 の新 石 器 時 代 に、 岩 壁 画 が 盛 行 し た こと は 大 き な 特 徴 であ る 。 主 な も のは マ ル ハ川 (レ ナ 川 の
支 流 ) の河 谷 に あ る ス ー ル ー ク タ フ ・ ハヤ岩 壁 、 レ ナ 川 中 流 の チ ュー ル ー岩 壁 な ど であ る。
新 石 器 時 代 の末 期 ご ろ、 人 び と は北 方 遠 く 北 氷 洋 岸 ま で到 達 し た と 考 え ら れ て いる 。 レ ナ 川 下 流 域 には 漂 泊 し
た 猟 人 の 一時 的 住 居 の跡 が多 数 残 って い る。 こ の ほ か 、 四 方 か ら 風 に さ ら さ れ た、 し た が って 蚊 や ア ブ の あ ま り
った 彼 ら は 、 ト ナ カ イ な ど の群 を も と め て漂 泊 し な が ら 、 持 参 の石 材 を 必 要 な 石 器 に仕 上 げ た の だ ろ う と 考 え ら
襲 わ な い崖 の上 に、 面 積 約 一五 ︱ 二 〇 平 方 メ ー ト ル の石 器 材 料 採 取 地 が 数 カ 所 発 見 さ れ た 。 一カ所 に定 住 し な か
れ て い る。
ア ムグ エ マ川 流 域 、 ア ナデ ィ ル川 の支 流 マイ ン川 流 域 のも のが あ げ ら れ る 。 前 者 か ら は ア ラ ス カ の フ ェア バ ンク
シ ベ リ ア北 東 端 の古 文 化 は、 レ ナ川 下 流 域 と 多 く の共 通 点 を も って い るが 、 主 な 遺 跡 で は チ ュク チ半 島 基 部 の
ス遺 跡 に似 た遺 物 が 出 土 し 、 後 者 か ら は新 石 器 時 代 末 に比 定 さ れ る打 製 ・磨 製 石 器 、 骨 角 器 ・球 形 の織 布 文 土 器
な ど の出 土 を 見 て い る。 ﹁こ の地 域 でわ れ わ れ は今 や 、 北 東 ア ジ ア の 三大 文 化 を 知 って いる 。 第 一に は 、 古 く か
ら 知 ら れ て い る 北極 の海 獣 狩 り (エ スキ モー 人 の先 祖 ) の文 化 、 第 二 に は、 最 近 発 見 さ れ た ト ナ カ イ 相 手 の大 陸
猟 民 お よ び 漁 撈 民 の 文 化 、 第 三 に は 、 一九 五 七 年 マイ ン川 で発 見 さ れ た も の に代 表 さ れ る ア ナ デ ィ ル低 地 の河 川
漁 撈 民 お よ び猟 民 の文 化 で あ る 。 ﹂ (オ ク ラ ー ド ニ コ フ お よ び ネ ク ラ ー ソ フ ﹃マイ ン川 河 谷 の古 代 集 落 ﹄ ソ連 考 古
あ るだ け に、 これ ら の地 域 間 の文 化 的 関 係 を知 る う え で 重 要 で あ る。 こ の意 味 で 一九 五 二
こ の地 域 は 、 沿 バ イ カ ル地 方 、 ヤ ク ー チ ヤ地 方 、 極 東 地 方 、 中 国 の東 北 地 方 な ど の中 間 に
学 の資 料 と 研 究 第 八 六 冊 二 一三頁 )
ア ムー ル川上 流域
年 シ ャバ リ ンと いう 測 量 家 に発 見 さ れ 、 五 二 年 と 五 四年 に オ ク ラ ード ニ コ フ に よ って 調 査 さ れ た シ ルカ 洞 穴 遺 跡
(約 一〇 平 方 メ ー ト ル) は と く に注 目 さ れ る。 こ の遺 跡 は ア ム ー ル川 の支 流 シ ル カ 川 の 左 岸 、 シ ルキ ン スキ ー ・
穴 洞
ザ ボ ード 村 付 近 に あ り、 は じ め 埋 葬 地 で あ った も の が後 に猟 民 の 一
時 的 住 居 に な った と 考 え ら れ、 新 石 器 時 代 末 に 比 定 さ れ て い る。 出
土 し た 土 器 の文 様 や形 式 、 石 器 、 骨 角 器 の特 徴 な ど は 全 体 と し て極
れ て い る 。 出 土 し た 比 較 的 保 存 のよ い人 骨 も バ イ カ ル型 (北 方 型 )
東 地 方 と は 関 係 が う す く 、 逆 に沿 バ イ カ ル地 方 と 近 い こと が指 摘 さ
に 属 し て いる。 動 物 の遺 骨 の な か で は イ ヌ の多 い こと (一〇 体 ) が
連 し て いる の で あ ろ う か 。 そ の文 化 、 と り わ け 芸 術 と 装 飾 は ﹁新 石
ゴ ル ド 人 な ど が 、 ご く 最 近 ま でイ ヌ を 尊 重 し 飼 育 し た こと と ど う 関
注 目 さ れ る。 こ の こと は ア ム ー ル川 下 流 域 のギ リ ヤ ク 人 、 ウ リ チ 人 、
器 時 代 お よ び青 銅 器 時 代 初 期 の東 シ ベ リ ア住 民 ︱︱ セ ー ロボ、 キ ト
オビ川下 流域 の広大 な森林 帯 の新 石器 時代文 化
はま だほ とんど わか って いな い。現在 判 明し て
器 が 出 土 し て い る。 そ の後 、 紀 元 前 二 千 年 紀 末 か ら 一千 年 紀 初 頭 に な る と 、 土 器 は多 く 平 底 にな り 、 ウ ラ ル の シ
って生 活 し た 。 こう し た 住 居 から 掻 器 、 石 鏃 、 石 槍 な ど 打 製 ・磨 製 石 器 の ほ か 、 櫛 目 文 ・窩 文 の卵 型 壺 な ど の土
い る限 り で は 、 住 民 は 湖 岸 な ど の 小 高 い場 所 に 大 き な 半 地 下 式 住 居 (大 き いも のは 六 二 五 平 方 メ ー ト ル) を つく
西シ ベリア地方
古 学 の資 料 と 研 究 第 八 六 冊 七 〇 頁 )
ド ニ コ フ ﹃ア ム ー ル川 上 流 域 の古代 文 化 の遺 跡 シ ル カ洞 穴 ﹄ ソ連 考
イ、 グ ラズ コボ の に な い手 が 用 いた も のと 同 じ であ る﹂。 (オ ク ラ ー
ル
カ シ
ギ ル文 化 や 南 シ ベ リ ア の ア ンド ロ ノ ボ 文 化 に 似 た 幾 何 学 文 が出 現 す る。 ま た 定 着 し た 漁 撈 民 と し て の生 活 は 、 ア
ム ー ル川 下 流 域 の定 着 漁 撈 民 に酷 似 し た 文 化 を 生 ん だ 。 そ の類 似 は 、 住 居 や 土 器 の形 式 お よ び 文 様 、 さ ら に は魚
皮 を利 用 し た 衣 服 に ま で見 ら れ る の で あ る。 こ の類 似 は 同 じ 生 活 条 件 の故 で あ る と 説 明 さ れ て い る 。
は 、 北 方 の森 林 地 方 の住 民 よ り も 早 く 青 銅 器 時 代 に移 行 し た 。 紀 元 前 三 千 年 紀 末 か ら 二
ア ル タ イ地 方 や ミ ヌ シ ン スク 地 方 、 さ ら に は ザ バ イ カ ル地 方 な ど 、 ステ ップ 地 帯 の住 民
第 四章 青 銅 器 時 代 の シベ リ ア
ステ ップ地 帯 の住 民
フ ァ ナ シ ェボ 文 化 が 存 在 し た 。
千 年 紀 は じ め に か け て 、 南 シベ リ ア のア ル タ イ 地 方 や ミ ヌ シ ン スク 地 方 に、 い わ ば 金 石 併 用 時 代 と も いう べ き ア
ア フ ァナ シ ェボ 文 化 の土 器 はま だ 新 石 器 時 代 の面 影 を 残 し て お り 、 卵 形 尖 底 ま た は 丸 底 の無 頸 壺 で 、 帯 状 の刻
線 文 が 多 い。 磨 製 石 斧 、 石 鏃 、 石 刃 な ど と と も に野 獣 の歯 で つく った さ げ 飾 り も 出 土 し て い る。 こ の ほ か 、 こ の
文 化 の重 要 な 特 徴 で あ る が 、 銅 製 の 小 刀 、 骨 針 を お さ め た銅 製 針 入 れ 、 銅 製 の小 環 お よ び 短 剣 が 出 土 し た 。 ま た
埋 葬 人 骨 は 人類 学 上 の長 頭 型 (指 数 七 四︱ 七 六 ) で古 ユ ー ロ ペ オ イ ド に 属 す る こ と が 判 明 し た。 ま た 出 土 品 のう
墳 墓 か ら は ウ シ、 ウ マ、 ヒ ツ ジ の骨 が 発 見 さ れ た が、 こ れ は シ ベ リ ア に お け る 牧 畜 の は じ ま り を 意 味 し て い る。
ち に南 西 方 遠 く ア ムダ リ ヤ川 下 流 域 に産 す る 貝 類C orbi cu l a l fu mina l i s のあ る こと も 、 こ の文 化 が 中 央 ア ジ ア
と 関 連 し て い る こと を 示 し て い る。 ﹁こ の ア フ ァナ シ ェボ 文 化 の形 成 に あ た って は 、遠 い地 域 、主 と し て ボ ルガ 川
流 域 さ ら に は 黒 海 沿 岸 地 方 ︱ ︱ そ の住 民 の身 体 的 相 貌 は ア フ ァナ シ ェボ 文 化 の に な い手 に大 へん 近 い︱ ︱ に ま で
達 す る 西 方 と の関 連 が 目 立 つ の で あ る 。﹂ (キ セリ ョ フ ﹃南 シ ベ リ ア古 代 史 ﹄ 五 九 頁 ) な お 、 こ の文 化 の墳 墓 は多
く の場 合 、 川 岸 に近 く 石 を つめ た 堅 穴 に埋 葬 さ れ 、 比 較 的 後 に ク ルガ ン (高 塚 ) が築 か れ る よ う に な った 。
ア フ ァナ シ ェボ 文 化 を 母 体 と し て 、 紀 元 前 一五 〇 〇 ︱ 一二〇 〇 年 ご ろ に ア ンド ロ ノ ボ 文 化 が 展 開 す る。 こ の文
化 は 南 シベ リ ア だ け で な く 、 カ ザ フ ス タ ン、 ウ ラ ル地 方 あ た り ま で ひ ろ が って い る 。 こ の文 化 の特 徴 は 、 土 器 が
丸 底 で な く て平 底 と な り 、 山 形 連 続 文 、 平 行 斜線 文 な ど 幾 何 学 文 様 が あ ら わ れ る こと で あ る。 ま た 青 銅 器 の種 類
も 量 も増 加 し 、 短 剣 、 斧 、 鎌 、 針 、 装 身 具 、 槍 先 (ボ ルガ 川 流 域 の セ イ マ文 化 に似 て い る) な ど が 出 土 し て い る。 銅 の ほ か 錫 や 金 の採 掘 も は じ め ら れ た 。
残 り の コムギ 粒 か ら 判 断 し て 、 住 民 が
こ こ か ら 出 土 し た石 製 の穀 擦 器 や焼 け
ま わ り に は 家 畜 の た め の囲 いが あ った 。
た と 思 わ れ る数 個 の炉 が あ った 。 家 の
あ り、 そ の周 囲 に も 別 の夫 婦 が 使 用 し
材 で あ った と 考 え ら れ る。 中 央 に 炉 が
め ら れ た 柱 に支 え ら れ て いた 。 壁 も 木
き ま た は 草 ぶ き の屋 根 は 、 地 中 深 く 埋
か ら な る 集 落 址 が発 見 さ れ た 。 ワ ラ ぶ
二 五 〇 平 方 メ ート ル位 の五 つ の住 居 址
エ フ ス ク村 (ト ボ ル川 岸 ) で は 、 広 さ
生 業 と し て は 、 牧 畜 の ほ か に コ ムギ な ど の耕 作 も 行 な わ れ 、 定 住 性 が つ よ ま った 。 ク ス タ ナ イ 地 方 の ア レ ク セ
ア ファナシ ェボ文化 古墳 出土の遺物
る 。 ア ンド ロ ノ ボ 文 化 の基 礎 に あ る新
農 耕 に 従 事 し て いた こと は 明 ら か で あ
ら し い も の は 、 ﹁ア ン ド ロ ノ ボ 文 化 の
経 済 で 重 要 な 位 置 を し め た 農 耕 で あ る。
住 居 だ け で な く 平 底 の土 器 に 見 ら れ る
定 住 性 、 木 造 構築 物 の出 現 お よ び イ デ
オ ロギ ー の特 徴 (宗 教 面 で は 太 陽 信 仰
お よ び波 形 文 ) な ど ア ンド ロ ノ ボ文 化
と コ ムギ の犠 牲 、 芸 術 面 で は幾 何 学 文
の多 く の特 徴 は 、 ま さ に こ れ と 結 び つ
一〇 〇 頁 )
い て い る ﹂。 (キ セ リ ョ フ前 掲 書 九 九︱
墳 墓 は 、 地 表 に な ん のし る し も な い
も の と ス ト ー ン ・サ ー ク ル (石 が き )
リ ア へ進 入 し た だ ろ う と 考 え て い る。 こ の文 化 が 西 方 と 深 い関 係 を も って い る こと は 、 そ の度 合 は 別 と し て、 ひ
ー ロペ オ イ ド に属 し 、 カ ザ フ ス タ ン西 部 の も の に 近 い こと を 指 摘 し て 、 こ の文 化 の に な い手 が西 方 か ら 南 西 シ ベ
代 よ り も す す み、 家 父 長 制 の特 徴 も 看 取 さ れ る。 人 類 学 者 デ ベ ツ は 、 ア フ ァナ シ ェボ墳 墓 の人 骨 が 人類 学 的 に ユ
で囲 ま れ た も のと が あ り 、 墓 穴 に は 石 ま た は 木 に よ る 墓 室 が 設 け ら れ た 。 副 葬 品 か ら見 て、 社 会 の階 層 文 化 は 前
ア ン ド ロ ノ ボ 文 化 の遺 物
ろ く 認 め ら れ て い る。
南 シベ リ ア の青 銅 器 時 代 にお け る つぎ の段 階 は カ ラ ス ク期 (紀 元 前 一三〇 〇︱ 八 〇 〇 年 ) であ る 。 こ の文 化 の
特 徴 は ま ず そ の墳 墓 の配置 に あ る。 原 則 と し て大 き な 川 か ら 遠 く は な れ て 、 牧 畜 に好 都 合 な湖 や 小 川 のあ る ス テ
ップ に営 ま れ た 。 ま た 墳 墓 に家 畜 、 と く に ヒ ツ ジ の肉 を 副 葬 す る こ と が ひ ろ く 行 な わ れ た 。 ウ シ や ウ マ の骨 も 見
ら れ る が 、 な か に ラ クダ が 含 ま れ て い る こと は 中 央 ア ジ ア と の関 連 を 示 す 点 で興 味 深 い。 ま た サ ナ メ ン カ村 出 土
の石 柱 に は、 幌 のあ る 四輪 馬 車 が 描 か れ て いる が 、 これ は 当 時 の牧 畜 民 の移 動 的 な 側 面 を 物 語 って い る。
も いえ る域 に達 し た 。 青 銅 刀 子 は柄 部 と 刃 部 と が 一本 に鋳 出 さ れ て い て、 内 側 に彎 曲 し て い る の が 特 徴 であ る。
青 銅 器 製 品 は ひ ろ く 発 達 し 、 刀 子 、 剣 、 鎌 、斧 な ど 利 器 の ほ か 、 指 輪 、 腕輪 、 垂 飾 な ど 各 種 装 飾 品 が芸 術 的 と
ま た 柄 頭 に ヒ ツ ジ な ど 動 物 像 が 鋳 出 さ れ て い る。 土 器 は、 ミ ヌ シ ン スク 盆 地 で は丸 底 お よ び 円 筒 型 が 多 く 、 ア ル
タ イ 地 方 で は平 底 も見 ら れ る。 こ のほ か、 カ ラ ス ク期 の大 き な特 徴 と し て、 下 半 部 に奇 怪 な面 相 を浮 彫 し た も の
を含 む 石 像 が あ げ ら れ る 。 な か に は 光 源 を あ ら わ す か の よ う な 円 や怪 獣 の顔 も 見 ら れ る 。 最 近 、 こ れ ら の立 石 や
石 像 (カ ー メ ン ナ ヤ ・バ ー バ ) の 一部 が カ ラ スク 期 で は な く て、 そ の前 のア ンド ロノ ボ 期 に属 す る こ と が 指 摘 さ
﹁こ の遺 物 は ミ ヌ シ ン スク 草 原 の石 像 の う ち 、 こ れ に 近 い特 徴 を も つ いく つか のも の︱︱ 女 神 ま た は 種 族 母 神 を
れ て い る 。 ア バ カ ン市 の教 会 構 内 の墳 墓 か ら 、 長 い鼻 と 短 か い眉 を し た 骨 製 女 性 像 (彫 縷 ) が 発 見 さ れ た が 、
あ ら わす と 考 え ら れ る︱︱ が ア ンド ロノ ボ 期 に 比 定 さ れ る こと を 可 能 にし た﹂。 (オ ク ラ ード ニ コ フ ﹃シ ベ リ ア の 古 代 住 民 と そ の文 化﹄ 五 四 頁 )
カ ラ ス ク文 化 の起 源 、 他 地 域 と の関 係 な ど に つ い て キ セリ ョフ は つぎ の よ う に書 いて い る。 ﹁カ ラ ス ク 時 代 の
住 民 の大 部 分 は 、 ミ ヌ シ ン ス ク 盆 地 への新 ら し い移 住 者 で あ った 。 そ の身 体 的 特 徴 か ら判 断 す る と 、 彼 ら は 中 国
森林 地帯 の住民
か ら エ ニ セイ 川流域
へき た と考 え ら れ る。新 ら し い地 域 で カ ラ ス ク人 は
比 較 的 ま ば ら な ア ン ド ロノ ボ 期 の住 民 と 出 会 い、 文 化 的 に急 速 に融 合 し
た 。 こ れ と 平 行 し て種 族 の混 交 も 行 な わ れ た が、 こ れ は 彼 ら が 混 血 型 に
属 す る こと に 示 さ れ て い る 。 ⋮ ⋮ ミ ヌ シ ン ス ク盆 地 は ア フ ァナ シ ェボ文
化 お よ び ア ンド ロノ ボ 文 化 の時 代 に は 、 ユ ー ラ シ ア の ス テ ップ 文 化 の東
縁 で あ った 。 カ ラ スク 時 代 にな る と す べ て は 激 変 し た 。 カ ラ ス ク の遺 物
よ び 南 西 方 ︱︱ 沿 バ イ カ ル地 方 、 モ ンゴ リ ア 、 長 城 地 帯 で は 、 主 と し て
は 、 西 方 で は偶 然 的 分 散 の形 で し か見 ら れ な い。 ⋮ ⋮ そ の か わ り東 方 お
カ ラ ス ク 型 に似 た青 銅 製 品 が大 量 に 発 見 さ れ て い る 。 ﹂ (キ セ リ ョフ ﹃南
シ ベ リ ア 古 代 史 ﹄ 一四 三 頁 )﹁エ ニセ イ 川 中 流 域 に お け る カ ラ ス ク 期 の青
銅 鋳 造 術 の完 成 は、 中 国 北 部 の冶 金 文 化 の影 響 に関 連 さ れ ね ば な ら な い。
ミ ヌ シ ン ス ク 盆 地 にお け る カ ラ ス ク 期 鋳 造 師 の製 品 が 、 そ の形 式 お よ び
製 造 技 術 に お い て、 長 城 地 帯 の カ ラ ス ク 型 青 銅 製 品 だ け で な く 、殷 の都
安 陽 (紀 元 前 十 五︱ 十 四 世 紀 ) 出 土 の中 国 青 銅 器 、 さ ら に は 周 初 期 の青
ァナ シ ェボ 文 化 と 、 そ れ に つ づ く ア ンド ロ ノ ボ文 化 が 開 花 し た ころ 、 沿 バ イ カ ル地 方 の森 林
ま ず 沿 バ イ カ ル地 方 に つ い て のべ よ う 。 ミ ヌ シ ン ス ク 盆 地 や ア ルタ イ 地 方 の ス テ ップ に ア フ
カ ラ ス ク期 の文 化 は 、 後 に 見 事 に 開 花 す る動 物 意 匠 の萠 芽 を含 ん で い る 点 で、 こ と に 重 要 で あ る 。
銅 器 に 近 い こと が 、 こ れ を 示 し て いる 。﹂ (前 掲 書 一六 二 頁 )
カ ラス ク期 古墳 出土 の遺物
で は 、 こ の地 域 に金 属 文 化 の時 代 を 開 い た グ ラ ズ コボ 文 化 (紀 元 前 一八 〇 〇 ︱ 一三〇 〇 年 ご ろ ) が 行 な わ れ た。
こ の頃 の沿 バ イ カ ル地 方 は 、 一方 で は ザ バ イ カ ル地 方 や ミ ヌ シ ン ス ク 地 方 の先 進 文 化 に 、 他 方 で は 北 方 森 林 地 帯 や ツ ンド ラ のお く れ た 文 化 に接 し 、 いわ ば 中 間 的 立 場 に あ った 。
グ ラ ズ コボ 文 化 は 、 イ ル ク ー ツ ク か ら ブ ラ ツ ク ま で の ア ンガ ラ川 岸 (六 五 〇 キ ロ) を 中 心 と し て ひ ろ が る約 二
〇 〇 基 の墳 墓 に つ い て いわ れ るが 、 そ の最 大 の特 徴 は 各 種 の石 器 、 骨 角 器 、 土 器 な ど と と も に、 少 数 な が ら 銅 ま
た は青 銅 製 品 を出 土 し て い る こと で あ る。 時 代 が下 る に つ れ て 青 銅 製 品 が多 く な り、 刀 子 、 釣 針 、 板 金 な ど (現
在 ま で 五 八 個 発 見 ) が出 土 し て い る が、 石 器 の形 も 以 前 と は変 って く る。 燧 石 製 の鏃 の基 底 は ま っ直 にな り 、 両
面 に 研 磨 を 加 え た ハ マグ リ型 の軟 玉 製 石 斧 が あ ら わ れ る 。 埋 葬 は、 セ ー ロボ期 に は典 型 的 に狩 猟 民 のも の で あ っ
た が 、 こ の期 に な る と ま った く 漁 撈 民的 と な る。 墳 墓 は 川 を基 準 にし て配 置 さ れ、 そ の形 式 も舟 型 のも の が み ら
れ 、 ま た 副 葬 品 に は 各 種 の漁 具 が 目 立 って い る 。 貧 富 の差 も あ ら わ れ 、 男 女 の合 葬 墓 も み ら れ る。 いろ いろ の徴
候 か ら お し て、 住 民 は こ の時 代 に母 権 制 か ら 父 権 制 へ移 行 し 、 家 父 長 制 的 関 係 の萠 芽 が あ ら わ れ た と 考 え ら れ る 。
グ ラ ズ コボ 期 に は遠 い地 域 と の交 易 が さ か ん に 行 わ れ た 。 キ ト イ 期 ま で は西 方 と の関 連 が濃 厚 で あ った が 、 青
銅 器 時 代 に な る と極 東 地 方 と の関 係 が つよ ま った 。 セ レ ンガ 川 下 流 域 にあ る フ ォ フ ァノ ボ 墳 墓 出 土 の磨 製 石 斧 や
土 器 は 中 国 と の つな が り を思 わ せ 、 軟 玉 製 の環 は極 東 地 方 と の関 連 を 示 し て いる 。 ま た こ の墳 墓 か ら 出 土 し た 貝
類 のう ち 、 Arca subcr enat a Lo schke は 日 本 列 島 の周 辺 に、 Cass us st ri gat a Gm el i ni は 日 本 、 モ ロ ッ コ諸 島 、
中 国 、 フ ィ リ ピ ン の海 に産 す る こと が 明 ら か に さ れ て い る。 多 年 にわ た って こ の文 化 を研 究 し た オ ク ラ ー ド ニ コ
フ は 、 土 器 や石 器 が 当 時 の ア ム ー ル川 上 流 域 、 満 洲 北 部 、 モ ン ゴ リ ア のも の に 似 て い る こと か ら 、 バ イ カ ル湖 の
南 東 部 一帯 に、 同 じ く 胸 当 て のあ る か き 合 せ 式 衣 服 を着 用 し 、 貝 類 製 のビ ー ズ や軟 玉 製 の環 で身 を飾 り 、 共 通 の
言 葉 を 話 し た 親 近 な種 族 が 住 ん で い た だ
ろ う と 考 え て い る。 さ ら に 、 さ き に のべ
た シ ル カ洞 穴 遺 跡 出 土 の 人 骨 が 沿 バ イ カ
ル地 方 に 住 む 現 代 ツ ング ー ス 人 (エベ ン
エベ ン キ 人 の原 郷 が ア ム ー ル川 上 流 域 で
キ 人 ) のそ れ に酷 似 し て い る こと か ら 、
あ ろ う と 考 え て い る。 ﹁こ う し て、 グ ラ
ズ コボ 期 以 後 の三 〇 〇 〇 年 間 に 、 シ ルカ
人 骨 か ら 判 断 し て、 紀 元 前 二千 年 紀 末 に
お け る ア ム ー ル川 上 流 域 の古 代 住 民 と お
な じ 身 体 的 特 徴 の種 族 が東 か ら 沿 バ イ カ
ル 地 方 へ移 って き た と 考 え る こと が で き
る。 こ れ と と も に、 沿 バ イ カ ル地 方 の エ
の生 業 は 依 然 と し て狩 猟 と 漁 撈 で あ った が 、 そ の生 活 に は カ ラ ス ク型 の〓 (釜 の大 口 のも の) や槍 先 、 剣 な ど の
青 銅 器 文 化 の波 は 遠 く ヤ ク ー チ ヤ 地 方 にも 及 ん だ。 紀 元 前 二 千 年 紀 末 か ら 一千 年 紀 にか け て、 レナ 川 流 域 住 民
あ る。﹂ (オ ク ラ ード ニ コ フ ﹃沿 バ イ カ ル 地 方 の新 石 器 時 代 と 青 銅 器 時 代 ﹄ 第 三部 九 頁 )
年 以 前 、 ア ンガ ラ 川 や レ ナ川 、 セ レ ン ガ 川 下 流 域 に 住 ん だ グ ラ ズ コボ 期 の人 び と にす で に存 在 し た こ と は 事 実 で
ベ ン キ 人 に特 徴 的 な す べ て の 民 族 学 的 要 素 は、 少 な く と も そ の基 本 的 特 徴 にお い て、 今 か ら 三 〇 〇 〇 ︱ 四 〇 〇 〇
墳墓 か ら出 土 した貝殻 と原産地
ら か に さ れ て いる 。 こ の製 錬 術 は南 の グ ラズ コボ文 化 の影 響 に よ る も の と考 え ら れ る。
青 銅 製 品 が 普 及 し た 。 し か も こ れ ら の青 銅 器 は 、 原 始 的 な 熔 鉱 炉 の跡 な ど に よ って、 現 地 で つく ら れ た こと が 明
ア ン ガ ラ 川 流 域 で は、 グ ラ ズ コボ 期 以 後 、 す な わ ち ミ ヌ シ ン ス ク盆 地 の カ ラ ス ク期 に相 応 す る時 期 に 、 カ ラ ス
ク文 化 と は 異 な った特 徴 のあ る シベ ル文 化 期 が 行 な わ れ た 。 こ こ で は 、 様 式 化 さ た れ オ オ シ カ や空 想 的 な ヘビ の 像 が 青 銅 で鋳 出 さ れ て い る 。
第 五章 紀 元 前 一千 年 紀 以 後 の シベ リ ア
紀 元前 一千年紀︱ 紀元 一千年 南 シベ リ ア の カ ラ ス ク 文 化 に つ づ く タ ガ ー ル文 化 は 、 全 体 と し て カ ラ ス ク 文 化 紀 におけ る南 シ ベリ ヤの住民 の連 続 で あ り発 展 で あ った 。 これ は か つ て ク ルガ ン文 化 と よ ば れ 、 同 時 代 の ス
キ タ イ 文 化 に よ く似 た ス テ ップ 牧 畜 民 の文 化 で あ る が 、 キ セ リ ョフ は 三 期 に分 け て 考 察 し て い る。 第 一期 は 紀 元
前 十 世 紀 に 、 第 二 期 は 紀 元 前 五 世 紀 に は じ ま り 、 第 三 期 は紀 元 前 三 ︱ 一世 紀 で あ る 。 こ の文 化 期 に は 農 耕 が いち
じ る し く 発 達 し 、複 雑 な 灌 漑 水 路 が 開 か れ、 耕 地 は鍬 に よ って耕 や さ れ た。 こ の時 代 に は、 天 幕 の ほ か に 、 丸 太
と は 、 は じ め は 青 銅 製 、 後 に は鉄 製 のく つわ の発 達 に よ く 示 さ れ て い る。 交 換 の発 展 も 目 ざ ま し く 、 地 中 海 地 方
積 み の小 屋 か ら な る定 住 集 落 が あ った と 考 え ら れ る。 住 民 の 生 活 と労 働 のな か に 、 騎 馬 の風 習 が根 を お ろ し た こ
で 産 す る ガ ラ ス製 品 ま で あ ら わ れ た 。 鉄 器 は 第 二期 か ら 登 場 し は じ め 、 第 三 期 に な る と 、 少 なく と も労 働 用 具 の 上 で は青 銅 製 品 を 圧 倒 す る よ う に な った。
墳 墓 の副 葬 品 に は 男 女 の相 異 が あ ら わ れ は じ め る。 女 性 の墳 墓 に は青 銅 の刀 子 、 針 、 ボ タ ン、 ガ ラ ス や 石 な ど
の珠 類 が 、 男 性 の墳 墓 に は ア キ ナ ケ ス型 の短 剣 、 刀 子 、 両 耳 の あ る袋 穂 斧 、 つる は し な ど の青 銅 器 、 銅 鏃 が副 葬
さ れ た 。 ま れ に は 女 性 戦 士 の墓 も発 見 さ れ て は いる が 、 家 族 の長 が男 性 で あ った こ と は 疑 いな い。 土 器 は 平 底 の
研 磨 土 器 が多 か った 。 第 二期 に は 一般 兵 士 の多 数 の墓 と 並 ん で 、 た と え ば サ ルブ イ ク の古 墳 の よう に、 周 囲 に 巨
大 な立 石 か ら な る 石 籬 をめ ぐ ら し 、 高 さ 一〇 メ ー ト ル、 周 囲 二五 〇 メ ー ト ル の墳 丘 を 築 いた 高 塚 (ク ル ガ ン) が
わ れ た 。 副 葬 品 に武 器 が急 増 し た こ と から 見 て、 軍 事 は こ の時 代 に高 度 に発 達 し た と考 え ら れ る。
出 現 し た 。 第 三 期 に は 、 単 独 墳 の ほ か 合 葬 墳 も多 く な った。 死 者 は 陶 土 製 の仮 面 を つけ て埋 葬 さ れ る こと も行 な
と 同 時 期 に 、 マイ エミ ー ル文 化 が成 立 す る。 こ れ は 考 古 学 者 グ リ ャズ ー ノ フ
ア ルタ イ 地 方 で は、 カ ラ ス ク文 化 以 後 、 ミ ヌ シ ン スク 盆 地 の タ ガ ー ル文 化
で の広 大 な ス テ ップ 地帯 に普 及 す る の で あ る。
イ 期 に いた る と 、 東 は ア ムー ル川 や 黄 河 ま で 、 西 は カ ス ピ海 や黒 海 の沿 岸 ま
九 巻 一四 五︱ 六 頁 ) こ の動 物 意 匠 は 、 そ の後 の いわ ゆ る ス キ タ イ ・サ ル マタ
を も り こ も う と す る意 図 が いち じ る し い。﹂ ( 平 凡 社 版 ﹃世 界 考 古 学 大 系 ﹄ 第
的 な姿 態 を強 調 す る傾 向 が つよ い。 ⋮ ⋮ 第 三 に 、 最 小 の空 間 的 に最 大 の内 容
ら い写実 的 で あ る が 、 簡 潔 に 様 式 化 さ れ 、 ま た 動 物 の特 徴 的 な 部 分 や、 特 徴
し ば し ば 非 常 に巧 妙 に う す く 肉 づ け さ れ て いる 。 第 二 に 、 そ の動 物 形 は が ん
と で あ る。 し た が って そ れ は お おむ ね平 面 的 で あ って、 立 体 的 で は な いが 、
形 を 透 し 彫 り風 に 、 あ る い は浮 き彫 り風 に、 輪 郭 に 重 点 を お い て表 現 し た こ
夫 教 授 は 動 物 意 匠 の特 徴 と し て つぎ の 三 つ を あ げ て い る 。 ﹁第 一に 、 動 物 の
表 現 の う ち に 、 彼 ら の力 と 敏 速 に対 す る 崇 拝 を こめ た と考 え ら れ る。 江 上 波
ウ マ、 シ カ、 ラ イ オ ン、 ヤギ 、 ト ナ カ イ 、 ヒ ョウ 、 ク マ、 ワ シな ど の姿 態 の
世 界 の文 化 史 上 特 異 な位 置 を占 め る 内 陸 ユー ラ シ ア の動 物 意 匠 は 、 こ のタ ガ ー ル文 化 期 に大 き な発 展 を と げ る 。
ミ ヌ シ ン ス ク 盆 地 出 土 の タ ガ ール 文 化 の遺 物
の命 名 に よ る が、 タ ガ ー ル文 化 と本 質 的 に は同 類 の
文 化 と 考 え ら れ て い る 。 そ の後 ア ル タ イ 地 方 で は、
有 名 な パ ジ リ ク古 墳 群 の文 化 が圧 倒 的 鮮 明 さ を も っ て登 場 す る 。
一九 二 九 年 、 ロ シ ア博 物 館 の ア ル タ イ 調 査 団 は ル
デ ン コを 団 長 と し て 、 標 高 一、 六 五 〇 メ ー ト ル の高
め た 。 と ころ が こ の地 方 は 全 面 的 永 久 凍 土 の分 布 範
原 性 ステ ップ に あ る 五 基 の大 ク ル ガ ン の調 査 を は じ
囲 外 に あ る に も か か わ らず 、 槨 室 内 お よ び 墓 拡 内 の
石 と 丸 太 と のあ いだ に 生 じ た空 間 と 、 ク ルガ ン構 築
ルガ ンと も永 久 凍 結 の状 態 に あ った の で あ る。 こ の
後 数 年 間 の き び し い高 山 性 気 候 の た め に、 五 基 の ク
た め 、 人 馬 の死 骸 や 木 製 品 、 織 物 、 毛 皮 な ど が 二〇
〇 〇 年 以 上 を 経 過 し た 今 日 に つた え ら れ た 。 梅 原 末
治 教 授 は 、 一九 三 〇 年 モ スク ワ を訪 れ た と き 、 パ ジ
こ れ ら の馬 具 を 目 賭 す る機 会 を持 ち 、 爾 後 数 日 を 其 の調 査 に費 し た の であ った が、 そ の華 麗 な 鞍 が あ た か も 近 頃
午 後 ア レ キ セ イ教 授 に伴 わ れ て、 折 り か ら 滞 在 中 の矢 野 博 士 、 同 行 の島 村 孝 三 郎 と 共 に露 西 亜 博 物 館 の 一室 で 、
リ ク古 墳 出 土 の馬 具 の 一部 を 実 見 し た 印象 を つぎ のよ う に書 い て い る。 ﹁ 筆 者 は第 三 回 の 入 露 中 九 月 二 十 七 日 の
動物 の咬 噛意 匠 左上 ペル セポ リス 右上 ケ レル メ ス 右 中 ク ル ・オバ 左 下パ ジ リク 右 下 ノイ ンイラ
仕 上 げ ら れ た 様 な鮮 か さ を 以 て 観 者 に せ ま り 、 ま た 胸 、 面 繋 の杏 葉 、 轡 、 馬 面 等 多 数 木 彫 品 の完 全 な 保 存 状 態 は、
羊 毛 の清 新 な 点 と 相 俟 って、 一見 古 代 の遺 品 と す る に躊 躇 せ し め る 程 で あ った 。﹂ (梅 原 末 治 ﹃古 代 北 方系 文 物 の 研 究 ﹄ 一八 五 頁 )
内 の南 壁 に沿 って長 さ 三︱ 四 メ ー ト ル の、 カ ラ マツ
の北 よ り に は 馬 具 を と も な う ウ マが副 葬 さ れ 、 墓 室
に チ シ マチ ャ の小 枝 な ど が 積 ま れ て い た。 墓 室 の外
井 の上 に は シラ カ バ の皮 を いく 重 に も 重 ね 、 そ の上
か ら な る 壁 と天 井 は定 ま って 二 重 に な って お り、 天
墓 室 の床 は 太 い丸 太 で敷 き つめ ら れ、 同 じ く 丸 太 材
一 ・二 ︱ 一 ・九 メ ー ト ル で 丸 太 積 み の家 を思 わ せ る 。
丸 太 造 り の墓 室 は面 積 九 ︱ 二 四 平 方 メ ー ト ル、 高 さ
パ ジ リ ク 古 墳 の構 造 はど れ も ほ ぼ同 じ で あ った 。
残 さ れ て いた 。
掘 者 のた め に荒 ら さ れ て いた が 、 な お多 く の遺 物 が
タ ンダ な ど の古 墳 が 調 査 さ れ た 。 墓 室 内 は す べ て盗
群 と 同 じ 系 統 に属 す る バ シ ャダ ル、 ト ゥ エ ク タ 、 カ
査 さ れ 、 つづ いて 五 〇 年 と 五 四 年 に は パ ジ リ ク 古 墳
パ ジ リ ク 古 墳 群 は そ の後 、 同 じ く ルデ ン コを長 と す る調 査 団 に よ って 一九 四 七 年 、 四 八 年 、 四 九 年 と 継 続 調
前 方 アジア産 織物 の断 片,パ ジ リク
を く り ぬ いた 棺 が 安 置 さ れ て い た 。 木 棺 の表 面 に は 、 第 一号 墳 で は お ん ど り の列 、 第 二 号 墳 で は ト ナ カ イ の列 が 浮 き彫 り さ れ て いた 。
出 土 品 のな か に は 外 来 品 も 目 立 った 。 中 国 産 の絹 織 物 や青 銅 鏡 、 アケ メ ネ ス朝 イ ラ ン の織 物 、 ヒ ョウ の皮 、 印
度 産 の カ イ が ら 、 近 東 地 方 産 の コリ ア ンド ロ の種 子 な ど であ る。 ま た被 葬 者 の性 や 貧 富 と は無 関 係 に か な ら ず ウ
マが陪 葬 さ れた が 、 これ は当 時 に おけ る 乗 馬 用 の重 要 な意 義 を 物 語 って いる 。 ウ マは す べ て去 勢 馬 で、 土 産 の蒙
古 ウ マの ほ か に西 方 産 の栗 毛 の ア ー リ ア ・ウ マが あ り 、 そ の耳 に は所 有 者 を 示 す 切 れ 目 が つけ ら れ て いた 。
パ ジ リ ク の種 族 は ス キタ イ 人 の風 習 と 多 く の点 で 共 通 し て いた 。 死 者 の遺 体 は す べ て ミ イ ラ に さ れ 、 第 二 、 第
四 、 第 五 号 墳 で は 妻 妾 ら し い女 性 が 男 性 と と も に埋 葬 さ れ て いた 。 ヘ ロド ト スが そ の ﹃歴 史 ﹄ のな か で ス キ タ イ
人 の風 習 に つ い て書 いた こと は 、 多 く の点 で 立 証 さ れ た 。 た と え ば 、 ヘ ロド ト ス は スキ タ イ 人 が埋 葬 後 、 特 設 小
屋 の中 で、 赤 熱 し た 石 に投 げ こ ん だ 大 麻 の種 の放 つ煙 を 吸 って身 を き よ め る こと を書 い て い る。 パ ジ リ ク古 墳 か
ら 、 こ れ を裏 づ け る装 置 、 つま り 石 の あ る香 炉 、 特 別 の袋 に は い った 大 麻 の種 な ど が 発 見 さ れ た 。 第 二 号 墳 に埋
い た 。 研 究 の結 果 、 こ の いれ ず み は被 葬 者 の死 のは る か 以 前 、 お そ ら く は そ の青 年 期 に煤 を針 で刺 し てす り こ ん
葬 さ れ た 男 子 の揚 合 は 、頭 の皮 が はぎ と ら れ 、 さ ま ざ ま の怪 獣 を 描 い た いれ ず み が ほ と ん ど 全 身 に ほ ど こ さ れ て
だ も の で あ った 。 ルデ ン コは ﹁こ の いれ ず み は装 飾 的 な意 義 の ほ か に、 お そ ら く は こ の 人 物 が高 貴 の生 ま れ で あ
る こと 、 勇 敢 で あ る こと が強 調 さ れ た も の と 思 わ れ る﹂ と の べ て い る。 (﹃古 代 文 化 の跡 を た づ ね て﹄ 一三 二頁 )
パ ジ リ ク 古 墳 から は多 く の馬 具 や衣 服 、 家 具 、 装 飾 品 な ど が 発 見 さ れ た が 、 な か でも 有 名 な も の は 、 一九 四 九
年 に 第 五 号 墳 か ら 出 土 し た世 界 最 古 の毛 氈 で あ る。 こ れ に は植 物 の ほ か に 、 前 方 ア ジ ア産 の黄 シ カ、 グ リ フ ォ ン
(有 翼 怪 獣 )、 ウ マを率 いて 急 ぐ騎 士 の絵 が描 か れ て いた 。 ま た 大 き な フ ェル ト の壁 掛 に は 、 女 神 が 花 の つ い た
枝 を 手 に持 って玉 座 に す わ り 、 そ の前 に騎 士 が 立 って いる 図 が描 か れ て いた 。 これ ら は 、 スキ タ イ と の 関連 や年 代 比 定 の上 でき わ め て 重 要 であ る。
パ ジ リ ク古 墳 の年 代 比 定 に つ いて は学 者 間 に意 見 が 分 か れ て い る が 、 ルデ ン コは 紀 元 前 五︱ 三世 紀 と見 な し 、
ロ ペ オ イ ド で あ った 中 央 ア ジ ア種 族 群 に属 し た こ と 、 そ う し て そ れ は 中 国 史 料 で 月 氏 と 称 し た 種 族 で あ る と 考 え
つ ぎ のよ う に書 いて いる。 ﹁わ れ わ れ が 問 題 に し て い る ア ルタ イ の種 族 は、 お そ ら く は サ カ 人 と 同 じ よ う に ユー
ら れ る。 ⋮ ⋮ 山 地 ア ルタ イ の古 代 種 族 と そ の す ば ら し い文 化 は ど ん な 運 命 を た ど った か 。 ア ル タ イ で は今 日 ま で、
文 化 的 側 面 で積 石 墳 に つな が る 考 古 学 的 遺 物 のう ち 、 紀 元前 三世 紀 よ り 後 代 の も の は発 見 さ れ て いな いと いう 事
実 は 、 わ れ わ れ が問 題 に し て い る ア ルタ イ の種 族 で あ る短 い期 間 に消 滅 し た こと を 示 し て い る。 こ れ は伝 染 病 や
飢 餓 の た め に 住 民 が 死 に絶 え 、 飼 料 の欠 乏 か ら 家 畜 が大 量 に死 滅 す る と いう
よ う な 破 滅 的 災 厄 に よ って生 じ た も の で あ ろ う 。 ⋮ ⋮ そ の後 こ の文 化 の伝 統
畜 ・農 耕 民 の文 化 が展 開 す る 。 こ の期 の代 表 的 な墓 地 に 、 一九 三 六 年 、 三 八
フ人 の文 化 を含 む ︱︱ のう ち に 看 取 さ れ る 。 ﹂ (ルデ ン コ ﹃スキ タ イ時 代 に お
は 、 も は や他 の ト ル コ的 エト ノ ス の文 化 ︱ ︱ 現 代 の キ ルギ ス人 お よ び カ ザ ー ジ リク
ベ リ ア の ハカ ス地 方 で土 を掘 って 立 て た 石 柱 ま た は 石 板 の あ る墳 墓 を さ し 、
年 に調 査 さ れ た ウ イ バ ト ・チ ャ ー タ スが あ る 。 チ ャ ー タ スと いう の は、 南 シ
ミヌ シ ン ス ク 地 方 で は 紀 元 前 一︱ 五 世 紀 に、 タ シ テ ィ ク 期 と よ ば れ る 牧
異 論 が な いわ け で は な い こと を付 言 し な け れ ば な ら な い。
け る中 央 ア ル タ イ 住 民 の文 化 ﹄ 三 三 九 ︱ 三 四 一頁 ) し か し こう し た結 論 に は、 女 神 と騎 士 の 像,パ
ハカ ス語 で戦 い の石 と いう 意 味 で あ る。 こ の墓 地 に は 、 農 耕 や牧 畜 、 手 工業 に従 事 し た 庶 民 の も の と思 わ れ る 平
あ り 、 そ の下 に は 五 ︱ 八 メ ー ト ル 四 方 の墓 坑 が あ って 、 太 い カ ラ マ ツ の丸 太 で つく った 木 槨 が も う け ら れ て いた 。
凡 な墓 と 、 氏 族 の名 門 のも のと 思 わ れ る 大 墳 墓 と が あ った が、 後 者 の場 合 は 地表 に高 さ 一 ・五 メ ー ト ル の封 土 が
死 者 は ふ つう焚 火 で焼 か れ た が 、 そ の前 に、 死 者 の顔 か た ち を石 膏 製 の死 仮 面 に 刻 印 し た 。 これ ら の マ ス ク を 人
ス ク は ほ と ん ど す べ て 、 黒 、赤 、 淡 青 色 な ど に 彩 色 さ れ て いた 。
類 学 的 に調 査 し た結 果 、 ユー ロペ オ イ ド と モ ン ゴ ロイ ド と が 並 存 し 、 な か に は 両 者 の混 血 型 も 見 ら れ た 。 こ の マ
氏 族 の大 墳 墓 に は 焼 か れ た骨 が積 ま れ て いた が 、 そ れ ぞ れ の骨 は ま た 草 で編 ま れ た小 さ な ﹁巣 ﹂ に 入 れ ら れ、
そ の そば に埋 葬 に と も な う マ ス ク そ の他 の物 品 が お か れ て い た。 遺 骸 を 焼 いた 燃 え 残 り に は 、 さ ま ざ ま の形 の木
器 、 毛 織 物 、金 箔 を か ぶ せ た木 彫 飾 板 な ど が発 見 さ れ た。 墓 坑 に よ って は マ スク つき の遺 体 が 六 〇 を 数 え 、 殉 死
を強 制 さ れ た と 思 わ れ る マ スク や副 葬 品 を と も な い死 骸 は す べ て入 口 あ た り に位 置 し て いた 。 墳 墓 か ら は こ の ほ
ムガ ( 氏 族 の所 有 を 示 す 烙 印 ・刻 印 )、 中 国 と の深 い つな が り を 示 す 儀 式 用 日傘 の 一部 な ど が出 土 し た 。
か 、 各 種 の炊 事 用 具 、 武 器 、 ウ シ、 ウ マ、 ヒ ツジ な ど の骨 、 被 葬 者 の家 族 関 係 を 示 す と 思 わ れ る ウ シ の距 骨 製 タ
一九 四 五 年 に は 、 ア バ カ ン市 付 近 で 、東 西 四 五 メ ー ト ル、 南 北 三 五 メ ー ト ル の中 国 風 建 物 址 が 調 査 さ れ た 。 中
央 に 大 広 間 を囲 ん で 二〇 室 が あ り 、 床 下 の煙 道 を 利 用 し て暖 房 し た 跡 が 残 って いた 。 厚 さ約 二 メ ー ト ル の土 壁 、
瓦 ぶ き で 、 ﹁天 子 楽 未 央 、 千 秋 万歳 当 ﹂ と 陽 刻 し た 瓦 当 や木 扉 の把 手 に 用 いた ユー ロペ オ イ ド風 の怪 人 面 (青 銅
製 ) な ど が 出 土 し て い る。 こ れ は ソ連 で は 、 紀 元 前 一世 紀 匈 奴 に降 った 漢 の武 将 李 陵 の住 居 で あ り 、 お そ ら く は
中 国 か ら の移 民 ま た は捕 虜 の手 に な る も のだ ろ う と考 え ら れ て い る が 、 これ に も異 論 が あ る 。
紀 元 五 ︱ 六 世 紀 に な る と 、 エ ニセ イ 川 中 流 域 で は エ ニセ イ ・キ ルギ ス人 の国 家 が形 成 さ れ た 。 現 代 の ハカ ス人
は 、 彼 ら の直 接 の子 孫 で あ る と 考 え ら れ て い る。 こ の時 代 に も 、 富 裕 な有 力 者 の墳 墓 は タ シ テ ィ ク期 の そ れ に よ
さ れた。
く 似 て お り 、 地 面 に は 石 柱 が 垂 直 に 立 て ら れ て い る 。 死 者 は墳 墓 の側 で焼 か れ 、 土 器 や犠 牲 の動 物 と と も に埋 葬
こ の時 代 の遺 跡 を調 査 し た 結 果 、 当 時 の住 民 が 牧 畜 の ほ か に農 耕 に も 従 事 し て い た こと を 示 す 遺 物 が多 数 発 見
いわ ゆ る 突 厥 碑 文 も 、 彼 ら の生 活 を 物 語 って い る が、 こ こ で は詳 し く は 立 ち 入 ら な い。
さ れ た 。 中 国 製 の鉄 製 犁 、 鎌 、 挽 臼 な ど で あ る。 こ れ は 中 国 の ﹃新 唐 書 ﹄ に 記 述 さ れ て いる と お り で あ る。 ま た
キ ルギ ス人 は 鉄 鏃 そ の他 鉄 製 武 器 の製 作 に す ぐ れ 、 金 銀 の加 工 で も 見 る べ き も のが あ った 。 彼 ら は 墓 坑 の そ ば
ペ ナ村 の墳 墓 で発 見 さ れ た 。 こ れ ら の な か に は 、 突 厥 文 字 に よ る銘 や 鳥 獣 の絵 な ど の刻 ま れ て い る も の も含 ま れ
に 小 さ な 四 角 の穴 を 掘 って宝 物 を 埋 め た が 、 盗 掘 者 た ち の眼 を の が れ た 少 数 の黄 金 遺 物 が 一九 三九 年 マ ル イ ・ コ
て いた 。
カ ス、 モ ン ゴリ ア 一帯 に は突 厥 時 代 に 建 て ら れ た 石 人 が 分 布 し て い る。 石 人 の意 味 に つ い て は 、 そ れ が戦 場 で突
エ ニセ イ ・キ ルギ ス人 に 近 いチ ュ ル ク族 は今 の ト ゥ ー バ 自 治 州 の地 域 に住 ん で いた 。 こ の 地 域 を 中 心 に し て ハ
厥 に 殺 さ れ た 敵 の像 で あ る と も 、 ま た 死 ん だ 突 厥 の部 将 そ の人 で あ る と も いわ れ て、 ま だ 定 説 は な い。
ト ゥ ー バ 地 方 で はケ ノ タ ー フ墳 と いう 珍 ら し いも のが いく つか 発 見 さ れ た 。 これ は 突 厥 の部 将 が故 郷 を遠 く は な
突 厥 の墳 墓 は 、 多 く の場 合 比 較 的 浅 い墓 坑 に 丸 太 で天 井 を お お い、 そ の上 に積 石 塚 を き ず い た も ので あ る が 、
れ た異 国 で お そ ら く は 戦 死 し 、 遺 族 が そ の遺 骸 な し に、 ウ マそ の他 多 く の副 葬 品 を つ け て埋 葬 し た も の で あ る。
の鍋 や短 剣 、 鳴 鏑 つき鉄 鏃 な ど が 発 見 さ れ た が 、 な か で も 一九 五 七 ︱ 五 八 年 に グ ラ ー チ が発 見 し た 唐 代 の古 銭 と
な か に は遺 体 のか わ り に人 形 が埋 め ら れ た も の も あ った 。 副 葬 品 に は 中 国 産 の絹 織 物 、 豊 か な 装 飾 の馬 具 、鉄 製
銅 鏡 は 注 目 さ れ る 。 古 銭 は玄 宗 皇 帝 の開 元 二年 (七 一四 年 ) の も の で あ り、 直 径 一〇 セ ンチ の 精 巧 な 銅 鏡 に は
﹁賞 得 秦 王 鏡 、 判 不 惜 千 金 、 非 關 欲 照 膽 、 特 是 自 明 心 ﹂ と 鋳 出 さ れ て いた 。 ソ連 の学 者 は こ の鏡 の製 作 年 代 を 、
紀 元 六 二 七 年 よ り お そ く は な いと 考 え て い る。 こ れ ら の こと は東 突 厥 が 文 化 的 に中 国 と 深 い関 係 にあ った こと を
示 し て い る。 こ のほ か 、 印 度 洋 産 の貝 殻 Cypream on et a な ど 中 央 ア ジ アと の つ な が り を も示 し て お り 、 死 骸 の
人 類 学 的 調 査 の結 果 そ れ が ユー ロペ オ イ ド に属 す る こ と が 明 ら か に な った 。 し か し時 代 が 下 る と と も に モ ンゴ ロ
イ ド 的 要 素 が増 し て く る こと も注 意 さ れ る事 実 であ る 。 (ポ タ ポ フ編 ﹃ト ゥ ーバ 考 古 学 ・民 族 学 綜 合 調 査 団 報 告 ﹄ 第 一冊 七 〇 頁 )
一方 ミ ヌ シ ン ス ク盆 地 へも 中 国 の影 響 は お よ ん だ。 こ れ を こ の地 方 で 発 見 さ れ た 中 国 古 銭 に つ い て み る と 、 六
世 紀 の も の が 四 個 、 紀 元 六 二 一年 鋳 造 の も の が 四 五 個 、 そ れ 以 後 七 世 紀 後 半 ︱ 八 世 紀 前 半 の も の は な く 、 九 世 紀
中 ご ろ に な る と 二 三七 個 に激 増 し 、 十 世 紀 以 後 は 再 び激 減 し て い る。 これ は 中 国 と 東 突 厥 お よ び ウ イ グ ル の、 こ の 地 方 に お け る勢 力 関 係 を あ る 程 度 示 し て い る と いえ よ う 。
ア ンガ ラ川 流 域 に つ い て見 れ ば 、 住 民 の 生業 は 以 前 と同 じ よ う に狩 猟 と 漁 撈 で あ った 。 し か 紀 元前 一千年紀 の 東 シ ベ リ ア し 石 製 の 生 活 用 具 や武 器 は ほ と ん ど 青 銅 製 に と って か わ ら れ た 。 ス キ タ イ式 銅〓 の ほ か 、 各
の隣 人 と は ち が って、 こ の地 域 の新 石 器 時 代 お よ び グ ラ ズ コボ 文 化 期 と 同 じ 丸 底 の も の が 使 用 さ れ 、 装 飾 は 貼 布
種 青 銅 器 の多 く は ステ ップ 住 民 の も の に似 せ て いた が 、 製 作 さ れ た のは 現 地 に お いて で あ った 。 土 器 は ステ ップ
文 が多 か った 。
ア ン ガ ラ 川 や レ ナ川 の河 谷 に見 え る岩 壁 画 の内 容 に も ステ ップ 地 帯 の動 物 意 匠 の影 響 は みら れ ず 、 あ いか わ ら
ず オ オ シ カ を 鉱 物 性 赤 土 で描 い て いた 。 レ ナ 川 上 流 域 の シ シ キ ノ村 に あ る岩 壁 画 に は 、 当 時 の彼 ら の信 仰 を 物 語
の べ る よ う に 、 ザ バ イ カ ル 地 方 の ス テ ップ を 通 じ て東 シ ベ リ ア へ入 った も の で あ ろ う 。
る いく つ か の構 図 が 残 って いる 。 土 器 な ど に は 明 ら か に中 国 の影 響 を示 す も の が いく つ か み ら れ る 。 こ れ は後 に
北 方 の ヤ ク ー チ ヤ 地方 で も 青 銅 器 文 化 は す す ん だ 。 ビ リ ュイ 川 流 域 出 土 の銅 剣 は、 カ ラ ス ク型 の も の に酷 似 し 、
マル ハ川 の 上 流 域 か ら は スキ タ イ式 銅 〓 が出 土 し て い る。 土 器 は 丸 底 で、 装 飾 は 直 線 的 、 幾 何 学 的 で あ った 。 ま
た ア ルダ ン川 岸 、 ウ ク ー ラ ア ン村 出 土 の剣 (長 さ 四 九 ・八 セ ンチ ) の形 は 、 中 国 東 北 地 方 の ハ ルピ ン市 南 東 一七
五 キ ロの 地 点 か ら 出 土 し た 銅 剣 (長 さ 二 一セ ン チ) に じ つ に よ く 似 て いる 。 これ は遠 い ヤ ク ー チ ヤ 地 方 と 中 国 と の 深 い つな が り を 示 し て いる 。
紀 元前 一千年紀 の イ ルク ー ツ ク か ら ウ ラ ン ウデ への途 中 一帯 は、 セ レ ン ガ川 河 付 近 と 同 じ よ う な 景 観 を示 ザ バ イ カ ル 地 方 し 、 シ ベ リ ア の他 の 地域 と 様 相 を異 にす る。 頂 上 の尖 った 山 、 ステ ップ 、 ニ レ の木 、 そ れ
に モ ン ゴ リ ア草 原 を 予 告 す る固 い草 デ ィ リ ス ンな ど 。 こ のザ バ イ カ ル 地方 で は 一年 中 牧 草 に恵 ま れ て い た。 積 雪
量 が 比 較 的 少 な いう え に、 ゆ る や か な 丘 陵 地帯 で は雪 が風 に吹 き と ば さ れ て草 が 露 出 し 、 そ のま ま牧 草 用 の乾 草
た 住 居 の跡 に は 大 て い数 個 の 土 器 片 の ほ か、 ま れ に
て は す で に天 幕 が使 用 さ れ た と 考 え ら れ る。 そ う し
し て は馬 具 を つけ た ウ マが 利 用 さ れ た が 、 住 居 と し
比 較 的 風 の あ た ら な い場 所 に露 営 し た 。 移 動 に さ い
寒 さ が 一段 と き び し いと き に は、 彼 ら は 山 あ い の
ヒ ツジ な ど 遊 牧 生 活 を営 ん で いた 。
に な る の であ った 。 こう し た 条 件 を利 用 し て、 こ の地 方 の住 民 は北 方 森 林 帯 の住 民 と は異 な って、 ウ シ、 ウ マ、
左 ウク ーラア ン出土 右 ハ ル ピン出土
多 い。
青 銅 器 が残 って い た。 ザ バ イ カ ル 地 方 の住 民 は 、 紀 元 前 二千 年 紀 末 に は す
で に青 銅 の鋳 造 術 を身 に つけ て い た。 こ の地 方 の冶 金 や鋳 造 の技 術 に お け
る殷 、 周 、 秦 な ど 中 国 の影 響 は 重 要 で あ る。 安 陽 青 銅 器 は、 ザ バ イ カ ル地
方 の カ ラ スク型 青 銅 器 に 非 常 に よ く 似 て い る。
ア ギ ン ス ク草 原 か ら ウ ラ ンウ デ 市 に至 る あ いだ の住 居 址 や墳 墓 か ら は 、
一九 五 一年 以後 約 三 〇 個 の鬲 が 出 土 し た 。 中 国 の古 代 農 耕 文 化 の象 徴 と も
いう べ き 鬲 が こ の地 方 で 発 見 さ れ た こ と は 、 ザ バ イ カ ル地 方 遊 牧 民 と 中 国
と の親 密 な 関 係 を 如 実 に 示 し て いる 。 ま た 一方 で は 、 短 剣 、 刀 子 、 鏡 、 馬
具 な ど は 西 方 の ミ ヌ シ ン ス ク 盆 地 や ア ルタ イ 地 方 、 さ ら に は遠 い黒 海 沿 岸 地 方 と の つ な が り を 示 し て い る。
ま た こ の 地 方 の遊 牧 民 は 、 他 の ステ ップ 地 帯 遊 牧 民 が積 石 ま た は積 土 に
った 四 角 な 古 墳 (プ リ ト チ ナ ヤ ・ モギ ー ラ) を つく った 。 こ の古 墳 群 は 厳
よ る ク ル ガ ン (高 塚 古 墳 ) を造 営 し た の に た いし 、 大 き な板 石 を 箱 型 に囲
密 に南 か ら 北 へ つら な り、 東 か ら 西 を 向 い て立 て ら れ て いる 。 墓 の そ ば に
の岩 壁 画 が 見 ら れ る。 こ れ ら の絵 は ワ シ や タ カ を 霊 鳥 と し て あ ら わ し 、 家 畜 の繁 殖 を祈 った と 思 わ れ る 図 が ら が
後 方 へ長 く 垂 ら し た ト ナ カ イ の像 が刻 ま れ て い る。 ま た こ の 地方 の絶 壁 や洞 穴 に は、 鉱 物 性 赤 土 で色 ど った数 百
は 、 ト ナ カ イ 石 と よ ば れ る 大 き な 板 石 が 立 て ら れ て い る が 、 これ は岩 壁 か ら 切 り 出 し た 大 き な 板 石 一面 に 、角 を
ザバ イカル地方出土 の鬲
シ ベ リ ア に お け る 匈 奴 勢 力 の遺 跡 は 、 イ ボ ルガ 川 岸 、 ウ ラ ンウ デ 市 付 近 の そ れ で あ る 。 これ は面 積 七 二 、 三 八
〇 平 方 メ ー ト ル、 四 重 の土 塁 (高 さ 一 ・五 メ ー ト ル) と 四 つの濠 で め ぐ ら さ れ て いた。 城 塞 の内 部 に は 二 つ の大
住 居 と数 十 の 小 住 居 の跡 が あ り 、 食 料 貯 蔵 用 のあ な ぐ ら 、 鍛 冶 用 の炉 な ど が 見 出 さ れ た 。 こ の ほ か スキ タ イ風 動
物 意 匠 の金 具 な ど と と も に 、 底 に多 数 の孔 の あ る チ ー ズ 製 造 用 の土 器 や漢 の耳 杯 に そ っく り な石 製 容 器 な ど が出
土 し た。 こ の 住 居 址 から キ ビ の種 子 が 発 見 さ れ た こと は、 ﹃史 記 ﹄ の記 述 を裏 づ け る も の と し て 重 要 で あ る 。 江
る 想 定 は す こ ぶ る 理 由 が あ る と し な け れ ば な ら な い。 そ れ と 同 時 に、 匈 奴 を通 じ て の漢 文 化 の丁 零 、 堅 昆 方 面 へ
上 波 夫 教 授 は書 いて いる 。 ﹁これ ら の こと か ら こ の城 塞 を 、 丁零 の制 圧 を 目 的 と し た 匈 奴 の北 鎮 の ひ と つ と 解 す
の波 及 も ほ ぼ 跡 づ け ら れ る の で あ る 。﹂ (平 凡 社 版 ﹃世 界 考 古 学 大 系 ﹄ 第 九 巻 七 一頁 )
匈 奴 の勢 力 拡 張 は遠 く 沿 バ イ カ ル 地 方 に ま で及 ん だ 。 ア ンガ ラ 川 の右 支 流 ク ダ 川 か ら そ の西 方 ウ ン ガ 川 河 口 一
方 の ス テ ップ 民 と同 じ埋 葬 法 の墳 墓 、 同 じ 形 の土 器 、 鉄 鏃 な ど が 発 見 され た 。 これ は ザ バ イ カ ル地 方 に板 石 墳 を
帯 に 、 一部 の牧 畜 民 が セ レ ンガ 川 の流 域 か ら 狩 猟 ・漁 撈 民 の中 へ進 入 し た 跡 が み ら れ る 。 す な わ ち ザ バ イ カ ル 地
残 し た 牧 畜 民 の 一群 が 、 匈 奴 の 圧 力 で移 動 し た も の だ ろ う と 考 え ら れ て いる 。 な お、 板 石 墳 は モ ン ゴ リ ア 地 方 に
も普 及 し て いる が 、 こ の埋 葬 方 法 は ﹁鉄 器 時 代 のは じ め ま で、 匈 奴 の進 出 ま で存 在 し た 。 鉄 は お よ そ紀 元 前 五 ︱
四 世 紀 に 、戦 国 時 代 (紀 元 前 六 ︱ 五 世 紀 ) に鉄 が は じ め て 知 ら れ た中 国 の場 合 と ほ ぼ時 を同 じ く し て こ の 地 方 へ
入 った ﹂。 (オ ク ラ ー ド ニ コフ ﹃ザ バ イ カ ル 地方 の鬲 ﹄ ソ ビ エト考 古 学 一九 五 九 年 第 三 号 一二 六 頁 )
紀 元前 一千 年紀 ザ バ イ カ ル地 方 や モ ン ゴ リ ア で青 銅 器 時 代 の牧 畜 民 文 化 が発 展 し て いた と き 、 ア ム ー ル川 下 の 沿 海 州 地 方 流 域 お よ び 沿 海 州 で は こ れ と は ま った く 対 照 的 な 漁 撈 民 の文 化 が ひ ら け て いた 。
こ の時 代 に 朝 鮮 と の国 境 か ら 北 の 日本 海 沿 岸 一帯 に住 ん だ 人 び と の文 化 は ﹁貝 塚 文 化 ﹂ と よ ば れ て い る。 これ
な 暗 緑 色 の碧 玉 製 管 玉 な ど が 注 日 さ れ る。
ス キ ー 半 島 、 ペ ス チ ャ ナ ヤ半 島 な ど のも の が よ く 調
は ウ ラ ジ ボ スト ク付 近 に も っと も多 いが 、 ヤ ン コ フ
査 さ れ て い る。 ペ スチ ャ ナ ヤ半 島 で は 縦 二 〇 メ ート
ル、 横 一 一 ・六 メ ー ト ル、 深 さ約 一 ・五 〇 メ ー ト ル
の半 地 下 式 住 居 址 (貝 塚 の厚 さ は 最 大 一 ・六 メ ー ト
ル) が 数 個 調 査 さ れ 、 粘 板 岩 製 の磨 製 石 斧 、 金 属 製
の も の に似 た 形 の石 製 短 剣 、 石 鏃 、 漁 網 用 の錘 、 平
底 の土 器 な ど が 発 見 さ れ た 。 土 器 の表 面 は よ く 磨 か
れ 、 貼 文 や平 行 刻 線 文 が多 い。 孔 の あ る 耳 状 突 起 が
肩 に 一対 つく 土 器 も ペ ス チ ャ ナ ヤ半 島 の貝 塚 か ら発
見 さ れ た 。 こ の ほ か 製 粉 用 の石 皿 、 中 国 や 日 本 に も
見 ら れ る半 月 形 の石 包 丁 、 南 朝 鮮 や 日本 に あ る よ う
沮 接 、 未 知 北 所 極 。 其 土 地多 山 險 。 其 人 形 似 夫 餘 、 言 語 不 與 夫 餘 、 句 麗 同 。 有 五 穀 牛 馬 麻 布 。 人多 勇 力 、 無 大 君
う し て中 国 史 料 の〓 婁 が こ の貝 塚 文 化 の住 民 で あ ろ う と 考 え て い る。 ﹁〓婁 在 夫餘 東 北 千 餘 里 、濱 大 海 、南 與 北 沃
オ ク ラ ー ド ニ コ フは 、 貝 塚 文 化 の 住 民 が漁 撈 民 で あ る と と も に最 初 の農 耕 民 であ った こと を指 摘 し て いる 。 そ
し た。 ま れ に は ス テ ップ の 住 民 か ら き た と思 わ れ る金 属 製 品 も み ら れ た 。
貝 塚 か ら は ま た シ カ 、 イ ヌ、 ヤ ギ 、 ク マ、 ブ タ な ど の骨 の ほ か 、 沖 の方 でし か獲 れ な い よ う な 海 獣 の骨 も 出 土
貝塚 出土 の石 器 ポシエ ト Ⅰ号遺跡
長 、 邑 落 各 有 大 人 。處 山 林 之 間 、 常 穴 居 、 大 家 深 九 梯 、 以 多 為 好 、 土 気 寒 、劇 於 夫 餘 。 其 俗 好 養 豬 、 食 其 肉 、 衣
其 皮、冬 以豬 膏塗 身、厚 数分 、 以御風寒 。夏 則裸袒 、 以尺布 隠其前 後 、以蔽 形體 。其 人不潔 、作溷 在中央 、 人圍
其 表居 。其弓 長 四尺、 力如弩 、矢 用〓 、長 尺八寸 、青 石為鏃 、古 之粛愼 氏之 國也 。善射 、射 人皆 入、因 矢施毒 、
人 中 皆 死 。﹂ (﹃三 國 志 魏 志 東 夷 傳 ﹄) 日 本 の東 洋 学 界 で は〓 婁 の位 置 に つ いて も 議 論 が分 か れ て いる が 、 オ ク ラ ー
ド ニ コフ は 上 掲 の記 述 が考 古 学 的 資 料 と 一致 す る こと を強 調 し て い る。 す な わ ち 、 青 石 の鏃 は 沿 海 州 の住 居 址 か
ら 出 土 す る黒 青 色 の粘 板 岩 鏃 で あ り 、 そ れ が も ろ く て細 い の は 毒 を ぬ って使 用 し た こと で説 明 さ れ る と いう 。 ま
いる 。
た 貝 塚 か ら 出 土 し た多 数 の紡 〓 車 は ﹁麻 布 ﹂ の存 在 を示 し 、 ブ タ の骨 の出 土 は 、 上 掲 の記 述 を 最 終 的 に裏 づ け て
こ の説 に つ い て は ス モリ ャ ク の つぎ のよ う な反 論 が あ る。 沿 海 州 の貝 塚 文 化 の考 古 学 的 調 査 は 、 当 時 の住 民 が
漁 撈 ・狩 猟 民 で あ った こと を 示 し て お り 、 少 数 の製 粉 用 石 皿 の出 土 を も って 、 彼 ら が農 耕 民 で あ った と 断 ず る こ
と は で き な い。 紡 〓 車 は漁 網 製 造 の た め で あ った だ ろ う 。 ウ シ、 ウ マの骨 は ま った く 発 見 さ れ て い な い。 石 包 丁
に 似 た 石 器 は チ ュク チ半 島 で も 出 土 し て い る が 、 誰 も これ を も って農 耕 の証 明 と は 見 な し て い な い。 ﹁中 国 史 料
ャ ク ﹃沿 ア ム ー ル地 方 お よ び沿 海 州 の古 代 民 族 史 の諸 問 題 ﹄ ソビ エト 民 族 学 一九 五 九 年 第 一号 三 三頁 ) 彼 に よ れ
に あ る 〓 婁 族 の農 耕 文 化 は 沿 海 州 住 民 のも の で は な い。 そ れ は 他 の地 域 の住 民 に か ん す る こ と で あ る 。﹂ (ス モリ
ば 〓 婁 は、 単 独 の種 族 名 で は な く 、 お そ ら く は松 花 江 の東 側 一帯 に住 ん だ 住 民 を指 し て いる。 こ れ は〓 婁 の本 拠
を ハル ピ ン付 近 と考 え た 和 田清 教 授 の説 と ほ ぼ 一致 す る こ と は興 味 深 い。 ( 和 田 清 ﹃東 亜 史 研 究 ﹄ 満 洲 篇 一二 八 頁)
こ の時 代 の ア ム ー ル川 下 流 域 の文 化 で は 、 一九 三五 年 オ ク ラ ー ド ニ コフ ら が ハバ ロ フ スク 付 近 で発 見 し た 一種
の合 口甕 棺 が と く に 注 目 さ れ る 。 死 者 は こ の 土 器 に 埋 葬 さ れ て いた が 、 こ の内 部 か ら は 銅 鏡 、 石 製 の管 玉 、 青 銅
製 の槍 先 、 短 剣 な ど が発 見 さ れ た 。 こ れ は 明 ら か に階 層 の いち じ る し い分 化 を物 語 って い る 。
第 六章 紀 元 一千 年 紀 の シベ リ ア
南 シベ リ ア で活 躍 し た キ ルギ ス 人 や突 厥 な ど に つ いて は さ き に ふ れ た が 、 沿 バ イ カ ル 地 方 の森 林 帯 で は、 中 国
史 料 に 骨 利 幹 な ど の名 で登 場 す る 民 族 が 住 ん で いた 。 バ イ カ ル湖 の周 辺 に は平 底 の粗 製 土 器 を出 土 す る多 く の城
塞 が あ る が 、 こ れ は骨 利 幹 の残 し た も のと 考 え ら れ て い る。 バ イ カ ル湖 中 のオ リ ホ ン島 に は片 麻 岩 の板 石 か ら な
る 円錐 形 天 幕 形 の墳 墓 が 多 数 発 見 さ れ た が、 片 麻 岩 の な い場 所 で は ふ つう の 地 下 墓 が 造 営 さ れ た 。 骨 利 幹 は キ ル
ギ ス人 と 同 様 に ウ マ、 ウ シ、 ラ ク ダ な ど を飼 育 し 、 ムギ を耕 作 し た 。 レ ナ川 上 流 の シ シキ ノ村 に あ る 岩 壁 画 に は 、
エ ニ セ イ ・キ ルギ ス人 の も の に似 た 狩 猟 ・戦 闘 図 が あ る が、 こ れ も 骨 利 幹 の残 し た も のと 考 え ら れ て いる 。 オ ク
ラ ー ド ニ コ フ は 、 ヤ ク ー ト 人 の先 祖 で あ る サ ハラ ル人 が 、 当時 の チ ュル ク族 のう ち 最 北 に住 ん だ 骨 利 幹 の出 で あ
ろ う と 考 え て いる 。 サ ハラ ル人 は 十 ︱ 十 三世 紀 に はす で に 沿 バ イ カ ル地 方 を は な れ て今 の ヤ ク ー チ ヤ 地 方 に移 住 し た のであろう。
骨 利 幹 の南 、 セ レ ンガ 川流 域 に は、 オ ル ホ ン突 厥 と隣 り 合 った セ レ ン ガ ・ウ イ グ ル人 が住 ん だ と 考 え ら れ る 。
彼 ら の残 し た も の と し て は 、 方 形 ま た は 円形 の囲 い のあ る積 石 塚 が あ げ ら れ る。
し た 。 オ ビ 川 流 域 の ウ スチ ポ ルイ 遺 跡 (サ レ ハルド 市 付 近 ) か ら は 、 現 地 の森 林 帯 住 民 の文 化 と ステ ップ 民 の文
一方 、 西 シ ベ リ ア の森 林 帯 お よ び ツ ン ド ラ 帯 で は 、 ス テ ップ 帯 の高 い文 化 の影 響 を受 け て 特 徴 的 な 文 化 が発 生
―10世 紀)
化 と の相 互 影 響 を示 す 多 く の遺 物 が 発 見 さ れ
た 。 彼 ら は狩 猟 ・漁 撈 民 で、 野 生 ト ナ カ イ 狩
り は と く に発 達 し て いた よう で あ る 。 方 形 の
地 下 室 に住 み 、 弓 を主 要 な狩 猟 用 具 と し て、
と く に 骨 角 器 の製 造 に 長 じ て いた 。 鉄 器 、 青
銅 器 も す で に広 く 普 及 し て いた 。 こ のウ スチ
ポ ルイ 文 化 と 、 イ ルテ ィ シ川 下 流 域 のポ ッチ
ェ ワ シ文 化 と は き わ め て類 似 し て い る こと が
指 摘 さ れ て いる 。 後 者 は ト ボ リ ス ク付 近 に 分
布 し て い る が 、 ウ ス チ ポ ル イ の場 合 よ り は 経
済 的 に や や複 雑 で、 す で に鍬 に よ る農 耕 や牧
畜 を知 って いた 。
民 族 学 的 に多 く の複 雑 で興 味 あ る問 題 を 提 供
オ ビ 川 流 域 の民 族 と 文 化 は、 考 古 学 お よ び
な れ た ド ナ ウ 川 流 域 の ハン ガ リ ー人 の言 語 と 同 系 統 であ る こと が 指 摘 さ れ て いる 。 ﹁若 干 の言 語 学 的 、 考 古 学 的
さ れ て い る。 さら に こ の ハ ント 人 、 マ ン シ ー人 の言 語 が と も に フ ィ ン ・ウ グ ル語 族 に 属 す る こ と 、 これ が遠 く は
西シ ベ リ ア の ハ ント 人 、 マ ン シ ー 人 の文 化 は、 シ ベ リ ア南 部 の ス テ ップ 方 面 か ら の伝 統 を も って いる こ と が 指 摘
し て いる 。 ウ ス チ ポ ル イ 文 化 は多 く の点 で シ ベ リ ア北 東 端 の チ ュク チ 人 、 エ スキ モー 人 の 文 化 に 似 て お り、 ま た
カ ル 地 方 シ シ キ ノ村(6
沿バ イ 岩 壁 画 1,2 ミヌ シ ン ス ク の 地 方(7 ― 9世 紀)3,4,5
デ ー タ に基 づ い て、 北 極 圏 内 のオ ビ川 流 域 住 民 と シベ リ ア東 部 の古 ア ジ ア種 族 と の間 の種 族 的 接 近 は 、 お そ ら く
は 存 在 し た と 考 え る こ と が で き る 。﹂ (チ ェ ルネ ツ ォ フ ﹃紀 元 一千 年 紀 に おけ る オ ビ 川 下 流 域 ﹄ ソ連 考 古 学 の資 料
お け る初 期 タ シ テ ィ ク期 地 下 墓 に酷 似 し て お り 、 地名 と く に川 の名 が 同 じ 語 源 に属 す る こと に 注 目 し て 、 紀 元 前
と 研 究 第 五 八 冊 二 四 一頁 ) ま た キ ズ ラ ー ソ フ は 、 ハン ト 人 の文 化 、 埋 葬 の風 習 、 信 仰 な ど が ミ ヌ シ ン スク 盆 地 に
三 世 紀 ご ろ 、 タ ガ ー ル文 化 の に な い 手 (中 国 資 料 の 丁零 ) か ら 形 成 さ れ た ウ グ ル族 が、 ミ ヌ シ ン ス ク盆 地 ︱ 北 部
ウ グ ル人 さ ら に は バ ラ バ 人 と 、 北 部 ア ル タ イ 人 お よ び ハカ ス 人 と の あ いだ に ほ ん の最 近 ま で存 在 し た さ ま ざ ま な
ア ルタ イ ︱ オ ビ 川 中 流 域 ︱ オ ビ 川 下 流 域 (ハ ント 人 ) に 至 った と考 え て い る。 ﹁こう し て ま ず 第 一に は 、 オ ビ ・
類 似 は、 ウグ ル人 西 移 の経 路 と時 代 に か ん す る わ れ わ れ の見 解 を 裏 づ け 、 第 二 に は こ の移 動 地域 に住 む 一連 の現
代 諸 民 族 か ら 、 古 代 ウ グ ル的 基礎 の抽 出 を可 能 に す る の で あ る。﹂ (キズ ラ ー ソ フ ﹃ハカ ス ・ミ ヌ シ ン スク 盆 地 の 歴 史 に お け る タ シ テ ィ ク期 ﹄ 一七 七頁 )
オ ビ 川 上 流 域 に つ いて は 、 一九 四 六 年 以 後 三 年 間 、 ボ リ シ ャ ヤ ・レ チ カ村 と ブ リ ジ ヌイ ・ エ ルバ ヌ イ砂 丘 の遺
跡 が グ リ ャズ ノ フ に よ って調 査 さ れ 、 こ の 地 の ア ン ド ロ ノ ボ 文 化 、 カ ラ スク 文 化 な ど が 明 ら か に さ れ 、 そ の後 に
おけ る こ の地 域 の文 化 の独 自 性 が 指 摘 さ れ た 。 た と え ば 紀 元 七 ︱ 八 世 紀 の フ ォ ミ ン ス コ エ期 の住 民 は狩 猟 ・牧 畜
に従 事 し 、 鍬 耕 作 程 度 の農 耕 も 行 な わ れ た ら し い。 埋 葬 は大 抵 火 葬 で あ る が 、 墓 坑 に は 死 者 の骨 灰 と と も に ﹁副
葬 品 の土 器 、 骨 鏃 、 鉄 斧 、 鉄 刀 子 な ど が無 秩 序 に入 れ ら れ て いた 。﹂ (三 上 正 利 ﹃オ ビ 川 上流 の古 代 文 化 ﹄ 古 代 学
第 十 巻 第 一巻 九 二頁 ) 墓 中 に家 畜 の骨 は な く 、 ス テ ップ の遊 牧 民 と は 異 な って、 丸 底 (ま れ に平 底 ) の土 器 が み
ら れ た 。 フ ォ ミ ン ス コ エ文 化 は 、 オ ビ 川 上 流 域 文 化 の最 終 的 発 展 段 階 で あ り 、 南 シベ リ ア の ス テ ップ 諸 種 族 に 関
連 す る も の で は な か った 。 む し ろ そ れ は 、 ﹁当 時 シ ベ リ アと 沿 ウ ラ ル地 方 北 部 の森 林 帯 お よ び 森 林 ス テ ップ 帯 に
広 く 分 布 し て いた 文 化 的 に 親 近 な 種 族 群 、 お そ ら く は ウグ ル族 と 関 連 す る も の で あ った ﹂。 (グ リ ャズ ノ フ ﹃オ ビ
川 上 流 域 の古 代 種 族 の歴 史 ﹄ ソ連 考 古 学 の資 料 と 研 究 第 四 八 冊 一四 〇 頁 ) こう し て オ ビ 川 を境 に し て、 戦 闘 的 な
ス テ ップ 牧 畜 民 世 界 と 森 林 の狩 猟 ・漁 撈 民 世 界 が 分 か れ て いた。 な お こ の 地 域 の住 民 の身 体 的 特 徴 は、 モ ンゴ ロ
イ ド に属 し た ス テ ップ の チ ュル ク族 と は異 な って、 ユー ロ ペ オ イ ド に 属 し て いた 。
シ ベ リ ア の北 東 端 、 チ ュク チ半 島 の沿 岸 地方 の住 民 は、 ク ジ ラ の骨 を利 用 し た 地 下 式 住 居 に住 み 、 ア ザ ラ シ の
油 を燈 油 や 燃 料 と し て 利 用 し て いた 。 銛 で海 獣 を と り 、 橇 を ひ く た め の イ ヌ の飼 育 も は じ ま った。 こ の地 域 に お
レ ナ 川 下 流 域 や ア ム ー ル川 流 域 、 千 島 列 島 の方 面 か ら 、 鉄 製 の刃 物 が は じ め て は い って き た 。 これ と と も に 、 ゆ
け る は な や か な曲 線 文 装 飾 の発 達 は 注 目 さ れ る 。 紀 元 五 世 紀 ご ろ 、 ま だ 石 器 時 代 的 技 術 段 階 に あ った こ の 地域 に、
っく り で は あ る が 、 家 父 長 制 の確 立 な ど こ の 地域 の住 民 の生 活 体 制 も 変 って い った。
沿 海 州 と ア ム ー ル川 下 流 域 は 、 古 く か ら 中 国 、 朝 鮮 と深 い つ な が り に あ った こ と は こ れ ま で に も のべ た が 、 こ
の 関 係 は紀 元 後 に な ると ま す ま す 鮮 明 に な ってく る 。 ハ バ ロ フ スク の博 物 館 に は こ の地 方 で発 見 さ れ た 多 数 の中
国 古 銭 が あ る が 、 そ のう ち 紀 元 前 四世 紀 か ら 十 五 世 紀 末 ま で の も のが 一九 〇 個 含 ま れ て い る。 そ の時 代 的 分 布 を
見 る と 、 紀 元 前 四世 紀 のも の が 一個 、 前 漢 時 代 のも の が 六 個 、 隋 唐 の も の が 一二個 、 あ と は大 部 分 十 ︱ 十 二 世 紀 の も の で あ る 。 これ は あ る程 度 中 国 と こ の 地 方 の関 係 を 物 語 って い る。
中 国 の史 料 に あ ら わ れ た ア ム ー ル川 下流 域 お よ び 沿 海 州 地 方 の研 究 に つ い て は 、 白 鳥 庫 吉 、 松 井 浪 八 、 吉 川東
三 郎 、 和 田清 、 三 上 次 男 ら 多 く の諸 氏 の研 究 が あ り、 そ の成 果 も 世 界 的 水 準 に あ ると 考 え ら れ る。 こ の ほ か中 国 、
伍 、 松 井 等 、 津 田 左 右 吉 、 池 田 宏 、 鳥 山 喜 一、 原 田 淑 人 、 沼 田 頼 輔 、 鳥 居 龍 藏 、 稲 葉 岩 吉 、 瀧 川 政 次 郎 、 日野 開
朝 鮮 、 ロ シ ア な ど の学 者 のも のを 入 れ る と 、 そ の論 考 は ま さ に 無 数 で あ る。 こ れ ら の研 究 に よ って 、 こ の 地 方 の
歴 史 は か な り 明 ら か に さ れ て い る。
る が、 主 と し て満 洲 の地 に 七 部 に分 か れ て 住 ん で いた 。 そ の後 こ の七 部 は 、 黒 水 、 払 〓 、粟 末 の 三部 を残 し て 、
ま ず ﹃唐 会 要 ﹄、 ﹃唐 書 ﹄ な ど に 見 え る 靺 鞨 で あ る 。 こ の族 名 用 語 が 最 初 に文 献 に あ ら わ れ る の は 五 六 三 年 で あ
唐 初 に お け る高 句 麗 滅 後 の混 乱 のあ いだ に亡 ん だ が 、 七 三 二 年 (開 元 二 十 ) ご ろ に は 、 ア ム ー ル川 の ハバ ロ フ ス
ク付 近 に位 置 し た と 考 え ら れ る黒 水 部 の東 方 に、 さ ら に思 慕 部 、 郡 利 部 、 窟 説 部 、 莫 曳 皆 部 ら の諸 靺 鞨 の いる こ
と が 知 ら れ た 。 和 田 清 教 授 は こ れ を そ れ ぞ れ サ マギ ル、 ギ リ ヤ ク、 樺 太 ア イ ヌ、 北 海 道 ア イ ヌ で あ ろう と 考 え 、
﹃通 典 ﹄ ( 巻 二 〇 〇 ) に 見 え る流 鬼 は カ ム チ ャダ ル、 そ の北 の夜 叉 は コリ ヤ ク で あ ろ う と の べ て い る。 (和 田 清 ﹃東 亜 史 研 究 ﹄ 満 洲 篇 一 二 〇 ︱ 一二 四 頁 )
つぎ に 、 当 時 の唐 朝 か ら は ﹁海 東 の盛 国 ﹂ と いわ れ 、 日本 と も通 交 し た こと で知 ら れ る渤 海 国 で あ る 。 これ は
沿 海 州 の歴 史 や 文 化 と 深 い関 係 に あ る 。 六 六 八 年 、 高 句 麗 が 唐 に滅 ぼ さ れ る と 、 唐 に抵 抗 し た 高 句 麗 人 と これ に
協 力 し た靺 鞨 人 は 、 唐 の た め に 営 州 (今 の朝 陽 ) に移 さ れ た 。 そ の後 六 九 六 年 に契 丹 人 の李 尽 忠 が乱 を お こし た
の に乗 じ 、 営 州 か ら 逃 出 し て故 地 へ向 った が、 唐 軍 のた め に大 打 撃 を う け た 。 し か し 大 祚 栄 の率 いた 一団 が 粟 末
靺 鞨 の本 地 で あ る今 の吉 林 方 面 に脱 出 し 、独 立 し て震 国 王 と 称 し た (六 九 八 年 )。 そ の後 勢 力 を拡 大 し た の で 、唐
も つ い に これ を認 め 、睿 宗 のと き (七 一 二 年 )、 渤 海 郡 王 に封 じ た。 第 二代 の大 武 芸 が国 礎 を いよ いよ 固 め 、九 世 紀 は じ め に は 五京 一五 府 六 二 州 の広 大 な国 家 を つく った 。
渤 海 の上 京 竜 泉 府 が 牡 丹 江 東 の東 京 城 で あ る こと は 、 原 田 淑 人 教 授 の発 掘 報 告 ﹁ 東 京 城 ﹂ によ って 明 確 に さ れ
て い る。 一五 府 の う ち の率 賓 府 は 清 代 に雙 城 子 と いわ れ た ウ スリ ー ス ク市 にあ った こと は 一般 に 認 め ら れ て い る。
こ こ に は 土 塁 と 濠 を め ぐ ら し た 城 址 が あ り 、 そ の内 部 に は 赤 色 や 灰 色 の焼 いた 煉 瓦 の基 礎 のあ る 建 物 (大 き いも
の は 三 五 〇 平 方 メ ー ト ル) が あ った 。 屋 根 は 多 く は瓦 で ふ か れ て い た 。 ま た 沿 海 州 の ク ロウ ノ フ カ村 の丘 上 に は、
貴 人 の墓 の上 に 建 て ら れ た と 思 わ れ る 寺 院 址 が残 って い る。 渤 海 の文 化 的 特 徴 に つ い て 三 上 次 男 教 授 は 書 い て い
る 。 ﹁渤 海 の文 化 は、 民 族 文 化 の基 本 の上 に 唐 文 化 の深 い影 響 を う け て 成 立 し た 。﹂ ( 平 凡 社 版 ﹃ア ジ ア歴 史 事 典 ﹄
第 八 巻 三 一 一頁 ) 満 洲 に お こ った 随 一の 文 明 国 で あ る 渤 海 国 は 九 二 六 年 、 契 丹 諸 部 族 を 統 一し た 耶 律 阿 保 機 の攻 撃 をう け て滅 亡 し た 。
そ の後 阿 保 機 (太 祖 ) の位 を つ い だ太 宗 は し ば し ば 華 北 に侵 入 し て 、 九 三 六年 燕 雲 一六 州 を奪 って 、 国 号 を大
が 、 そ の 一族 の耶 律 大 石 が西 方 に の が れ 、 中 央 アジ ア に 西 遼 を 立 て た こと は よ く 知 ら れ て い る。
遼 と し た 。 こ の遼 は 、 満 洲 の東 半 部 に起 った 女 真 族 の酋 長 阿 骨 打 (金 の太 祖 ) に よ って 一 一二 五 年 に滅 ぼ さ れ た
女 真 の社 会 制 度 や 文 化 に つ い て は 日本 の学 者 のす ぐ れ た 研 究 が多 数 あ り 、 し か も沿 海 州 地 方 と は か な ら ず し も 直 接 関 連 し な い面 も あ る ので 、 こ こ で は は ぶ く こと と す る 。
ノ ヤ ロ フ ス ク の塁 壁 で あ る。 こ れ は 自 然 の起 伏 に応 じ て高 さ約 三 ︱ 四 メ ー ト ル、 長 さ約 八 キ ロに わ た って つら な
ウ スリ ー 地 方 に の こ る こ の時 代 の遺 跡 と し て は、 ま ず ス イ フ ン河 の左 岸 ウ スリ ー ス ク市 の向 い側 に あ る ク ラ ス
り 、 そ の内 側 に は 明 ら か に建 物 の あ った こ と を 示 す 瓦 の破 片 が多 数 出 土 し て いる 。 な か に は 屋 根 瓦 の装 飾 に 用 い
ら れ た陶 製 の怪 人 面 も含 ま れ て い た 。 こ の遺 跡 は渤 海 、 女 真 に わ た って存 在 し 、 お そ ら く は モ ンゴ ル に滅 ぼ さ れ た も の で あ ろ う と 考 え ら れ て い る。
一九 五 六 年 夏 沿 海 州 地 方 に 大 雨 が降 り 、 多 く の川 が 氾 濫 し た 。 こ の出 水 の後 、 ス ー チ ャ ン付 近 の現 地住 民 の ひ
と り が偶 然 、 流 水 に け ず ら れ た 斜 面 に青 銅 鏡 九 、 シ ャ マ ン服 の さ げ 飾 り 二 四 、 古 銭 四 個 を発 見 し た 。 そ の後 考 古
学 的 調 査 が こ の 地 点 です す め ら れ、 前 記 遺 物 を さ ら に 調 べ た 結 果 、 古 銭 の 一部 が宋 代 末 の崇 寧 通 宝 (一 一〇 二︱
コイ のよ う な魚 の遊 泳 す る状 況 な ど を 描 いた も の が あ り 、 な か に は 女 真 文 字 と 見 ら れ る文 字 が 刻 ま れ て い た 。
〇 六 年 ) で あ る こと か ら 、 そ れ ら 遺 物 が十 二︱ 十 三 世 紀 に属 す る こ と が 判 明 し た 。 青 銅 鏡 に は 、 人 物 の樹 下 坐 像 、
(シ ャウ ク ー ノ フ ﹃女 真 の鏡 ﹄ ソ連 考 古 学 の資 料 と 研 究 第 八 六 冊 二 三 一︱ 二 三 七 頁 )
シ ベ リ ア に見 ら れ る十 三 世 紀 モ ンゴ ル の影 響 と し て は 、 セ レ ンガ 川 流 域 の ザ ル ビ ノ村 付 近 の墳 墓 、同 じ く こ の
川 岸 の カ バ ン ス ク で発 見 さ れ た ﹁ニ ュク遺 宝 ﹂ が 代 表 的 で あ る。 時 代 的 に は前 者 の方 が古 く 、 た と え ば モ ン ゴ ル
風 の 口琴 が 出 土 し て い る 。 ま た ク ラ ス ノ ヤ ル スク 付 近 の チ ャ ソ ベ ン ナ ヤ山 墳 墓 や ト ゥ ンカ墳 墓 か ら は 弓 、 銀 杯 、
あ り 、 同 時 に モ ンゴ ル軍 が 当 時 の文 化 的 農 耕 民 に た いし て行 な った 掠 奪 的 遠 征 の直 接 の痕 跡 で あ る﹂。 (オ ク ラ ー
皮 製 衣 服 の残 片 、 青 銅 鏡 、 各 種 の装 飾 品 な ど が出 土 し て い る が 、 ﹁こ れ ら す べ て は モ ンゴ ル の ノ イ オ ン の 墳 墓 で
ド ニ コフ ﹃シ ベ リ ア の古 代 住 民 と そ の文 化 ﹄ シ ベ リ ア の民 族 一〇 六頁 )
ア ラ ビ ア お よ び ペ ル シ ア の文 献 でデ シ ト ・イ ・キ プ チ ャ ク (キプ チ ャ ク 大 草 原 ) と よ ば れ 、
ド ニ エプ ル川 か ら ボ ルガ 川 東 方 に いた る南 ロシ ア の大 ス テ ップ 地帯 は、 十 一︱ 十 五 世 紀 の間 、
第 七章 ロ シア 人 の シ ベ リ ア進 出 と 移 住
ロシア人 の進出 直 前 の シ ベリ ア
で は コ マ ン人 と よ ば れ て いる 。 と こ ろ が 、 十 三世 紀 のは じ め ア ジ ア の奥 地 か ら 起 った モ ン ゴ ル の西 征 に よ って、
キ プ チ ャ ク 人 の活 躍 し た 舞 台 で あ った 。 キ プ チ ャク 人 は ロシ ア の年 代 記 で は ポ ロウ ェツ人 、 ビ ザ ン チ ン の年 代 記
十 三世 紀 の三 十 年 代 に は こ の草 原 が ま った く モ ンゴ ル人 の手 中 に帰 し 、 ジ ュチ ・ウ ル ス (キプ チ ャ ク ・ ハ ン国 ま
た は 金 帳 汗 国 ) と よ ば れ る王 国 が 形 成 さ れ た 。 西 シ ベ リ ア南 部 、 ウ ラ ル山 脈 か ら ほ ぼ イ ルテ ィ シ川 ま で の 地 域 は 、
こ のジ ュチ ・ウ ル ス の版 図 に 入 り 、 原 住 民 で あ る ハ ント 人 (オ スチ ャ ク)、 マ ン シ ー 人 (ボ グ ー ル) の中 へ多 く の チ ュル ク 系 タ タ ー ル人 が住 み つ いた 。
彼 ら は遊 牧 の ほ か 、 狩 猟 ・漁 撈 を営 み、 若 干 の農 耕 も 行 な った が 、 中 央 アジ ア か ら ウ ラ ルを 越 え てボ ルガ 川 中
流 域 に至 る隊 商 路 か ら の商 利 も 彼 ら の経 済 で無 視 で き な い役 割 を は た し た 。 そ う し て彼 ら の領 内 に あ る中 継 貿 易
の要 衝 は 、 西 シ ベ リ ア のト ゥー ラ川 (ト ボ ル川 の支 流 ) 岸 に あ る チ ュメ ニ (当 時 は チ ムガ ・ト ゥー ラ と よ ば れ た )
の町 で あ った 。 隊 商 は中 央 ア ジ ア の ホ ラ ズ ム 地 方 か ら ボ ルガ ・ブ ル ガ ー ル国 さ ら に は カザ ン へ通 じ 、 ウ ラ ル の峠
は ﹁チ ュメ ニ連 水 陸 路 ﹂と よ ば れ て いた 。 カ ザ ンと チ ュメ ニと の密 接 な 関 係 は 、 カ ザ ン の市 内 に ﹁チ ュメ ニ の門 ﹂
と いう も の が あ る こと で も わ か る。 十 四 ︱ 十 五 世 紀 ご ろ 、 シ ベ リ ア ・タ タ ー ル人 のあ いだ で は し だ い に階 屑 分 化
が す す み 、 氏 族 の名 門 は や が て 土 地 所 有 に基 づ く 封 建 貴 族 に か わ って い った 。 こう し た封 建 化 過 程 の な か で、 や
が て チ ュメ ニを 中 心 と す る独 立 の ハ ン国 が 形 成 さ れ る に い た る が、 十 五世 紀 に は い る と 当 時 新 ら た に台 頭 し た ノ
ガ イ ・オ ルダ が チ ュメ ニ の支 配 権 争 奪 に介 入 し て き た 。 ノ ガ イ 人 は 自 ら を マ ンギ ト 人 と 称 し 、 そ の最 盛 期 の版 図
は ボ ルガ 川 か ら イ ル テ ィ シ 川 、 南 は カ ス ピ海 や ア ラ ル海 、 北 は チ ュメ ニに達 し た 。 遊 牧 を業 と し 、 十 六 世 紀 ご ろ
った が 、 イ ブ ラ ギ ム ・イ バ ク の時 代 に は ク リ ミ ア ・ ハ ンの メ ング リ ・ギ レ イ と 結 ん で金 帳 汗 国 の打 倒 に加 わ った
に は 毎 年 モ ス ク ワ へ五 〇 、 〇 〇 〇 頭 の ウ マを 売 った と いう 。 ノ ガ イ の ハ ンは チ ュメ ニに 本 拠 を お き 、 勢 力 を ふ る
(一五 〇 二 年 )。 や が て イ ブ ラ ギ ム は 内 紛 のた め に倒 れ 、 新 ら た に台 頭 し た タ イ ブ ー ガ 家 が 支 配 権 を 握 り、 こ れ
と と も に ハ ン国 の中 心 は チ ュメ ニ の東 方 、 ト ボ ル川 の河 口 に あ る カ シ ュリ ク (後 に イ スケ ル) に 移 さ れ 、 チ ュメ ニ の繁 栄 を継 い だ。 これ は シビ リ ア ・ ハン国 と よ ば れ る。
シ ビ リ ア ・ ハ ン国 へは 中 央 ア ジ ア か ら の勢 力 が 大 き く 介 入 し 、 王位 争 奪 を め ぐ る 内 紛 が 絶 え な か った 。 内 紛 は こ の ハン国 の勢 力 を いち じ る し く弱 め る 大 き な 原 因 で あ った 。
西 シベ リ ア以 東 の シベ リ ア原 住 民 の生 業 は 、 主 と し て南 シベ リ ア に住 む 牧 畜 民 と 、 北 部 シ ベ リ ア に住 む 狩 猟 ・
漁 撈 民 に大 別 さ れ る。 し か し 牧 畜 民 のあ いだ で も 鍬 に よ る農 耕 は 行 な わ れ て いた 。 農 耕 の面 で ロ シ ア 人 の進 出 以
前 に も っと も 発 達 し て いた 地 域 は ア ムー ル川 流 域 で あ った。 ま た 北 部 シ ベ リ ア に も ヤ ク ー ト 人 の よ う に牧 畜 を 生
ア 人 の カ ザ ク が シ ベ リ ア に 進 出 し て 原 住 民 に課 し た 毛 皮 税 (ヤ サ ク) の台 帳 な ど から 判 断 し て、 当 時 の シ ベ リ ア
業 と す る 民族 が お り 、 サ ヤ ン山 地 や ア ル タ イ 地 方 で も 牧 畜 を 行 な わ な い種 族 も み ら れ た こ と は注 意 さ れ る。 ロシ
の人 口 は 約 二 〇 ︱ 二 二 万 で あ った 。 (﹃ソ連 史 概 説 ﹄ 十 五 ︱ 十 七 世 紀 篇 六 八 五 頁 )
ノ ブ ゴ ロ ド の進 出
ウ ラ ル山 脈 北 部 の ペ チ ョラ 川 流 域 か
ら オ ビ 川 下 流 域 ま で の 一帯 は は じ め
﹁ユグ ラ﹂ の地 と いう 名 称 で よ ば れ た 。 シ ベ リ ア 史 家 バ フ
ル ー シ ン に よ る と 、 ユグ ラ と い う の は ズ ィ リ ャ ン (コミ )
ラ ル の西 麓 地 方 に も住 ん で い た。 そ の後 ユグ ラ の名 称 は ウ
語 で オ ス チ ャ ク 人 の名 称 で あ る。 オ ス チ ャ ク人 は は じ め ウ
ラ ル以 東 オ ビ 川 下 流 域 の オ ス チ ャ ク人 住 地 を 指 す よ う に な
った 。 ノ ブ ゴ ロド 人 が ユグ ラ の国 へ行 った こと を つた え る
チ ョ ラ川 を 経 て ユグ ラ の国 へ往 来 し た 。 十 一世 紀 に は す で
最 古 の記 録 は年 代 記 の 一〇 三 二年 の冬 に あ ら わ れ 、 当 時 ペ
一四 八 七 年 に ノ ブ ゴ ロド が モ スク ワ国 家 に編 入 さ れ た後 は 、 ユグ ラ問 題 は モ スク ワ に受 け 継 が れ た 。 モ スク ワ
領 地 の 一部 と し て扱 わ れ て いる が、 し か し そ れ は恒 常 的 に占 領 さ れ た も の と は いえ な か った 。
(バ フ ル ー シ ン ﹃シ ベ リ ア植 民 史 概 説 ﹄ 選 集 第 三巻 七 五頁 ) お よ そ 一二 六 四 年 ご ろ 、 ユグ ラ の地 は ノブ ゴ ロ ド の
物 を 徴 収 す る 目 的 で 軍 事 遠 征 隊 を組 織 し 、 た と え ば 一三 六 四 年 に あ った よ う に 、 ユグ ラ の地 深 く 侵 入 し て い る 。﹂
え 難 い深 淵 や雪 と 密 林 に阻 ま れ た 山 ﹂ を恐 れず に進 ん で い った 。 ﹁ま た 封 建 的 な ノ ブ ゴ ロド 国 家 も原 住 民 か ら 貢
小 ジ カ が 霧 の中 か ら 飛 び 出 し て く る と いう 物 語 が つた え ら れ 、 企 業 心 旺 盛 な ノ ブ ゴ ロド の狩 猟 企 業 家 た ち は ﹁越
を ノブ ゴ ロド 人 に納 め た 。 ﹁半 ば 夜 の国 ﹂ と いわ れ た こ の地 に は お伽 話 のよ う に 毛 皮 が豊 富 で 、 そ こ で は リ ス や
に ウ ラ ル を越 え 、 十 二世 紀 に 入 る と 、 ユグ ラ の土 民 は ﹁ユゴ ル シ チ ナ ﹂ と よ ば れ る 貢 物 (毛 皮 、 海 豹 の牙 な ど)
ロ シ ア 人 を シ ベ リア に 引 き つ け た テ ン
の指 揮 下 に、 第 二 回 は 一四 八 三 年 ヒ ョー ド ル ・ク ルブ ス キ ー の指 揮 下 に 、 第 三 回 は 一四 九 九 ︱ 一五 〇 〇 年 に ク ル
は 十 五 世 紀 の後 半 、 イ ワ ン三 世 の治 下 で 三度 の ユグ ラ遠 征 を行 なう 。 第 一回 は 一四 六 五年 ワ シ リ ー ・ス ク リ ャ ブ
ブ スキ ー、 ウ シ ャ ト ゥイ 、 ザ ボ ロツ キ ー ・ブ ラ ジ ニ クと いう 三 軍 長 の指 揮 下 に す す め ら れ た。 し か し 結 局 ユグ ラ の地 の確 保 ま で に は至 ら な か った 。
一方 、 白 海 経 由 の西 欧 貿 易 の発 達 な ど に よ って 、 西 方 か ら の 毛 皮 の需 要 は ま す ま す 増 大 し た が 、 ウ ラ ル以 西 の
地 の毛 皮 獣 は し だ い に底 を つき 、 そ れ だ け に 無 尽 蔵 の毛 皮 獣 を ほ こる シ ベ リ ア は 、 ロシ ア 人 に と って ま さ に垂 涎
の的 と な った 。 一五 五 二年 カ ザ ン ・ ハ ン国 が モ ス ク ワ の イ ワ ン雷 帝 に占 領 さ れ て後 、 一五 五 五年 シ ベ リ ア ・ ハ ン
国 の ハ ン で あ る エデ ィゲ ル は 王 位 争 奪 の競 争 者 で あ る ブ ハラ の ハンた ち に 圧 迫 さ れ た た め 、 自 ら 進 ん で モ スク ワ
の臣 下 た る こ と を 認 め 、 毛 皮 貢 納 の義 務 を 負 った 。 し か し エデ ィゲ ル を滅 ぼ し て そ の 地位 に と って か わ った ク チ
ュ ム ・ ハン (ブ ハラ ・ ハ ン の ム ル ト ザ の 子 ) は 、 は じ め は モ ス ク ワ に従 属 し て いた が、 一五 七 二年 以 後 こ の関 係
を 断 ち 、 モ スク ワ への貢 納 を 拒 絶 し た 。 け れ ど も 、 微 弱 な 力 で形 式 的 に 統 合 さ れ て いた この半 遊 牧 国 家 が 、 中 央
割 を は た し た 。 こ の 一族 は イ ワ ン雷 帝 の時 代 に カ マ川 流 域 の 地 を 所 領 と し て許 さ れ 、 そ の
ロ シ ア 人 の シベ リ ア進 出 で は ソ リ ・ウ ィ チ ェグ ダ の製 塩 業 者 スト ロガ ノ フ 一家 が 大 き な 役
集 権 化 の方 向 に力 強 く 歩 ん で いた モ ス ク ワ の敵 で は あ り 得 な か った こ と は あ ま り に も 明 瞭 で あ る。 ス ト ロガ ノ フ 家 と エ ル マク の遠 征
開 拓 のた め に 二〇 年 間 納 税 免 除 と いう 特 典 が あ た え ら れ た 。 こ の期 間 が 過 ぎ る と 、 スト ロガ ノ フ家 は そ の世 襲 領
地 の住 民 か ら 自 分 の手 で貢 税 を 徴 収 し 、 こ れ を モ ス ク ワ へ納 め る権 利 を 獲 得 し た。 裁 判 も スト ロガ ノ フ家 が にぎ
り 、他 の 地 方 か ら き た 商 人 は勅 許 領 内 で無 税 で 商 業 活 動 を 行 な う こと が で き た 。 ﹁こう し て十 六 世 紀 の後 半 、シ ベ
リ ア への交 通 路 の途 上 に は そ の地 方 の軍 長 の行 政 権 か ら ほと ん ど 独 立 し た 広 大 な封 建 的 世 襲 領 地 、 辺 境 の小 国 家
が形 成 さ れ た 。 そ の領 主 は占 有 地 域 内 の経 済 的 、 政 治 的 権 利 を 一手 に集 中 し て いた の で あ る。﹂ (バ フ ル ー シ ン前
掲 書 九 七頁 ) スト ロガ ノ フ家 が 一五 五 八 年 に最 初 の勅 許 を 得 て か ら 二 〇 年 後 の七 九 年 に は 、 領 内 に 二 〇 三戸 を も
つ三 九 部 落 、 一町 、 一修 道 院 が あ り 、 そ れ か ら 約 四 〇 年 後 に は 人 口 は約 五 倍 に ふえ た 。
ス ト ロガ ノ フ家 は や が て 、 こう し た 領 地 と そ の事 業 を防 衛 す る た め に砦 市 を 建 設 す る許 可 を 得 、 ﹁大 砲 や 火 繩
こ の カ ザ ク と 家 人 た ち を も って ボ グ ー ル人 の襲 撃 を 防 ぐ ﹂ こと を願 い出 て許 可 さ れ た。 こ の頃 、 シ ベ リ ア ・ ハ ン
銃 を 備 え つけ ﹂、 守 備 兵 を 配 置 し た 要 塞 線 が形 成 さ れ た。 一五 八 一年 に は 改 め て ﹁カ ザ ク の 猟 人 を傭 い 集 め て 、
国 の側 か ら も ク チ ュム ・ ハン の太 子 マ フ メ ット ・ク ル の攻 撃 が あ って 、 スト ロガ ノ フ家 は いよ いよ ボ ル ガ川 の有
で カ ザ ク に 金 銭 、 被 服 、 火 薬 、 鉛 な ど の軍 需 品 を あ た え た 。 エ ル マク を隊 長 と す る シ ベ リ ア遠 征 は ﹁本 質 に お い
名 な 盗 賊 的 カ ザ ク の首 領 エ ル マク に よ る シ ベ リ ア ・ ハ ン国 攻 撃 の提 案 を受 け 入 れ た。 スト ロガ ノ フ家 は前 貸 の形
て、 スト ロガ ノ フ家 が そ の私 的 利 益 のた め に組 織 し た 産 業 的 企 業 であ った ﹂。 (バ フ ル ー シ ン前 掲 書 一〇 二 頁 )
一五 八 一年 九 月 、 エ ル マク の軍 勢 は チ ュ ソ ワ ヤ川 を さ か のぼ り 、 ウ ラ ル を 越 え て タギ ル川 か ら ト ゥー ラ川 へ出 、
さ ら に ト ボ ル川 から イ ルテ ィ シ川 に出 て ク チ ュム の首 都 カ シ ュリ ク を う か が った 。 十 月 二十 三 日 朝 、 ﹁カ ザ ク 兵
は 敵 の鹿 柴 に向 って ば く 進 し 、 八 方 か ら押 寄 せ て く る タ タ ー ル兵 と 熾 烈 な戦 闘 を 開 始 し た。 先 頭 に は エ ル マク と
イ ワ ン ・ コリ ツ ォ が カ ザ ク の 小 軍 団 を指 揮 し て、 し ば ら く は 剣 と 槍 を 縦 横 に振 り か ざ し て緊 密 な 体 制 を 保 ち な が
ら 、 さら に絶 え 間 な く 火 繩 銃 を発 射 し 、 突 喊 の声 を つく って進 撃 し た 。 こ の白 熱 戦 に お い て敵 将 マ フ メ ット ・ク
ル は 銃 傷 を受 け 、 や む な く 後 方 イ ル テ ィ シ河 岸 に 運 び去 ら れ た の で、 そ の後 の統 帥 を 失 な った敵 兵 は 、 間 も な く
算 を 乱 し て逃 散 し て し ま った ﹂。 (サ ド ー フ ニ コ フ ﹃シ ベ リ ア征 服 史 ﹄ 邦 訳 二 七︱ 二 八 頁 ) ク チ ュ ムは こ の敗 戦 を 聞 い て 、 首 都 を 捨 て て イ シ ム平 原 へ蒙 塵 し て し ま った 。
ア から の多 く の土 産 物 を 献 上 し た。 ロ シ ア の政 府 は 一五 八 三年 セ ミ ョ ン ・ボ ルホ フ ス キ ー 、 イ ワ ン ・グ ル ホ フ を
ス ト ロガ ノ フ家 は シ ベ リ ア の事 件 が 首 尾 よく 運 ん だ の を 知 って 、 イ ワ ン雷 帝 に新 領 土 の併 合 を請 願 し 、 シ ベ リ
長 と す る兵 士 五〇 〇 名 を 増 派 す る こと に 決 し 、 カ ザ ク宛 の沢 山 の贈 物 を も って シ ベ リ ア へ向 った 。 ﹁な か に は 皇
帝 自 身 そ の 御 肩 か ら 脱 が れ て エ ル マク に 賜 った 毛 皮 の外 套 に、 二 重 の鎧 、 銀 鋳 の蓋 つ き カ ップ な ど も あ った。﹂
(サ ド ー フ ニ コ フ前 掲 書 三 六 頁 ) そ の後 エ ル マク は ク チ ュ ム の反 撃 や 土 民 の反 乱 を鎮 圧 し て いた が 、 一五 八 五 年
八 月 五 日 ク チ ュ ム軍 の包 囲 攻 撃 のた め に イ ル テ ィ シ川 岸 で戦 死 し た 。 彼 の死 を め ぐ る伝 説 は多 く 、 シ ベ リ ア の少
数 民族 の 民 話 に ま で語 り つた え ら れ て い る 。 ロ シ ア軍 は や む な く 、 イ ル テ ィ シ川 か ら オ ビ 川 に出 、 ウ ラ ル を越 え
て ペ チ ョラ川 経 由 で ロ シ ア へひ き あ げ た 。 タ タ ー ル の首 都 カ シ ュリ ク (イ スケ ル) は 、 は じ め ク チ ュ ム ・ ハ ン の 子 ア レ イ が 、 つ づ い て エデ ィ ゲ ル の甥 セ イ ド ・ア フ メ ット が 占 領 し た 。
西 シ ベ リ ア が ロ シ ア人 のた め に最 終 的 に確 保 さ れ た の は 、 一五 八 六 年 チ ュル コフ を隊 長 と す る国 家 の部 隊 の進
に拠 点 が築 か れ、 これ を 基 点 に し て着 実 に勢 力 が拡 張 さ れ た。 オ ビ 川 を下 って 北 方 へ、 オ ビ 川 を さ か の ぼ って東
出 以 後 の こ と で あ る。 これ 以 後 ク チ ュ ム の残 党 は掃 蕩 さ れ 、 チ ュメ ニ (一五 八 六 年 )、 ト ボ リ スク (一五 八 七 年 )
方 へ、 イ ルテ ィ シ川 を さ か の ぼ って南 方 へ。 そ の後 ス ルグ ー タ (一五 七 四 年 )、 ナ リ ム (一五 九 八 年 )、 ト ム スク
が 発 見 さ れ た 。 こ の 町 (一六 〇 一年 建 設 ) への航 海 の歴 史 は 十 六 世 紀 に は じ ま る が 、
ペ チ ョラ川 交 通 路 を た ど って進 出 し た ロ シ ア 人 に よ って 、 毛 皮 獣 の豊 富 な マ ンガ ゼ ヤ
(一六 〇 四 年 )、 タ ラ (一五 九 四 年 )な ど の砦 市 が築 か れ 、 十 七 世 紀 に お け る東 部 シベ リ ア進 出 の準 備 が完 了 し た 。
北方 航路 の開 拓と閉鎖
これ に か ん す る 最 初 の記 録 は 一五 五 九 年 の ス テ フ ァ ン ・バ ロ ウ の北 氷 洋 航 海 日記 中 に見 出 さ れ る。 マ ンガ ゼ ヤは
十 六 ︱ 十 七 世 紀 に お け る北 氷 洋 航 路 の終 点 で あ った 。 当 時 の航 海 に は 、 そ の時 代 の初 歩 的 な 造 船 法 を も って建 造
ガ ゼ ヤは衰退 した。
さ れ た コ チ と よば れ る帆 船 が使 用 さ れ た 。 こ れ は ﹁長 さ 一八 ︱ 一九 メ
ー ト ル、 幅 四︱ 四 ・五 メ ー ト ル、 積 載 量 二 、 〇 〇 〇 プ ー ド (約 三 ・三
ト ン) で 、 一〇 ︱ 一五 人 で十 分 操 船 す る こ と が で き 、 積 荷 の ほ か に 三
ョフ﹄ 四 七 頁 )
〇 ︱ 五〇 人 の船 客 を 運 ぶ こ と が で き た ﹂。 (ベ ロフ ﹃セ ミ ョ ン ・デ ジ ニ
マ ンガ ゼ ヤ の 毛 皮 は ア ル ハ ンゲ リ ス ク の市 場 で 名声 を 博 し 、 や が て
て イ ギ リ ス お よ び オ ラ ンダ の探 険 家 が 殺 到 す る よ う に な った 。 イ ギ リ
そ の富 は尾 ひ れ を つけ て西 欧 に紹 介 さ れ 、 十 六 ︱ 十 七 世 紀 初 頭 に か け
ス人 の ウ ィ ロビ ー、 ス テ フ ァ ン ・バ ロウ、 ア ー サ ー ・ピ ー ト お よ び チ
ャー ル ズ ・ジ ャ ク メ ン、 オ ラ ンダ 人 の バ レ ン ツ、 ワ ン ・ケ ル ゴ ウ ェ ン
な ど で あ る。 彼 ら は いず れ も シ ベ リ ア経 由 で中 国 に 至 る道 を求 め 、 こ
由 マ ンガ ゼ ヤ航 路 の閉 鎖 を 上 奏 す る に いた った。 こ の結 果 、 シ ベ リ ア北 方 の航 路 は 後 代 ま で発 展 を阻 ま れ 、 マ ン
一六 一六 年 、 ト ボ リ スク の都 督 ク ラ ー キ ン侯 は 、 海 路 ド イ ツ人 侵 入 の危 惧 と 海 上 密 貿 易 の危 惧 か ら 、 北 氷 洋 経
〇 年 ご ろ こ の 地 で難 破 し た ロ シア 船 員 の遺 物 が 発 見 さ れ て い る。
に な る と 二 、 〇 〇 〇 ︱ 三 、 〇 〇 〇 人 の人 が集 った と いう 。 一九 四〇 ︱ 四 五 年 に は タ イ ミ ル半 島 の東 岸 で 、 一七 一
マ ンガ ゼ ヤ か ら は さ ら に エ ニセ イ 川 へ水 路 が 通 じ 、 そ の各 支 流 へも進 出 し た 。 マン ガ ゼ ヤ の町 に は 当 時 、 夏 期
れ を自 国 のた め に 確 保 す る こと を 目 的 と し た。 こう し た 外 国 の動 き は モ ス ク ワ政 府 を いち じ る し く 刺 戟 し た 。
カザ クたちが北水 洋航 海に用 い たコチ船(模 型)
太平洋 岸 への進出
シ ベ リ ア の名 が ロ シ ア の年 代 記 に は じ め て 登 場 す る の は 一四 〇 七 年 で あ り、 エ ル マク の遠
征 は 一五 八 一年 に開 始 さ れ た が 、 一六 四 八 年 に は す で に最 前 線 の カザ ク た ち が 太 平 洋 岸 に
進 出 し て いる 。 カ ザ ク た ち は 毛 皮 の豊 か な 新 天 地 を求 め て 、 要 所 要 所 に冬 営 所 や柵 、 砦 市 を築 き な が ら 、 地 図 も
経 験 も な い未 踏 の地 を 土 着 の人 に道 を き い て進 ん だ。 連 水 陸 路 や 浅 瀬 で は何 十 人 も 一緒 に な って平 底 の コチ船 を
引 き 、 坂 道 は 挺 子 で船 を 押 し あ げ て 越 え た 。 冬 に な る と船 を 河 間 地帯 へ陸 揚 げ し て冬 営 の宿 舎 に か え て 利 用 し た。
羅 針 盤 な ど は も ち ろ ん な く 、 太 陽 や星 を頼 り に し 、 木 の幹 を削 った り 、 目 印 を つけ た り し た 。 こう し た カ ザ ク の
進 出 に あ って は 、 糧 秣 弾 薬 お よ び 日用 品 の補 給 も 困 難 を き わ め た。 冬 営 所 や砦 市 の駐 在 員 た ち は 、 モ ス ク ワ か ら
は穀 類 の配 給 を受 け な が ら 、 運 搬 の途 中 で 少 しず つ上 前 を は ね ら れ 、 し ま い に は な に も貰 い分 の な い こと も ま れ で は な か った 。
こ こ で カ ザ ク を 先 陣 と す る ロシ ア 人 の東 漸 を 概 観 す る と つぎ の と お り で あ る。 一五 九 八 年 ト ゥ ー ラ川 上 流 に ウ
ェ ルホ ト ゥー リ エ が建 設 さ れ 、 一六 〇 〇 年 に は ト ゥ ー ラ 川 の中 流 に ト ゥー ラ (エパ ン チ ン) が築 か れ た 。 そ の後 、
ク ズ ネ ック (一六 一八 年 )、 ト ゥ ル ハン ス ク (一六 〇 四年 )、 エ ニ セイ ス ク (一六 一九 年 )、 ク ラ スノ ヤ ル ス ク (一
六 二 八 年 )、 イ リ ム ス ク (一六 三 一年 )、 ヤク ー ツ ク ( 一六 三 二年 ) へと 進 ん だ 。 ヤ ク ー ツ ク は そ の後 シベ リ ア 北
東 部 、 オ ホ ー ツ ク 海 沿 岸 、 ア ム ー ル川 流 域 、 カ ム チ ャ ツ カ な ど へ進 出 す る 重 要 な 基 地 と な った 。 こ の 地 から 、 ミ
ハイ ル ・ スタ ド ゥ ヒ ンは コリ マ川 へ、 セ ミ ョ ン ・デ ジ ニ ョフ は ア ジ アと ア メ リ カ を分 け る海 峡 へ、 ワ シ リ ー ・ポ
ヤ ル コフと エ ロ フ ェイ ・ ハバ ロフ は ア ム ー ル川 へ、 ウ ラ ジ ミ ル ・ア ト ラ ソ フ は カ ム チ ャツ カ へ進 出 し た の で あ る。
ヤ ク ー ツ ク 県 は カ ム チ ャ ツ カ の併 合 以 前 にす で に 、 シ ベ リ ア の全 原 住 民 の約 三 〇 % を 含 む 広 大 な 地域 を占 め た。
エ ニセ イ スク か ら 進 ん だ も う ひ と つ の道 は 、 イ リ マ川 河 口 か ら ア ンガ ラ川 を さ か の ぼ って バ イ カ ル湖 へ出 、 そ
こ か ら シ ル カ川 、 ア ムー ル川 へぬ け る も の で あ る。 一六 六 一年 ヤ コ フ ・ポ ハボ フ は ア ンガ ラ川 岸 に イ ル ク ー ツ ク
を 建 設 し た。 そ の後 セ レ ンギ ン スク (一六 六 五 年 )、 ネ ル チ ン ス ク (一六 五 四 年 )が 建 設 さ れ、 一六 八 〇 年 代 に は
ア ムー ル川 中 流 域 に シベ リ ア で 二 〇 番 目 の ア ル バ ジ ン郡 が 設置 さ れ た 。 一七 〇 〇 年 に カ ム チ ャ ツ カ 、 一七 〇 三年
に ミ ヌ シ ン ス ク盆 地 、 一七 五 六 年 に山 地 ア ルタ イ 地 方 、 そ う し て 一八 五 八 年 に は ア ム ー ル川 下 流 域 と ウ スリ ー 地 方 が そ れ ぞ れ ロ シ ア領 と し て確 定 さ れ た 。
シベ リ ア に お け る ロシ ア人 の人 口 は 、 一六 九 七年 の シ ベ リ ア 局 発 表 によ る と 、 ア ル バ ジ ンを の ぞ く 一九 県 の成
人 男 子 数 は ロ シ ア人 が 三 六 、 九 一五 人 、 原 住 民 が 二 七 、 三 〇 〇 人 で、 こ れ に よ って女 子 供 を含 め た 総 人 口 は ロシ
ア 人 が約 一五 万 、 原 住 民 一二 五 万 (ア ルタ イ 人 、 ア ム ー ル川 流 域 お よ び カ ム チ ャ ツ カ の住 民 、 チ ュク チ 人 、 コリ
いた 。 ト ボ リ ス ク県 に も っと も 多 く 、 成 人 男 子 数 一三 、 二 九 九 人 、 ウ ェ ル ホト ゥ ー リ ェ県 に 四 、 五 二 五 人 を数 え
ヤ ー ク人 、 エ ス キ モ ー人 を の ぞ く ) と 推 定 さ れ る。 一六 九 七 年 当 時 、 ロ シ ア人 の大 部 分 は西 シ ベ リ ア に 集 中 し て
た 。 職 業 別 に 成 人 男 子 数 を み ると 、 農 民 二五 、 九 六 七 、 役 人 八 、 八 二 九 、 一般 市 民 一、 〇 九 三、 聖 職 者 三七 六 な ど で あ った 。 こ れ ら の数 に は 本 国 か ら の出 稼 ぎ 人 は含 ま れ て い な か った 。
外 国 と の国 境 協 定 は中 国 と の あ い だ に と り 交 わ さ れ た 。 最 初 の も の は 一六 八 九 年 のネ ル チ ン ス ク条 約 で ロシ ア
側 の代 表 は ゴ ロビ ン、 ウ ラ ソ フ、 コル ニ ツ コイ の 三 名 で 、 清 国 の使 節 は索 額 圖 、 〓 國 綱 、 郎 談 ら 七 名 で、 ほ か に
通 事 と し て 二 人 の有 名 な イ エズ ス会 士 ジ ェ ルビ ョ ン (張 誠 ) と ペ レイ ラ ( 徐 日昇 ) と が加 わ って いた 。 主 な 内 容
に臨 む ウ ダ 川 一帯 は未 決 定 と す る こ と 、 ア ル バ ジ ン要 塞 は 破壊 さ れ る こと な ど が と り 決 め ら れ た 。 第 二 回 目 のも
は 、 ア ルグ ン川 (現 在 中 ソ国 境 ) と ゴ ル ビ ツ ァ川 (シ ル カ川 の支 流 ) お よ び外 興 安 嶺 を国 境 と し 、 オ ホ ー ツ ク海
の は 一七 二 八 年 の キ ャ フ タ 条 約 で あ る 。 こ の条 約 は 十 九 世 紀 半 ば ま で露 清 関係 を規 定 し た も の で、 吉 田金 一氏 は
つぎ のよ う に要 約 し て いる 。 ﹁お も な 内 容 は 、 一 ネ ル チ ン ス ク条 約 で定 め た ア ルグ ン川 国 境 の ア バ ガ イ ト ゥ イ か
ら シ ャビ ン ・ダ バ ガ ま で の国 境 を定 め 、 二 逃 亡 者 は 、 相 互 に引 渡 し 、 処 罰 す る。 三 ロ シ ア の隊 商 は 人 員 を 二〇 〇
人 と し 、 三年 ご と に北 京 に来 る こと を許 可 し 、蒙 古 国 境 の キ ャ フタ 、 満 洲 国 境 の ツ ル ハイ ト ゥ イ に 交 易 場 を 設 け
る。 四 外 交 使 節 の承 認 、 公 文 書 の伝 達 は す み や か に 行 な う 。 五 ロシ ア は北 京 に 正 教 教 会 を 設 け 、 牧 師 と語 学 研 究
生 を おく こと が でき る 。 な お、 こ の条 約 と 前 後 し て 、国 境 を画 定 す る ブ ー ラ条 約 、ア バ ガ イ ト ゥイ 議 定 書 、 セ レ ン
ガ議 定 書 が 調 印 さ れ た 。﹂ (平 凡 社 版 ﹃ア ジ ア歴 史 事 典 ﹄ 第 二巻 三 七 八 頁 ) こ の条 約 の代 表 者 は ロシ ア 側 が サ ワ ・ ウ ラ ジ ス ラ ビ チ で、 清 国 側 は査 弼 納 、 特 克 咸 、 圖 理 〓 で あ った 。
第 三 回 目 の重 要 な 国 境 協 定 の条 約 は 一八 五 八年 、 ロシ ア側 は東 シ ベ リ ア総 督 ムラ ビ ヨ フ、 清 国 側 は 奕 山 を代 表
と し て結 ば れ た ア イ グ ン条 約 で あ る 。 これ は 全部 で 三 カ条 か ら な る が 、 も っと も 重 要 な 内 容 は 第 一条 に あ る の で、
以 下 試 み に 訳 出 し て み る 。 ﹁ア ム ー ル川 左 岸 は 、 ア ルグ ン川 か ら ア ム ー ル川 海 口 ま で 、 ロシ ア国 領 と し 、右 岸 は 江
流 に順 じ て ウ スリ ー川 ま で大 清 国 領 と す る。 ウ スリ ー 川 か ら 先海 ま で の 地 は 、 両 国 間 で こ の地 の境 界 を 明 定 す る
ま で 、 今 と 同 様 に大 清 国 と ロシ ア国 の共 管 の地 と す る。 ア ムー ル川 、 ス ンガ リ (松 花 江 ) お よ び ウ スリ ー川 を 航
行 で き る の は大 清 国 およ び ロシ ア国 の船 だ け で、 他 の外 国 船 は こ の川 を航 行 で き な い。 ア ム ー ル川 左 岸 ゼ ヤ川 の
南 ホ ル モ ル ジ ン村 ま で に原 住 の満 洲 人 は、 ロシ ア 人 住 民 が彼 ら に侮 辱 や 圧 迫 を 加 え な いた め に 、満 洲 政 府 の管 理
下 に お き 、 そ の住 地 に永 住 さ せ る も のと す る。﹂ (ソ連 科 学 ア カデ ミ ー編 ﹃ロ シ ア ・中 国 関 係 ﹄ 二九 頁 ) こ の条 約
は そ の後 、 ﹁江東 六 十 四 屯 ﹂ の問 題 な ど 複 雑 な問 題 と し て後 を ひ いた 。 そ の後 一八 六 〇 年 十 一月 二 日 の 北 京 条 約
で 、 ﹁ウ スリ ー川 河 口 か ら 興 凱 湖 ま で は、 国 境 線 を ウ ス リ ー川 お よ び ス ンガ チ ャ ( 松 阿 察 ) 川 と す る。 こ れ ら 二
川 の東 の 地 は ロ シ ア国 に 属 し 、 二 川 の西 は 中 国 に属 す る。 そ の後 両 国 の境 界 線 は 、 ス ンガ チ ャ川 の源 か ら 興 凱 湖
を 縦 断 し て ベ レ ン ヘ (ト ゥ ー ル) 川 に 至 り 、 ベ レ ン ヘ川 の河 口 か ら 山 嶺 に順 じ て フブ ト ゥ (瑚 布 図 ) 川 に 至 り 、
フ ブ ト ゥ川 河 口 か ら 琿 春 川 と 海 のあ いだ に あ る嶺 に順 じ て図 們 江 に至 る 。 そ の東 の地 は ロシ ア国 に 、 そ の西 は 中
国 に 属 す る 。 境 界 線 は 図 們 江 の海 口 か ら 二〇 露 里 上 流 の江 上 と す る﹂ ( 前 掲 書 三 四︱ 三 五頁 ) と な って いる 。
そ う し て 一方 、 ロ シ ア の進 出 は さ ら に ア レ ウ ト 諸 島 お よ び ア ラ ス カ に 至 り 、 一八 一二年 に は 後 に サ ン フ ラ ン シ
ス コと な った 付 近 に フ ォ ルト ・ ロ スが 建 設 さ れ た 。 し か し ア ラ ス カと ア レ ウ ト 諸 島 は、 一八 六 七 年 に ア メ リ カ合
衆 国 に売 り わ た さ れ た 。 十 八 世 紀 末 に は イ ル ク ー ツ ク出 身 の シ ェリ コ フら に よ って ﹁露 米 会 社 ﹂ が 設 置 さ れ、 北
太 平 洋 の開 発 に大 き な 役 割 を は た し た 。 一八 〇 四 年 日本 に来 航 し た レ ザ ー ノ フ は シ ェリ コ フ の娘 婿 で こ の会 社 の
こと に成 功 し 、 緊 急 の場 合 に は ロ シ ア陸 海 軍 の保 護 を 求 め得 る権 利 ま で許 さ れ た 。
重 役 で も あ った 。 レザ ー ノ フ の活 動 に よ って こ の会 社 は ロ シ ア政 府 か ら 漁 猟 、 貿 易 、 植 民 上 の多 く の特 権 を得 る
同 じ頃 、 ロシ ア の勢 力 が千 島 列 島 や樺 太 で 日本 と接 触 し 、 日本 に北 方 問 題 を 生 ん だ こと は 周 知 のと お り で あ る。
ロシア帝国 の シ ベ ロシ ア政 府 権 力 の及 ぶ 地 域 の原 住 民 に は 、 す べ て ヤ サ ク を課 し た 。 ヤサ ク は ふ つう 毛 皮 税 リ ア少数民 族政 策 と 訳 さ れ て い る が 、 ド ミ ト リ エ フと いう 言 語 学 者 は つぎ のよ う に書 い て い る。 ﹁モ ン ゴ ル
語 の ヤ サ グ で、 は じ め は 普 通 法 の集 成 、 つぎ に統 治 、 政 府 な ど の意 。 金 帳 汗 国 の時 代 に チ ュ ルク語 に移 り、 命 令 、
法 律 、 国 家 的 納 税 義 務 、税 を 意 味 し た 。 タ タ ー ル人 か ら ロシ ア人 に移 った。﹂ (﹃レ キ シ コグ ラ フ ィ ー論 集 ﹄第 三 集
三 八 頁 ) ロ シ ア語 で は 、 ﹁シベ リ ア お よ び ボ ルガ 川 流 域 の原 住 民 か ら 徴 収 し た 税 ﹂ の意 と し て用 いら れ て いる 。
シベ リ ア で の ヤサ ク は は じ め 戦 利 品 の形 で略 奪 さ れ た。 し か し 間 も な く 、 占 領 地域 の住 民 は ヤサ ク 台 帳 に 記 入
さ れ 、 年 間 の額 が と り き め ら れ た。 ヤサ ク は ロ シア 人 の進 出 以 前 、 た と え ば ク チ ュム治 下 の西 シ ベ リ ア で も 行 な
わ れ 、 ロ シ ア人 は そ の徴 収 体 制 を そ の ま ま 受 け つ い で いる 場 合 も多 か った 。 ヤサ ク は 多 く の場 合 テ ン、 キ ツネ 、
リ スな ど の 毛 皮 で納 入 さ れ た が 、 ま れ に 金 属 (銀 ) や コ ムギ 、 家 畜 、 魚 類 、木 材 、 海 獣 の皮 な ど で 行 な わ れ る こ
と も あ った 。 ヤ サ ク の額 は は じ め 毛 皮 の枚 数 で定 め ら れ た が、 毛 皮 獣 の種 類 の変 化 に よ る換 算 が む ず か し く 、 金
住 民 の有 力 者 の裁 量 に 任 せ ると いう 方 法 が と ら れ た 。
額 に換 算 し て査 定 さ れ た 。 十 七 世 紀 中 ご ろ か ら 、 郷 (ナ ス レ グ と も いう ) ご と に ヤ サ ク を課 し 、 郷 の内 部 で は 原
ヤサ ク の徴 収 に は、 シ ャ マ ン の儀 式 に よ る 宣 誓 の ほ か 、 人 質 (ア マナ ト ) を 砦 市 や柵 に 領 か って強 制 し た 。 種
た め に自 分 で ヤ サ ク を持 参 し た が、 奥 地 の場 合 は ロ シ ア人 の徴 収 人 が 人 質 を つれ て 出 か け て行 った 。
族 の長 老 を 、 さ ま ざ ま な贈 物 や ご 馳 走 で買 収 す る こ と も よく 行 な わ れ た 。 多 く の郷 で は 、 長 老 が 饗 応 に あず か る
シ ベ リ ア の原 住 民 は ヤ サ ク の ほ か に 、 ウ マや イ ヌ に よ る 駅 逓 や荷 駄 運 搬 を 分 担 さ せ ら れ た 。 ﹁一六 〇 一年 、 ウ
マに よ る 定 期 郵 便 が チ ュメ ニに お い て開 始 さ れ 、 これ が た め 道 路 の敷 設 と宿 駅 の設 置 を 見 た が 、 下 って 一七 一〇
年 と も な れ ば 飛 脚 の数 は 七 、〇 〇 〇 人 に達 し 、 一マイ ル毎 に道 標 が 設 け ら れ 、 里 程 の測 定 は ヤ ク ー ツ ク に ま で 及
ん だ。﹂ (ロ ス ト フ ス キ ー ﹃ロシ ア東 方 経 略 史 ﹄ 邦 訳 三 九 頁 ) 十 八 世 紀 の は じ め ピ ョー ト ル大 帝 の命 に よ って開 始
さ れ た カ ムチ ャ ツ カ探 険 (第 一回 は 一七 二 五︱ 三〇 年 、 第 二 回 は 一七 三 三︱ 三 四 年 ) で は 、 六 〇 〇 人 の ロ シ ア人
農 民 の ほ か 、 毎 年 五 〇 〇 ︱ 七 〇 〇 頭 の ヤ ク ー ト 馬 と多 く の ヤ ク ー ト 人 が徴 発 さ れ た 。 ヤ ク ー ト 人 は 約 八 キ ロ の荷
を ウ マに積 み、 密 林 を 歩 い て オ ホ ー ツ クま で 運 搬 し た が 、 ウ マの約 半 分 は 途 中 で倒 れ た と いう 。 十 八 世 紀 中 ご ろ
に は 、 た と え ば ヤ ク ー ツ ク か ら オ ホ ー ツ ク への荷 物 運 搬 のた め に毎 年 四 、〇〇〇 ︱ 五 、〇〇〇 頭 の ウ マが動 員 さ
の使 役 は 原 住 民 に と って非 常 な負 担 で あ った 。
れ た 。 チ ュク チ 人 の征 服 のた め に は、 約 三 、〇〇〇 キ ロの道 程 を も つ ア ナデ ィ ル街 道 が使 用 さ れ た 。 駅 逓 と荷 駄
ロシ ア 人 に よ る は げ し い収 奪 に 加 え て 、 ロシ ア の移 民 が 進 出 し て森 林 を焼 き農 地 が開 か れ る よ う に な る と 、 毛
皮 獣 の数 は 目 に見 え て減 少 し 、 原 住 民 の ヤ サ ク納 入 能 力 は いち じ る し く 低 下 し た 。 こ の ほ か 、 総 督 や都 督 (ボ エ
ボ ド) を は じ め と す る ロ シア役 人 の多 く は 、 原 住 民 の犠 牲 の上 に詐 欺 、 横 領 、 略 奪 な ど で私 腹 を肥 し た 。 ヤ サ ク
の滞 納 や 反 抗 を す る も の か ら 妻 子 を と り 上 げ 、 これ を自 分 の奴婢 と し 、 あ る いは 売 買 し た り 、 洗 礼 を さ ず け て農
った が 、 火繩 銃 や 大 砲 の威 力 の前 に 結 局 屈 服 さ せ ら れ る の であ った 。
奴 と し て 欧 露 に送 った り し た 。 こう し た 圧 迫 に耐 え か ね て、 原 住 民 は決 死 的 な 反 抗 を 試 み る こと も し ば し ば で あ
都 督 は 守 備 隊 、 裁 判 、 ヤ サ ク の徴 収 、 流 刑 人 の扱 いな ど 一切 の権 力 を 一手 に に ぎ り 、 専 横 な振 舞 い が多 か った 。
彼 ら は ﹁現 地 の事 が ら を 自 ら の裁 量 に よ って 、適 当 に 、神 の意 に か なう よ う に 処 理 す る ﹂、 つま り 自 分 の勝 手 に行
動 す る 自 由 が あ た え ら れ て いた 。 都 督 は 一都 市 に 一人 の割 で設 置 さ れ た が 、 相 互 の連 絡 は ま った く な く 、 そ れ ぞ
っぱ り 効 果 が な か った 。
れ が モ スク ワ の元 老 院 に属 す る シベ リ ア管 理 局 に直 属 し て い た 。 暴 政 や横 領 な ど に よ る 都 督 職 の頻 繁 な異 動 も さ
ヤ サ ク の賦 課 額 は何 度 か改 訂 さ れ た が 、 そ のう ち 十 七 世 紀 後 半 エ カ チ ェリ ー ナ 二世 (女 帝 ) に よ る改 革 は 重 要
で あ る。 こ の開 明 的 絶 対 主 義 の君 主 は シ ベ リ ア少 数 民 族 の悲 惨 な状 態 を 向 上 さ せ よ う と 、 美 辞 を ち り ば め た勅 令
を 発 布 し 、 一七 六 三年 シチ ェ ル バ チ ェフ を長 と す る ﹁ヤサ ク賦 課 委 員 会 ﹂ を シベ リ ア に送 った。 そ の結 果 、 ヤ サ
ク の徴 収 に は ロシ ア の下 級 役 人 は 一切介 入 せ ず 、 全 部 原 住 民 の長 老 に任 す こと 、 原 則 的 に テ ン、 キ ツネ の 毛 皮 を
も って支 払 う が 、 な い場 合 に は リ スな ど 他 の動 物 の毛 皮 も し く は金 銭 で の支 払 いを許 す こと 、 額 と し て は男 子 一
人 あ た り 一︱ 二 ルー ブ リ と す る こ と な ど が決 定 さ れ た。 こ の決 定 に よ って、 ﹁ヤ サ ク は か つ て の意 義 を 失 い、 半
現 物 的 、 半 貨 幣 的 徴 収 に か わ った 。 こ の委 員 会 の活 動 の後 、 ヤ クー チ ヤ の住 民 は ヤ サ ク の か な り の額 を金 銭 で支
払 う よ う に な った ﹂。 (﹃ヤ ク ー チ ャ自 治 共 和 国 史 ﹄ 第 二 巻 一四 〇 頁 ) し か し ヤ サ ク の ほ か に強 制 的 に 進 物 を と っ
た り、 他 の貢 納 金 を 徴 収 し た り し て 、 一般 原 住 民 の生 活 は 一向 に よ く な ら な か った 。
シベリ ア統 治 の腐敗 と ロ シ ア の シベ リ ア の統 治 に お いて は 当 初 か ら 、 首 都 か ら の遠 隔 地 で あ る た め 、 現 地 で スペラ ンスキ ー の改 革 迅 速 な 処 理 が で き る よ う に広 汎 な権 限 を 出 先 機 関 に あ た え る こと と 、 これ の監 督 を す
る こと と いう 二 つ の矛 盾 し た 要 請 に な や ま さ れ た。 都 督 を は じ め 下 級 役 人 に 至 る ま で、 シ ベ リ ア で ひ と も う け し
よ う と す る 根 性 は徹 底 的 に は び こ り 、 ど ん な に 処 罰 し て も 、 人 事 を 異 動 し て み て も 、 汚 職 は つぎ か ら つぎ へと 起
と さ れ 、ト ボ リ スク に総 督 府 が お か れ
った 。 行 政 改 革 も し ば し ば 行 な わ れ た が、 効 果 は ほ と ん ど あ が ら な か った 。 一七 〇 八 年 、ピ ョー ト ル大 帝 の行 政 改 革 によ って全 シ ベ リ ア は 一 県
督
区 が設 置 さ れ 、 こ の な か に イ
府 が お か れ た。 一七 九 七 年 に コリ ワ ン守 管 区 は 廃 止 さ れ、 イ ル ク ー ツ
管
た 。 一七 六 四 年 に はイ ル ク ー ツ ク県 が分 離 し 、 シ ベ リ ア は 二総 督 府 に分 か れ た 。 エカ チ ェリ ー ナ 二世 治 下 の 一七
ル ク ー ツ ク、 ト ボ リ スク の 二 総
八 二︱ 八 三年 に シベ リ ア に は ト ボ リ スク 、 コリ ワ ン、 イ ル ク ー ツ ク の 三大 守
ク と ト ボ リ ス ク は 県 と さ れ た 。 都 督 の 一切 の権 限 は そ のま ま 守 管 長 と総 督 に移 り 、 中 央 か ら の制 約 は ほ と ん ど 受 け な か った 。 そ の後 の 一切 の暴 政 は ま た こ こ に起 源 し て いる 。
そ の後 ガ ガ ー リ ン、 コシ ュキ ン、 ヤ コビ 、 ジ ョ ロボ フ、 ク ル ィ ロフ な ど シベ リ ア統 治 の高 官 に な った 人 び と は
ほ と ん ど が シ ベ リ ア史 に悪 名 を残 し て い る。 ア レ ク サ ンド ル 一世 治 下 の 一八 〇 一年 に は セ リ フ ォ ント フ将 軍 が強
大 な権 限 を委 任 さ れ て シ ベ リ ア に赴 任 し イ ルク ー ツ ク に総 督 府 を開 いた が 、 彼 も ま た 汚 職 の 泥 沼 に沈 没 し た 。 そ
の後 一八 〇 六 年 に 総 督 と な った ペ ステ リ は副 総 督 ト レ ス キ ンと 組 ん で 、 一四年 の長 き にわ た って前 代 未 聞 の暴 政
を し いた 。 ﹁こ の時 、人格 無 視 は そ の極 点 に達 し 、あ る シ ベ リ ア作 家 の表 現 に よ れ ば 〝完 全 な る 破 壊 王 国 〟 が来 た
った の で あ った 。﹂ (ク ド リ ャ フ ツ ェフ ﹃ブ リ ヤ ー ト 蒙 古 民 族 史 ﹄ 邦 訳 三 〇 九 頁 )
当 時 首 都 の ペ テ ルブ ルグ か ら イ ル ク ー ツ ク ま で の郵 便 は 一カ月 を要 し 、 春 と 秋 の悪 道 路 の時 期 に は 二カ 月 、 さ
ルブ ルグ に留 ま って ア ラ ク チ ェ エ フら 多 く の政 府 高 官 と交 際 し 、 シベ リ ア か ら の文 書 を す べ て 点 検 し た 。 自 分 た
ら に は 三カ 月 も か か った 。 ペ ス テ リ は そ の信 任 す る ト レ ス キ ンを イ ル ク ー ツ ク に お い て 一切 を委 し 、 自 分 は ペ テ
ち の 地位 に少 し で も 不都 合 な も のは 、 公 文 書 で あ ろ う と訴 状 で あ ろ う と 一切 握 り つぶ し た 。 現 地 に い る ト レ ス キ
ンは 警 察 署 長 、 郡 長 な ど の要 職 に は す べ て 子飼 い の も のを す え 、 完 全 な 独 裁 体 制 を し いた 。 ト ボ リ ス ク糧 秣 倉 庫
の建 物 に 一 一年 間 監 禁 さ れ 、 妻 は そ の悲 し み の た め に死 に 、 娘 は 涙 で盲 目 に な った と いう 。 そ の 他 彼 ら 一味 に残
の 所 長 で あ った ク ト キ ン将 軍 は 、 ペ ステ リ と あ る事 が ら で意 見 を異 に し た と いう 理 由 だ け で 、 倉 庫 の そ ば の特 別
よ り の金 銭 、 現 物 に よ る取 り 立 て は 日 常 現 象 に な った 。 事 態 は、 官 吏 に対 す る贈 与 、 す な わ ち 賄 賂 が 公 式 に 地 方
酷 な体 刑 を加 え ら れ た も の、 無 実 の罪 に お と さ れ 、殺 さ れ た も のは そ の数 を 知 ら な いほ ど で あ った 。 ﹁個 人 、団 体
予 算 の支 出 の部 に 含 め ら れ た 程 にま で 立 ち いた った 。﹂ (前 掲 書 三 一 一頁 ) ト レ ス キ ン の右 腕 と し て な ら し た ニジ
つく った が 、 血 と 鞭 の制 裁 を も って 人 び と を ふ るえ あ が ら せ 、 ペ テ ルブ ルグ で も 驚 く ほ ど 見 事 な 道 路 を完 成 し た 。
ネ ウ ジ ン ス ク警 察 署 長 ロ ス ク ー ト フ は 、 流 刑 人 や 原 住 民 を使 って イ ル ク ー ツ ク ︱︱ ク ラ ス ノ ヤ ル スク 間 の道 路 を
彼 は 巡 視 のと き は い っも 鞭 を も った カ ザ ク兵 を連 れ 、勝 手 に民 家 に 立 ち 入 り 、﹁パ ン の焼 き 方 が ま ず け れ ば主 婦 を
飲 料 の)の酸 味 が す ぎ た り 、 夏 季 に冷 た く し て な か った り す れ ば 主 人 を 鞭 で 打 ち の め し た ﹂。 な ぐ り 、 ク ワ ス (清一凉 種︱ 著者
(マク シ ー モ フ ﹃シベ リ アと 徒 刑 ﹄ 三 二 八頁 )
こ の圧 政 に た いす る訴 状 は ペ テ ルブ ル グ に何 通 も 送 ら れ た が 、 ペ ス テ リ に妨 害 さ れ て政 府 、 さ ら に 皇 帝 ま で は
達 し な か った 。 ﹁神 は 高 く 、 ツ ァ ー リ は遠 く ﹂、 ま た皇 帝 ま で達 し て も と り 上 げ ら れ な か った 。 一八 一八 年 イ ルク
ー ツ ク の町 人 サ ラ マト フ は つ い に、中 国 経 由 で カザ フ スタ ン の草 原 に 出 て ペ テ ルブ ルグ に 至 り 、﹁ペ テ スリ の専 横
か ら 逃 れ るた め に自 分 の 一命 を 奪 う よ う 命 じ給 え ﹂ と ア レ ク サ ンド ル 一世 に直 訴 し た 。 政 府 は シ ベ リ ア から の歳
入 が と み に減 少 し た こと に か ん が み 、 直 訴 を と り あ げ 、 こ こに シ ベ リ ア統 治 の改 革 に のり 出 し た 。
一八 一九 年 三 月 二 十 二 日、 当 時 ペ ンザ 県 の知 事 であ った 有 名 な政 治 家 スペ ラ ン ス キ ー が 検 察 官 と し て 登 用 さ れ
た 。 ア レ ク サ ンド ル 一世 が 彼 に あ た え た勅 書 に は つぎ のよ う に書 か れ て いた 。 ﹁予 は貴 殿 を有 能 の人 物 と 考 え 、
総 督 の称 号 を あ た え 、 総 督 の具 備 す る全 権 を も つ長 官 と し て シ ベ リ ア諸 県 お よ び そ こに 存 在 す る統 治 の実 状 の検
察 を 委 嘱 す る。 こ の全 権 を行 使 し て 、 可 能 な 限 り職 権 濫 用 者 を 明 る み に 出 し 、 必 要 な場 合 は 彼 ら を 法 の裁 き に か
け よ 。 貴 殿 の主 な任 務 は つぎ の と お り。 こ の遠 隔 地 統 治 の た め に 、 現 地 で も っと も 適 当 な 制 度 を考 え 、 こ れ の草
スペ ラ ン ス キ ー は約 二年 に わ た って シ ベ リ ア を 検 察 し た が、 そ の途 中 に お い てす で に ﹁予 は シ ベ リ ア の底 へ下 り
案 を 作 成 し て、 検 察 の終 り 次 第 ペ テ ルブ ル グ の予 の許 に提 出 せ よ 。﹂ (﹃ヤ ク ー ト自 治 共 和 国 史 ﹄ 第 二巻 一六 六 頁 )
て行 け ば 行 く 程 、 悪 を、 し か も ほ と ん ど 耐 え ら れ な い悪 を発 見 し て い る。 噂 は誇 張 で な く 、 事 実 は噂 以 上 に ひど
い﹂ と 書 き 、 ま た ﹁ト ボ リ ス ク に お いて は、 全 員 裁 判 に ふ す る こと も でき な く は な いが 、 そ う す れ ば も は や 全 員
を 絞 罪 に 処 す る こ と の み が残 る で あ ろ う ﹂ と 記 し て いる 。 し か し さ ら に 大 規 模 な 職 権 濫 用 の巣 窟 は イ ル ク ー ツ ク
県 で あ った 。 ニジ ネ ウ ジ ン ス ク警 察 署 長 の ロ スク ー ト フ は検 察 官 の到 来 を き い て 、 住 民 か ら 一切 の用 紙 、 イ ン キ 、
ペ ンを 取 り あ げ 、 告 訴 状 が書 け な いよ う に し た と いう (も っと も 、 大 部 分 は 文 盲 で あ った が )。 し か し ス ペ ラ ン
ス キ ー は 住 民 に 口頭 で の告 訴 を 認 め 、 ロ ス ク ー ト フや ト レ スキ ンを逮 捕 し た 。 ロ ス ク ー ト フ の家 宅 を捜 査 し た と
こ ろ 、 銀 や毛 皮 の ほ か に 一三 八 、 二 四 三 ル ー ブ リ と い う 巨 額 の現 金 を貯 え て いた と いう 。 彼 の検 察 の結 果 総 数 六
八 一名 が 告 発 さ れ た が、 ペ ステ リ や ト レ ス キ ン の よ う な 大 物 に は 比 較 的 寛 大 な 処 置 し か と れ な か った こと は 特 徴
的 であ る 。 な お 、 デ カ ブ リ スト の有 名 な 拍 導 者 ペ ス テ リ は 、 こ の ペ ステ リ 総 督 の息 子 で あ る。
一八 二 二年 の ﹁シ ベ ス ペ ラ ン スキ ー の草 案 や報 告 を検 討 し て 法 制 化 す るた め に 一八 二 一年 シベ リ ア委 員 会 が リ ア 諸 県 統 治 制 度 ﹂ 設 置 さ れ 、 二 二年 六 月 二十 二 日付 勅 令 を も って ﹁シ ベ リ ア諸 県 統 治 制 度 ﹂ が発 布 さ れ た。
こ の法 律 は そ の後 若 干 の更 改 を のぞ い て は ほ と ん ど 一九 一七 年 の ロ シ ア革 命 ま で 存 続 し た も ので 、 シベ リ ア統 治 史 で き わ め て重 要 な位 置 を し め る。 以 下 こ の法 規 の主 要 部 分 を概 観 し よ う 。
を お き 、 そ れ ぞ れ に総 督 と こ れ に属 す る ソビ エト 会 議 が設 置 さ れ た。 各 県 に は知 事 と 県 会 議 か ら な る 県 総 本 部 が 、
こ の法 規 は ま ず 全 シ ベ リ ア を東 西 に分 け 、 ト ボ リ ス ク に 西 シ ベ リ ア総 督 府 、 イ ルク ー ツ ク に東 シ ベ リ ア総 督 府
管 区 や市 に は そ れ ぞ れ 管 区 本 部 、 市 本 部 が お か れ た。 ま た そ れ ぞ れ の総 本 部 の 一機 関 で あ る会 議 は 、 た と え ば 総
わ ち 総 督 府 の属 す る 元 老 院 に そ の見 解 を 提 出 す る権 利 を も って い た。
督 府 の場 合 を見 る と 、 総 督 に属 す る諮 問 機 関 で あ る が 総 督 の意 見 を採 択 す る こと も却 下 す る こと も で き た 。 す な
﹁シ ベ リ ア諸 県 統 治 制 度 ﹂ は 明 ら か に 、 会 議 を 設 置 す る こ と を 通 じ て総 督 や知 事 な ど の 個 人 的 権 限 を制 限 し よ
ス キ ー の考 え た よ う な 〝世 論 〟 の機 関 で は な く 、ふ つう の官 僚 的 機 関 に転 化 し た か ら で あ る﹂。(前 掲 書 一六 七 頁 )
う と し た も の で あ った 。 し か し 実 際 に は ﹁こ のと お り に は な ら な か った 。 と いう の は 、 これ ら の会 議 は ス ペ ラ ン
つぎ に、 同 時 に 発 布 さ れ た ﹁異 民 族 統 治 規 定 ﹂ が あ る。 こ の規 定 に よ って シ ベ リ ア の原 住 民 は 定 住 、 遊 牧 、 漂
リ ヤ ー ト 人 、 カ チ ン人 な ど )、 ﹁南 方 牧 畜 民 お よ び 事
業
民 ﹂ (サ ガ イ 人 な ど )、 ﹁北 方 牧 畜 民 お よ び事
業
民﹂
泊 の 三系 列 に 区 分 さ れ た 。 定 住 民 に は 都 市 お よ び 村 落 に住 む 者 が 数 え ら れ 、遊 牧 民 の系 列 に は ﹁遊 牧 農 耕 民 ﹂(ブ
が 属 せ し め ら れ 、 漂 泊 民 は ﹁川 およ び 自 然 境 に 沿 い 一地点 よ り 他 へと 移 動 す る者 ﹂ と さ れ た 。 こ れ に は ネ ネ ツ人 、
コリ ヤ ー ク 人 、 ユカ ギ ー ル人 、 ラ ム ー ト 人 な ど が含 ま れ た が 、 こ の規 定 は は な は だ 曖 昧 な も の で あ った 。 ﹁遊 牧 異
民 族 ﹂ は身 分 と し て は農 民 に比 肩 せ し め ら れ た が、 ﹁そ れ ぞ れ の種 族 に特 徴 的 な ステ ップ の法 律 お よ び慣 習 ﹂ に
よ って統 治 さ れ た 。 異 民 族 は ヤ サ ク そ の他 税 金 を納 め 、 公 の義 務 を履 行 し た が 、 カ ザ ク の身 分 に加 え ら れ た者 を
老 お よ び 一︱ 二
除 い て兵 役 義 務 を 負 わ な か った 。 ロシ ア人 が遊 牧 民 に割 当 て た 土 地 に 住 み つく こと 、 お よ び官 吏 が 売 買 を な す こ と が禁 止さ れた。
ス テ ップ 統 治 機 関 は つぎ の と お り で あ る。 一五 家 族 以 上 を数 え る 宿 営 地 ま た は ウ ル ス は 、 長
代 、書 記 よ り
な る異 民 族 公 署 に 属 し て いた 。 こ の両 機 関 は ロシ ア官 憲 (地 区 警 察 ) に直 接 に つな が り 、 裁 判 権 を も ち 、 当 局
名 の補 佐 役 よ り な る 氏 族 統 治 部 を有 し 、 一氏 族 に属 す る数 個 の ウ ル スま た は宿 営 地 は頭 領 、 総
族
長 、 同 補 佐 よ り な る ス テ ップ 議 会 で あ り 、 そ の機 能 は 人 口調 査 、 税 の賦 課 、
の命 令 の徹 底 な ら び に遂 行 、 ヤサ ク割 当 て およ び納 入 義 務 履 行 、 滞 納 の徴 収 な ど を そ の機 能 と し た。 ﹁遊 牧 異 民 族 ﹂ の最 高 の統 治 機 関 は総
農 耕 の普 及 と 諸 産 業 の奨 励 な ど で あ った。 ステ ップ 議 会 の財 政 が な に に よ る か は 明 確 な規 定 は な く 、 ﹁遊 牧 民 内
部 の税 金 ﹂ に よ って ま か な わ れ た 。 税 金 の種 類 に は こう し て 、 国 税 、 地 区 税 、 氏 族 内 部 税 の 三種 類 と な った 。 ヤ
サ ク額 は た と え ば 遊 牧 に属 す る ヤク ー ト管 区 の場 合 (男 子 人 口 四 九 、 四 八 〇 ) で、 一八 二 八 年 の新 賦 課 に よ って 、 七 〇 、 四 七 〇 ル ーブ リ (四 三 、 六 七 五 ル ー ブ リ の増 加 ) と な った 。
こ の規 定 は異 民 族 統 治 機 関 の 一部 の役 職 に つ いて 選 挙 制 を導 入 し た 点 で重 要 な意 義 が あ る が 、 全 体 と し て は い
わ ゆ る ﹁ス テ ップ 貴 族 ﹂ に 立脚 し 、 彼 ら の身 は 完 全 に保 持 さ れ た 。 同 族 内 に お い て、 公 侯 、 ノ ヨ ン、 タ イ シ ャ、 ザ イ ザ ンな ど の階 級 は ツ ァ ー リ ズ ム政 策 の 先 導 者 と し て の役 割 を は た し た。
定 住 民 に つ い て見 ると 、 彼 ら は 都 市 に お い て は 町 人 、 村 落 に お い て は 農 民 で あ った 。 彼 ら は兵 役 義 務 か ら は 除
外 さ れ た が 、ロ シ ア 人 の身 分 と 同 じ いく つか の特 権 を付 与 さ れ て いた 。 定 住 の方 が よ り 安 定 し た 生 活 と さ れ て 、新
ら た に定 住 民 の身 分 に編 入 さ せ ら れ た も の も 少 な く な か った が 、 税 金 は 以 前 に比 べ て 一般 に重 く な った 。 た と え
ば 一八 二 四年 ま で は 一人 当 り 一ルー ブ リ 五 〇 カ ペ イ カ で あ った の が 、 定 住 民 に編 入 さ れ て 以 後 は 一人当 り 一 一ル
一二 七 、 八 一九 ル ー ブ リ であ る も の が 、 一、 三 五 九 、 八 四 五 ル ー ブ リ に ふ く れ 上 った 。 原 住 民 は こ の う ち 七 三 五 、
ー ブ リ 課 税 さ れ た 。 こ の結 果 、 ト ボ リ ス ク の異 民 族 に つ いて 一八 二四 ︱ 三 二 年 間 の課 税 額 は 、 以 前 の規 準 な ら ば
三 九 七 ルー ブ リ を 支 払 い、 六 二 四 、 六 四 八 ル ー ブ リ は滞 納 金 と し て残 った 。 ﹁他 の定 住 異 民 族 も同 じ よ う な 状 態
い方 法 で追 及 さ れ た 。﹂ (ヤ ド リ ン ツ ェ フ ﹃植 民 地 と し て の シ ベ リ ア﹄ 一七 〇 ︱ 一七 一頁 ) 役 人 や 原 住 民 内 部 の特
に あ った 。 ⋮ ⋮ 巨 額 に の ぼ る滞 納 金 は 一般 に、 異 民 族 の財 産 の売 却 、 事 業 家 への労 働 力 提 供 な ど も っと も仮 借 な
権 階 級 の汚 職 や 横 領 も依 然 と し て後 を 断 た な か った 。 原 住 民 の 生 活 は窮 乏 し 、 た と え ば パ ン の代 金 も払 い切 れ ず 、
ベ リ ョゾ ボ 地 方 で 一八 五 〇 年 の パ ン代 未 払 金 は 一二 、 九 四 七 ル ーブ リ で あ った。 し か も 下 級 役 人 が巧 妙 な手 口 で
パ ン代 を 二倍 に も つ り上 げ 、 こ れ を 原 住 民 に押 し つけ る こと も ま れ で は な か った 。
一八 二 二年 発 布 の シ ベ リ ア 法 規 に は、 こ の ほ か ﹁キ ルギ ス ・カ イ サ ク人 の統 治 に つ いて ﹂、 ﹁流 刑 人 に つ い て﹂、
﹁駅 逓 に つ い て﹂、 ﹁陸 路 交 通 に つ い て﹂、 ﹁都 市 カ ザ ク に つ いて ﹂ が含 ま れ 、 ま た ﹁地 区 義 務 規 定 ﹂、﹁官 営 穀 物 貯
蔵 に つ い て﹂、 ﹁農 民 と 異 民 族 と の あ い だ の債 務 義 務 に つ い て﹂ な ど の規 定 が 入 って いた 。
一八 二 二年 の こ の法 規 は整 然 た る体 系 を な し て い る反 面 、 作 為 的 にす ぎ る面 が 指 摘 さ れ る 。 た と え ば 定 住 、 遊
牧 、 漂 泊 と いう 分 類 に し て も 、 一定 の秩 序 な し に漂 泊 す る種 族 は な か った か ら 、 こ の分 類 は 妥 当 と は いえ な い。
ま た さ ま ざ ま な異 民 族 保 護 規 定 も 、 そ の裏 づ け が足 り な い た め に、 実 際 面 で は ほ と ん ど 破 綻 を き た し た 。 こ の法
規 は欧 米 諸 国 に は類 を見 な い独 自 な も のを 含 ん で は い る が 、 結 局 そ の精 神 は 十 分 に生 か さ れ な か った 。 ﹁シベ リ
ア の歴 史 に は 二 つ の段 階 が あ る の み で あ る、 す な わ ち エ ル マク か ら ペ ステ リ への段 階 と スペ ラ ン スキ ー から 二 十
世 紀 ま で の段 階 で あ る﹂ と エ ス ・ウ ワ ロ フ が の べ て い る に も か か わ ら ず 、﹁現 地 の行 政 は改 善 さ れ ず 、以 前 と 変 り
な か った。 一八 二 七年 に は す で に、 積 も り積 も った 西 シ ベ リ ア で の職 権 濫 用 は 新 ら た な検 察 を よ ん だ 。﹂ (ヤ ド リ ン ツ ェ フ前 掲 書 五 二 二 頁 )
シベ リ ァ行 政 の そ の後 の改 革 は、 一八 八 二年 に 行 な わ れ 、 西 シベ リ ア総 督 府 は廃 止 さ れ て 一般 の県 扱 いと な り 、
ロ シ ア領 ア ジ ア に は こ れ ま で の二 総 督 府 に か わ って 四総 督 府 が出 現 し た 。 イ ル ク ー ツ ク、 エ ニ セ イ ス ク、 ヤ ク ー
ツク な ど の州 を も って イ ル ク ー ツ ク 総 督 府 、 ア ム ー ル、 沿 海 州 、 ザ バ イ カ ルな ど の州 を も って ア ムー ル総 督 府 、 そ れ に ス テ ップ 総 督 府 お よ び ト ル ケ ス タ ン総 督 府 で あ る。
で き る。 こ の言 葉 の内 容 は時 代 と と も に若 干 変 化 し て お り 、 ま た 流 刑 の中 に 徒 刑 を 含 め
こ の場 合 の流 刑 と いう 言 葉 は ロ シア語 の ス スィ ルカ の訳 語 で あ る が 、 追 放 と 訳 す こと も
第 八章 シベ リ アと 流 刑
シ ベリア流 刑 の推移 る 人 も いる し 、 流 刑 と 徒 刑 と を 明 確 に 使 い分 け る 場 合 も み ら れ る 。
有 名 な シ ベ リ ア 学 者 ヤ ド リ ン ツ ェフ は 一八 九 二年 に つぎ の よ う に書 い て い る。 ﹁ほ ん の最 近 ま で シ ベ リ ア と い
う 概 念 は か な ら ず 流 刑 地 の概 念 と 結 び つ い て お り 、 そ れ 以 上 のも の で は な か った 。 今 日ま で ロシ ア社 会 に 残 って
い る こ の誤 解 は 、 シ ベ リ ア に と って不 利 で あ り 、 そ の発 展 の障 害 と な って い る 。 こ の地 は 犯 罪 者 のた ま り 場 では
な い。 こ こに は す で に か な り 以 前 か ら 十 分 に 形 成 を 終 った 一般 市 民 が住 み 、 一切 の権 利 を 享 有 す る公 民 が住 む こ
と を ロシ ア 大 衆 に知 ら せ る た め に は 、 非 常 な 努 力 を 必要 と し た 。 流 刑 は こ の 地 の市 民 生 活 に お い て、 ず っと 以 前
か ら す で に第 二 義 的 な も のと な り 、 利 益 よ り は害 の 方 が 多 い の で あ る 。﹂ (﹃植 民 地 と し て の シ ベ リ ア﹄ 二四 三 頁)
こ の シ ベ リ ア流 刑 は 一般 に 一五 九 三年 、 イ ワ ン雷 帝 の 王 子 ド ミ ト リ ー を 殺 し た国 事 犯 と し て ウ グ リ チ の住 人 が
ペ ル ム に流 さ れ た こと に は じ ま る と さ れ て い る。 そ れ か ら 約 十 年 後 の 一六 〇 七 年 、 ロ マノ フ王 朝 の開 祖 で あ る ロ
マノ フが ボ リ ス ・ゴ ド ゥ ノ フ帝 毒 殺 未 遂 の罪 で同 じ く ペ ル ム県 に流 さ れ る が、 や が て 偽 ド ミト リ ー の時 に許 さ れ
て モ スク ワ へ帰 って い る。 そ の後 シ ベ リ ア流 刑 は し だ い に数 を増 し 、 十 七 世 紀 中 ご ろ に は俗 に チ ェル カ スと 称 さ
れ た ウ ク ライ ナ 人 が 農 耕 要 員 と し て シ ベ リ ア へ流 さ れ た 。 一六 四 九 年 の ソ ボ ル法 典 に よ って は じ め て シ ベ リ ア流
刑 が法 制 化 さ れ 、 一六 五 三年 に は 強 盗 な ど の犯 罪 に た いし て死 刑 の か わ り に シ ベ リ ア流 刑 が適 用 さ れ る勅 令 が 公
お う と し た 罪 で バ イ カ ル湖 に 近 い セ レ ンギ ン ス キ ー ・オ スト ログ へ流 さ れ、 恐 ろ し い独 房 に 入 れ ら れ た 。 オ スト
布 さ れ た 。 一六 七 三 年 ウ ク ラ イ ナ の カザ ク首 領 デ ミ ヤ ン ・ム ノ ゴ グ レ シ ヌイ は 、 ロ シ ア か ら 分 離 し て ト ル コに従
ログ と いう の は、 は じ め は敵 の攻 撃 を防 ぐ た め に 先端 を 尖 ら し 他 端 を 地 中 に埋 め た 丸 太 の柵 を 意 味 し た が 、 後 に
は こう し た 柵 が監 獄 の ま わ り に つく ら れ た こ と か ら 監 獄 そ の も の を も 意 味 す る よ う に な った も ので あ る 。 た と え
ば 分 離 派 の巨 頭 ア ワ ク ム司 祭 長 は 、 一六 五 三年 シ ベ リ ア の ア ルバ ジ ン スキ ー ・オ ス ト ログ へ流 さ れ 、 七 〇 年 代 か
ら 分 離 派 の信 徒 が大 量 に シ ベ リ ア に流 さ れ た 。 が彼 ら は 、 た と え ば ヤ ク ー チ ヤ 地 方 のよ う に ヤ ク ート 人 と 一緒 に
な って都 督 の 圧 制 に 抗 し て反 乱 を 起 し て いる (一六 八 二 年 )。 ピ ョート ル 一世 の治 世 に は シ ベ リ ア流 刑 に な る 分
離 派 の数 は さ ら に 増 加 し 、 オ ホ ー ツ ク や ヤ ク ー ツ ク は と く に多 か った 。 一七 二 二年 ピ ョー ト ル 一世 は 分 離 派 の シ ベ リ ア流 刑 を 中 断 す る勅 令 を 発 布 し た 。
十 七 世 紀 末 以 後 強 力 な 専 制 君 主 制 を し て いた ピ ョー ト ル 一世 の 登場 と と も に 、 シ ベ リ ア へは 労 働 力 と し て の流
を ま か な う た め に 一七 二 二年 二月 十 日付 勅 令 を も って、 ロ シ ア本 国 で徒 刑 の刑 期 を終 った者 が妻 子 を連 れ て ネ ル
刑 人 が大 量 に 送 り こま れ た。 一七 〇 〇 年 に ネ ル チ ン スク 銀 山 が 開 発 さ れ、 北 方 戦 争 な ど の出 費 に よ る 財 政 的 困 難
チ ン ス ク鉱 山 に 送 り こま れ た 。
シ ベ リ ア流 刑 史 にお け る 画 期 的 な 出 来 事 は 、 一七 六〇 年 、 農 奴 的 農 民 を シベ リ ア へ流 刑 に す る権 利 を 地 主 に あ
た え た 勅 令 で あ る。 一七 六 五 年 エカ チ ェリ ー ナ 二 世 は こ の権 利 を さ ら に拡 大 し 、 地主 は そ の農 奴 の ﹁不 ら ち な 振
舞 い﹂ に た いし て、 い つで も よ び も ど す こと の でき る権 利 を 留 保 し た ま ま 、 自 分 の適 当 と 考 え る期 間 徒 刑 に処 す
る こと ので き る 権 利 を 地 主 にあ た え た。 法 律 は こ の権 利 に つ い て、 被 徒 刑 者 が 四 十 五歳 未 満 で あ り 、 軍 務 に耐 え
ら れ る男 子 で あ る こ と を 条 件 と し て い た。 こ の場 合 地 主 は 、 徒 刑 者 ひ と り に つ い て 一名 の新 兵 補 充 義 務 を 免 除 さ
れ た た め に 、 病 人 や不 具 、 老 令 者 を 徒 刑 に送 り こ み 、 健 康 で働 ら く 能 力 の あ る農 奴 を 手 許 に残 す と いう 方 法 を と
った。 地 主 が そ の農 奴 的 農 民 を シ ベ リ ア流 刑 に でき る 権 利 は 、 短 期 間 停 止 さ れ た こと も あ った が、 ア レ ク サ ンド
ル 一世 ま で つ づ いた 。 シ ベ リ ア総 督 チ チ ェリ ン の報 告 に よ る と 、 一七 七 一年 の 一年 間 流 刑 に さ れ た 農 奴 の数 は 六 、
〇 〇 〇 、 六 八 年 か ら 七 二 年 ま で四 年 間 の総 計 は 二〇 、 五 一五 名 に 及 ん で い る 。 (ゲ ル ネ ト ﹃ツ ァー リ 監 獄 史 ﹄ 第 一巻 六 五 頁 )
ピ ョート ル 一世 以 後 、 た び た び の宮 廷 変 革 に よ って 、 た と え ば メ ン シ コ フ のよ う な 高 官 が失 脚 し て多 数 流 さ れ
た が、 一七 九 〇 年 に は反 体 制 的 思 想 家 ラ ジ シ チ ェフ が そ の著 ﹃ペ テ ルブ ルグ か ら モ ス ク ワ へ の旅 ﹄ に よ って シ ベ
リ ア へ流 さ れ る。 ラジ シ チ ェ フ の流 刑 は 専 制 政 治 の根 底 を 揺 が す 革 命 的 政 治 犯 の大 量 流 刑 の は じ ま り を 意 味 し 、
一九 一七 年 の ロシ ア革 命 ま でデ カブ リ スト 、 ペ ト ラ シ ェフ スキ ー事 件 の参 加 者 (こ の中 に ド スト エフ ス キ ー も 含
ま れ る )、 チ ェ ル ヌイ シ ェフ スキ ー、 ナ ロー ド ニ キ、 マル ク ス主 義 者 な ど 世 代 か ら 世 代 へつづ け ら れ る の で あ る 。
ポ ー ラ ン ド 人 の 単 調 な シ ベリ ア の生 活 に遠 い ヨー ロ ッパ の こ と を つた え た も の と し て 、 数 的 に は そ う 多 く は シ ベ リ ア 流 刑 な いが 、 流 刑 ポ ー ラ ンド 人 の役 割 は 重 要 で あ る。 ポ ー ラ ンド 人 と し て シ ベ リ ア に最 初 に出 現
つま り ヤ ン ・ソ ベ ッス キ ー の時 代 に属 す る 一豪 傑 で 、 ハバ ロ フ、 ア ト ラ ソ フ、 ポ ヤ ル コフ ら 最 初 の シ ベ リ ア踏 破
す る名 前 は ニキ フ ォ ル ・チ ェ ル ニゴ フ ス キ ー と いう 人 物 で あ る 。 こ れ は ポ ー ラ ンド 史 上 の光 栄 あ る戦 士 の時 代 、
者 た ち と 名 前 を つら ね て い る 。 彼 が ど う し て シ ベ リ ア奥 地 に流 さ れ た か は 不 明 で あ る が 、 いず れ に し て も 美 貌 の
妻 と と も に レナ 川 岸 ウ スチ ク ー ト柵 の製塩 所 管 理 人 を つ と め て い た。
一六 六 五 年 ご ろ イ リ ム スキ ー の都 督 オ ブ ー ホ ー フは ウ スチ ク ー ト の柵を 訪 れ た 。 彼は 強 大 な 都 督 の権 力を 笠 に
き て、 チ ェ ル ニゴ フ ス キ ー の妻 に横 恋 慕 し 、 つ いに レ ナ 川 岸 で 思 いを 遂 げ た 。 チ ェ ル ニゴ フ ス キ ーは 都 督 に復 讐
す べ く 同 僚を 集 め て こ れ を 攻 め 、 都 督 を 殺 し 、 ア ム ー ル川 流 域 に あ る 旧 ア ルバ ジ ン城址 に 逃 げ こ ん だ。 こ こで 彼
は原 住 民 か ら 、 ヤ サ ク を 集 め てネ ル チ ン ス ク の都 督 や モ スク ワ へ貢 納 し た 。 モ スク ワ か ら は は じ め 彼 に 死 刑 が 宣
告 さ れ た が 、 後 そ の恭 順 の態 度 が認 め ら れ て許 さ れ 、 一六 八 一年 同 僚 と と も に ポ ク ロ フ ス キ ー村 と いう 自 由 村 落
を つく っ て農 耕 に 従 事 し た。 そ の後 彼 の名 は ま った く 暗 に消 え て、 そ の消 息 は 不 明 で あ る。
そ の後 十 七 世紀 後 半 以 後 、 ポ ー ラ ンド と ロ シア と 度 重 な る 戦 争 で ポ ラ ー ンド 人 捕 虜 が多 数 シ ベ リ ア に 送 ら れ た
エーデ ン人 捕 虜 も 少 数 な が ら シ ベ リ ア に姿 を あ ら わ し た 。
が 、 な か に は 帰 還 が許 さ れ て も シ ベ リ ア に 留 ま る も のも 少 な く な か った。 一七 〇 九 年 ポ ル タ ワ の戦 いで 敗 れ た ス
十 八 世 紀 後 半 に は第 一次 、 第 二次 、 第 三 次 ポ ー ラ ンド 分 割 と ポ ー ラ ンド 独 立 運 動 に関 連 し て ポ ー ラ ンド人 の シ
ベ リ ア流 刑 が相 つ いだ が 、 そ のな か で モリ ツ ・ア ウ グ スト ・ベ ネ フ ス キ ー と いう 波 瀾 万 丈 の冒 険 主 義 者 の名 前 は 、
当 時 の 西 欧 世 界 に ひ ろ く シ ベ リ ア流 刑 の話 題 を 提 供 し た 。 日本 で も ベ ンゴ ロー の名 で知 ら れ て い る 。 (末松 保 和
﹃近 世 に お け る 北 方 問 題 の進 展 ﹄ 一一五 頁 ) 一七 六 九 年 に彼 は 他 の ロシ ア 人 流 刑 囚 と と も に ペ テ ルブ ルグ か ら 一
彼 は こ の地 のボ リ シ ェレ ツ ク と いう 町 で 、 ニ ー ロ フ大 尉 と い う 守 備 隊 長 (隊 員 七 〇 名 ) の管 轄 下 に は い る が 、 隊
年 半 か か って カ ム チ ャ ツ カ に 護 送 さ れ た 。 当 時 カ ム チ ャ ツ カ は も っと も 危 険 な政 治 犯 の流 刑 地 と考 え ら れ て いた 。
長 に う ま く と り 入 り、 そ の息 子 に 外 国 語 を教 え る よ う に な った 。 こ こ で彼 は、 一七 六 三 年 に こ の地 へ流 さ れ た ピ
ョー ト ル ・フ ル シ チ ョフ と いう 有 能 な ロシ ア 人 の元 大 尉 と 知 り 合 い、 陰 謀 を も って守 備 隊 長 を殺 し 、 官 船 を 略 奪
紀前 半)
し て 一七 七 一年 五 月 カ ム チ ャ ツ カ を 出 帆 し た 。 彼 と そ の共 謀 者 は 千 島 列 島 を 経
て 日本 の琉 球 大 島 に七 月 八 日 から 十 二 日 ま で寄 港 し 、 マ カ オ に出 て、 や が て 一
七 七 二 年 生 存 者 は仏 領 イ ル ・デ ・フ ラ ン ス島 に 到 着 し た 。 そ の後 ベ ネ フ スキ ー
は 一七 八 六年 マダ ガ ス カ ル島 で非 業 の死 を と げ る が 、 生 存 者 の 一部 は フ ラ ン ス
な ど で軍 人 と し て 採 用 さ れ、 数 名 は ロ シ ア へ帰 った 。 エカ チ ェリ ー ナ 二世 は 、
ロシ ア に帰 った 者 には 特 に シ ベ リ ア で自 由 民 と し て住 め る よう は か ら った 。
た こ の 噂 が全 シ ベ リ ア に ひ ろ が って 、 ﹁ネ ルチ ン スク 鉱 山 に いた ポ ー ラ ン ド 貴
こ の逃 亡 の成 功 に よ って、 カ ムチ ャツ カ は最 良 の流 刑 地 で は な く な った。 ま
族 党 員 ら は こ の先 例 に な ら う こと に決 し た ﹂。 (マク シ モ フ ﹃シ ベ リ ア と 徒 刑 ﹄
三 三 七 頁 ) し か し 大 事 決 行 の前 に エカ チ ェリ ー ナ 二世 が 没 し て新 帝 が即 位 し 、 大 赦 に よ って 故 郷 に帰 る こ と が で き た 。
そ の後 一八 六 三年 ポ ー ラ ンド で は げ し い独 立 運 動 が 起 った が 、 結 局 ア レ クサ
流 刑 囚 の 実 状 ロ シ ア本 国 の シ ベ リ ア観 も 時 代 と と も に変 遷 し た 。 ﹁は じ め は 毛 皮 獣 の植 民 地 と 考 え ら れ、 そ
ノ フ ス キ ー な ど シ ベ リ ア の自 然 研 究 で 不 朽 の業 績 を 残 し た 人 び と が 含 ま れ て い る。
た デ ィ ボ フ ス キ ー を は じ め、 現 在 シ ベ リ ア の 一山 脈 に そ の名 を 残 す 地 理 学 者 の チ ェル スキー 、 生 物 学 者 の チ ェカ
ら れ て い る。 こ の 時 の ポ ー ラ ンド 流 刑 囚 の中 に は、 シ ベ リ ア で の生 活 で バ イ カ ル湖 の生 物 学 的 研 究 の基 礎 を お い
こ ま れ た 。 こ の独 立 運 動 に義 勇 軍 と し て参 加 し た 少 数 の フラ ン ス人 や イ タ リ ア人 も 、 徒 刑 囚 と し て シ ベ リ ア に送
ン ド ル二 世 の ロシ ア に弾 圧 さ れ 、 一八 六 六 年 末 ま で に 一八 、 六 二 三 人 (同 行 し た 家 族 を 含 む) が シ ベ リ ア へ送 り
徒刑 因 のシベ リア護送(19世
ル ネ ト 『ツ ァ ー リ監 獄 史 』49頁 資 料:ゲ
の後 十 八 世 紀 初 頭 か ら は鉱 山 業 の植 民 地 と し て 見 ら れ 、 そ の後 懲 罰 的 植 民 地 に 変 り、
や が て農 業 植 民 地 と な り 、 つ い に ア ジ ア と の貿 易 と いう 要 素 が含 め ら れ る と い った具
合 で あ る 。﹂ (ヤド リ ン ツ ェフ ﹃植 民 地 と し て の シ ベ リ ア﹄ 四 八 九 頁 )
シ ベ リ ア が罪 人 の流 刑 地 と し て法 制 的 にも っと も 整 備 さ れ た の は 十 九 世 紀 に 入 って
か ら で あ る。 こと に 一八 四 五年 の刑 法 ま で は 、 シ ベ リ ア流 刑 は 一時 監 獄 収 容 者 数 を は
る か に凌 駕 し て いた 。 す な わ ち ニ コラ イ 一世 治 下 の 一八 三 二 年 に ﹁要 看 視 者 お よ び 流
刑 囚 に か ん す る法 令 集 ﹂ が 公 布 さ れ 、 三 九 年 に は 、 エ カ チ ェリ ー ナ 二 世 の ころ か ら す
で に流 刑 囚 で 編 成 さ れ て いた 一部 国 境 守 備 隊 を さ ら に 拡 大 再 編 し て 囚 人 中 隊 が つく ら
れ た 。 こ れ の法 令 化 さ れ た 四 二年 ま で に は 欧 露 、 シ ベ リ ア を 通 じ て 三 三 の都 市 に 囚 人 中隊 が配置 された。
処 罰 の種 類 と し て は 一八 四 七 年 以後 は 強 制 移 住 の ほ か に も う ひ と つ の移 住 措 置 (ス
スィ ル カ ・ナ ・ジー チ ェリ ス ト ボ )、 囚 人 中 隊 、 軍 務 、 監 禁 な ど が加 え ら れ た 。 上 表
中 の ﹁労 働 の家 ﹂ と いう の は窃 盗 犯 な ど が 盗 ん だ金 額 ま た は 罰 金 を 支 払 え な い と き 、 そ の金 額 に 達 す る ま で労 働 す る 施 設 で あ る 。
十 九 世 紀 に 入 って か ら シ ベ リ ア流 刑 囚 の数 は か な り 明 ら か に さ れ てき た が 、 一八 二
人 に激 増 し た 。 こ の原 因 は 、 そ の当 時 監 獄 に収 容 さ れ た 囚 人 を 一掃 し 、 浮 浪 者 な ど
三年 ま で は 毎 年 総 数 約 二千 人 で あ った も の が 、 一八 二 四 ︱ 二 七 年 に は 毎 年 一一、〇〇〇
を 大 量 に シ ベリ ア流 刑 に処 し た か ら で あ る 。 も と ト ボ リ ス ク に あ った 流 刑 囚 管 理 局
ド リン ツ ェ フ 『植 民 地 と し て の シベ リア 』246頁
(後 に チ ュメ ニに移 転 ) の調 査 に よ る と 、 一八 二 三 年 以 後 一〇 年 ご と の
流 刑 囚 数 は 別 表 のと お り で あ る。 こ の数 字 は ロシ ア史 の 一側 面 を示 す も のと し て重 要 で あ る 。
に 大 別 さ れ た が、 六 七 ︱ 七 六 年 の 一〇 年 間 の統 計 で 見 る と 、後 者 が 前 者
こう し た 流 刑 は 裁 判 に よ る も の と 、 裁 判 な し の行 政 的 措 置 に よ る も の
よ り多 数 を占 め て い る こと は注 目 さ れ る 。 す な わ ち こ の 一〇 年 間 、 徒 刑
囚 が 一八 、 五 八 二 、 強 制 移 住 二 八 、 三 八 二 、 開 拓移 住 二 三 、 三 八 三 、 移
住 措 置 二 、 五 五 一、 行 政 的 流 刑 七 八 、 六 八 六 、 合 計 一五 一、 五 八 四 と な
シ ベ リ ア の 一般 住 民 と 流 刑 囚 と の数 的 比 較 に つ い て は イ ル ク ー ツ ク県 に お け る 一八 七 三 年 の調 査 が あ る。 これ
適 す る条 件 を欠 い て い た 。 し た が って シ ベ リ ア の 一般 住 民 の生 活 に あ って、 流 刑 囚 は 重 大 な 負 担 と な って いた 。
れ た 廃 人 同 様 の者 が少 な く な か った 。 し か も 女 囚 の数 は 男 囚 の約 十 分 の 一、 そ の上 こ れ ら の女 囚 の多 く は結 婚 に
流 刑 囚 は多 く の場 合 精 神 的 、 肉 体 的 な 欠 陥 を も ち 、 長 い道 中 の疲 労 と 流 刑 地 に お け る 生 活 の苦 難 に う ち ひ し が
(﹃植 民 地 と し て の シ ベ リ ア﹄ 二 五 〇 頁 )
リ ア を 通 じ て 同 じ で あ り 、 ヤ ド リ ン ツ ェフ は総 数 の 三 分 の 一ま た は 五 分 の 一の不 明 者 が 出 る と 指 摘 し て い る 。
刑 囚 が 、 実 際 に は 三 四 、 二 九 三 名 を 数 え る だ け で 、 不 足 数 一六 、 八 二 九 名 に 達 し て いる 。 こう し た 現 象 は 全 シ ベ
な く な い で あ ろ う 。 た と え ば ト ボ リ スク 府 で 一八 七 五年 の 調 査 に よ る と 、 帳 簿 上 は 五 一、 一 二二 名 い る はず の流
多 く 、 送 り こま れ た 数 と 現 地 で の 登 録 数 と は つ ね に か な り く い違 って いた 。 な か に は 野 た れ死 に な った も の〓 少
っ て い る 。 し かし な が ら 、 流 刑 囚 が シ ベ リ ア ま で 送 り こま れ て か ら 、 逃 亡 し て ふ た た び 浮 浪 者 の仲 間 に 入 る者 が
資 料:ヤ
に よ る と管 区 に よ って差 は あ る が 、 イ ル ク ー ツ ク管 区 の場 合 で 一般 住 民 一〇 〇 に つき 流 刑 囚 男 子 一五 ・三 % 、 女 囚 は 四 ・七 % で あ った 。 他 の管 区 の場 合 も ほ ぼ大 同 小 異 で あ る。
流 刑 囚 の 護 送 は シ ベ リ ア の主 要 街 道 を 避 け て行 な わ れ た が 、 そ れ で も シ ベ リ ア の ひ と つ の重 苦 し い景 観 を な し
て い た 。 一八 七 五 年 (明 治 八 ) シ ベ リ ア を旅 行 し た 榎 本 武 揚 は ﹁兵 隊 、 罪 人 男 女 ヲ護 リ 来 ル ヲ見 ル﹂ と 記 し て い
る。 ( ﹃シ ベ リ ア 日 記 ﹄ 六 九 頁 ) 流 刑 囚 の な か で も 徒 刑 囚 の場 合 は 両 足 に そ れ ぞ れ 五 フ ント (二 キ ロ) の足 枷 を つ
け 、 強 制 移 住 囚 の場 合 は 三 ︱ 五 人 が鉄 鎖 で珠 数 つ な ぎ に さ れ て い た。 一八 四 六︱ 六 三 年 に は 、 顔 面 に K A T (徒 刑 ) と いう 文 字 が 焼 き つけ ら れ た 。
こ れ に関 連 し て想 起 さ れ る の は 、 第 二 次 世 界 大 戦 後 の ソ連 映 画 で 、 日本 で も 広 く 上 映 さ れ た ﹁シ ベ リ ア物 語 ﹂ に 出 てく る 徒 刑 囚 の 歌 で あ る。 そ れ は つぎ の よう な 歌 詞 で あ る。
シ ベ リ ア の野 に朝 や け が 燃 え そ め 霧 が タイガ の上 にひろ が るとき 監 獄 の庭 に足 枷 のひ び き が き こ え る 徒 刑 囚 の群 の出 か け る と き だ 。
カ ザ ク の老 下 士 官 が徒 刑 囚 を 数 え 軍 隊 式 に班 ご と に 整 列 さ せ る 向 う側 では男 ども が集 まり
背 嚢 を 荷 馬 車 に つ み こ ん で い る。
や が て 、 進 め ! と いう 号 令 が ひ び き 徒 刑 囚 は 日 暮 れ ま で 重 い足 ど り で 歩 む 彼 ら に は こ の先 も は や 、 楽 し い日 々は あ る ま い 足 枷 の音 が霧 の中 に悲 し く 呻 い て い る。
こ の歌 詞 に つ い て 若 干 の解 説 を 加 え て み よ う 。 第 一節 の監 獄 と いう のは 、 前 後 の文 脈 から 判 断 し て、 シ ベ リ ア
への街 道 に沿 って 囚 人 護 送 専 用 に建 て た エタ プ ま た は ポ ー ル ・ エ タプ と 称 さ れ る監 獄 を さ し て いる 。 流 刑 囚 は こ
こ で 休 ん だ り 、 宿 泊 し た り し た 。 ふ つう 二 〇 ︱ 四 〇 露 里 (キ ロ) に ひ と つず つ、 大 部 分 は流 刑 制 度 の確 立 し た 一
八 二 四︱ 三 〇 年 ご ろ に 建 てら れ 、 そ の後 ほ と ん ど 補 修 さ れ な い ま ま使 用 さ れ た。 囚 人 は 一カ月 に 五 〇 〇 露 里 (約
五 〇 〇 キ ロ) 移 動 す る こ と を 義 務 と さ れ た が、 病 気 に か か った り 、 春 秋 の雪 解 け や長 雨 な ど 悪 路 に 妨 げ ら れ た り
し て果 さ れ な い こ と も 多 か った 。 ト ボ リ ス ク、 チ ュメ ニな ど に は 囚 人 病 院 が あ った が、 常 時 満 員 で あ った と いう 。
つぎ に 第 二節 の老 下 士 官 で あ る。 約 二 〇 〇 ︱ 三〇 〇 名 の囚 人 の護 送 に は 隊 長 (将 校 ) の ほ か に 約 二 〇 名 前 後 の
看 視 兵 が つ け ら れ た 。 カザ ク 下 士 官 は ふ つ う 四 名 位 で 、 二、 三 日 毎 に 勤 務 を 交 替 し て 全 体 の指 揮 に当 る。 彼 ら の
と って 、 彼 ら に 物 乞 いを 許 し た り 、 タ バ コや パ ンを 高 く 売 り つけ た り 、 囚 人 の群 の後 に つ い て く る荷 馬 車 に の る
多 く は 囚 人 の護 送 を 任 務 と し 、 一団 を 護 送 し 終 れ ば ま た つぎ の 護 送 に出 向 く の であ る 。 看 視 兵 は 囚 人 か ら 賄 賂 を
こ と を 許 し た り す る 。 金 さ え 余 分 に 払 え ば 囚 人 が ウ ォト カ を 手 に入 れ る こと も で き た 。 囚 人 の 一団 に つ い て 浮 浪
者 風 の行 商 人 ま で同 行 す る こと も あ った 。 囚 人 た ち の あ い だ では ま た 一種 の協 同組 合 を つく る こと が行 な わ れ た 。
ふ つう 流 刑 囚 の護 送 は、 先 頭 に 足 枷 を つけ た 徒 刑 囚 、 中 央 に 四 人 ず つ手 を 鎖 で つ な い だ強 制 移 住 囚 、 そ の後 に
と いう 順 序 で あ る。 看 視 兵 は 四 方 に配 さ れ る 。
同 じ く 手 を 鎖 で つな い だ徒 刑 女 囚 、 最 後 尾 に荷 物 や 病 人 を つん だ 荷 馬 車 と シ ベ リ ア へ行 を と も に す る囚 人 の妻 子
第 三節 で は い よ いよ 出 発 の号 令 が ひ び いた わ け だ が 、 こ の時 ふ つう 太 鼓 が な り わ た る。 囚 人 た ち は 、 雨 が 降 れ
ば ぬ れ っぱ な し で つぎ の エ タプ (監 獄 ) ま で 、 蹴 ら れ た り 、 な ぐ ら れ た り し な がら 進 む ので あ る 。
り に ま れ 、 強 制 移 住 囚 は遠 い辺 地 へ 一︱ 二名 ず つ配 分 さ れ る。 徒 刑 囚 は 試 練 囚 、 悔 悟 囚 な ど の段 階 を経 て、 無 期
こう し て 一年 間 位 歩 い て、 いよ いよ 流 刑 地 に着 く 。 徒 刑 囚 は 金 山 や銀 山 、 製 塩 所 、 ウ ォト カ醸 造 工場 な ど へ送
徒 刑 囚 の場 合 で も 十 五 年 す れ ば 自 活 囚 と し て 共 同 宿 舎 の そば に 自 分 で家 を 建 て て住 む こ と が許 さ れ る 。 に の間 に
逃 亡 を し た り 、 不 従 順 な 振 舞 い が 多 け れ ば 非 悔 悟 囚 と な り 、 鉄 鎖 で つな が れ る 。 そ の度 合 が ひ ど く 、 絶 望 的 と 考
え ら れ た も の は矯 正 不 能 囚 と さ れ 、 同 じ く 鉄 鎖 で つな が れ 、 夜 間 も酷 使 さ れ 、 頭 髪 は頭 の半 分 だ け 剃 ら れ る。 非
悔 悟 囚 と 矯 正 不 能 囚 は 昼 間 の労 働 は 足 枷 を つけ て、 看 視 兵 の も と で 行 な わ れ た 。 (マク シ モ フ ﹃シ ベ リ アと 徒 刑 ﹄ 八八頁 )
で は な か った 。 ネ ル チ ン スク 監 獄 の場 合 は 逃 亡 囚 人 の逮 捕 の た め に ブ リ ヤ ー ト 人 が よ く 使 用 さ れ た が 、 彼 ら が 出
徒 刑 囚 は ど こ の監 獄 でも よ く 逃 亡 し た 。 そ れ も 一〇 人 や 二〇 人 で は な く 、 一〇 〇 人 以 上 が 逃 亡 す る こと も ま れ
向 く と そ のと き の逃 亡 数 以 上 の、 つま り 以 前 の逃 亡 者 ま で 捕 え ら れ てき た と いう 。 そ れ ほ ど ブ リ ヤ ー ト 人 は タイ
て いは 浮 浪 者 狩 り で 捕 え ら れ 、 再 び徒 刑 囚 に な る の で あ った 。 し か し逃 亡 者 は 後 を 断 たず 、 ネ ルチ ン スク 鉱 山 だ
ガ を わ が も のと し て い た の で あ る。 う ま く 逃 げ お お せ た 囚 人 は 浮 浪 者 と な って 、 人 目 を 避 け て 生 き のび た が 、 大
け で も 毎 年 逃 亡 者 数 が 三 〇 〇 ︱ 四 〇 〇 人 に達 し た 。 (ダ ニ レ フ ス キ ー ﹃ロ シ ア の金 ﹄ 三 一五 頁 )
強 制 移 住 囚 の運 命 も け っし て容 易 な も の で は な か った。 シ ベ リ ア に は ﹁強 制 移 住 囚 は 赤 ん坊 と 同 じ 、 見 る も の
は な ん で も 引 い て逃 げ る﹂ と いう 諺 言 が あ った と いう 。 強 制 移 住 囚 は 土 着 の人 び と か ら ポ セ リ シ クま は た ワ ル ナ
ハリ ン島 ﹄ に克 明 に描 か れ て い る 。 は じ め か ら 強 制 移 住 囚 と し て送 ら れ た 者 のほ か に 、 徒 刑 囚 の刑 期 が明 け て こ
クと よ ば れ て軽 蔑 さ れ た 。 十 九 世 紀 末 の樺 太 (サ ハリ ン) に お け る流 刑 囚 の状 態 に つ い て は 文 豪 チ ェ ホ フ の ﹃サ
の種 目 に昇 格 し た も の も あ る。 ﹁も し も刑 罰 の重 さ と いう も の を 労 働 や肉 体 的 消 耗 の量 に よ って計 る べ き も の と
す れ ば 、 サ ハリ ンで は し ば し ば 移 住 囚 の方 が徒 刑 囚 よ り も ひ ど い罰 を 負 って いる 。 新 地 域 と いう も のは た い て い、
泥 地 で、 森 林 に被 わ れ て い る も のだ が、 そ こ へ移 住 囚 は 大 工 斧 と 、 鋸 と 、 シ ャベ ル だ け を 携 え て あ ら わ れ る の で
あ る。 彼 は 森 林 を 伐 採 し た り 、 根 こぎ を や った り、 土 地 を 乾 燥 さ せ るた め に 掘 割 り を 掘 った り す る 。 そ し て こ の
予 備 工 事 の行 な わ れ て い る間 じ ゅう 、 露 天 で湿 地 に 暮 ら す の で あ る。﹂ (チ ェホ フ ﹃サ ハリ ン島 ﹄ 邦 訳 三 八 頁 )
結 局 食 う に困 って いく ら か の前 借 金 を も ら って金 鉱 山 な ど に や と わ れ る こ と も多 い。 し か し こ こ で金 を 貯 め る
こと は ほ と ん ど 皆 無 で、 つ ま り は債 務 奴 隷 的 関 係 に お ち い っ てし ま う の で あ った 。 そ れ に先 に も の べ た よ う に 、
彼 ら の多 く は 年 令 も す で に 三 十 歳 を す ぎ 肉 体 的 に疲 労 こ んぱ い の状 態 に あ った こと 、 ま た 女 囚 は少 な く 、 し か も
土 着 の ロシ ア人 は誰 も そ の娘 を 強 制 移 住 囚 の妻 に あ た え よ う と し な か った こと 、 一般 農 民 と ち が った さ ま ざ ま な
権 利 制 限 を う け て い た こと な ど に よ って 、 彼 ら が 一人 前 の農 民 と し て独 立 す る こと は、 欧 露 か ら 妻 子 が相 当 な 金 を も って つ い て き た 場 合 は別 と し て、 き わ め て困 難 であ った 。
は 生 活 でき ず 、 乞 食 を し て歩 く も のが 多 く 、 貧 苦 の ど ん 底 で 死 ん で い った 。 シ ベ リ ア で の犯 罪 者 や浮 浪 者 も ほ と
こう し て彼 ら は 、 十 九 世 紀 末 ご ろ に は年 に 一九 ル ーブ リ 一三 カ ペ イ カ の生 活 補 助 を 国 家 か ら受 け た が、 そ れ で
ん ど 彼 ら か ら 構 成 さ れ て い た。
十 九 世 紀 後 半 に な る と 、多 く の ロ シ ア の進 歩 的 学 者 は 当 時 の流 刑 制 度 の悪 を 指 摘 し て い る。 シ ベ リ ア の住 民 に
物 語 が ど う か 一日 も 早 く、 歴 史 的 意 義 を も つ伝 承 と 化 す る よ う に 、 ち ょう ど ア ワ ク ム司 祭 長 の受 難 が 伝 承 に な っ
と って だ け で な く 、 流 刑 囚 に と って も 救 い のな い事 態 で あ る こ と が 叫 ば れ た 。 ﹁護 送 監 獄 に か ん す る わ れ わ れ の
た よ う に﹂ (﹃シ ベ リ ア と 徒 刑 ﹄ 一 三九 頁 ) と マク シ モ フは書 き 、 ヤ ド リ ン ツ ェ フは ﹁シ ベ リ ア を 犯 罪 者 の流 刑 か
ら 解 放 し 、 自 由 な 植 民 の舞 台 と し て ひ ら く こ と は 全 シ ベ リ ア社 会 の福 祉 に役 立 ち 、 そ の市 民 の健 康 で 正 常 な 発 展 を 約 束 す る であ ろ う ﹂ と の べ て いる。 ( ﹃植 民 地 と し て の シベ リ ア﹄ 三 一七 頁 )
七万 の ロ シ ア人 と 七 、 四 〇 〇 の流 刑 人 が い た が、 一七 二 七 年 に は 男 子 だ け で総 数 一六
まず シ ベ リ ア の 人 口増 加 に つ い て み る と つぎ のと お り で あ る。 一六 二 二年 の調 査 で は
第 九章 シベ リ ア への自 由 移 民 と 産 業 の発 達
ロシア民衆 の自由 移住
九 、 八 六 八 、 一七 六 三年 に は 三 〇 六 、 二 四 六 、 一八 三 三年 に は八 二 六 、 〇 八〇 、 一八 五 〇 年 に は 九 一八 、 三 五 五
と な り、 一八 五 〇 年 の シ ベ リ ア総 人 口 、 つま り ロ シ ア人 と 原 住 民 の男 女 合 計 は 二、 一七 四 、 〇〇〇 に 達 し 、 そ の
う ち ロ シ ア 人 は 約 二 〇 〇 万 を数 え た 。 そ の後 十 九 世 紀 の後 半 に は ロシ ア に お け る農 奴 解 放 に よ って シ ベ リ ア移 民
が 急 増 し 、 一八 九 七 年 の ロ シ ア人 の人 口 は 四 九〇 万 に 達 し た 。 二 十 世 紀 に は い る と 政 府 の積 極 的 な 奨 励 策 も あ っ
て、 た と え ば 一九 〇 六︱ 一〇 年 の五年 間 に じ つ に 二 、 五 一六 、〇 七 五 人 の農 民 が シ ベ リ ア へ移 住 し た 。 一九 六 〇
に 増 加 し て い る。
年 現 在 の シベ リ ア ( 沿 海 州 を の ぞ く ) の総 人 口 が約 二 〇 〇 〇 万 で あ る か ら、 約 一〇 〇 年 の あ いだ に お よ そ 一〇 倍
移 住 民 は強 制 移 住 囚 と は ち が って 、 自 ら シ ベ リ ア に 自 由 の天 地 を 求 め て、 家 族 も ろ と も 未 墾 の荒 地 を開 拓 し た 。
十 九 世 紀 ま で は 、 ロ シア 本 国 に き び し い農 奴 制 が行 な わ れ て いた た め 、 農 奴 主 の圧 制 を の が れ て、 シ ベ リ ア へ逃 げ て く る も のも 後 を 絶 た な か った。
自 由 な 移 民 た ち が 当 時 シ ベ リ ア で 生 活 の根 を 下 ろ す こ と は 、 け っし て生 易 し い こ と で は な か った 。 馬 車 に荷 物
と 家 族 を つん で 、 シ ベ リ ア の悪 路 を 旅 す る の で あ る が 、 も ち ろ ん宿 に泊 る ほ ど の金 は な く 、 馬 車 の下 に も ぐ って
夜 を 明 か す 。 十 九 世 紀 末 の状 態 で、 欧 露 か ら 西 シ ベ リ ア ま で 荷 馬 車 で 到 着 す るた め に最 低 五〇 ︱ 一〇 〇 ル ーブ リ
を 要 し 、 あ る場 所 に 着 い て 小屋 でも 建 て る に は こ の ほ か に最 低 一〇 〇 ル ー ブ リを 必 要 と し た 。 当 時 、 ひ と り が 一
年 間 最 低 生 活 す る た め の費 用 は 約 五 〇 ル ー ブ リ で あ った 時 代 で あ る。 そ の つぎ に、 開 墾 し た 土 地 に種 子 を 蒔 い て
と も 五 〇 〇 ル ーブ リ に 達 し 、 相 当裕 福 な 農 民 でな け れ ば で き な い こと で あ った。 現 地 で移 民 登 録 を す れ ば 、 政 府
最 初 の収 穫 を 得 る ま で の生 活 資 金 も な く て は な ら な い。 こう し て、 移 民 が な ん と か自 立 で き る ま で の費 用 は少 く
﹁あ る老 農 民 が 二人 の息 子 と 一緒 に シベ リ ア で登 録 を 願 い出 た 。 登 録 が受 け つけ ら れ る ま で に、 息 子 の 一人 は 兵
か ら 若 干 の援 助 も 得 ら れ た が 、 こ の登 録 事 務 が ま た 汚 職 官 吏 の氾 濫 のな か で は ま った く 容 易 な こと で は な か った。
隊 へ、 も う 一人 は病 気 で 死 ん だ 。 や が て登 録 は で き た が、 三 人 が そ の ま ま 含 ま れ 、 税 金 だ け 三 人 分 払 わ さ れ る破 目 に な った 。﹂ (ヤ ド リ ン ツ ェ フ ﹃植 民 地 と し て の シ ベ リ ア﹄ 二 一七 頁 )
ベ リ ア植 民 に お け る 二 つ の勢 力 、 す な わ ち 国 家 の政 策 に よ るも のと 自 由 な 民 衆 の流 れ と のど ち ら が 一そう 重 要 で
シベ リ ア への移 民 は、 あ る時 は政 府 に よ って ほ と ん ど 禁 止 さ れ 、 あ る 時 代 に は積 極 的 に奨 励 さ れ た。 そ こ で シ
あ る か 、 と いう 問 題 が提 起 さ れ る。 こ の問 いに た いし て は 、 大 局 的 に見 れ ば 両 者 が 相 補 い あ った と 考 え る べ き で
あ ろ う 。 これ に関 連 し て、 シ ベ リ ア最 後 の移 住 地 域 で あ る ア ム ー ル 地 方 お よ び沿 海 州 の移 民 は 特 徴 的 で あ る。
こ の地 域 は 十 九 世 紀 中 ご ろ東 シ ベ リ ア総 督 ム ラ ビ ヨフ が ペ テ ルブ ルグ の ロシ ア 政 府 当 局 の遅 疑 逡 巡 を押 し 切 っ
て、 ま ず 既 成 事 実 と し て自 分 ひ と り の責 任 で ロ シア に併 合 し た も の で あ る 。 ク ロポ ト キ ンは そ の 思 い出 のな か で
書 い て いる 。 ﹁そ こ で計 画 は 、 ア ム ー ル の大 河 と そ の南 方 の支 流 で あ る ウ ス リ ー 川 に 沿 って 、 全 長 二 、 五 〇 〇 マ
イ ル の あ い だ に自 給 で き る移 民 部 落 の連 鎖 を つく り 、 これ に よ って シ ベ リ ア と太 平 洋 沿 岸 と の あ い だ に規 則 的 な
交 通 路 を 確 立 し よう と いう こ と にな った 。 移 民 部 落 を つく る た め に は 人 間 が 必 要 だ が、 東 シ ベ リ ア の稀 薄 な 人 口
で は と う て いそ れ を 補 給 す る こと は で き な い の で 、 や む な く ム ラ ビ ヨ フは 非 常 手 段 に訴 え た 。 刑 期 を 終 え て釈 放
一部 を ア ムー ル川 と ウ ス リ ー 川 に 沿 って 定 住 さ せ、 二 つ の新 ら し い カザ ク部 落 を つく ら せ た 。 そ れ か ら ム ラ ビ ヨ
さ れ た 囚 人 が帝 室 の御 料 鉱 山 の農 奴 と な って いた が 、 彼 は こ れ を 解 放 し て ザ バ イ カ ル州 の カ ザ ク を組 織 し 、 そ の
フ は 懲 役 囚 を 釈 放 し て自 由 な 人 間 と し て ア ムー ル川 の下 流 に定 住 さ せ た 。 ⋮ ⋮ と こ ろ が家 族 の いな い連 中 が 思 い
き って ム ラビ ヨ フ に こう い った 。 〝女 房 の い な い百 姓 仕 事 な ん てあ り ま せ ん 。 私 た ち も ぜ ひ 女 房 が ほ し い で す 〟
す る と 彼 は 、 そ の土 地 に いた お よ そ 一〇 〇 名 の懲 役 の女 囚 を 全 員 釈 放 し て 、 彼 女 た ち に気 に い った 夫 を 選 ば せ た。
⋮ ⋮ 彼 ら が定 住 し た 土 地 は 処 女 林 を 切 り ひ ら く こと か ら 始 め な け れ ば な ら な か った の で、 部 落 は 貧 し か った 。 し
か し す べ て を考 え あ わ せ て み る と 、 こ の移 民 は失 敗 で は な か った 。 ム ラ ビ ヨ フ の結 婚 も 、 ふ つう の結 婚 に 比 べ て、
よ り 不 幸 と いう わ け で は な か った ﹂。 (ク ロポ ト キ ン ﹃あ る革 命 家 の思 い出 ﹄ 邦 訳 一五 〇 頁 )
そ の後 カ ザ ク や 農 民 が ぞく ぞく と 移 さ れ て、 一八 五 七 ︱ 六 二年 ア ム ー ル川 流 域 に 六 七 地 点 一 一、 八〇〇 、 ウ ス
〇 人 に達 し た。 八 二年 に は ウ スリ ー 地 方 カ ザ ク軍 団 が形 成 さ れ 、 八 三 年 以後 シ ベ リ ア 移 民 史 で も 特 色 のあ る海
リ ー 地 方 に 二 三 地 点 五 、 〇 〇 〇 人 と な り 、 六 九 年 に は す で に 一〇 九 地 点 三 、 九 〇 〇 、 沿 海 州 に 八 七 地 点 三 〇 、 二 〇
路 移 住 が は じ ま った 。 欧 露 の農 民 家 族 が 募 集 に よ って オデ ッサ港 を出 発 し 、 海 路 ス エズ 運 河 、 シ ン ガポ ー ル を 経
を も つ農 民 に 限 ら れ た た め に、 多 く は ウ ク ラ イ ナ出 身 の自 作 農 で あ った 。 到 着 後 は男 子 一人 あ た り 一五 デ シ ャチ
由 す る 四 〇 ︱ 五 〇 日 の旅 の後 ウ ラジ ボ スト ク に 上陸 し た。 こ の移 民 は 船 賃 を の ぞ いて 六 〇 〇 ルー ブ リ 以 上 の資 金
ナ の処 女 地 を あ たえ ら れ た が 、 一般 に シ ベ リ ア の他 地 域 よ り も 定 着 率 が高 く 、 一八 八 六 ︱ 九 八年 間 の 三 、 八 六 三
家 族 の う ち 三 、 〇 九 一家 族 が 一度 で定 着 し 、 六 六 二家 族 が 一回場 所 を 変 え 、 一 一五家 族 が 二 度 場 所 を変 え た だ け
で あ る。 (ポ ク シ シ ェ フ ス キ ー ﹃極 東 地方 南 部 の移 民 過 程 ﹄ シ ベ リ ア 地 理 学 論 集 九 〇 頁 ) 海 路 に よ る移 民 は 全 部
で 四 ︱ 五 万 に 達 し た が、 二 十 世 紀 初 頭 シ ベ リ ア鉄 道 の建 設 と と も に 中 断 さ れ た。
こ の地 方 の カ ザ ク は移 住 の当 初 か ら 男 子 一人 当 り 三 〇 デ シ ャ チ ナ の土 地 を あ た え ら れ 、 ま た 一八 八 七 年 以後 ア
ム ー ル川 沿 岸 に、 九 四年 ド ゥ ホ フ ス キ ー総 督 の と き ウ スリ ー 川 沿 岸 に広 大 な 軍 用 地 が 指 定 さ れ た 。 こ の地 方 の カ
ウ スリ ー 地 方 で 三 〇 、 八 〇 〇 に達 し た と き は 、 明 ら か に自 由 移 民 の発 展 の障 害 にな って いた 。 定 着 に 失 敗 し た 農
ザ ク は こ う し て 、 一般 農 民 に 比 べ て 特 権 が付 与 さ れ 、 一九 一 一年 当 時 ア ム ー ル地 方 の カ ザ ク が 男 女 三 九 、 一〇 〇 、
民 は カザ ク農 家 に作 男 と し て雇 用 さ れ る こと が多 か った 。 こ の こ ろ 、 多 く の中 国 人 、 朝 鮮 人 が こ の 地 方 に 移 住 し
た こと は 、 そ の後 の人 口構 成 で 重 要 な 意 味 を も つも ので あ る 。 な お 、 軍 事 的 な 背 景 も あ って都 市 の 発 達 も 目 ざ ま
し く 、 一八 六 〇 年 創 建 の ウ ラ ジ ボ スト ク の 人 口 は 九 七 年 二 八 、 九 〇 〇 で あ った が 一九 一 一年 に 八 四 、 六 〇 〇 と な
った 。 ハバ ロ フ スク は そ れ ぞ れ 一五 、 〇 〇 〇 か ら 四 三 、 三 〇 〇 、 ブ ラ ゴ ベ シ チ ェ ン ス ク は 三 二 、 八 〇 〇 か ら 五 四 、
いる 。 こ の分 野 の代 表 的 学 者 のひ と り シ ュ ン コ フ は つ ぎ の よ う に書 い て い る。 ﹁階 層 的 特 徴
ロシ ア の シ ベ リ ア 植 民 に お け る 農 業 の役 割 に つ い て は 、 ソ連 の学 者 に よ って深 く 研 究 さ れ て
四 〇 〇 に 増 加 し て い る。
シ ベリ アにおけ る農 業 の 発 達
を はな れ 、 住 民 の労 働 活 動 の性 格 と いう こと に の み 眼 を 向 け る な ら ば 、 十 七 世 紀 に お け る シ ベ リ ア植 民 は 主 と し
て農 業 的 植 民 で あ った と の結 論 に達 す る 。﹂ (シ ュ ン コ フ ﹃シ ベ リ ア農 業 史 概 説 ﹄ 四 二 六頁 ) 十 六 世 紀 の九 〇 年 代
に は す で に 、 ツ ァー リ の政 府 は シ ベ リ ア へ の移 住 農 民 を 募 集 し て い る。 こ れ は シ ベ リ ア で 必 要 な パ ンを 現 地 で ま
か な い、 同 時 に シ ベ リ ア の掌 握 を 一そ う 完 全 にす る こ と を ね ら った も ので あ った 。 流 刑 囚 を 農 耕 に 利 用 す る こと
も 広 く 行 な わ れた 。 し か し こ の政 府 の施 策 で は 必 要 量 の農 産 物 は 得 ら れ な か った が 、 農 奴 制 を の が れ て シ ベ リ ア
に お も む く 自 由 農 民 の力 に よ って こ の目 的 は達 せ ら れ た 。 十 七 世 紀 のは じ め ま で は 政 府 も 自 由 移 民 を 奨 励 し た が、
や が て農 奴 的 農 民 の逃 亡 は厳 重 に追 求 さ れ 、 捕 え ら れ れば も と の農 奴 主 に 返 還 さ れ た。
農 民 の数 は 十 七 世 紀 末 に は 、 当 時 約 二 五 、〇 〇 〇 世 帯 を 数 え た シ ベ リ ア在 住 ロシ ア 人 のな か で 一〇 、 〇 〇 〇 世
帯 を越 え る ま で に増 加 し た 。 こ の ほ か シ ベ リ ア の役 人 お よ び 商 工 業 者 の多 く は 、 そ の出 身 に お い て も 、 生 業 の性 格 か ら い って も 農 耕 民 で あ った 。
十 七 世 紀 の シ ベ リ ア農 民 は 、 そ の後 こ の広 大 な 地 域 に お け る 目 ざ ま し い農 業 の発 達 の基 礎 を お いた ので あ る。 こ
一六 八 五年 に は 欧 露 の いく つ か の都 市 に た いし 、 シ ベ リ ア への コ ムギ 供 給 義 務 を免 除 す る 法 令 が発 布 さ れ た 。
の事 業 に お い て は 、 モ ス ク ワ政 府 も き わ め て積 極 的 な 役 割 を 果 し た こ と が 指 摘 さ れ て い る。 当 時 の有 名 な 農 耕 中
ラ 川 中 流 域 に開 か れ た ﹁イ リ ム耕 地 ﹂ は 重 要 な 役 割 を 果 し た。
心 地 と し て西 シベ リ ア のト ボ リ ス スク 地 方 、 エ ニ セイ ス ク地 方 、 ザ バ イ カ ル 地 方 な ど で あ る が 、 な か で も ア ン ガ
十 八 世 紀 か ら 十 九 世 紀 初 頭 ま で は、 欧 露 か ら の流 入 の ほ か に 、 シ ベ リ ア内 部 で の配 置 換 え が 行 な わ れ た 。 す な
わ ち カザ ー フ草 原 のイ ル テ ィ シ 川流 域 、 ミ ヌ シ ン スク 盆 地 、 山 地 ア ルタ イ 地 方 な ど へ の移 住 で あ る 。
く に 西 シ ベ リ ア) は 重 要 な 穀 倉 地 帯 と な り 、 欧 露 へ コム ギ を 移 出 し な け れ ば 余 って困 る ほど にな った 。 た と え ば
さ き に も の べ た よ う に、 一八 六 一年 の農 奴 解 放 以 後 農 民 の シ ベ リ ア移 住 は 急 増 し た が 、 そ の結 果 シ ベ リ ア (と
一八 八 〇 年 ト ボ リ ス ク県 で 一、 五 四 〇 、 五 三 六 チ ェト ビ ョル チ (一チ ェト ビ ョ ル チ は 二〇 九 ・二 一リ ット ル) の
コ ムギ を 種 蒔 き し て 、 五 、 四 二 〇 、 六 〇 一チ ェト ビ ョル チ収 穫 し 、 ト ム スク 県 で は 九 九 四 、 一三 五 種 蒔 き し て 四 、
五 一六 、 一五 六 チ ェト ビ ョ ルチ 収 穫 し た 。 こう し て余 剰 農 産 物 の処 分 のた め に酒 精 工場 が つく ら れ 、 一八 七 九 年
西 シ ベ リ ア で は 二 、 〇 五 八 、 三 二 六 プ ー ド (一プ ー ド は 一六 ・三 八 キ ロ) の コ ムギ が 使 用 さ れ た 。 シ ベ リ ア 産 の
コ ムギ は 鉱 山 や 工 場 に も 供 給 さ れ た が 、 シ ベ リ ア の 工場 数 は 一九 〇 八 年 で欧 露 のそ れ の 二 ・五 パ ー セ ント に す ぎ
ず 、 労 働 者 は わず か 一パ ー セ ント (約 二 万 ) で あ った 。 こう し て ﹁シ ベ リ ア の生 産 性 の本 質 と そ の交 換 の特 性 は 、
の原 料 的 産 物 は ほ と ん ど た だ同 様 の安 値 で 買 わ れ、 移 入品 は 手 が出 な いほ ど の高 値 で 売 ら れ る の で あ る 。 ﹂ (ヤ ド
自 ら の原 料 的 産 物 を 販 売 し 、 最 も 些 細 な 日 用 品 ま で す べ て の物 品 を欧 露 か ら 獲 得 す る こ と に あ る 。 ⋮ ⋮ シベ リ ア
リ ン ツ ェフ ﹃植 民 地 と し て の シ ベ リ ア ﹄ 三 六 〇 ︱ 三 六 一頁 )
に は 、 国 有 工 場 の労 働 力 と な って い た 登 録 農 民 を の ぞ い て は 、 農 民 は 欧 露 に お け る よ う な農 奴 制 の圧 制 は受 け な
シ ベ リ ア の農 村 社 会 の生 活 条 件 は 、 欧 露 の農 村 と は いち じ る し く 異 な って い た 。 農 奴 解 放 (一八 六 一年 ) 以 前
か った 。 ま た 農 奴 解 放 以 後 の時 代 は 、 封 建 制 的 ・農 奴 制 的 残 滓 が 欧 露 に お け る ほ ど ひ ど く な か った 。 シ ベ リ ア の
農 村 共 同 体 は 、 そ も そ も は じ め に少 数 の家 族 が 住 み つ い て、 や が て 家 族 が ふ え 、 新 移 民 を 受 け い れ て 形 成 さ れ た
場 合 が多 く 、 し か も 土 地 は いく ら で も 好 き な だ け あ る広 大 な 天 地 で あ った た め 、 欧 露 の場 合 のよ う に 土 地 が大 地
主 に集 中 す る と いう こ と は ほ と ん ど な か った 。 し た が って耕 作 の方 法 も 、 農 村 の階 層 分 化 も 特 徴 的 で あ った 。 欧
行 な わ れ 、 十 九 世 紀 後 半 か ら 二 十 世 紀 初 頭 に か け て輪 作 に 移 行 し た 。 シ ベ リ ア で は 土 地 が 広 いた め に 、 農 家 は ほ
露 で は 十 九 世 紀 中 期 ま で いわ ゆ る 三 圃 式 耕 作 法 (一年 は 秋 播 、 そ の翌 年 は 春 播 、 三年 目 に は 休 閑 す る耕 作 法 ) が
ん の 一部 だ け を耕 作 し 、 広 大 な 土 地 を 休 閑 地 と し て いた 。 は じ め は 一〇 ︱ 一五 年 間 も 休 ま せ て い た が 、 十 九 世 紀
コムギ 、 ラ イ ムギ 、 エ ン バ ク 、 オ オ ムギ 、 キ ビ 、 エ ンド ウ な ど であ った 。
末 か ら 二十 世 紀 初 頭 に か け て 、 シ ベ リ ア へ の人 口流 入 が 増 加 し 、 休 閑 の期 間 は 一年 位 に短 縮 さ れ た。 主 な 作 物 は
シ ベ リ ア 農 村 の階 層 は 、 と く に農 奴 解 放 以 後 、 一面 で は 富 農 層 、 他 面 で は 農 村 プ ロ レ タ リ ア ート で あ る作 男
層 に 分 化 し た 。 富 農 層 は、 欧 露 か ら の移 住 者 を 大 量 に雇 い入 れ 、 は じ め か ら 販 売 の目 的 で農 産 物 を 生 産 し 、 毛 皮
業 、 漁 業 、 木 の実 の大 規 模 な 採 集 、 運 送 業 、 製 粉 業 な ど ま で手 を ひ ろ げ た。 レ ー ニ ンは 十 九 世 紀 末 の シ ベ リ ア農
の群 (馬 を も た な いも の、 馬 一頭 お よ び 二頭 を も つも の) の農 家 は 、 人 口 の二 四 パ ー セ ン ト を し め て いる が、 全
村 の階 層 分 布 に つ い て 、旧 エ ニ セ イ県 の四 管 区 を 例 に し て つぎ の よ う に のべ て い る。 ﹁三九 ・四 パ ー セ ント の下 級
三 六 ・四 パ ー セ ント の農 家 は 、 人 口 の五 一 ・二 パ ー セ ン ト を し め て い て、 耕 地 の七 三 パ ー セ ン ト と 家 畜 頭 数 の七
耕 地 のわ ず か 六 ・二 パ ー セ ント と家 畜 総 頭 数 の七 ・ 一パ ー セ ン ト を も つに す ぎ な い。 と こ ろ が 馬 五頭 以 上 を も つ
四 ・五 パ ー セ ント を も って い る。 最 後 の諸 群 (馬 五︱ 九 頭 を も つ者 お よ び 馬 一〇 頭 以 上 を も つ者 ) は 、 一戸 あ た
り 一五 ︱ 三 六 デ シ ャ チ ナ の耕 地 を も ち 、 広 範 な 規 模 で 賃 労 働 に た よ って い る ( 賃 金 労 働 者 を も つ経 営 の 三〇 ︱ 七
〇 パ ー セ ン ト )。 と こ ろ が 三 つ の下 級 の群 は 、 一戸 あ た り〇 ︱ 〇 ・二︱ 三 ︱ 五 デ シ ャ チ ナ の耕 地 を も ち 、労 働 者
を お く り だ し て い る (経 営 の 二〇 ︱ 三 五 ︱ 五 九 パ ー セ ント のも のが )。﹂ (レー ニ ン全 集 第 三巻 九 六頁 )
シ ベリ アにお け シ ベ リ ア を 最 初 に踏 破 し た カ ザ ク た ち が す で に 、 鉱 物 資 源 な ど に つ い て 原 住 民 に聞 いた り 、 る鉱 山業 の発達 自 分 で調 査 し た り し た と いう 記 録 が残 って い る。 (﹃シ ベ リ ア の民 族 ﹄ 一三 一頁 ) ピ ョー ト ル
一世 は 一六 九 六︱ 九 九 年 に鉄 鉱 探 査 のた め に ギ リ シ ア人 レ ワ ンデ ィ ア ンを ト ム ス ク管 区 へ派 遣 し て い る。 レ ワ ン
デ ィ ア ンは 一七 〇 〇 年 に 、 エベ ン キ 人 の案 内 に よ って 一六 〇 一年 に す で に 知 ら れ て いた ネ ル チ ン スク 鉱 山 に銀 山
を 創 設 し 、 一七 〇 四年 に は 一キ ログ ラ ム足 ら ず の銀 を モ ス ク ワ へ送 る こと に成 功 し た 。 彼 は シ ベ リ ア鉱 山 業 の創
始 者 と 考 え ら れ て いた が、 最 近 の研 究 に よ る と 、 一六 二 四年 ご ろ 鍛 治 工 の エ レ メ ー エ フ と カザ ク の キ ジ ルと いう
者 が ク ズ ネ ツク 地 方 で鉄 鉱 を 発 見 し 、 そ の 一部 を 精 錬 し て モ ス ク ワ の ミ ハイ ル ・フ ェド ロビ チ帝 に献 上 し て い る。
そ の後 ウ ラ ル地 方 (一六 二 八 年 )、 ヤ ク ー チ ヤ 地 方 (一六 四 七 年 )で も 鉄 鉱 の存 在 が 確 認 さ れ た 。 こ の ほ か 、 銀 や
銅 の産 地 も 十 七 世 紀 前 半 に発 見 さ れ た が 、 こ れ は 多 く の場 合 、 昔 の原 住 民 が 採 掘 し た 跡 で あ って 、 ロ シ ア人 は こ
れ を ﹁チ ュド ス キ ー の穴 ﹂ と 称 し た 。 ( 前 掲 書 一三 〇 頁 ) こと に ア ル タ イ 地方 で は 、ク ル ガ ン シ キ ま た は ブ ゴ ル シ
キ と よ ば れ る 古 墳 の盗 掘 人 た ち が 十 七︱ 十 八世 紀 に 古 代 の原 住 民 が 使 用 し た 銅 製 ま た は 石 製 の採 掘 器 具 、 皮 袋 に
入 れ ら れ た 鉱 石 な ど を 発 見 し て い る。 こ の ほ か塩 、 イ オ ウ 、 硝 石 な ど も 十 七 世 紀 の後 半 に は す で に ヤ ク ー チ ヤ 地 方 で探 査 された。
シ ベ リ ア に は 二 つ の鉱 山 業 中 心 地 があ った 。 ひ と つは デ ミ ド フ に よ って創 建 さ れ た ア ル タ イ の鉱 山 で あ り 、 も
う ひ と つは 先 に も ふ れ た 有 名 な ネ ル チ ン ス ク鉱 山 で あ る。 ア ル タイ 鉱 山 は 主 と し て 銀 、 鉛 、 銅 を 採 掘 し た が、 一
七 四 七 年 以 後 ロ シ ア皇 帝 の直 轄 と な り 、 そ の全 盛 時 代 (一七 九 九 ︱ 一八 〇 六年 ) に は 銀 だ け で も 年 産 二〇 ト ンに
で 産 す る碧 玉 、 斑 岩 そ の他 の装 飾 品 は 天 下 に そ の名 を 知 ら れ た 。
達 し た 。 一七 六 四 年 創 建 の銀 ・銅 精 錬 所 で は 貨 幣 の鋳 造 が行 な わ れ 、 一七 八 六 年 に は 同 じ く ア ルタ イ に コリ ワ ン 宝 石 工 場 が 建 設 さ れ た 。 ここ
(鉱 山 に 緊 縛 さ れ て い る) 七 一、 〇 五 八 、 登 録 農 民 二 五 三 、 一四 七 、 ア ル タ イ で は 職 工 一万 、 登 録 農 民 七 万 、 ネ
一八 〇 二︱ 〇 六 年 当 時 の ロ シ ア鉱 山 業 の概 況 を見 る と 、 ウ ラ ル の国 有 お よ び 民 有 の全 工 場 ・鉱 山 に働 ら く 職 工
ル チ ン ス ク で職 工 五 千 、 登 録 農 民 一、 三 〇 〇 〇 、 こ れ 以 外 の全 ロ シ ア の鉱 山 で職 工 一五 、 八 八 六 、 登 録 農 民 一七 、
六 三 八 人 で あ った 。 (カ ル ペ ン コ ﹃西 シ ベ リ ア鉱 山 業 の労 働 要 員 ﹄ 歴 史 論 集 第 六 九 冊 二四 五頁 ) こ の数 字 を 見 る
と ア ル タ イ 鉱 山 は ウ ラ ルに 次 ぐ ロシ ア第 二 の規 模 で あ り 、 登 録 農 民 の数 が 比 較 的 多 い こ と が わ か る。
登 録 農 民 は 鉱 山 の周 辺 一帯 (遠 い も のは 二 〇 〇 ︱ 三〇 〇 キ ロ) に住 ん で農 耕 を 営 み 、 農 繁 期 以 外 のと き年 間 一
︱ 二 カ 月 間 人 頭 税 稼 ぎ と し て強 制 的 に労 力 を 提 供 さ せ ら れ た 。 職 工 は も ち ろ ん 一年 中 鉱 山 で働 ら き 、 一般 に 登 録
農 民 よ り は 少 し 率 のよ い賃 金 を 受 け と った 。 彼 ら は 一八 四 九 年 ま で は廃 人 に な る ま で自 由 に な れ な か った が 、四
九 年 以 後 三 五 年 間 勤 続 (五 二年 以 後 二五 年 間 勤 続 ) の者 に 自 由 が あ た え ら れ た 。
ア ル タ イ 鉱 山 は ウ ラ ル の大 事 業 家 デ ミ ド フ が 一七 二 六年 二月 政 府 の鉱 山 局 か ら 許 可 を得 て採 掘 を は じ め た が、
当 時 の労 働 力 は主 と し て逃 亡 農 民 で 、 鉱 山 に 緊 縛 さ れ 、 そ こ か ら 去 る こと は 許 さ れ な か った 。 デ ミド フ 一家 は 代
衣 四 馬 を許 さ れ 、 ジ ガ レ フ同 様 の者 な り ﹂ と の べ て い る。 (﹃北 槎 聞 略 ﹄ 二 六 一頁 ) 一七 四 七 年 エリ ザ ベ タ ・ペ ト
代 ロ シ ア屈 指 の富 豪 と し て 知 ら れ 、大 黒 屋 光 太 夫 は十 八 世 紀 末 の そ の 一族 に つ い て いく つか の逸 話 を つた え 、﹁紅
ロウ ナ 女 帝 は デ ミ ド フ の嗣 子 か ら ア ル タ イ 鉱 山 を と り あ げ て帝 室 領 と し 、 帝 室 財 宝 寮 の管 轄 下 に お い た 。 こ う し
て ロ シ ア革 命 ま で 、 西 欧 の多 く の国 家 の面 積 よ り も 大 き い 三 九 〇 、 六 〇 〇 平 方 露 里 の帝 室 領 が 西 シ ベ リ ア に出 現 し た の であ る 。
鉱 山 ・工 場 が 緊 縛 さ れ た 登 録 農 民 や職 工 の労 働 力 に依 存 し た こと は 、 ロ シ ア の マ ヌ フ ァク チ ュア の主 要 な 特 徴
で あ る が、 し か し こ の封 建 的 鉱 山 労 務 者 のあ いだ で も請 負 業 者 と 下 働 き と いう 階 層 分 化 が 行 な わ れ た 。 下 積 み の
も の は ま す ま す 零 落 し 、 登 録 農 民 の 一部 は農 耕 を あ き ら め て専 属 の労 務 者 にな った り 、 ま た 逃 亡 し て私 企 業 の金
る資 本 主 義 の発 達 と 関 連 し て注 目 さ れ る 。
鉱 山 に 雇 わ れ た り し た 。 し かし 十 九 世 紀 中 期 以 後 し だ い に 自 由 労 務 者 も 雇 用 さ れ は じ め た こ と は 、 ロシ ア に お け
ネ ル チ ン スク 鉱 山 で は 銀 と 鉄 (後 に は 金 も ) を 精 錬 し て い た が 、 こ れ も 皇 帝 直 属 (二 三 万 平 方 露 里 ) で 規 模 も
大 き く 多 角 経 営 を し て い た 。 銀 の産 額 は 一七 七 七 年 現 在 で年 間 八 ︱ 一〇 ト ンで あ った 。 こ の鉱 山 も 主 な労 働 力 は
農 奴 制 的 登 録 農 民 の無 償 労 働 に依 存 し て い た 。 男 子 は主 と し て鉱 石 の採 掘 に従 事 し 、 女 子 は選 鉱 や 砕 鉱 に使 わ れ
た が、 男 子 の場 合 七歳 か ら 労 働 力 を 喪 失 す る ま で こき 使 わ れ た 。 そ の重 労 働 に 耐 え ら ず 逃 亡 す る も の が少 な く な
( う ち 少 年 二 二 一)、仮 釈 放 一 一六 、廃 人
か った が 、 これ に対 し て は き び し く 追 求 さ れ た 。 ネ ル チ ン スク 鉱 山 で は 一八 三 三 年 に男 子 登 録 農 民 数 一七 、 七 〇 九 人 に達 し 、 こ の 他 男 女 徒 刑 囚 四 、 一二 四、 子 供 二 二〇 、 自 活 囚 九 〇 〇
九 六 人 で あ った 。 (マク シ モ フ ﹃シ ベ リ ア と徒 刑 ﹄ 四 四 五 頁 ) ニ コ ライ 一世 の治 世 に は デ カブ リ ス ト の 一部 、 ポ
ー ラ ンド 反 乱 (一八 三〇 年 ) の指 導 者 、 そ の後 ペ ト ラ シ ェ フ ス キ ー 事 件 で逮 捕 さ れ た も の、 チ ェル ヌ ィ シ ェフ ス キ ー な ど ﹁政 治 犯 ﹂ も 一時 こ の鉱 山 に 送 り こ ま れ た 。
デ カ ブ リ スト のう ち 一八 名 が妻 帯 者 で あ った が 、 そ のう ち 一 一名 ( う ち 一名 は 許 婚 者 ) が 夫 に つ いて 流 刑 地 の
シ ベ リ ア へお も む い て い る。 そ のな か で ボ ル コ ン ス キ ー の妻 マリ ヤ ・ボ ル コ ン スカ ヤ は 二十 一歳 の若 い身 空 で 、
同 じ く デ カブ リ スト の妻 の ト ル ー ベ ツ カ ヤと と も に夫 の い る ネ ル チ ン ス ク鉱 山 (ブ ラ ゴ ダ ト ス キ ー鉱 山 ) に お も
む き 、 あ ら ゆ る 困 苦 を越 え て夫 に つく し た 話 は あ ま り に も 有 名 で あ る 。 彼 女 た ち の行 動 は ﹁地 獄 への道 連 れ﹂ と
ま で 評 さ れた が 、 ボ ル コ ン ス カ ヤは ネ ル チ ン ス ク で 最 初 に 夫 と の面 会 を 許 さ れ た と き 、 夫 と抱 擁 を 交 す 前 に、 ま
そ のデ カブ リ スト 制 裁 体 制 へ の打 撃 で あ った 。﹂ (ゲ ルネ ト ﹃ツ ァ ーリ 監 獄 史 ﹄ 第 二巻 二〇 二頁 ) ネ ルチ ン スク 鉱
ず 膝 ま づ い て夫 の足 枷 に接 吻 し た と いう 。 ﹁こ の足 枷 への接 吻 は ま さ に ツ ァー リ そ の 人 に た いす る 一撃 で あ り 、
山 は ツ ァー リ 時 代 の社 会 か ら は じ き出 さ れ た 人 間 の困 苦 の る つ ぼ で あ った 。
シ ベリ アにおけ 金 の採 掘 に つ い ては 、 シ ベ リ ア鉱 業 の 一時 期 を 画 す る も のと し て 特 記 し な け れ ば な ら な い。 る金 鉱山 の発達 シ ベ リ ア の金 は 十 九 世 紀 末 で ロ シ ア の金 総 産 額 の 七 五 ・ 一パ ー セ ント を 占 め て いた 。
一八 〇 九年 イ ル ク ー ツ ク か ら 約 一八 〇 キ ロ の地 点 に あ る バ ラ ガ ン スク の委 員 を し て いた ア ンド レイ ・ベ イ ト ン
は 、 付 近 の あ る農 民 か ら 、 ヤ マド リ の胃 袋 に入 って いた と いう 一 一個 の金 粒 を 手 に 入 れ た。 や が て ベ イ ト ン自 身
の金 粒 を 見 本 と し て ペ テ ルブ ルグ へ送 った と こ ろ 、 皇 帝 の ア レ ク サ ンド ル 一世 は こ の粒 を実 験 室 に ま わ し て金 の
も ヤ マド リ を打 ち 落 し て そ の腹 中 か ら 金 粒 を 見 出 し た 。 ベイ ト ンは こ の事 実 を皇 帝 に 知 ら せ 、 これ と同 時 に 二 つ
含 有 量 を 試 験 さ せ る 一方 、 エカ チ ェリ ンブ ルグ (一九 二 四 年 以 後 スベ ルド ロ フ ス ク と 改 称 ) の金 鉱 山 長 に命 じ て、
技 師 を 現 地 へ派 遣 せ し め た。 し か し 技 師 の努 力 は報 わ れず 、 結 局 金 の産 地 は 発 見 さ れ な い ま ま に終 った 。
シ ベ リ ア の住 民 は 金 の産 地 を 知 って い ても これ を 滅 多 に 外 部 に も ら さ な か った 。 採 掘 のた め に 徒 刑 囚 が送 り こ
ま れ 、 自 分 た ち の利 益 に は な ら な い ま ま 、 そ の住 地 が荒 ら さ れ る か ら であ った 。 一八 二 七 年 商 人 ア ンド レ イ ・ポ
レ ス ノイ を 訪 ね て行 った。 し かし ポ ポ フ が た ど り つ いた と き に は す で に レ ス ノイ は 何 者 か に 絞 殺 さ れ て い て 、 つ
ポ フは ベ リ ク リ 川 の流 域 で、 エゴ ル ・レ スノ イ と いう 一流 刑 囚 が山 か ら砂 金 を し ば し ば 持 ち 帰 る と いう 噂 を き き 、
いに 会 え な か った 。 し か し賢 明 な 人 物 で あ った ポ ポ フは 間 も な く 砂 金 の産 地 を さ が し 出 し 、 そ こ に は じ め て 金 鉱 山 を 開 いた ので あ る。
こう し て、 十 八 世 紀 を 通 じ て ロ シ ア に 私 企 業 の金 鉱 山 は な か った が 、 十 九 世 紀 に は い って 、 一八 三 五 年 と 三 八
年 の勅 許 に よ って急 速 に 私 企 業 が 開 発 さ れ た 。 一八 四 〇 年 ご ろ ま で に は エ ニ セイ 川 、 ア ン ガ ラ 川 、 ポ ド カ メ ンナ
ヤ ・ ツ ング ー ス カ 川 な ど の流 域 に金 鉱 山 が 設 立 さ れ 、 文 字 通 り シ ベ リ ア に お け る ゴ ー ルド ・ラ ッ シ ュの時 代 が は
じ ま った 。 一八 四 三年 に は官 吏 のト ラ ペ ズ ニ コ フと いう 者 が 原 住 民 を通 じ て金 の産 地 を知 り 、 こ れ が 端 緒 と な っ
﹁レ ナ金 産 業 会 社 ﹂ (レ ンゾ ト ) を 設 立 し て 、勅 許 を 得 た 。 レ ナ の金 は 一〇 〇 プ ー ド (一プ ー ド は 一六 ・三 八 キ
ル ク ー ツ ク の商 人 バ ス ニ ンと カ テ ィ シ ェウ ツ ェフ お よ び コ コリ ン の 三 人 は 四 一、 〇 〇 〇 ル ー ブ リ を 出 資 し て有 名
で ビ チ ム ・オ リ ョク マ水 系 一帯 に金 鉱 山 が開 発 さ れ た 。 これ は ﹁レ ナ の金 ﹂ と し て天 下 に知 ら れ 、 一八 五 三 年 イ
な
ロ) の砂 に つき 一〇 ゾ ロト ニク (一ゾ ロト ニ ク は 四 ・二 六 六 グ ラ ム) の金 を 含 有 し て いた 。 一八 三 九 年 東 シ ベリ
ア の私 営 金 鉱 山 の労 働 者 数 は 二 、 三 四 三 人 、 金 産 額 は 一 一六 プ ー ド 二四 フ ント (全 ロシ ア産 額 の 二 三 ・三 パ ー セ
ン ト ) であ った が 、 一八 六 一年 に は 飛 躍 的 発 展 を と げ 、 労 働 者 数 二 六 、 四 八 六 人 、 産 額 一、 〇 二 四 プ ー ド (全 ロ
シ ア の七 〇 ・六 パ ー セ ント ) に 達 し た の で あ る 。 (ダ ニ レ フ スキ ー ﹃ロ シア の金 ﹄ 二 五 一︱ 二 五 二頁 )
レ ナ金 産 業 会 社 は 初 代 経 営 者 の バ ス ニ ン ら が 破 産 し て 、 一八 八 二 年 ギ ン ツブ ル グ と マイ エ ル会 社 が 買 収 し 、 資
ー セ ント を 占 め る ま で に な った 。 つぎ に 重 要 な 金 鉱 業 地 帯 は 、 一挙 に資 本 主 義 的 大 企 業 地 域 と な った ア ム ー ル川
本 金 を 四 五 〇 万 ル ー ブ リ に 増 額 し て 急 速 に 巨 大 化 し た 。 十 九 世 紀 末 に は レ ナ地 方 だ け で 全 ロシ ア金 産 額 の 二 五 パ
流 域 で あ る。 一八 九 五 年 、 こ の 地 域 で 年 産 一プ ー ド 以 上 の会 社 は 二〇 を 越 え 、 上 流 ア ム ー ル会 社 、 ニ マ ン会 社 、
ゼ ー ヤ会 社 な ど は 年 産 一五 〇 プ ー ド に 達 し た 。 第 三 の金 鉱 業 地 帝 は ザ バ イ カ ル地 方 で あ った が 、 一九 〇 四 年 現 在
で こ の地 方 の私 営 企 業 は 七 七 プ ード 、 帝 室 領 の企 業 は 一三 七 プ ー ド の金 を 生 産 し た 。
金 鉱 山 の経 営 に当 って は 、 機 材 設 備 を 一切 資 本 家 が調 達 し 、 労 働 者 に は給 料 を 払 う と いう 方 法 と 、 下 請 人 に 鉱
区 を 分 け て、 そ の出 来 高 に た いし て会 社 が 金 を 支 払 う 方 法 と に 大 別 さ れ た 。 前 者 は大 企 業 のも の で ハジ ャイ ス キ
ー と よ ば れ 、 後 者 は スタ ラ チ ェリ ス キ ー (こ こか ら さ ら に ゾ ロト ニチ ニク と いう 方 法 が 発 展 し た ) と称 せ ら れ 、
中 小 企 業 に多 く 見 ら れ た 方 法 で あ る。 十 九 世 紀 末 か ら 採 掘 法 の機 械 化 を 含 む 改 良 が す す め ら れ、 一八 九 六 年 レ ン
レ ナ 地 方 で さ ら に 八 基 の発 電 所 が建 設 さ れ た。 ア ム ー ル川 流 域 の場 合 は、 レ ナ 地 方 よ り も技 術 的 に は さ ら に 進 ん
ゾ ト で 三 〇 〇 キ ロワ ット の水 力 発 電 が 行 な わ れ た が、 こ れ は ロ シ ア最 初 のも ので あ った 。 そ の後 数 年 のあ いだ に
で いた 。 一八 九 七 年 に は ア ム ー ル川 に 浚 渫 機 が 活 動 し て い る。 こ れ ら の機 械 は 当 初 は す べ て ヨー ロ ッ パ諸 国 か ら 購 入 さ れ た も ので あ った 。
ベ ルギ ー 、 ド イ ツ な ど で あ った が、 な か で も 英 国 資 本 が も っと も 積 極 的 で あ った 。 十 九 世 紀 末 か ら 二 十 世 紀 初 頭
シ ベ リ ア の金 鉱 業 に お け る 外 国 資 本 の進 出 も 二 十 世 紀 に 入 って と く に 目 ざ ま し か った。 英 国 、米 国 、フ ラ ン ス・
に か け て 、 英 国 は 世 界 中 に 八 六 七 の金 鉱 山 を 有 し 、 総 投 資 額 二 一億 六 〇 〇 〇 万 ル ーブ リ 、 金 の世 界 産 額 の五 八 ・
四 パ ー セ ント を産 出 し て いた 。 ロ シア の金 鉱 業 に は そ の四 ・〇 七 パ ー セ ント が投 資 さ れ 、 約 五 〇 の会 社 を 所 有 し
て いた 。 シ ベ リ ア で有 名 な も の は Russ i i an Mi ni ng Corpora ti on (一九 〇 〇 年 創 設 )、 Lena Gol d〓el ds Limi
t ed な ど で あ った が 、 な か で も 後 者 は、 や が て レ ンゾ ト の事 業 を 併 合 し、 水 陸 の輸 送 や鉄 道 事 業 な ど にも 手 を ひ
ろ げ 、 商 業 の面 で も 独 占 化 し て い った。 こ の会 社 の額 面 七 五 〇 ル! ブ リ の株 券 は 一九 〇 九 年 十 一月 十 六 日 に は ペ
テ ルブ ル グ市 場 で 二 、 〇 五〇 ︱ 二 、 二 〇 〇 ル ー ブ リ 、 一九 一〇 年 に は 六 、 〇 七 五 ル ーブ リ 、 配 当 金 は 五 六 パ ー セ ン ト に 高 騰 し た 。 (﹃シ ベ リ ア お よ び極 東 地 方 の歴 史 の諸 問 題 ﹄ 一六 九 頁 )
米 国 資 本 も 着 々 と進 出 し た 。 一九 〇 〇 年 に ﹁北 東 シ ベ リ ア協 会 ﹂ と いう 米 国 資 本 の会 社 が 設 立 さ れ 、 沿 海 州 の
鉱 業 権 を 獲 得 し て チ ュク チ半 島 あ た り ま で 活 動 し 、 一九 一四 年 ま で存 続 し た 。 ア ラ ス カか ら シ ベ リ ア へ抜 け る鉄 道 敷 設 権 の獲 得 に 画 策 し た こ と も よ く 知 ら れ て いる 。
こう し た 金 鉱 業 の発 達 は 、 当 然 の こ と な が ら シ ベ リ ア に お け るプ ロレ タ リ ア ー ト の形 成 を 促 進 し た 。 十 九 世 紀
の後 半 、 東 シ ベ リ ア と 沿 海 州 の金 鉱 山 に 属 す る 労 働 者 数 は 四 万 に達 し た 。 こ の労 働 者 は 、 は じ め は 強 制 移 住 囚 が
ント を占 め 、 農 民 出 身 の労 働 者 の比 率 が 高 く な った 。 し か も、 シ ベ リ ア諸 県 出 身 者 と 欧 露 出 身 者 と の比 率 は 、 た
多 か った が 、 時 代 が下 る に つ れ て 自 由 な 労 務 者 が増 加 し た 。 十 九 世 紀 末 に は強 制 移 住 囚 は レ ナ 地 方 で 二 五 パ ー セ
と え ば レナ 金 鉱 業 地帯 の例 で見 る と 、 一八 六 一年 の労 働 者 総 数 四 、 一〇 三 人 で、 う ち 前 者 が 九 八 ・九 パ ー セ ント
と な って い る 。 す な わ ち 、 欧 露 か ら の労 働 者 の補 給 が増 大 し て い る。 (前 掲 書 一七 九 頁 )
を 占 め て い た が 、 一八 九 六 年 の労 働 者 総 数 二〇 、 〇 三 六人 、 う ち 前 者 が 七 〇 パ ー セ ント 、 後 者 が 三 〇 パ ー セ ント
労 働 条 件 は ひ ど いも の で あ った 。 レ ンゾ ト の場 合 で労 働 時 間 は 一日 一 一時 間 、 時 間 外 を 入 れ る と 一三 ︱ 一四 時
間 に 達 し た 。 給 料 も 罰 金 な ど で差 引 か れ、 し か も 一切 の 日 用 品 は 会 社 独占 の高 い価 格 で買 わ さ れ た。 こ う し た条 件 のも と で 一九 一二年 有 名 な レ ナ金 鉱 射 殺 事 件 が 勃 発 す る 。
労 働 者 は 、 八 時 間 労 働 制 、 三 〇 パ ー セ ン ト の賃 上 げ 、 罰 金 制 の廃 止 、 食 料 品 の品 質 向 上 、 住 宅 事 情 の改 良 な ど
の要 求 を 掲 げ て 、 一九 一二年 三 月 ス ト ライ キ に入 った 。 これ に た いし 、 憲 兵 隊 長 ト レ シ チ ェ ン コフ は経 営 者 と 合
意 の上 四 月 三 日夜 スト 指 導 者 の 一部 を 逮 捕 し た の で 、 四 日 の 昼 間 約 三 、 〇 〇 〇 の労 働 者 が釈 放 を歎 願 す る た め 検
二 五〇 人 が負 傷 し た 。 こ の事 件 は 全 ロ シ ア の労 働 者 に大 き な 衝 撃 を あ た え た が、 一九 一二年 四 月 十 日 の国 会 で 時
察 庁 の方 へ移 動 し た 。 こ の時 ト レ シ チ ェ ン コ フは 部 下 の軍 隊 に 発 砲 を 命 じ た た め 、 労 働 者 側 の 二 七 〇 人 が死 に 、
の内 務 大 臣 マカ ロフ が こ の事 件 に か ん す る答 弁 で ﹁こう であ った し 、 今 後 も こう で あ る で あ ろ う ﹂ と 答 え た こと
﹁レ ナ 射 殺 事 件 は 、 大 衆 の革 命 的 心情 が大 衆 の革 命 的 高 揚 に移 行 す る動 機 と な った ﹂ と 書 い て いる 。
で、 ま た 新 た な 憤 激 を 買 った 。 抗 議 のデ モや スト な ど が 全 国 的 に も り あ が った 。 レ ー ニ ンは こ の 事 件 に つ い て
シ ベリ アにお け シ ベ リ ア で は 手 工業 が あ ま り 発 達 し な か った た め 、 各 種 の 織 物 、 金 属 製 品 な ど は ほ と ん ど 欧 る 商 業 の 発 達 露 か ら の移 入 に ま た ね ば な ら な か った 。 ま た シ ベ リ ア か ら は 毛 皮 な ど を 欧 露 の市 場 に供 給 し
た 。 こう し て欧 露 の モ ス ク ワ、 ア ル ハ ンゲ リ ス ク、 ヤ ロ ス ラ ウ リ な ど の商 社 か ら シ ベ リ ア の諸 都 市 に代 理 人 が 派
遣 さ れ て い た 。 十 八 世 紀 に シ ベ リ ア に あ った ロシ ア 商 社 の数 は 四 〇 を数 え た 。
った 。 イ リ ム ス キ ー 税 関 の記 録 に よ る と 、 一六 四 九 年 の九 月 か ら 十 月 のあ いだ に総 額 二 一、 六 三 八 ル ー ブ リ の商
十 七 世 紀 末 ま で東 シ ベ リ ア に お け る 商 業 の中 心 地 は エ ニ セイ ス ク で、 つぎ に 重 要 な 地 点 は イ リ ム スキ ー柵 で あ
品 が欧 露 か ら 運 び こま れ、 一六 五 八 年 九 月 か ら 五 九 年 十 月 ま で の あ いだ に 二 三 、 九 四 〇 枚 の 毛 皮 が 買 い と ら れ た 。 (前 掲 書 一八 八 頁 )
一六 八 〇 年 代 以 後 東 ベ シ リ ア の商 業 中 心 地 はイ ル ク ー ツ ク に 移 った が 、 一方 シベ リ ア と 欧 露 と の交 易 場 と し て
ウ ラ ル の東 麓 イ ルビ ー ト に 一六 三 二年 に設 け ら れ た 定 期 市 が 登 場 し た 。 こ の年 市 は シ ベ リ ア鉄 道 の開 通 ま で非 常
な 盛 況 を 示 し 、 十 九 世 紀 の七 〇 ︱ 八 〇 年 代 に は数 千 人 の商 人 が 集 ま り 、 取 引 総 額 四 〇 〇 〇 万 ︱ 六 〇 〇 〇 万 ル ー ブ リ に達 し た。
の町 に通 じ 、 ま た北 方 へは ウ ェル ホ レ ン スク か ら レ ナ川 を 経 て ヤ ク ー ツ ク と 結 ば れ 、 西 へは ア ンガ ラ川 経 由 で エ
イ ル ク ー ツ ク は 地 理 的 に 恵 ま れ て いた 。 ア ンガ ラ川 か ら バ イ カ ル湖 、 セ レ ン ガ川 を 経 て ネ ル チ ン ス ク な ど 国 境
ニセイ ス ク に通 じ て いた 。 一七 一八 年 に は 西 方 か ら 三 二 八 台 の荷 馬 車 が イ ル ク ー ツ ク に 入 って い る。 国 家 独 占 に
よ って、 個 人 商 人 の活 躍 は あ る程 度 妨 げ ら れ た が 、 中 継 交 易 地 と し て の イ ル ク ー ツ ク の役 割 は 年 々増 大 し て い っ た。
シ ベ リ ア の商 業 史 で 特 記 さ れ る べ き は露 支 貿 易 の発 達 で あ る 。 一六 一八 年 カザ ク の ペ ト リ ンと コズ ィ ロワ は ト
ボ リ スク の代 官 ク ラ キ ン の命 に よ って 、 ト ム スク 、 ク ズ ネ ツク を 経 て エ ニ セ イ 川 上 流 域 を 横 断 し 、 張 家 口 か ら 北
京 に 入 った 。 そ の後 一六 五 四 年 ツ ァー リ の命 に よ って、 勅 書 お よ び 最 初 の ロ シ ア商 品 を も って バ イ コ フ が カ ンバ
ル ィク (当 時 の北 京 の ロシ ア 名 ) の清 廷 に送 ら れ た が、 使 命 不 首 尾 の ま ま 一六 五 八 年 に ロ シ ア に 帰 った 。
つぎ に 一六 五 八年 二度 目 の公 式 使 節 と し て、 ペ ル フ ィ リ エ フ が 四〇 枚 の黒 テ ン の 毛皮 な ど を 土産 物 に し て 、 ほ
ぼ バ イ コ フと 同 じ 経 路 で北 京 に 入 った。 し か し 貿 易 の話 は 結 局 ま と ま ら ず に 終 った 。 そ の ころ ア ム ー ル川 付 近 で の国 境 紛 争 が絶 え な か った 。
こう し て公 式 の国 交 調 整 は 不 首 尾 で あ った が 、 一六 五〇 年 代 に ネ ル チ ン ス クと 満 洲 の町 ナ ウ ンと の間 に 非 公 式
コ フを 長 とす る 四 三 名 の隊 商 が 七 週 間 に わ た って北 京 で交 易 を行 った 。
の貿 易 が行 な わ れ て いた 。 ま た 民 間 商 人 が北 京 を 訪 れ はじ め 、 一六 七 四 年 に は セ レ ンギ ン ス ク か ら ポ ル シ ェ ン ニ
一六 七 五 年 三 度 目 の公 式 使 節 と し て ニ コライ ・ス パ フ ァリ ー が清 国 に 送 ら れ た 。 し かし こ れ も国 境 問 題 のた め
里 の長城 を通 る イ ス ブ ラ ン ド ・イ デ ス の 一 行,万
に 、 目 的 を達 す る こと な く 帰 国 し た 。 露 支 貿 易 の 一応 の開 始 は 一六 八
九 年 の ネ ル チ ン ス ク条 約 以 後 の こと で あ る。
一六 九 七 年 ピ ョー ト ル 一世 は 毛 皮 の輸 出 を 国 家 独 占 と し 、 民 間 商 人
に は官 営 隊 商 に 随 行 し て 他 の商 品 を売 る こと を 許 し た 。 官 営 隊 商 は 守
備 兵 一〇 〇 人 を含 む約 二〇 〇 人 か ら な り 、 モ スク ワ︱ 北 京 (約 八 、 八
三 二露 里 ) を 約 二年 間 で 一往 復 し た 。 ロシ ア領 内 の終 点 は 十 八 世 紀 初
(後 には キ ャ フ タ ) か ら 蒙 古 の ウ ル ガ を 経 由 し て ゴ ビ 砂 漠 を 縦 断 し て
頭 ま では キ ャ フタ で は な く 、 ネ ル チ ン ス ク で あ った 。 ネ ル チ ン ス ク
北 京 に至 る が 、 こ の砂 漠 は非 常 な 難 路 であ った 。 た と え ば 一六 九 二年
モ スク ワ か ら清 国 へ公 式 使 節 と し て お も む いた イ スブ ラ ンド ・イ デ ス
の隊 商 で は飼 料 不足 の た め ウ マ約 一〇 〇 頭 を 失 な い、 帰 路 で は ほ と ん ど 全 部 を 失 な って い る。
一七 二 七 年 に は 露 清 間 に キ ャ フタ 条 約 が結 ば れ 、 国 交 が確 立 し て 、
貿 易 も よ う や く 軌 道 に の った 。 官 営 貿 易 と な ら ん で 、 両 国 の民 間 貿 易
も か な り す す ん だ 。 官 営 隊 商 は 一六 九 三年 か ら 一七 六 二 年 正 式 に廃 止
さ れ る ま で 一七 回 派 遣 さ れ 、 ロ シ ア か ら 清 国 へ総 額 二 、 〇 三 六 、四 九 七
ル ー ブ リ の商 品 が運 ば れ、 ほ ぼ 同 額 の清 国 商 品 が ロ シ ア に輸 入 さ れ た 。
ロ シ ア か ら の輸 出 品 は毛 皮 類 が 圧 倒 的 で、 中 国 か ら の輸 入 総 額 の約 半
デ ス に よ る) 17世 紀 末 の ネ ル チ ン ス ク(イ
分 は 絹 織 物 で あ った 。 こ の貿 易 に お け る毛 皮 は す べ て シ ベ リ ア で
ベ リ ア街 道 の諸 都 市 の人 口 は いち じ る し く 増 大 し た。 一七 四 五年
調 達 さ れ た こ と は いう ま で も な い。 こう し た貿 易 に刺 激 さ れ て シ
現 在 で ト ム ス ク 一七 、一三 三 、ト ボ リ ス ク 一五 、七 三 九 、エ ニ セイ ス
ク 一二 、三 四 一、ク ズ ネ ツ ク 一 一、三 七 四 、イ ル ク ー ツ ク 一〇 、三 八
四 、ネ ル チ ン ス ク 五 、二 七 一、セ レ ンギ ン ス ク 四 、二 四 四 人 で あ った 。
官 営 隊 商 は 一七 五 五年 事 実 上 廃 止 さ れ た が、 そ の後 の露 清 間 の
は 合 法 的 貿 易 は こ こ に集 中 し た 。 ま た 一七 六 二 年 に は 関 税 さ え支
貿 易 は 、 一七 二 八 年 に開 か れ た キ ャ フ タ に 移 り 、 一七 七 二年 以後
払 え ば 民 間 商 人 が誰 で も 自 由 に キ ャ フ タ ま た は 北 京 で 交 易 す る こ
一七 五 七 ︱ 八 四 年 間 に取 引 高 は 五 ・四 倍 に増 大 し た。 ま た 一七 五
と を 許 さ れ る と と も に、 や が て毛 皮 輸 出 の国 家 独 占 も 解 除 さ れ て、
五 ︱ 一八 五 〇 年 のあ いだ 、 キ ャ フタ で の取 引 高 は 八 三 七 、 〇 〇 〇
ル ー ブ リ か ら 一三 、 八 三 二 、 〇 〇 〇 ルー ブ リ に、 つま り 一六 ・五
倍 に増 大 し た 。 こ の約 百年 間 の キ ャ フ タ に お け る露 清 間 の貿 易 は 、
一七 五 〇 年 代 か ら 一八 二〇 年 代 ま で の前 期 と 、 そ れ 以 後 一八 五 〇
年 代 ま で の後 期 と に大 別 さ れ る。 前 期 では ヨー ロ ッパ諸 国 の海 上
貿 易 の影 響 を 受 け な か った た め き わ め て順 調 に 交 易 が伸 長 し た が、
後 期 で は英 国 な ど の進 出 に よ って キ ャ フ タ貿 易 が 衰 勢 に 向 った 。 商 品 の品 目 で も 、 前 期 に お い て は ロシ ア 輸 出 品
総 額 の八 五 パ ー セ ント は 毛 皮 で あ り 、 中 国 輸 出 品 総 額 の八 五︱ 九 〇 パ ー セ ント は綿 布 お よ び絹 布 で あ った 。 と こ
五 ・四 パ ー セ ント を占 め、 毛 皮 の比 重 は 二 三 ・七 パ ー セ ント ま で 低 下 し た 。 ま た中 国 か ら の輸 入 品 の 九 四 ・八 パ
ろ が 十 九 世 紀 中 ご ろ に は、 ロシ ア は中 国 か ら 綿 布 を 輸 入 し な く な った だ け で な く 、 逆 に 各 種 織 物 が 輸 出 品 の 六
ー セ ント ま で は 茶 で占 め ら れ た 。 そ の後 西 欧 諸 国 の海 上 貿 易 に 圧 迫 され 、 ま た ロ シ ア が 近 代 産 業 に立 ち お く れ て
ち た 。 (ス ラ ド コ フ ス キ ー ﹃ソ連 と中 国 と の経 済 関 係 概 説 ﹄ 五〇 ︱ 九 一頁 ) シ ベ リ ア 鉄 道 の開 通 は キ ャ フ タ の凋
中 国 市 場 に お け る競 争 力 を 失 な った た め 、 キ ャ フ タ で の ロ シ ア の輸 出 額 は 一八 九 三年 に は 約 一〇 〇 ル ーブ リ に落
落 に拍 車 を か け 、 外 モ ンゴ ルと の貿 易 で わ ず か に 余 命 を つな いだ 。
継 貿 易 で ば く 大 な 利 潤 を 得 た イ ル ク ー ツ ク の商 業 資 本 は 、 シ ベ リア 鉄 道 の路 線 決 定 に お い て も 重 要 な 発 言 権 を も
こ のキ ャ フ タ に お け る露 清 貿 易 に よ って、 シ ベ リ ア街 道 の諸 都 市 、 と く に イ ル ク ー ツ ク は 大 い に繁 栄 し た 。 中
つ ま で に な った の であ る。 (﹃北 方 年 代 記 ﹄ 第 二 冊 一九 七 頁 )
も って シ ベ リ ア の都 市 を 訪 れ て い る。 十 七 世 紀 中 に は ブ ハ ラ の隊 商 が ト ボ リ スク に 一八 回 、 さ ら に 一六 七 一年 に
こ の ほ か に シ ベ リ ア へは シ ビ リ ア ・ ハ ン国 の時 以 来 中 央 アジ ア のブ ハラ、 ヒ ワ な ど の隊 商 が各 種 の織 物 な ど を
は ク ラ ス ノ ヤ ル スク ま で 入 り こん で い る。 ま た チ ュメ ニ、 ト ゥー リ ン ス ク、 ウ ェル ホ ト ゥー リ エ、 ト ム ス ク な ど
﹁わ れ わ れ が シ ベ リ ア 、 ア ジ ア の方 向 に 力 の 衝 撃 を あ た え な い限 り 、 東 方 の いた る 地 域 で 割
一八 八 四年 ム ス ニツ キ ー と い う資 本 家 は ロ シ ア 商 工会 議 所 の集 会 で つぎ のよ う に 演 説 し た 。
ま で 訪 れ て いる こ と は 興 味 深 い事 実 で あ る 。 (バフ ル ー シ ン ﹃十 六 ︱ 十 七 世 紀 の シベ リ ア と 中 央 ア ジ ア﹄ 著 作 集 第 四巻 二〇 二頁 )
シ ベリ ア鉄 道 の 建設 と その影 響
増 金 を 支 払 った り 、 ク ー リ ジ ャを 手 放 し た り な ど し な く て は な ら な い。 わ れ わ れ が シ ベ リ ア鉄 道 建 設 のよ う な 重
要 な 事 業 に資 本 投 下 を 敢 行 し な いう ち に 、 フ ラ ン スは 数 億 の資 本 を ト ンキ ンに投 じ 、 フ ラ ン ス人 は 中 国 貿 易 を 手
あ ろう か。 ⋮ ⋮ で き る だ け 早 く 中 国 に接 近 す る 必 要 が あ る 。 そ う し て わ れ わ れ が か の地 に 到 達 し 、 そ こ で 商 工 業
中 にし た 。 も し も モ スク ワ が新 市 場 と 販 路 を求 め る な ら ば 、 シ ベ リ アと 中 国 以 外 の いず こに そ れ を 求 め る べ き で
を 発 展 さ せ る権 利 と 可 能 性 を 確 保 す る た め に 、 国 家 か ら 若 干 の資 本 を 必要 と し て いる 。﹂ シ ベ リ ア鉄 道 の 建 設 は
シ ア ・ブ ルジ ョ アジ ー の シ ベ リ ア 進 出 に 反 対 し 、 シ ベ リ ア鉄 道 に も 反 対 し た 。 彼 ら は 資 本 家 の シ ベ リ ア 収 奪 を 恐
最 初 こ の よ う な資 本 主 義 的 要 求 に導 か れ た が 、 これ に 対 し て ヤ ド リ ン ツ ェ フら シベ リ ア 在 住 知 識 人 の 一部 は、 ロ
れ て 、 む し ろ 自 治 を主 張 し た の で あ った 。 (﹃シ ベ リ ア お よ び極 東 の歴 史 の諸 問 題 ﹄ 九 七頁 )
ベ リ ア鉄 道 の東 側 か ら の起 工 式 に参 列 し 、 そ の礎 石 を お いた 。 一八 九 二年 、 西 側 の チ ェリ ャビ ン スク か ら の 工事
一八 九 一年 五 月 十 九 日、 当 時 ま だ皇 太 子 であ った ニ コラ イ 二世 は 、 日 本 訪 問 旅 行 の 帰 り道 ウ ラ ジ ボ ス ト ク で シ
開 始 と 同 時 に 皇 太 子 を 委 員 長 と す る シ ベ リ ア鉄 道 委 員 会 が 結 成 さ れ た 。 敷 設 工事 は、 極 東 に お け る軍 事 的 衝 突 の
危 険 に か ん が み急 に拍 車 を か け ら れ た 。 シ ベ リ ア鉄 道 の建 設 で も っと も 重 要 な 役 割 を は た し た 大 蔵 大 臣 ウ ィ ッテ
大 臣 は 、 シ ベ リ ア 鉄 道 に よ って兵 員 や軍 需 物 資 を 輸 送 す る こと が唯 一の目 的 で あ ると 考 え て い た 。
伯 が、 こ の鉄 道 は ﹁主 と し て 軍 事 ・政 治 的 思 惑 に よ って 建 設 さ れ た ﹂ と の べ て いる よ う に 、 当 時 ロ シ ア の多 く の
し か し 実 際 に は 、 こ の思 惑 と は ま った く 違 って 、 シ ベ リ ア 鉄 道 は そ の建 設 の過 程 に お い て 、 ま た そ の開 通 後 に
ア を 開 いた ﹂ と書 い て い る。
お いて 、 ロ シ ア資 本 主 義 を シ ベ リ ア の奥 深 く 引 き 入 れ る役 割 を は た し た 。 レ ー ニ ンは 、 シベ リ ア 鉄 道 が ﹁シ ベ リ
鉄 道 の建 設 に は 欧 露 の各 県 か ら 大 量 の労 働 者 が 参 加 し 、 新 し い移 民 の多 く は 鉄 道 工 事 に 雇 わ れ 、 や が て そ の ま
ィ ン ラ ンド 、 イ タ リ ア、 ド イ ツ な ど か ら も技 術 者 や 労 働 者 が参 加 し た が 、 こ れ ら 外 国 か ら の労 働 者 数 は 一五 、 七
ま 鉄 道 労 働 者 と し て落 ち つく も のも 少 な く な か った 。 大 量 の流 刑 囚 も つぎ こ ま れ た 。 ま た 中 国 、 朝 鮮 、 日 本 、 フ
〇 〇 人 に達 し た 。 こ の う ち 四 分 の三 は、 ウ ス リ ー 工 事 区 、 ザ バ イ カ ル工 事 区 で働 い た 中 国 、 朝 鮮 、 日 本 の 労 務 者
で あ った と いう 。 付 近 の金 鉱 山 か ら も 多 数 の労 働 者 が 鉄 道 工 事 に 投 じ た 。 一八 九 七年 鉄 道 工事 への参 加 労 働 者 数
は も ち ろ ん 貧 農 出 身 が大 部 分 を 占 め た が 、 沿 線 農 村 の階 層 分 化 は 一そ う 促 進 さ れ 、 家 父 長 制 的 経 済 関 係 は 一挙 に
五 五 、 五 〇 〇 、 そ のう ち 約 二 六 ・五 パ ー セ ント の 一四 、 七 〇 〇 人 は シ ベ リ ア出 身 者 で あ った。 鉄 道 工 事 の労 働 者
崩 れ 去 った 。 全 工 事 の約 半 分 は 一二 の大 土 木 請 負 業 者 に よ って な さ れ 、 そ の主 な も のは 約 二 〇 〇 万 ︱ 七 〇 〇 万 ル ー ブ リ の利 益 を 得 た の であ る 。
シ ベ リ ア 鉄 道 は 欧 露 の 工 業 資 本 の 一大 市 場 と な った 。 一九 〇 三 年 ま で に ウ ラ ル以 西 の鉄 道 関 係 の工 場 は シ ベ リ
ア鉄 道 の た め に 機 関 車 一、 五 一四 台 、 車 輛 三 〇 、 一九 七 台 を提 供 し た 。 建 設 材 料 、 動 力 機 械 の金 額 は 約 五 億 ル ー
ブ リ に達 し 、 欧 露 の 工業 生 産 は いち じ る し く 増 大 し た 。 こ の結 果 鉄 の 不 足 を き た し 、 シ ベ リ ア の 工 場 の銑 鉄 生 産 額 は そ れ ま で の最 高 に達 し た。
鉄 道 敷 設 の総 工 費 は 一九 〇 三年 十 二 月 一日現 在 で 一、 〇 〇 〇 、 四 五 七 、 四 六 五 ルー ブ リ (ペ ル ミ︱ コト ラ ス鉄
ル ー ブ リ で あ った 。 シ ベ リ ア の総 工業 生 産 高 は 一九 〇 三年 で 五 〇 〇 〇 万 ル ーブ リ 、 一九 一四 年 で 九 〇 〇 〇 万 ル ー
道 お よ び エカ チ ェリ ンブ ルグ 鉄 道 の 九 億 ル ーブ リ を の ぞく )、 一九 一四 年 ま で に は 一、 四 七 二 、 五 八 五 、 五 九 一
ブ リ であ った か ら 、 シ ベ リ ア鉄 道 の工 費 は じ つ に そ の 一七 ︱ 二 〇 倍 に達 し て い る。 こ の ほ か 一九 〇 三 年 ま で に 三 二〇 〇 万 ル ーブ リ が シ ベ リ ア の科 学 調 査 費 と し て投 下 さ れ た 。
シ ベ リ ア鉄 道 は ロシ ア 人 の シ ベ リ ア移 住 を 促 進 し 、 シベ リ ア の人 口 は 一八 九 七 年 の四 六〇 万 か ら 一九 一四 年 の
七 六 〇 万 に 増 加 し た 。 播 種 面 積 に つ い て見 ると 、 一九 〇 一︱ 〇 五 年 の 四 五 〇 万 デ シ ャチ ナ か ら 一九 一 一︱ 一五 年
の 六 七 〇 万 デ シ ャチ ナ (ス テ ップ 地 帯 を の ぞく ) に増 大 し た 。 農 業 機 械 も ロシ ア 製 だ け で な く 、 欧 米 各 国 か ら 輸
一九 〇 一︱ 〇 五 年 か ら 一九 一七 年 ま で に 一三 二 ・二 パ ー セ ント増 大 し て い る。
入 さ れ 、 一九 一〇 ︱ 一五 年 間 に 総 額 九 七 五 〇 万 ル ー ブ リ に 達 し た 。 農 業 生産 は主 要 穀 物 一〇 種 類 に つ い て 見 る と、
シ ベ リ ア鉄 道 は シ ベ リ ア の油 、 バ タ ー な ど を ヨー ロ ッ パ市 場 に解 放 し た 。 製 酪 工 場 数 は 一八 九 七年 に は 五 一で
あ った も の が 、 一九 一三 年 に は 三 、 九 三 六 と な り 、 シ ベ リ ア か ら の油 ・バ タ ー の移 出 は 一九 〇 〇 年 の 一〇 〇 万 プ ー ド か ら 一九 一三 年 の五 五 〇 万 プ ー ド に 増 加 し た 。
石 炭 は 東 シ ベ リ ア の場 合 一九 〇 〇 年 の石 炭 産 額 は 五〇 〇 万 プ ー ド で あ った が、 一九 一七 年 に は 一 一五 〇 〇 万 プ
ー ド と な り、 じ つに 二 三 倍 増 加 し て いる 。 十 七 世 紀 か ら 歴 史 を も つ製 塩 業 で は、 一九 〇 〇 年 東 シ ベ リ ア で七 〇 万
プ ー ド の産 額 で あ った も のが 、 一九 一七 年 に は 一、 六 六 七 、 〇 〇 〇 プ ード に 増 加 し て い る。 (前 掲 書 一 一六 頁 )
の開 通 に よ って急 速 に変 化 し た 。 シ ベ リ ア が そ の後 欧 露 と 真 に そ の運 命 を と も に す る こ と の で き た の は 、 ま さ に
こ の ほ か都 市 人 口 の増 加 、 鉄 道 労 働 者 の革 命 運 動 に お け る役 割 な ど 、 シ ベ リ ア の あ ら ゆ る 側 面 は シ ベ リ ア 鉄 道
シ ベ リ ア鉄 道 の 開 道 に よ る と いう 側 面 を 見 な いわ け に は いか な い の で あ る。
シ ベ リ ア 鉄 道 (チ ェリ ヤ ビ ン ス ク か ら ウ ラジ ボ スト ク ま で 全 長 七 、 四 一六 キ ロ) は 一八 九 七 年 に西 は チ ェリ ヤ
ビ ン ス ク ︱︱ イ ル ク ー ル ク 間 、 東 は ウ ラ ジ ボ スト ク ︱ ︱ ハバ ロ フ ス ク 間 が開 通 し 、 バ イ カ ル湖 周 辺 は も っと も 遅
れ 、 一九 〇 〇 年 以 後 、 一時 列 車 は 特 別 の船 に の せ ら れ てバ イ カ ル湖 を渡 った 。 そ の ころ 日 本 ・ ロシ ア 間 の情 勢 緊
迫 に と も な い、 ひ と ま ず 満 洲 経 由 の東 清 鉄 道 を 一九 〇 四年 完 成 し 、 沿 海 州 と 連 絡 し た 。 一九 〇 五 年 シ ル カ川 沿 岸
の ス レ チ ェ ン ス ク ま で通 じ 、 こ こ か ら ハバ ロ フ スク ま で の短 か い 区 間 は 一九 一六 年 に や っと 完 成 し た 。 そ の後 一
九 三 〇 年 に は シ ベ リ アと 中 央 ア ジ ア を結 ぶ ト ル ケ ス タ ン ・シ ベ リ ア鉄 道 (一、 四 四 二 キ ロ) が開 通 、 三 七 年 に は
シ ベ リ ア 鉄 道 の全 線 が 複 線 化 さ れ 、 六 〇 年 に は モ ス ク ワ︱︱ イ ル ク ー ツ ク 間 の電 化 が 完 成 し た 。 一九 五 一年 に は
東 シ ベ リ ア の タ イ シ ェト ︱︱ ウ スチ ク ー ト 間 の鉄 道 に着 工 し 、 ま た森 林 の宝 庫 で あ る ア ンガ ラ ・ エ ニ セイ 地帯 と 、
木 材 の不 足 す る 中 央 ア ジ ア お よ び カザ フ スタ ンを 結 ぶ ア チ ン スク︱︱ エ ニ セイ ス ク間 の鉄 道 も 建 設 中 で あ る。 革
お い て シ ベリ ア 鉄 道 が は た し た 重 大 な 役 割 に つ いて は 、 今 更 多 言 を要 し な い で あ ろ う 。
命 後 最 初 の五 ヵ年 計 画 に お け る ク ズ ネ ツ ク 地方 の 工業 化 、 最 近 の東 部 シ ベ リ ア の 工業 化 、 極 東 地方 の開 発 な ど に
第 十 章 シ ベ リ ア の教 育 制 度
シ ベ リ ア に学 校 ら し い も の が出 現 し た の は 十 八 世 紀 の中 ご ろ 以 後 で あ る。 イ ル ク ー ツ ク (一七 五 四年 ) と ネ ル
チ ン スク に航 海 学 校 、 ト ボ リ スク と ト ム スク に 測 量 学 校 の設 立 さ れ た の が最 初 で あ る。 一七 八 一年 イ ル ク ー ツ ク
に 市 立 学 校 が開 か れ 、 八 九 年 国 民 学 校 に改 編 さ れ た 。 一七 三 六 年 ペ テ ルブ ルグ の ロ シ ア帝 国 科 学 ア カデ ミ ー に開
設 さ れ た 日 本 語 、 モ ンゴ ル語 な ど の通 訳 養 成 所 は 五 三年 イ ル ク ー ツ ク に 移 転 し 、 一八 一六 年 に 廃 さ れ た 。 一八 〇
六 年 に は ト ボ リ ス ク と イ ル ク ー ツ ク に 中 学 校 が開 設 さ れ た が 、 生 徒 数 は 少 な く 、 イ ル ク ー ツ ク の場 合 で創 立 時 に
三 五 人 、 一八 二 五年 四 七 人 を 数 え る に す ぎ な か った。 こ の頃 に な る と ク ラ ス ノ ヤ ル スク や エ ニセ イ スク な ど の町
に も 国 民 学 校 が でき 、 スペ ラ ン ス キ ー が総 督 で あ った と き さ ら に そ の数 は増 加 し た 。 し かし シ ベ リ ア住 民 の教 育
熱 は さ っぱ り あ がら ず 、 多 く の商 人 は 子 弟 を 徒 弟 な ど に よ る実 地 教 育 に出 す こと が多 か った 。 一八 四 五 年 イ ル ク
(ヤド リ ン ツ ェフ ﹃植 民 地 と し て シ ベ リ ア﹄ 五 五 五 頁 ) し かし 遅 々と し た歩 み で は あ って も読 み書 き の で き る 者
ー ツ ク に シ ベ リ ア最 初 の女 学 校 が創 立 さ れ た が 、 首 都 か ら転 任 し た 少 数 の 高 官 の子 女 が入 学 す る だ け で あ った 。
ント 、 シ ベ リ ア だ け に つ い て見 ると 男 子 一九 ・二 パ ー セ ント 、 女 子 五 ・ 一パ ー セ ント が 読 み書 き の で き る者 で あ
の 数 は し だ いに ふえ 、 一八 九 七 年 の統 計 に よ る と ロ シ ア全 土 の 男 子 二 九 ・三 パ ー セ ント 、 女 子 の 一三 ・ 一パ ー セ
った 。 (﹃アジ ア ・ロ シ ア﹄ 第 一巻 二 五 八 頁 ) 学 校 数 は 一九 一 一年 現 在 で ト ボ リ ス ク県 一、 二四 八 、 ト ム スク 県 一、
六 六 二 、 エ ニセ イ ス ク県 六 一九 、 イ ル ク ー ツ ク県 七 一 一、 ザ バ イ カ ル州 六 五 二 、 ア ム ー ル州 二 二八 、 沿 海 州 、 サ
ハリ ン お よ び カ ム チ ャ ツ カ 四 七 〇 、 ヤ ク ー ト 州 一 一四 、 合 計 五 、 七 一四 で 、 これ に 学 ぶ学 生 生 徒 の総 数 は 二 九 七 、 七 七 九 人 で あ った 。 ( 前 掲 書 二六 〇 頁 )
シ ベ リ ア の高 等 教 育 機 関 と し て は、 十 九 世 紀 初 頭 以 来 シ ベ リ ア に 住 む 少 数 の知 識 階 級 の悲 願 であ った 大 学 が 一
八 八 八 年 ト ム ス ク に 設 置 さ れ た の が 最 初 で あ る。 こ の大 学 は 四 学 部 、 学 生 数 七 二名 で出 発 し た 。 そ の後 一九 〇 〇
︱ 〇 一年 同 じ く ト ム ス ク に 工 芸 専 門 学 校 、 一〇 年 ウ ラ ジ ボ スト ク に 東 洋 語 専 門 学 校 、 ト ム スク に女 子 専 門 学 校 が
創 立 さ れ た が、 以 上 の四 つが 革 命 前 の シ ベ リ ア に お け る 高 等 教 育 機 関 のす べ て で あ る。
以 上 の べ た よ う な 公 式 の教 育 制 度 の ほ か に 、 シ ベ リ ア流 刑 の政 治 犯 のは た し た 啓 蒙 的 役 割 は 重 要 で あ る 。 一八
二六 年 デ カ ブ リ スト事 件 の審 理 が 終 った と き 、 と き の ロシ ア自 由 経 済 協 会 総 裁 モ ルド ビ ノ フ は 、 当 時 の最 高 の教
養 を も つデ カブ リ スト を 教 官 と す る ﹁シベ リ ア ・ア カデ ミ ー ﹂ の創 設 を 提 案 し た 。 こ の奇 抜 な 計 画 は ニ コ ライ 一
世 に拒 否 さ れ て 実 現 し な か った が 、 一部 のデ カブ リ スト た ち は流 刑 地 シベ リ ア で事 実 上 学 問 の種 を ま い た 。 と く
に ベ ス ト ゥジ ェフ兄 弟 は ザ バ イ カ ル 地 方 で 医 者 のケ リ ベ ル クを は じ め数 人 のす ぐ れ た 人 物 を 生 み出 し て い る。 似 た よ う な 例 は 他 の流 刑 囚 の場 合 に も 見 ら れ る 。
ま た 一八 六 一年 以 後 は 国 境 の交 易 都 市 キ ャ フ タ が天 津 を通 じ て ロ ンド ンや ア メ リ カ と 交 渉 を も って い た た め 、
こ と も注 目 す べ き 事 実 で あ る。 (ペ ト リ ャ エ フ ﹃人 間 と 運 命 ﹄ 二 四 頁 )
ゲ ル ツ ェン の ﹃鐘 ﹄ や ﹃北 極 星 ﹄ の よ う な 革 命 的 文 書 が 検 閲 の眼 を の が れ て東 ま わ り で シベ リ ア へ流 入 し て いた
第 十 一章 ロ シ ア 革 命 と シ ベ リ ア
(エ ス エ ル) と と も に こ の委 員 に 選 ば れ て いた 。 し
ソビ エト政権 の樹 立 二 月 革 命 の後 シ ベ リ ア の各 地 に は ケ レ ン ス キ ー臨 時 政 府 の 地 方 権 力 機 関 と し て社 会 安 全 と 反革命 活動 の開始 委 員 会 が 選 出 さ れ た 。 一般 に労 働 者 ・兵 士 代 表 ソビ エト は こ の委 員 会 よ り 後 に成 立 し た た め に 、 一部 の ボ リ シ ェビ キ も メ ン シ ェビ キ や社 会 革 命 党 員
か し 一九 一七年 五 月 に は ト ム ス ク、 ト ボ リ ス ク、 ク ラ ス ノ ヤ ル スク な ど の都 市 に ボ リ シ ェビ キ 独 自 の組 織 が つく
ら れ た 。 こ の頃 第 一次 ロシ ア革 命 (一九 〇 五 年 ) 以 来 弾 圧 さ れ て い た労 働 組 合 な ど も復 活 し て ボ リ シ ェビ キ の有
力 な 支 持 者 と な った。 一七 年 八 月 三 十 日 に コ ル ニ ロ フ将 軍 の反 乱 が 鎮 圧 さ れ て後 は 、 ロ シ ア の他 の地 域 と 同 様 シ
ベ リ ア で も 政 治 の実 権 は ソ ビ エト ま た は そ の委 員 会 の手 に帰 し た 。 こと に ク ラ ス ノ ヤ ル ス ク市 の ソ ビ エト権 力 は 強 く 、 市 駐 在 の臨 時 政 府 委 員 も 名 目 的 な も の に す ぎ な か った 。
一九 一七 年 十 月 二 十 五 日 (新 暦 十 一月 七 日 ) の社 会 主 義 革 命 の後 、 シ ベ リ ア の諸 都 市 に ソビ エト 政 権 が樹 立 さ
ク ラ スノ ヤ ル スク で は 市 議 会 を革 命 支 持 の方 向 に 動 か し 得 た し 、 イ ル ク ー ツ ク で は 士 官 候 補 生 を 中 心 と す る 反 乱
れ た 時 期 と 状 況 は 、 そ れ ぞ れ の都 市 の実 状 に よ って か な り 異 な って いた 。 た と え ば ボ リ シ ェビ キ の強 力 で あ った
(十 二 月 十 七 日 鎮 圧 ) が起 った 。 ト ム スク 、 バ ル ナ ウ ル、 オ ム ス ク で は 一七 年 十 二 月 六 日 に 、 他 の ほ と ん ど の都
市 や農 村 で は 一八 年 の 二月 中 ご ろ ま で に ソ ビ エト 政 権 が 確 立 し た 。 ウ ラ ジ ボ スト ク の場 合 は 十 一月 十 八 日 (新 暦
十 二 月 一日 ) であ った。 ソビ エト政 権 の勝 利 は 全 シ ベ リ ア で 三 ︱ 四 万 を数 え た赤 衛 軍 を 背 景 に行 わ れ た が 、 し か
し 反 革 命 的 勢 力 は 根 深 く 、 ソ ビ エト 政 権 は 当 初 か ら そ の政 策 を 満 足 に 遂 行 す る こと が で き な か った 。 一七 年 十 一
月 十 二 日 の軍 事 革 命 委 員 会 の決 定 に よ って 一、 五 〇 〇 人 の水 兵 が ソ ビ エト政 権 の強 化 のた め に ウ ラ ル と シ ベ リ ア
へ送 り こま れ た 。 シ ベ リ ア の各 地 に も軍 事 革 命 委 員 会 が 設 置 さ れ は じ め 、 飢 え に 苦 し む 欧 露 へ シベ リ ア の パ ンを 送 る こ と が計 画 さ れ 、 一部 実 行 に移 さ れ た 。
一九 一八 年 三月 三 日 レ ー ニ ンは ブ レ スト で ド イ ツ と の単 独 講 和 条 約 に調 印 し 、 戦 争 の負 担 か ら の が れ て革 命 の
に 投 下 さ れ た 外 国 資 本 総 額 は 二 二 五 億 ル ーブ リ 、 こ のう ち の四 分 の 三 は 連 合 国 に 属 し た 。 一九 一七 年 末 ま で の帝
強 化 を は か った 。 し か し そ の息 抜 き も つか の ま 、 ぼ う 大 な 資 本 を 投 下 し て いた 諸 外 国 (一九 一六年 末 ま で ロ シ ア
政 ロ シ ア の総 借 款 は 一六 〇 億 ルー ブ リ に 達 し た ) は ロシ ア で の社 会 主 義 革 命 の成 功 を歓 迎 す る はず が な く 、 ロシ
ア国 内 の反 革 命 勢 力 と 呼 応 し て こ れ を 圧 殺 し よ う と は か った。 一八 年 早 々、 連 合 国 は そ の軍 隊 を ソビ エト 共 和 国 の領 内 に進 入 さ せ た 。
日英 仏 な ど の支 持 に よ る極 東 地 方 最 初 の反 革 命 軍 は 、 ケ レ ン ス キ ー 政 府 に よ ってザ バ イ カ ル地 方 軍 事 委 員 と し
て派 遣 さ れ て い た セ ミ ョノ フら の そ れ で あ った 。 彼 は 一八年 一月 一日 ザ バ イ カ ル地 方 カザ ク 軍 司 令 官 で あ る と 声
明 し 、 満 洲 か ら チ タ へ向 って 前 進 を は じ め た 。 チ タ は 当 時 ザ バ イ カ ル地 方 の中 心 で あ った が 、 ボ リ シ ェビ キ の勢
力 は弱 体 で あ った。 し か し セ ミ ョ ノ フ は そ の時 ど う いう 理 由 で か チ タ を 占 領 し な か った 。 彼 は 後 に主 と し て 日 本 の援 護 に よ って極 東 地 方 の反 革 命 運 動 で 重 要 な役 割 を は た す の で あ る 。
ガ モ フら の武 力 に よ る も の で 、 市 参 事 会 の長 は 臨 時 政 府 の ア ム ー ル州 委 員 を 勤 め て いた コジ ェ フ ニ コ フ で あ った 。
つ ぎ に 一八 年 三 月 、 ブ ラ ベ シ チ ェ ン スク 市 で 白 衛 軍 の反 乱 が お こ った 。 こ れ は ア ム ー ル ・カ ザ ク 軍 団 の 一頭 目
こ の市 に は 当 時 数 百 名 の 日本 人 居 留 民 が お り、 対 岸 の黒 河 に は さ まざ まな 反 革 命 勢 力 が 群 が って いた 。 冬 季 で あ
った た め に 両 市 のあ いだ は自 由 に往 来 で き る状 態 に あ った 。 ガ モ フ反 乱 を め ぐ る 前 後 の事 情 、 そ こ で の 日本 軍 お
﹃誰 の た め に﹄ の中 に詳 細 に 描 か れ て いる 。 ﹁崩 壊 し た 東 部 戦 線 (独 露 戦 線 ) を ウ ラ ル山 脈 に添 って 再 編 す る の
よ び 日 本 人 居 留 民 の役 割 に つ い て は 、 当 時 田 中 義 一中 将 の特 命 を う け て諜 報 任 務 に つ い て い た石 光 真 清 の回 想 記
が連 合 国 側 の要 請 だ が 、 日本 と し て は、 こ のさ い東 部 シ ベ リ ア に緩 衝 国 家 を建 設 し て 、 北 方 の脅 威 を 除 く ﹂ こと
が 日 本 の政 策 の 一基 調 を な し て いた 。 (石 光 真 清 ﹃誰 のた め に ﹄ 五 五 頁 ) 三 月 六 日 日 本 側 の支 持 を確 信 し た 白 衛
軍 は カザ ク の将 校 団 を 中 心 にし て 一斉 に 決 起 し 、 ﹁ア ム ー ル河 畔 の 闇 を 縫 って 赤 軍 砲 兵 営 にし の び 寄 り ど っと 雪
崩 れ こ ん で 忽 ち 制 圧 し 、 全 員 を 武 装 解 除 し 、 武 器 を 押 収 し て 引 揚 げ た 。﹂(前 掲 書 一四 四頁 ) お り し も 統 一 ソ ビ エ
ト 会 議 を 開 催 中 であ った ク ラ ス ノ シ チ ョー コフ、 ム ー ヒ ン、 シ ュー ト キ ンほ か 十 数 名 のボ リ シ ェビ キ 幹 部 は 捕 縛
さ れ 投 獄 さ れ た 。 付 近 の赤 衛 軍 の増 援 を 得 た 革 命 軍 は 、 三 月 九 日 七 五 名 の 日 本 義 勇 軍 を 含 む 反 革 命 軍 と 激 戦 を 交
﹁巣 を荒 さ れ た 蟻 のよ う に黒 い群 が ロ シ ア領 か ら 中 国 領 へ向 って 広 い幅 で流 れ 出 し た 。 ⋮ ⋮ 彼 等 の逃 れ行 く 氷 上
え 、 三 月 十 二 日総 攻 撃 を 行 って こ れ を黒 河 へ追 い払 った 。 石 光 真 清 は こ の と き の 状 景 を つぎ のよ う に 書 い て い る。
に は 点 々と 血 潮 の路 が で き た 。 ﹂ (前 掲 書 一六 四 頁 ) こ のと き 反 革 命 軍 は ブ ラ コベ シ チ ェン スク市 の銀 行 か ら 金 そ の他 の財 宝 三 七 〇 〇 万 ル ーブ リ を 運 び 去 った 。
そ の頃 ハ ル ピ ンに は 同 じ く 日 本 に 支 持 さ れ た ホ ル ワ ト 将 軍 を 首 班 と す る反 ソ ビ エト 政 府 が樹 立 さ れ 、 一八 年 一
月 は カ ザ ク軍 の隊 長 カ ル ム ィ コフ、 オ ル ロ フら が 満 洲 か ら ウ スリ ー地 方 へ侵 入 し た。 し か し 同 じ カ ザ ク で も 社 会
的 階 層 に よ って革 命 に た いす る 立場 を異 に し て お り 、 貧 し い層 は む し ろ革 命 の側 に傾 い て いた 。
ロ シ ア 革 命 後 、 一九 一八 年 五 月 二十 五 日 に勃 発 し た チ ェ コ ス ロバ キ ア軍 団 の 反 乱 は そ の後 血 で 血 を洗 う は げ し
い国 内 戦 の重 要 な 契 機 の ひ と つと な った 。
コルチ ャク の登場 と反革 こ の軍 団 の歴 史 は第 一次 世 界 大 戦 初 期 の 一九 一四年 八 月 に さ か の ぼ る 。 強 制 的 に オ 命 的 シ ベリ ア政府 の樹 立 ー ス ト リ ア ・ ハ ンガ リ ー 帝 国 軍 に編 入 さ れ た チ ェ コ人 と ス ロバ ク人 は 、 東 部 戦 線 で
戦 わ ず し て ロ シ ア軍 に投 じ 、 や が て 独 自 の軍 団 (四 ︱ 五 万 ) を 編 成 し て ロ シ ア軍 と と も に独 墺 軍 と 戦 か った 。 十
月 革 命 後 、 のち に チ ェ コ の大 統 領 と な った マサ リ ッ ク の奔 走 に よ って 、 武 装 解 除 後 市 民 と し て ウ ラ ジ ボ スト ク経
由 西 欧 に 帰 る こと が 許 さ れ た 。 一九 一八年 五 月 末 当 時 チ ェ コ軍 団 は ボ ルガ 川 沿 岸 か ら ウ ラ ジ ボ スト ク ま で シ ベ リ
ツ ク の鉄 道 に 一 一、 〇 〇 〇 名 、 ウ ラ ジ ボ スト ク に 一、四 〇 〇 〇 名 を 数 え た。 ソビ エト政 府 と の協 定 に よ れ ば チ ェ コ
ア鉄 道 に よ る輸 送 の途 中 に あ った。 ペ ンザ に 八 、〇 〇 〇 名 、チ ェリ ャビ ン ス ク に 九 、〇 〇 〇 名 、オ ム スク ︱ イ ル ク ー
軍 団 は 現 地 の ソビ エト機 関 に 武 器 を 提 出 す る こ と に な って いた が、 軍 団 に加 わ って い た 白 衛 軍 将 校 や チ ェ コ のブ
ルジ ョ ア ジ ー の代 表 者 に 煽 動 さ れ て、 武 装 解 除 を拒 否 し 反 乱 に 決 起 し た。 現 在 の研 究 で は 、 米 英 仏 伊 日 の いく つ
か の支 配 階 層 が こ の反 乱 に直 接 関 係 を も って いた こと が 立 証 さ れ て い る。 (ジ ュー コ フ ﹃極 東 国 際 政 治 史 ﹄邦 訳 上
巻 三 七 七 頁 ) し か し連 合 諸 国 は逆 に チ ェ コ軍 団 の救 出 を 旗 じ るし と し て積 極 的 に シ ベ リ ア 出 兵 を 準 備 し は じ め た。
反 乱 後 数 日 にし て シ ベ リ ア お よ び ウ ラ ル の多 く の都 市 が 占 領 さ れ 、 反 革 命 的 政 権 が 樹 立 さ れ た 。 六 月 六 日 サ マ
ラ (今 の ク イ ビ シ ェ フ) に反 革 命 の憲 法 制 定 会 議 員 委 員 会 (コム ー チ) が 組 織 さ れ 、 オ ム スク に シベ リ ア白 衛 軍
政 府 、 ウ ラ ル に ウ ラ ル地 方 政 府 な ど が成 立 し た 。 や が て コム ー チと オ ム ス ク政 府 と の 統 合 が は か ら れ 、 数 回 の会
議 と長 い議 論 の後 、 九 月 二 十 三 日 ウ フ ァで 五 人 か ら な る デ ィ レ ク ト リ ヤが 結 成 さ れ た 。 十 月 七 日 サ マラ が 赤 軍 に
日 オ ム ス ク政 府 の改 造 が行 な わ れ 、 ウ ラ ジ ボ スト ク か ら 来 た ば か り の コ ル チ ャ ク提 督 が海 軍 大 臣 と し て 入 閣 し た 。
攻 略 さ れ て 、 オ ム スク に本 部 が 移 さ れ た 。 これ よ り 先 の九 月 十 日 に は カ ザ ンが 赤 軍 の手 に 帰 し て いた 。 十 一月 五
反 革 命 勢 力 は そ の総 力 を 結 集 で き る よ う な 独 裁 者 の出 現 を 待 望 し て いた 。 帝 政 ロシ ア の海 軍 で黒 海 艦 隊 司 令 官
を つ と め 、 米 英 仏 日 な ど の諸 国 に旅 行 し て多 く の知 己 を も つ コル チ ャ ク が そ の適 任 者 と 目 さ れ 、 米 英 仏 に支 持 さ
れ た ク ー デ タ ー に よ って 十 一月 十 八 日 デ ィ レ ク ト リ ヤは 解 散 さ せ ら れ 、 コ ル チ ャク は ロ シ ア の ﹁最 高 統 治 者 ﹂ に
擁 立 さ れ た 。 満 洲 の ホ ル ワ ト将 軍 は コ ルチ ャク政 府 の極 東 方 面 最 高 司 令 官 と いう こと に な った 。 コ ル チ ャク は ワ
シ ント ン、 パ リ 、 ロ ンド ン、 東 京 な ど に 外 交 使 節 を お き 、 広 汎 な軍 事 的 ・財 政 的 援 助 を 要 請 し 、 ま た獲 得 し た 。
ユデ ニ ッチ ら と と も に 大 政 勢 を 開 始 し た 。 米 英 仏 日 の諸 国 か ら コ ル チ ャ ク軍 に あ た え ら れ た 武 器 は 一九 一九 年 に
彼 は ぼ う 大 な 軍 隊 の編 成 に着 手 し 、 一九 年 は じ め に は 三 〇 万 の軍 隊 を つく り、 欧 露 の反 革 命 派 であ る デ ニ キ ン、
小 銃 約 七 〇 万 、 機 関 銃 三 、 〇 〇 〇 、 砲 五 三 〇 、 飛 行 機 三 〇 、 弾 薬 数 億 発 な ど に 達 し た と い う 。 (リ プ キ ナ ﹃ 一九 一九 年 の シ ベ リ ア﹄ 八 六頁 )
ソ ビ エト政 権 に よ って実 施 さ れ た 土 地 、 工 場 な ど の国 有 化 政 策 は 破 棄 さ れ て再 び持 主 に か え さ れ た 。 し か し 革
命 に よ って農 民 や労 働 者 は 一度 は そ の土 地 や 工 場 の主 人 に な った の で あ る か ら 、 こ れ を 元 に も ど す こ と は 一方 の
支 持 を 得 て 他 方 の憤 激 を 買 う こ と にな る 。 そ れ に コル チ ャ ク政 権 の徹 底 的 な 軍 事 的 独 裁 、 重 税 、 き び し い徴 発 の
た め に 一般 民 衆 の不 満 は高 ま った 。 あ ら ゆ る弾 圧 の下 で各 地 の ボ リ シ ェビ キ の活 動 は続 け ら れ た 。
これ よ り 先 、 一九 一八 年 八 月 二 日 日本 は シ ベ リ ア へ の出 兵 を 宣 言 、 八 月 中 旬 以 後 日本 軍 は バ イ カ ル湖 以 東 の東
部 シ ベ リ ア地 域 、 主 と し て シ ベ リ ア鉄 道 沿 線 に展 開 し て、 鉄 道 の守 備 、 赤 色 パ ル チ ザ ン の討 伐 、 反 革 命 政 権 の支
援 な ど に あ た った。 陸 軍 大 臣 大 島 健 一の訓 示 に は ﹁夫 レ露 國 ハ友 邦 ナ リ 、 之 ヲ シテ 内 乱 ヲ鎭 定 シ交 戰 ノ義 務 ヲ履
行 セ シ メ ム コト ハ聯 合 與 國 ノ斉 シ ク 切 望 ス ル所 ナ リ、 我 軍 出 動 ノ目 的 ハ独 逸 ノ勢 力 ヲ駆 逐 シ テ ﹁チ ェ ック ・ス ロ
ー ヴ ア ック﹂ 軍 東 進 ノ阻 害 ヲ除 ク ニ在 ル モ從 テ自 ラ露 國 ノ 再 造 、 露 軍 ノ復 興 ニ貢 献 ス ル所 ア ル ハ亦 疑 フ ベ カ ラ ズ
⋮ ⋮ ﹂ と あ る。 (石 光 真 清 ﹃誰 のた め に ﹄ 二 三 八︱ 二 三 九 頁 )
一方 、 八 月 三 日 に は イ ギ リ ス軍 が ウ ラ ジ ボ スト ク に 上 陸 、 同 十 日 フ ラ ン ス の部 隊 が到 着 、 同 十 六 日 ア メ リ カ軍
が上 陸 し た 。 し かし ﹁反 革 命 派 と い って も 、 そ の系 統 は 複 雑 で あ り、 そ の 勢 力 分 野 は 混 沌 と し て い た。 し か も 共
同 出 兵 し た 列 国 の意 図 も ま た ひ と す じ 道 で は な か った 。 ⋮ ⋮ ま た 東 部 シ ベ リ ア の現 状 も 、 政 治 的 に も軍 事 的 に も
ワ ト 将 軍 と 黒 海 艦 隊 司 令 官 コ ル チ ャ ク提 督 と セ ミ ョノ フ大 尉 の 三 人 で あ った が、 三 人 の意 思 は 疏 通 し て いな か っ
混 沌 と し て予 測 を許 さ な か った 。 当 時 反 革 命 軍 の指 導 者 と し て 地 位 と 背 景 を 持 って いた も の は 東 清 鉄 道 長 官 ホ ル
た ば か り で な く 、 む し ろ 互 い に反 目 の間 柄 で も あ った 。 そ の他 の旧 軍 人 連 も 志 は 同 じ く し て い て も 互 い に有 利 な
地 位 を得 よ う と 疑 心 暗 鬼 に な って 争 って いた 。 日 本 軍 当 局 も ま た 実 力 で こ れ を 統 率 す る こ と も せず 、 そ れ ぞ れ に
武 官 を つ け て軍 略 上 の連 絡 に当 ら せ て い る 程 度 で あ った 。﹂ (前 掲 書 二 二 五︱ 二 五 七 頁 )
九 月 十 九 日 に は 日本 軍 は ブ ラ ゴ ベ シ チ ェ ン ス ク に 上 陸 、 ﹁戦 闘 も な く 平 和 的 に 進 駐 し て来 た﹂ が、 市 の 内 外 で
日本 軍 に よ る 略 奪 や 暴 行 が絶 え ず 、 石 光 真 清 は これ を 目撃 し て 憤 激 し て い る 。 反 革 命 派 の市 長 が石 光 真 清 に 向 っ
て ﹁鉄 道 は 占 有 す る 、 船 舶 は徴 発 す る、 国 有 の金 塊 を 押 収 す る、 軍 用 貨 物 を戦 利 品 と し て運 び去 る 。 これ で は 、
ま る で 日 本 軍 は わ れ わ れ を 敵 と し て侵 入 し た の だ と 判 断 し ても 間 違 い で は あ り ま せ ん。 ⋮ ⋮ こ のま ま の状 態 がな
お 今 後 続 け ば 、 ⋮ ⋮ や が て は 結 束 し て 日 本 軍 に 反 抗 す る 日 が く る でし ょう ﹂ と 訴 え る と こ ろ は じ つに印 象 的 であ
る 。 (前 掲 書 二 六 五頁 ) 事 実 、 パ ルチ ザ ン活 動 は 各 地 で し だ いに熾 烈 化 し て い った 。
線 に 六 〇 万 ) に 達 し 、 シ ベ リ ア 方 面 か ら西 へ向 かう コ ルチ ャク軍 は 一 三︱ 一五 万 を 数 え た が 、赤 軍 は 延 長 一、 八
さ て 一九 一九年 春 に は 四 方 か ら ロ シ ア の中 央 に 向 って行 動 を は じ め た 外 国 干 渉 軍 お よ び白 衛 軍 は 一〇 〇 万 ( 前
〇 〇 キ ロ の戦 線 に わ た って小 銃 一〇 一、四 〇 〇 、機 関 銃 一、八 一七 、 砲 三 六 五 で 、兵 員 ・装 備 と も 白 衛 軍 に は る か に
ベ リ ア 戦 線 で 反 撃 に うつ る 赤 軍,シ
劣 って いた 。 (リ プ キ ナ ﹃ 一九 一九 年 の シ ベ リ ア﹄ 一六 八頁 ) コ ル チ ャ
ク 軍 は と く に騎 兵 に す ぐ れ 、 連 合 国 武 官 の協 力 のも と に 一九 一九 年 三
月 大 攻 勢 に う つ り 、 赤 軍 の抵 抗 を 粉 砕 し 三 月 十 日 ウ フ ァ市 を 占 領 し た 。
彼 ら は そ の大 勝 利 を 喜 び 、 コル チ ャ ク は 一ヵ月 後 に は モ ス ク ワを 占 領
に帰 し 、 レ ー ニ ン の ソビ エト 政 権 は存 亡 の危 機 に 立 った の で あ る。 ソ
す る と 豪 語 し た 。 シ ベ リ ア の パ ンと ウ ラ ル の 工業 は コ ル チ ャク の手 中
ビ エト 政 府 は全 力 を 東 部 戦 線 に 投 入 し た 。 レ ー ニ ンは 冬 ま で に ど う し
て も ウ ラ ル を奪 回 し な け れ ば ﹁ 革 命 の破 滅 は 不 可 避 と 考 え る ﹂ と 悲 壮
な激 励 を し 、 司 令 官 フ ル ン ゼは 五 月 二 十 五 日 ︱ 六 月 十 九 日 の間 壮 烈 な
ウ フ ァ作 戦 を 展 開 し た 。 ウ フ ァは ウ ラ ル への門 で あ る 。 こ の作 戦 に は
国 内 戦 の 伝 説 的 英 雄 チ ャパ ー エ フ の指 揮 す る第 二 五歩 兵 師 団 も参 加 し
て いた 。 フ ル ン ゼ、 チ ャ パ ー エ フ ら の司 令 官 が 重 傷 を 負 う ほ ど の激 戦
の後 、 つ い に ウ フ ァは 赤 軍 に よ って奪 回 さ れ、 戦 局 の重 要 な 転 機 が つ
く ら れ た 。 コ ル チ ャ ク軍 は こ の敗 北 を 境 に急 速 に落 目 に な って い った 。
拠 点 を奪 取 す る た び に赤 軍 は多 く の戦 利 品 を得 て強 化 さ れ 、 逆 に白 衛
軍 は 弱 体 化 し 、 十 月 ま で に は 兵 力 は 半 減 し た。 赤 軍 は 三 ヵ月 間 に ウ フ
ァ付 近 の ベ ー ラ ヤ川 か ら 西 シ ベ リ ア のト ボ ル川 ま で 七 〇 〇 キ ロを 進 撃 、
コ ル チ ャ クは 十 一月 十 日本 拠 を オ ム ス ク か ら イ ル ク ー ツ ク に移 し た 。
赤 軍 の第 二 七師 団 は 十 一月 十 四 日 つ い に オ ム ス ク を 占 領 、 多 く の捕 虜 と 戦 利 品 を え た 。 そ の後 さ ら に 赤 軍 の第 三
月 中 旬 ト ム ス ク に達 し 、 そ の月 末 に は ク ラ ス ノ ヤ ル ス ク と イ ルク ー ツ クを 攻 撃 し た 。 コ ルチ ャク の軍 隊 の急 速 な
軍 と 第 五 軍 は パ ルチ ザ ンと 協 力 し て進 撃 を 続 け 、 今 や ま った く 烏 合 の衆 と 化 し た コ ルチ ャク 軍 を追 撃 し た 。 十 二
崩 壊 に よ って連 合 国 の信 任 も し だ いに 失 な わ れ 、 ま た 白 衛 軍 か ら 赤 軍 に投 降 す る 者 も 数 知 れ な か った 。
十 二 月 二十 四 日イ ル ク ー ツ ク で ボ リ シ ェビ キ の指 導 す る蜂 起 が起 り 、 コ ル チ ャ ク 軍 と 一週 間 に わ た って戦 闘 が
交 え ら れ た 。 そ の こ ろ 東 か ら セ ミ ョノ フ の部 隊 が 二本 の軍 用 列 車 で イ ル ク ー ツ ク に 近 づ い て いた 。 ま た西 の ク ラ
ス ノ ヤ ル スク 方 面 か ら コ ル チ ャク と そ の護 衛 が カ ザ ンで 押 収 し た 金 塊 (三 一 一ト ン) と と も に チ ェ コ軍 団 の 一部
よ って鉄 道 が 遮 断 さ れ た た め 、 チ ェ コ軍 の指 揮 官 は ロ シ ア の内 政 不 干 渉 を声 明 し 、 万 一に備 え て ニジ ネ ウ ジ ン ス
を 乗 せ た 汽 車 で東 へ向 って いた 。 連 合 国 の武 官 を乗 せ た 汽 車 も これ と 前 後 し て東 へ向 って いた 。 こ の時 、 蜂 起 に
ク で コ ル チ ャ ク を 捕 え た。 コ ル チ ャク は電 報 で自 分 は ﹁最 高 統 治 者 ﹂ を 辞 し 、 これ をデ ニキ ンに譲 り、 ロシ ア の
全 東 部 地 域 の主 権 は 中 将 に 昇 進 せし め ら れ た セ ミ ョ ノ フ に あ た え る こと を各 国 武 官 に つ た え た 。 コ ルチ ャク と 金
塊 は 蜂 起 し た チ ェレ ンホ ボ 炭 田 の労 働 者 の支 配 に帰 し 、 そ の ま ま イ ル ク ー ツ ク に着 い て蜂 起 の側 に引 渡 さ れ た 。
イ ル ク ー ツ ク で は 一九 一九 年 十 一月 十 二 日 に結 成 さ れ た ﹁民 主 的 ﹂ ブ ルジ ョア国 家 を 目 指 す ﹁政 治 セ ン タ ー ﹂ が
結 成 さ れ て い た が、 二〇 年 一月 五 日 以 後 市 の権 力 は 一時 こ の ﹁政 治 セ ンタ ー﹂ に 帰 し た 。 し か し 一月 二十 二 日 に
は 権 力 は軍 事 革 命 委 員 会 に正 式 に移 った 。 コ ル チ ャ ク は す で に 一月 十 五 日 市 の権 力 機 関 に移 さ れ 、 獄 に投 ぜ ら れ
た 。 二 月 の は じ め 、 ま だ赤 軍 の主 力 が イ ル ク ー ツ ク に到 着 し な いう ち に 、 敗 残 の コ ル チ ャ ク軍 が イ ル ク ー ツ ク を
襲 って コ ル チ ャ ク を 奪 回 す る 危 険 が迫 った た め 、 二 月 六 日 軍 事 革 命 委 員 会 の決 定 に よ って コ ル チ ャク は 銃 殺 さ れ
た 。 赤 軍 の第 五 軍 は 三月 七 日 イ ル ク ー ツ ク 市 に 入 った 。 ( ﹃ソ連 邦 国 内 戦 史 ﹄ 第 四 巻 三 五 五頁 )
極東共 和 国と 干渉 軍 の徹退
一九 一九 年 秋 か ら 二〇 年 の初 頭 に か け て 極 東 地 方 の パ ル チ ザ ン活 動 は激 烈 を き わ め た 。 赤 軍 の
主 力 は 日 本 軍 な ど と の衝 突 を 回 避 し て、 バ イ カ ル湖 以 東 への行 動 を慎 重 に ひ か え て いた 。
日 本 の軍 事 行 動 は活 発 化 し た 。 一九 二〇 年 三 月 ニ コ ラ エ フ ス ク ・ナ ・ア ム ー レ を 占 領 、 四 月 四︱ 五 日 に ウ ラジ
め 惨 殺 劇 ﹂ が か ら ん で いる 。 こ の事 件 の概 略 は つぎ のと お り で あ る。 二 〇 年 三月 ニ コ ラ エ フ ス ク市 で パ ル チ ンザ
ボ スト ク で軍 事 行 動 を お こし 、 四 月 十 九 日 に は 北 樺 太 を 占 領 し た 。 北 樺 太 の占 領 に は 日 本 で よ く 知 ら れ る ﹁尼 港
ンと 日 本 軍 守 備 隊 (石 川 大 隊 ほ か) と の停 戦 協 定 が結 ば れ た 。 日 本 側 は こ の協 定 を 破 って突 如 奇 襲 を か け た が 、
か え って パ ル チ ザ ンに 殲 滅 さ れ 、 数 名 の 生 き 残 り 兵 と 百 余 の居 留 民 が 捕 虜 に さ れ た 。 五 月 パ ルチ ザ ンは 日本 軍 の
本 格 的 来 襲 を 察 し て ニ コ ラ エ フ スク を 撤 退 し た と き 、 そ の捕 虜 を こと ご と く 殺 し て し ま った 。 北 樺 太 の占 領 は 、
こ の事 件 の解 決 の保 障 占 領 と いう 名 目 を掲 げ て い た。 井 上 清 教 授 は ﹁こ の占 領 は 日 本 に亡 命 の反 革 命 富 豪 を も 憤
激 さ せ、 北 樺 太 に 利 権 を も った ア メ リ カ 資 本 家 ら を い よ い よ怒 ら せ た ﹂ と の べ て い る。 (平 凡 社 版 ﹃世 界 歴 史 事 典 ﹄ 第 四 巻 四 一四頁 )
五 月 二十 六 日、 ウ ラ ジ ボ スト ク に 日 本 の支 持 に よ って 地 方 の大 商 人 で あ る メ ル ク ー ロ フ兄 弟 を 長 と す る 反 革 命
政 府 が樹 立 さ れ た 。 こう し た 日本 の活 発 な 行 動 は 、 一九 二 一︱ 二 二年 の こ の当 時 、 米 英 仏 諸 国 、 と く に米 国 の警
戒 心 を よ び お こ し た 。 米 国 は 太 平 洋 征 覇 の競 争 相 手 で あ る 日 本 が 極 東 で強 大 化 す る こ と を お そ れ て い た 。 そ れ に
米 国 は 一九 二〇 年 の春 シ ベ リ ア か ら す で に 引 揚 げ 、 他 の諸 国 も 同 年 六 月 ま で は 一兵 残 ら ず 撤 退 し て い た 。
カ ム チ ャ ツ カ を 領 域 とす る極 東 共 和 国 が創 設 さ れ た 。 レ ー ニ ンは こ の国 家 創 設 の 理由 と し て、 二〇 年 十 二 月 二 十
こ の状 勢 の な か で 一九 二〇 年 四 月 六 日、 バイ カ ル湖 を 西 の境 と し て ア ム ー ル 州 、 沿 海 州 、 樺 太 (サ ハリ ン)、
一日 つぎ の よ う に述 べ て い る 。 ﹁事 態 は 、 極 東 共 和 国 と いう 形 の緩 衝 国 家 を つく る こと を 必 要 と し て い る 。 と い
う のは 、 わ れ わ れ は 、 シ ベ リ ア の農 民 が 日本 帝 国 主 義 のた め にど の よう な 信 じ が た い惨 〓 を こう む る か、 シ ベ リ
ア の日 本 人 が前 代 未 聞 の蛮 行 の かず かず を ど れ ほ ど ま で や って のけ る か 、 そ れ を よ く 知 って い る か ら であ る ⋮ ⋮ 。
し か し そ れ にも か か わ ら ず 日 本 と 戦 争 す る こ と は 不 可 能 で あ り 、 わ れ わ れ と し て は た ん に 日本 と の戦 争 を ひ き の
ば す だけ で な く 、 た と え で き た と し て も 戦 争 な し で や って い か ね ば な ら な い⋮ ⋮﹂。 (全 集 第 三 一巻 四 三 五頁 )。
こ の国 家 の中 心 は最 初 ウ ェル フネ ・ウ ジ ン ス ク (ウ ラ ン ・ウ デ ) で あ った が、 二〇 年 十 月 チ タ に移 転 、 首 班 は
ボ リ シ ェビ キ の ク ラ ス ノ シ チ ョー コ フ であ った 。 日 本 に 対 す る 刺 激 を さ け 、 ロ シ ア国 内 の広 汎 な 層 の支 持 を動 員
す る 目的 で、 土 地 ・森 林 ・資 源 に つ い て は 私 有 を 禁 じ た が 一般 に 私 有 財 産 と 私 企 業 を 許 し た 。 政 府 に は ボ リ シ ェ
ビ キ の ほ か 社 会 革 命 党 そ の他 も 参 加 し て連 立 政 権 の形 を と った 。 二 〇 年 五 月 十 四 日 ソ ビ エ ト政 府 は こ の国 家 を 承
認 し 、 外 交 関 係 の樹 立 を 声 明 し た 。 日 本 は 沿 海 州 を極 東 共 和 国 の領 域 か ら 分 離 し よ う と 努 力 し た が成 功 し な か っ
た 。 二 一年 二月 十 二 日 に は チ タ に極 東 共 和 国 の憲 法 制 定 会 議 が招 集 さ れ 、 三 月 ︱ 四 月 に ま ず 米 国 に対 し 、 つ い で 英 仏 に干 渉 軍 の徹 退 を 強 く 要 望 し た 。
日 本 政 府 は 苦 境 に立 た さ れ は じ め た 。 二 一年 八 月 以 後 極 東 共 和 国 政 府 と 日 本 と のあ いだ に 大 連 会 議 が開 か れ、 日
し かし 日 本 の シ ベ リ ア単 独 出 兵 は し だ い に 列 国 の対 日 感 情 の悪 化 を も た ら し 、 ま た 日 本 国 内 の経 済 危 機 の た め
本 は ウ ラジ ボ ス ト ク 港 の自 由 都 市 化 、 ア ムー ル川 の自 由 航 行 権 な ど を 要 求 し た が 、 交 渉 は 決 裂 し てし ま った。 つ
い で 二 二年 九 月 、 極 東 共 和 国 お よ び ロシ ア 共 和 国 の合 同 代 表 団 と 日 本 代 表 と の会 議 が長 春 で開 か れ た が 、 これ も
い う 宣 言 を し て いた 。
決 裂 し た 。 日 本 は こ の会 議 の招 集 さ れ る前 に、 一九 二 二年 十 一月 一日 を めど に沿 海 州 か ら 軍 隊 を 撤 退 さ せ よ う と
一方 、 一九 二 二年 春 以 後 は 極 東 地 方 の赤 軍 も い ち じ る し く 強 化 さ れ 、 パ ル チザ ン だ け でな く 、 人 民 革 命 軍 と 称
いた 。
す る 正 規 軍 が 行 動 を は じ め た 。 後 に ス タ ー リ ンに粛 正 さ れ た ブ リ ュ ヘ ル将 軍 も ハ 〓 ロ フ ス ク戦 線 で指 揮 を と って
日本 は 二 二 年 十 月 二十 五 日 ウ ラジ ボ ス ト ク を 引 揚 げ る こ と を 言 明 し て いた ので 、 人 民 革 命 軍 は 日 本 軍 と の衝 突
を 避 け る べ く こ の 日 ま で待 機 し 、 日本 の撤 退 と 同 時 に同 市 に は い った 。 (ゴ リ オ ン コ ﹃戦 火 の中 で ﹄ 二 七 六 頁 )
日本 軍 が撤 退 し た こと に よ って緩 衝 国 と し て の極 東 共 和 国 の役 割 も 終 り 、 二 二年 十 一月 十 五 日 ソビ エト 共 和 国
の必 然 性 を示 し た だ け で、 何 物 も う る と こ ろ な く 、 一九 二五 年 つ いに 撤 兵 し た 。前 後 八 年 の戦 費 約 九 億 円 、 死 者
に 吸 収 さ れた 。 日本 は シ ベ リ ア か ら 撤 兵 後 も な お樺 太 は 占 領 し つ づ け た が 、 ﹁結 局 こ こ に帝 国 主 義 的 政 策 の破 綻
三 、〇〇〇 人 、 傷 者 (凍 傷 ) は無 数 で あ った ﹂。 (井 上 清 、 前 掲 書 四 一四 頁 )
シ ベ リ ア は こう し て ロ シ ア革 命 後 の苦 し い試 練 を経 て 、荒 廃 の中 か ら 社 会 主 義 的 建 設 の時 代 を 迎 え る の で あ る 。
ら か れ た の であ る が、 主 要 な シベ リ ア年 代 記 は そ の エ ル マク の遠 征 を 主 題 と し た 歴 史 物 語 で
十 六世 紀 の末 エ ル マク の シ ベ リ ア遠 征 に よ って、 ロ シ ア 人 の シベ リ ア進 出 の決 定 的 端 緒 が ひ
第 十二章 シ ベ リ ア の歴 史 ・地 理 に関 す る主 要 な 古 文 献 (十 七︱ 十 八 世 紀 )
シ ベリア年 代記
あ る 。 エ ル マク の遠 征 に つ い て は じ つは 公 文 書 そ の他 の正 確 な 資 料 が あ る わ け で は な く 、 実 際 の遠 征 の数 十 年 後
に 書 か れ た 数 種 類 の歴 史 物 語 に よ って そ の経 緯 が つた え ら れ て い る。 と こ ろ で、 そ れ ぞ れ の年 代 記 は作 者 の立 場
や利 用 し た 資 料 に よ って か な り 内 容 や 色 彩 を異 にし て お り 、 そ の た め 後 代 に な って 、 シ ベ リ ア併 合 に お いて 主 導
的 役 割 を 果 し た の は モ ス ク ワ政 府 、 スト ロガ ノ フ家 、 カ ザ ク の 三 者 の う ち いず れ で あ る か 、 と いう 問 題 と も 関 連
し て、 各 年 代 記 の信 憑 性 を め ぐ る 論 争 が つづ け ら れ た 。 こ の論 争 は 今 日 ま で も つ づ い て い る が 、 テ ィジ ノ フと い
った 。 こ の現 象 の原 因 は き わ め て単 純 で あ る。 す な わ ち 、 現 在 ま で これ の解 決 のた め の基 礎 がな い の で あ る。 ど
う 学 者 は 一八 九 八 年 にす で に これ に つ い て ﹁学 問 の将 軍 も兵 卒 も こ の問 題 を 解 決 し よ う と 努 力 し た が果 さ れ な か
ん な に 奇 妙 か つ不 思 議 で あ って も、 じ つは そ う な の で あ る ﹂ と 書 い て い る。
十 七 世 紀 に お け る主 要 な シベ リ ア年 代 記 の相 互 関 係 、 そ の特 徴 な ど に つ い て は 、 十 八 世 紀 の有 名 な シベ リ ア史
家 ミ ル レ ル以 後 、 カ ラ ムジ ン、 ソ ロビ ヨ フ、 ネ ボ リ シ ン、 アド リ ア ノ フ、 ド ミト リ エ フら の 研 究 や 論 争 を 得 て 、
バ フ ル ー シ ン の総 括 的 研 究 に よ って 一時 期 が画 さ れた 。 バ フ ル ー シ ンは 各 年 代 記 を 比 較 検 討 し た 結 果 、 主 要 な 年
代 記 で あ る ﹃スト ロガ ノ フ年 代 記 ﹄、 ﹃エシ ポ フ年 代 記 ﹄ お よ び ﹃新 年 代 記 作 者 ﹄ と いう 書 に含 ま れ て いる ﹃シベ
リ ア 王 国 占 領 物 語 ﹄ の三 つは 、 一六 二 一年 ト ボ リ スク に シベ リ ア大 主 教 管 区 が創 設 さ れ た直 後 、 キ プ リ ア ン大 主
教 が エ ル マク遠 征 隊 の生 き 残 り の カ ザ ク に命 じ て提 出 せ し め た ﹃手 記 ﹄ を 共 通 の第 一源 泉 と し て い る こと を 証 明
し た 。 キ プ リ ア ン大 主 教 は こ の ﹃手 記 ﹄ を も と にし て、 これ に カ ザ ク た ち の 口述 を 加 え て 一六 二 二 年 に ﹃過 去
お い て 彼 ら を 正 教 信 仰 の殉 教 者 に列 せ し め た の で あ る。 ﹁同 時 代 人 の証 言 に も と づ いた 過 去 帳 の編 纂 は 、 シ ベ リ
帳 ﹄ と いう も の を 編 み、 こ れ に よ って エ ル マク と そ の 一隊 を 聖 ソ フ ィ ア 寺 院 の過 去 帳 に 載 せ 、 シベ リ ア的 規 模 に
ア年 代 記 の著 作 に最 初 の基 礎 を お いた 点 で、 ミ ル レ ル の時 代 以後 キ プ リ ア ン にた いし 、 シ ベ リ ア最 初 の歴 史 家 と
し て の名 誉 を 確 保 し て い る。﹂ (バ フ ル ー シ ン ﹃歴 史 文 献 に お け る シ ベ リ ア併 合 の問 題 ﹄ 著 作 集 第 三 巻 二〇 頁 )
レト の主 宰 し た 正 教 会 会 議 に よ って聖 列 に加 え ら れ た 。 こ の機 会 に 、 ト ボ リ スク の シベ リ ア 大 主 教 庁 の 書 記 サ
一六 三 六年 二月 十 六 日 、 エ ル マク と そ の部 下 の カ ザ ク た ち は、 皇 帝 の ミ ハイ ル ・フ ョド ロビ チ と 総 主 教 フ ィ ラ
ワ ・エ シポ フ に よ って ﹃シベ リ アお よ び シベ リ ア占 領 物 語 ﹄ が執 筆 さ れ 、 同 じ 三 六 年 の九 月 一日 に 完 成 し た 。 こ
れ は世 に ﹃エ シポ フ年 代 記 ﹄ と 称 せ ら れ る も の で、 物 語 の主 要 テ ー マは ﹁シベ リ ア の国 に つ い て 、 ま た 、 そ れ が
い か に し て神 の思 召 に よ って 、 ア タ マ ン の エル マク ・チ モ フ ェ エフ に集 め ら れ率 いら れ た ロ シ ア部 隊 に よ って 、
そ の勇 敢 で 善 良 な 部 隊 の 一致 団 結 に よ って 、占 領 さ れた か ﹂ と いう こと で あ る。 作 者 に よ れ ば 、 ク チ ュム ・ ハン
の潰 滅 は、 彼 ら が 異 教 徒 で あ る が た め に神 か ら 受 け た 罰 処 で あ った 。 少 数 の エ ル マク の部 隊 が 多 数 の ク チ ュ ム軍
に勝 った の は 、 神 の支 持 が エ ル マク の側 にあ った か ら で あ る 。 シベ リ ア の併 合 は 正 教 信 仰 の布 教 を 可 能 な ら し め
た 点 で 、 天 恵 を得 た 出 来 事 で あ った 。 こ の年 代 記 の源 泉 は 、 研 究 の結 果 、 カ ザ ク た ち の ﹃手 記 ﹄ と キ プ リ ア ン大
主 教 の ﹃過 去 帳 ﹄ で あ る こと が 明 ら か に な って い る。 エ シポ フ年 代 記 の最 大 の特 徴 は 、 記 述 の な か で スト ロガ ノ
フ家 の こと に ひ と 言 も ふ れ て い な い こと で、 後 代 に紛 糾 を 招 いた 原 因 の ひ と つ は こ こ に あ った の で あ る 。
こ と で有 名 に な った 歴 史 物 語 で 、 古 文 書 の文 体 、 筆 蹟 な ど に よ って 十
﹃ス ト ロガ ノ フ年 代 記 ﹄ と いう のは 、 一八 二 一年 に ス パ ッ スキ ー に よ って 公 刊 さ れ 、 有 名 な ロ シア 史 家 カ ラ ム ジ ン が シベ リ ア史 記 述 の基 礎 資 料 に使 っ
七世 紀 前 半 の作 と さ れ て い る が 、 著 者 も 不 明 で あ る。 ﹁エ シポ フ物 語 が シ ベ リ ア大 主 教 の讃 美 を そ の基 本 的 任 務
と し て いた と す れ ば 、 スト ロガ ノ フ 物 語 の目 的 と し て いた も の は スト ロガ ノ フ家 の讃 美 で あ った 。 こ の出 現 は 、
スト ロガ ノ フ家 を傑 出 し た 代 表 者 と す る商 業 ・実 業 階 級 の生 長 の証 明 であ る 。﹂ (ミ ルゾ エ フ ﹃シ ベ リ ア の併 合 と
ツ ァー リ の忠 実 な 臣 下 であ る スト ロガ ノ フ家 が そ の命 を 体 し て 、 ボ ルガ 川 か ら エ ル マク ら カ ザ ク を 傭 兵 と し て招
把 握 ﹄ 一二 〇 ︱ 一二 一頁 ) こ の作 者 は ﹃手 記 ﹄ の ほ か ツ ァ ー リ の勅 書 や ス ト ロガ ノ フ家 の家 伝 文 書 を 利 用 し て 、
き 、 武 器 を 提 供 し て シベ リ アを 征 服 し 、 ツ ァ ー リ に献 上 し た こと を記 述 し て い る 。 こ の作 者 が ス ト ロガ ノ フ家 に
近 し い 人 物 で あ った こと は 疑 いな い と さ れ て い る 。 十 九 世 紀 の カ ラ ムジ ンや ソ ロビ ヨ フ、 ド ミト リ エ フ、 さ ら に
最 近 で は ウ ベ ジ ェ ン スキ ー が こ の年 代 記 を も っと も 信憑 性 の高 いも のと 考 え て い る の にた いし 、 ネ ボ リ シ ン、 ア
ド リ ア ノ フ、 最 近 で は ス タ ウ ロビ チ 、 ア ンド レ ー エ フら は き び し い 不 信 を表 明 し て いる 。 こと に スタ ウ ロビ チ の
見 解 によ る と 、こ の年 代 記 の作 者 は 、 ロ シ ア の遣 清 国 使 節 バ イ コ フ (一六 五 四︱ 五 七 年 )の 一行 に加 わ った セ ルゲ
イ ・ク バ ソ フと いう も の で、 彼 が スト ロガ ノ フ家 に雇 わ れ て、 同 家 が シベ リ ア併 合 に参 加 し た と いう 歴 史 の偽 造
を 行 な った と いう の で あ る 。 ﹁こ の物 語 の編 纂 は 一六 七 三年 よ り 早 く は な い。﹂(ミ ルゾ エ フ前 掲 書 四 一頁 )し か し 、
こ の説 は 一般 に 極 端 す ぎ る も のと 考 え ら れ て い る。 な お 、 文 学 的 に は こ の物 語 が も っと も よ く ま と ま って いる 。
も の で あ る こ と を 示 し て い る 。 こ の共 通 の資 料 が カ ザ ク の ﹃手 記 ﹄ であ る こと は こ れ ま で に く り か え し のべ た が 、
内 容 的 に は エ シ ポ フ物 語 と スト ロガ ノ フ物 語 と は す く な から ず 合 致 し て お り 、 そ の こと は 両 者 の資 料 が共 通 の
こ の ほ か に、 ﹃手 記 ﹄ と は ま った く 別 の資 料 にも と づ く 年 代 記 の断 片 が伝 え ら れ て い る。 こう し た も の の 代 表 的 な 物 語 は、 有 名 な ﹃ク ング ル年 代 記 ﹄ で あ る。
十 七 世 紀 末 、 ﹃一七 〇 一年 の シベ リ ア絵 図 ﹄ を あ ら わ し た 有 名 な 学 者 セ ミ ョ ン ・レ ミ ョゾ フ は 、 歴 史 の 分 野 で
も 彼 の名 を 不 朽 に し た ﹃シ ベ リ ア の歴 史 ﹄ を 発 表 し た 。 これ は ﹃レ ミ ョゾ フ年 代 記 ﹄ と も よ ば れ る が 、 十 八 世 紀
中 期 に活 躍 し た シ ベ リ ア史 家 ミ ル レ ルは 、 こ の レ ミ ョゾ フ の著 作 の う ち に 、 ま った く 異 な った 文 体 の、 し か も 本
文 と 重 複 し た 一断 片 が 機 械 的 に 付 加 さ れ て い る こと に気 づ いた 。 し か し ミ ルレ ル の こ の指 摘 は 一世 紀 以 上 かえ り
み ら れ な いま ま、 全 体 が レ ミ ョゾ フ の著 作 と 考 え ら れ て き た が 、 ソ連 時 代 に入 っ てバ フ ル ー シ ン が 学 問 的 基 礎 づ
け を も っ て ﹃ク ング ル年 代 記 ﹄ と し て 分 離 し た 。 こ れ は 十 七 世 紀 後 半 の作 と さ れ て い る。
こ の物 語 は 各 シベ リ ア年 代 記 のう ち も っと も 民 衆 的 伝 統 を 反 映 し た も の で 、 バ フ ル ー シ ンは つぎ の よ う に 書 い
こと で あ る 。 ﹂ (バ フ ル ー シ ン前 掲 書 四 〇 頁 )た と え ば エ ル マク が部 下 の豪 傑 を ひ き つれ て 、 マク シ ム ・スト ロガ ノ
て い る。 ﹁ク ング ル年 代 記 の最 大 の特 徴 は 、そ れ が 粗 野 な 民 衆 的 ユー モア に貫 か れ た 、純 粋 に民 衆 的 な 様 式 を も つ
フ の許 に援 助 を頼 み に い った と き の 口調 は つぎ の と お り で あ る。 ﹁お い、 百 姓 、お前 は 命 が 惜 し く な い の か 、ど て
っ腹 に風 穴 を あ け て や ろ う か。 俺 た ち 五 、〇 〇 〇 人 に川 船 の名 を書 いた 証 文 と 引 替 え に 一人 当 り火 薬 三 フ ント 、
⋮ ⋮ 小 麦 粉 三プ ード 、乾 パ ン 一プ ー ドず つ よ こせ 。﹂遠 征 隊 の 人 数 が 五 、〇 〇 〇 と いう のも お 噺 話 的 性 格 を お び て
い る 。 こ の物 語 の様 式 は 、 ヤ ル カ ・ ハバ ロ フ の ﹁ダ ウ ル遠 征 物 語 ﹂ の手 法 と よ く 似 て い る こと が指 摘 さ れ て いる。
そ の源 泉 は き わ め て複 雑 で あ る。 こ こ に は 、 レ ミ ョゾ フ年 代 記 と 同 様 に、 ま ず 第 一に ロ シ ア人 の伝 説 だ け で な く 、
し か し ﹃ク ング ル年 代 記 ﹄ は ﹁シベ リ ア ・カ ザ ク の あ いだ に発 生 し た エ ル マク に か ん す る単 な る お 噺 話 で は な い。
原 住 民 の伝 説 や 迷 信 が 含 ま れ、 な か に はき わ め て 正 確 な 記 録 も 入 って い る ﹂。 (バ フ ル ー シ ン前 掲 書 四 一頁 ) ク ン
グ ル年 代 記 は 全 体 と し て、 シベ リ ア 遠 征 にお け る カ ザ ク の イ ニ シ ア チ ー ブ を認 め 、 ス ト ロガ ノ フ家 は 自 発 的 な カ
ザ ク に物 質 的 援 助 を 提 供 し た にす ぎ な いと の 立 場 を と って い る。 ﹁ク ング ル物 語 は ス ト ロガ ノ フと エ ル マク と の
相 互 関 係 に つ い て も っと も 満 足 す べ き 説 明 を し て いる。 す な わ ち カザ ク の シベ リ ア 進 撃 を可 能 な ら し め た 人 力 と
物 質 力 と の結 合 を 示 し て い る の であ る 。﹂ (ミ ルゾ エ フ前 掲 書 九 五頁 ) レ ミ ョゾ フ年 代 記 に つ い て は後 に のべ る。
シベ リ ア年 代 記 に 含 ま れ る 重要 な 著 作 で は 、 つぎ に ﹃新 シベ リ ア国 土 誌 ﹄ が あ げ ら れ る 。 本 書 は 一六 八 五︱ 八
六年 に執 筆 さ れ た も の で、 内 容 か ら 見 て 著 者 は 明 ら か に シベ リ アお よ び 中 国 へ行 った こ と の あ る 人物 と 考 え ら れ
て い る 。 ア ンド レ ー エ フは 、 こ の著 者 を モ スク ワ の使 節 局 の書 記 ニキ フ ォ ル ・ウ ェ ニ ュ コフ で あ ろう と 考 え て い
も な く 彼 の以 前 の遣 清 国使 節 団 長 ス パ フ ァリ ー
る 。 彼 に よ る と 、 ウ ェ ニ ュ コ フは スパ フ ァリ ー使 節 ( 一六 七 五年 ) と ゴ ロビ ン使 節 (一六 八 六 年 ) の 二度 にわ た って、 そ の随 員 と し て シ ベ リ ア経 由 中 国 に旅 し た 人 物 で 、 ﹁疑 い
の著 作 を知 って いた ﹂ と 考 え ら れ る 。 (ア ン ド レ ー エ フ ﹃シベ リ ア 資 料 学 概 説 ﹄ 七〇 頁 ) 本 書 の最 大 の 強 味 が 地
理 的 側 面 で あ る こ と は、 こ の著 者 が 明 ら か に現 地 を踏 破 し た こと を 示 し て い る。
本 書 の基 本 的 思 想 は つぎ の と お り であ る 。 エ ル マク は シベ リ ア を 征 服 す る こ と によ って、 ﹁モ スク ワ の キ リ ス
ト 教 徒 ﹂ (つま り 民 衆 ) お よ び ツ ァー リ の前 に、 彼 の過 去 の罪 、 ボ ル ガ 川 の大 盗 賊 だ った と き の罪 の償 い を し た
ト ロガ ノ フ家 は そ れ に
の だ 。 実 際 の シベ リ ア征 服 は エ ル マク と そ の部 下 た ち に よ って進 め ら れ た の で あ っ て、 ス
物 質 的 援 助 を し た に す ぎ ず ツ ァー リ は 後 に カ ザ ク の手 か ら 征 服 の成 果 を受 け と った 、 と いう の で あ る。 歴 史 的 な
面 で は多 く の点 で レ ミ ョゾ フ の ﹃シ ベ リ ア の歴 史 ﹄ と 一致 し て お り 、 両 者 は同 一の資 料 を 利 用 し た も のと 考 え ら
れ て い る。 な お本 書 の文 体 な ど に つ い て いえ ば 、 前 記 のク ング ル物 語 が ﹁お そ ら く は ペ ンよ り も 剣 を握 る こ とを 得 意 と し た 人 物 の作 と す れ ば 、 本 書 は 高 い教 養 を も ち 、 し か も 国 民 文 学 お よ び歴 史 的 伝 統 を 尊 重 す る 人 物 に よ っ
て書 か れ た も の で あ る﹂。 (ミ ルゾ エ フ前 掲 書一 〇 三頁 )
本 書 は 、 オ ラ ンダ の 地 理 学 者 ウ ィト セ ン が 一六 九 二 年 ア ム ス テ ルダ ム で刊 行 し た ﹃北 東 タ ル タ リ ー物 語 ﹄ の重
要 な 源 泉 と な った こ と で有 名 で あ り 、 一七 八 五 年 に は ド イ ツ語 訳 も現 わ れ て い る 。 ミ ルゾ エ フ は本 書 と ク ング ル
レ ミ ョゾ フ を あ げ ねば な ら な い。 こ の 両 者 の著 作 は いわ ば 、 シ ベ リ ア に か んす る 知 識 が
シベ リ ア年 代 記 の つぎ に登 場 す る 重 要 な 歴 史 ・地 理 文 献 と し て は、 ま ず ス パ フ ァリ ー と
な ど の物 語 を 公 的 傾 向 のも のと し て い る 。
物 語 と を シベ リ ア年 代 記 にお け る民 衆 的 潮 流 の代 表 と 考 え 、 こ れ に対 し て エ シポ フ、 ス ト ロガ ノ フ、 レ ミョ ゾ フ
スパ フ ァ リ ー の著 作
学 問 へ転 化 す る さ い の境 界 を な す も の で あ る 。 スパ フ ァ リ ー の著 作 は、 十 八 世 紀 に お け る シ ベ リ ア の自 然 の科 学
的 調 査 の先 駆 者 を な し 、 レ ミ ョゾ フ のそ れ は 、 ミ ル レ ル の大 著 ﹃シベ リ ア国 誌 ﹄ の先 鞭 と な った 。
ス パ フ ァ リ ー は 日本 で は スパ サ リ ー と も 称 さ れ 、 いく つか の書 物 に略 伝 が 紹 介 さ れ て い る。 彼 は ペ ロポ ンネ ソ
ス半 島 出 身 のギ リ シ ア 人 の家 系 に生 れ 、 モ ル ダ ビ ア に あ った そ の領 地 名 に よ って通 称 ミ レ スク と も よ ば れ た 。 彼
は 一六 三 六年 モ ルダ ビ ア で 生 れ た が 、 彼 自 身 は 自 分 が ﹁宗 教 だ け で な く 、 生 れ に お い ても ギ リ シ ア人 で あ る ﹂ と
考 え て いた 。 ﹁コ ン スタ ン チ ノ ー プ ル教 育 を 受 け て 、 古 代 、 近 代 のギ リ シ ア語 に 達 し 、 ト ル コ語 、 ア ラ ビ ア語 に
を学 び、 自 然 科 学 と 数 学 の学 修 を終 え ﹂、 (衛 藤 利 夫 ﹃韃靼 ﹄ 一九 三 頁 ) や が て故 国 の モ ルダ ビ ア侯 に 仕 え て秘 書
通 じ 、 神 学 、 哲 学 、 歴 史 、 文 学 、 行 く と し て 可 な ら ざ る な く 、 後 で は イ タ リ ア に移 って ラ テ ン語 と イ タ リ ア語 と
官 長 に 抜 擢 さ れ た 。 当 時 モ ルダ ビ ア は ト ル コ の勢 力 下 に あ って 、政 情 は き わ め て 不 安 定 で あ った 。 彼 は反 対 派 と
の政 争 に敗 れ て鼻 先 を 切 り と ら れ る と いう む ご い目 に会 う が 、 や が て 故 国 を 去 リ ブ ラ ンデ ンブ ルグ 、 ポ メ ラ ニ ア、
スト ック ホ ル ム、 パ リ 、 コ ン スタ ン チ ノ ー プ ルな ど を転 々と し た 。 一六 七 一年 ロシ ア に移 り 、 こ こ で 死 に いた る
ま で の 三 七 年 間 を す ご し 、 そ の子 孫 は ロ シ ア の貴 族 に 加 え ら れ た 。
モ スク ワ に移 った ス パ フ ァリ ー は ま ず 使 節 局 の通 訳 官 と な り 、 ツ ァー リ の寵 臣 マト ウ ェー エ フ の後 援 によ って
つぎ つぎ に西 欧 の書 籍 の翻 訳 を行 な う 一方 、 西 欧 諸 国 の政 治 通 と し て モ ス ク ワ政 府 に進 言 す ると ころ が あ った 。
彼 の俸 給 は は じ め年 間 一〇 〇 ルー ブ リ 、 後 一 三二 ル ー ブ リ と いう 高 給 であ った 。
一六 七 五年 ロシ ア政 府 は 、 ア ム ー ル川 上 流 で の清 国 と の国 境 問 題 を 調 整 し 、 あ わ せ て 通 商 関 係 を ひ ら き た いと
考 え 、 ス パ フ ァ リ ー を 長 と す る使 節 団 を清 国 へ送 る こと に な った 。 ツ ァー リ か ら 団 長 に あた え ら れ た 任 務 は 、 簡
単 に い え ば 、 モ スク ワ か ら 中 国 ま で の あ いだ の自 然 や 人 間 の生 活 を調 べ 、 中 国 の 国 情 を 知 り 、 通 商 関 係 を と り 結
ぶ と い う こと で あ った 。 ス パ フ ァリ ー は彼 以 前 に中 国 に使 し た バ イ コフ そ の他 の報 告 書 を綿 密 に 研 究 し 、 万端 の
チ ュメ ニ、 ト ボ リ ス ク 、 ナ リ ム、 エ ニセ イ スク 、 イ ル ク ー ツ ク 、 ネ ル チ ン スク 、 ハイ ラ ル、 チ チ ハル を経 由 し て、
準 備 を 整 え 、 護 衛 を含 め て総 勢 一五〇 人 の 一行 を率 い て 一六 七 五 年 三 月 三 日 モ ス ク ワ を 出 発 し、 ソ リ カ ム スク 、
一六 七 六 年 五 月 十 五 日北 京 に着 いた 。 北 京 に は 同 年 九 月 一日 ま で滞 在 し た が 、 露 清 の修 交 と いう 使 命 不 首 尾 のま ま 帰 途 に つき 、 七 八 年 一月 五 日 モ スク ワ に帰 着 した 。
彼 は 使 節 局 に いく つか の 報 告 書 を提 出 し た が 、 そ れ に は ﹃シ ベ リ ア と 中 国 ﹄ と も 題 さ れ る 一連 の地 理 的 ・民 族
学 的 著 作 が含 ま れ て いる 。 こ の著 作 に は 、 シベ リ ア に か ん す る ロ シ ア最 初 の傑 出 し た 地 理 的 記 述 が 含 ま れ、 ま た
る 記 述 の大 部 分 は バ ッド レイ の大 著 (J.F.Baddel ey Russ ia ,Chi na and M ongol i a.London ,1919,2vol s)
中 国 だ け でな く 、 朝 鮮 、 日 本 、 台 湾 な ど の こと も 書 か れ て い る。 こ の書 物 のな か の シベ リ ア お よ び 中 国 に か ん す
に訳 出 さ れ 、 中 国 内 で の いき さ つ に つ い て は お そ ら く は バ ッド レイ の書 に も と づ い て 、 前 記 の衛 藤 利 夫 氏 が ﹃韃靼 ﹄ の な か で物 語 風 に紹 介 し て いる 。
ス パ フ ァリ ー の著 作 は そ れ が き わ め て高 度 な 内 容 であ った に も か か わ ら ず 、 じ つに 二 百 年 間 も 使 節 局 の古 文 書
の 山 にう づ も れ た ま ま で あ った 。 一八 八 二 年 に ロ シ ア 地 理 学 会 に よ って 公 刊 さ れ、 世 界 の注 目 を浴 びた の で あ る。
本 書 に は イ ル テ ィ シ川 、 エ ニセ イ 川 、 バイ カ ル湖 、 ア ム ー ル川 な ど に か ん す る じ つ に 見 事 で正 確 な 描 写 が あ る
が 、 そ の中 か ら イ ル ク ー ツ ク と バ イ カ ル湖 の記 述 の 一部 、 そ れ か ら こ れ ま で 日 本 で 未 紹 介 と 思 わ れ る ﹁日本 ﹂ の
記 述 を こ こ に 紹 介 し よう と 思 う 。 こ れ は有 名 な ケ ンプ フ ァー の ﹃日本 誌 ﹄ (一七 二 七) に 先 立 つ こ と数 十 年 、 し
か も 北 方 大 陸 か ら き た ヨ ー ロ ッパ人 が 日本 を ど う 見 た か と いう 点 で き わ め て興 味 深 い。
﹁イ ル ク ー ツ ク の柵 は ア ンガ ラ川 の左 岸 平 地 に あ り 、 大 へん 見 事 に構 築 さ れ 、 カ ザ ク と 一般 住 民 の住 家 が 四
〇 軒 以 上 あ る。 地 味 は 穀 物 に適 し て い る 。 柵 に は 慈 悲 深 き 救 済 者 の名 を 冠 す る 教 会 が 建 て ら れ て い る 。 柵 の 少
し 上 方 、 右 岸 に は モ ンゴ リ ア 草 原 か ら 流 れ る イ ル ク ー ト 川 が あ る。 こ の 川 に 沿 って 、 ヤ サ ク を 納 入 す る 、 ま た
は 納 入 し な いブ リ ヤ ー ト 人 や ツ ング ー ス人 が 住 ん で い る 。 イ ル ク ー ツ ク 柵 に は 、 ブ リ ヤ ー ト 人 や ツ ング ー ス人
が ロ シ ア の 大 王 か ら 離 反 し な い よ う に彼 ら の ア マ ナ ト (人 質 ) を お いて い る 。 ブ リ ヤ ー ト 人 は ロシ ア の王 に 、
男 子 一人 当 り 一枚 ま た は 二枚 の黒 テ ンを そ の奴 僕 か ら 徴 収 し て 、 ヤ サ ク と し て納 入 し て い る﹂ (ス パ フ ァ リ ー ﹃シベ リ ア と中 国 ﹄ 九 五︱ 九 六 頁 )
し て い る が 、 か ほ ど にも 大 き い 深 淵 で あ る バ イ カ ルに つ い て は な に も 書 い て いな い。 し た が っ て こ こ で簡 単 に
﹁バ イ カ ル湖 の こ と は 古 今 の 地 誌 学 者 に 知 ら さ れ て い な い。 と い う の は 、 彼 ら は 小 さ な 湖 沼 に つ い て は 記 述
記 述 し よ う 。 バ イ カ ル は海 と よ ぶ こと が で き る 。 な ぜ な ら 、 そ こ か ら 大 河 ア ン ガ ラ が 流 出 し、 や が て他 の多 く
の 河 川 お よ び エ ニ セイ と結 ば れ 、 一緒 に な って 大 海 に流 入 す る 。 そ う し て こ れ を 海 と 称 し 得 る のは 、 大 海 と混
じ り、 こ れ を 周 航 す る こ と が 不可 能 で あ り 、 ま た そ の長 さ 、 幅 、 深 さ が大 き い から で あ る 。 ま た これ を湖 と よ
び う る の は 、 そ の水 が 塩 水 で な い か ら で あ る。 地 誌 学 者 は 、 塩 水 で な い 湖 を 記 述 す る と き 、 そ れ が 大 き く て も
海 と は よ ば な い。 し か し も っと も 厳 密 な 地 誌 学 者 と い え ど も 、 こ れ を 海 と よ ぶ こと が 許 さ れ よ う 。 な ぜ な ら 、
そ の長 さ は 大 帆 船 で 一〇 ︱ 一二 日 、 天 候 に よ って は そ れ 以 上 か か り 、 幅 は 広 い と ころ は 一昼 夜 以 上 か か る 、 そ
に、 夏 で も 雪 のと け な い 高 い 山 々 が 連 な って い る か ら で あ る 。 バ イ カ ル湖 の 中 央 に オ リ ホ ンと よ ば れ る 大 島 が
れ は 大 へん 深 く 、 何 度 も 一〇 〇 サ ー ジ ェン以 上 の 深 さ ま で測 った が 底 に 届 か な か った 。 こ れ は バ イ カ ル の周 囲
あ る。 こ の島 は 湖 の中 央 に、 そ の 長 辺 に沿 っ て位 置 し 、 周 囲 一〇 〇 露 里 以 上 で あ る 。 こ の島 に は 山 や森 、 大 ス
テ ップ が あ る た め 、 以 前 ブ リ ヤ ー ト 人 が 住 ん で い た が 、 カ ザ ク に 追 わ れ て 四 散 し て し ま った 。 そ の後 島 は荒 れ
て、 多 く の動 物 が 住 ん で い る 。 こ の島 の ほ か 小 島 が い く つか あ る が 、 数 は 少 な い。 バ イ カ ル湖 上 の天 候 は い つ
も 悪 く 、 秋 は と く に 荒 れ て い る。 と い う の は 、 バ イ カ ル は壁 の よ う な岩 山 に 囲 ま れ た 盥 の よ う な も の で、 ア ン
ガ ラ 川 が 流 出 す る ほ か 、 ど こ に も 休 み 場 所 も 出 口 も な い か ら で あ る 。 バ イ カ ル へは 大 小 多 く の 河 川 が 流 入 し 、
岸 に は いた る と ころ 岩 石 露 出 し 、 良 港 は 少 な い。 ア ンガ ラ 川 か ら 湖 へ出 て 、 そ の左 側 が と く に そ う で あ る。 バ
イ カ ル には チ ョウ ザ メ 、 サ ケ な ど あ ら ゆ る魚 が住 ん で い る。 ま た 多 く の ア ザ ラ シ が住 む 。 た だ バ イ カ ル湖 岸 に
は 魚 を 食 べ る 少 数 の ツ ング ー ス 人 を の ぞ い て は住 民 が 少 な い。 な ぜ な ら バ イ カ ル の 近 く に 耕 地 が な く 、 住 民 は
冬 季 川 沿 い の冬 営 所 で 暮 す の で あ る。 バ イ カ ル付 近 の森 林 は 大 き な 松 で 、 実 が よ く な る。 ほ か にも 木 が多 い。
(
これ は 誤 り で あ る︱ 著 者
)
の び て お り 、 太 陽 は 湖 上 で ﹁? ﹂ 度 で
湖 水 は 大 へん 清 澄 で、 数 サ ー ジ ェ ン (一サ ー ジ ェ ンは 約 二 ・ 一メ ー ト ル) の深 さ の底 が よ く 見 え る。 水 は 淡 水 で あ る た め 、 飲 用 に も 適 す る 。 バ イ カ ル は 東 か ら 西 へ長 く
登 る 。 冬 季 バ イ カ ルは ク レ シ チ ェ ニ エ フ の 日ご ろ に 氷 結 し 、 五 月 の聖 ニ コラ イ の 日ご ろ ま で つづ く 。 氷 の厚 さ
は 一サ ー ジ ェ ン以 上 も あ り 、 冬 季 に は 各 種 の橇 で横 断 す る 。 し か し 海 が 息 を し て真 二 つに 割 れ 、 幅 二 サ ー ジ ェ
ン以 上 も の割 目 の でき る こと が あ る の で 、 大 へん 危 険 で あ る。 水 は そ こか ら 氷 上 に 溢 れ出 ず 、 間 も な く 一大 轟
音 と と も に 二 つ が つな が り 、 割 目 の場 所 には 氷 の塁 壁 が で き る の で あ る ⋮ ⋮ 。﹂ (ス パ フ ァリ ー ﹃シベ リ ア と中 国 ﹄ 九 九 ︱ 一〇 一頁 )
﹁第 五 八 章 光 栄 あ る 大 日 本 島 と そ の住 民 に つ い て の記 述 。
光 栄 あ る大 日 本 島 は 、 中 国 の 地 誌 学 者 の記 述 に よ る と 、 ア ム ー ル川 河 口 対 岸 に は じ ま り 、 中 国 の対 岸 遠 く に
つら な る 。 場 合 に よ っ て は 、 中 国 から 日 本 島 ま で は 二 昼 夜 の航 程 に あ る 。 ア ム ー ル川 の河 口 対 岸 か ら は さ ら に
が ア ム ー ル川 河 口 の山 上 か ら 、 ま た海 岸 か ら 見 え る。 こ の こ と は 以 前 に ア ム ー ル川 河 口 に 冬 営 し た カ ザ ク た ち
遠 い か ど う か は 不 明 で あ る が 、 そ の島 ま で そ う 遠 い距 離 で な い こと が 判 明 し て いる 。 と い う の は 、 多 く の小 島
が 物 語 って い る。 そ し て そ の と き 、 ギ リ ヤ ク人 が ア ム ー ル川 河 口 か ら か の島 に 行 き 、 上 等 の透 き と お った 魚 骨
や 中 国 式 鍋 を 持 ち 帰 っ て い る 。 そ う し て こ の民 族 が中 国 人 お よ び 日本 人 と 知 り合 って い る と いう 証 拠 は 他 に も
多 い。 異 民 族 の彼 ら の言 に よ る と 、 こ の島 に は多 く の人 び と が 自 由 に 住 ん で い る 、 そ こ に は 日本 人 も い る。
か の島 に つ い て の記 述 に よ る と 、 島 の長 さ は 一、 〇 〇 〇 露 里 以 上 、 幅 二 〇 〇 露 里 以 上 。 島 (日 本 島 )には 大 雪
と 寒 気 と が あ る に は あ る が 、 銀 を 採 掘 す る 場 所 が 一〇 〇 ヵ所 以 上 も あ り 、 そ こか ら 中 国 へも も た ら さ れ て い る。
以 前 こ の島 に つ い て ヨ ー ロ ッパ では 知 ら れ て い な か った が 、 ポ ル ト ガ ル 人 が つぎ の よ う に し て 知 ら せ た 。 す な
わ ち 、 東 印 度 か ら ポ ル ト ガ ル の 大 船 が 商 品 を 積 ん で 中 国 へ向 った が 、 海 で台 風 に出 会 い 、 止 む な く 日 本 島 に つ
いた 。 こう し て 日 本 島 に つき 、 日 本 人 と 交 易 を は じ め 、 互 い に 知 り 合 った 。 そ う し て少 し ず つ ゼ スイ ット が そ
こ に住 み つき 、 以 後 こ の島 に 彼 ら の数 が 増 え 、 有 名 な 町 で 彼 ら の い な い町 は な い の で あ る 。
か の島 は さ ま ざ ま の ハ ン に 領 さ れ て い る 。 ハ ンは そ れ ぞ れ 自 分 の国 と 都 と を 領 有 し て い る。 ハ ン の大 部 分 の
も の は 島 の 中 央 の マサ コ masako と よ ば れ る あ る 都 に 住 む 。 こ の島 全 体 で は 約 五 〇 の ハ ン が あ る 。 こ の島 の
住 民 は 陸 海 にお い て大 へん 勇 敢 で あ り 、 寺 院 には す べ て偶 像 が あ り 、 そ う し て多 く は 修 道 院 の よ う に山 上 に建 てら れ 、 幾 千 の僧 侶 が そ こ で き び し い禁 欲 生 活 を お く っ て い る 。
日 本 の住 民 は 主 と し て中 国 か ら 渡 来 し 、 彼 ら の慣 習 を さ ま ざ ま に変 え た も の であ る 。 ま た 多 く の住 民 は モ ン
ゴ ル (ム ンガ ル) 人 に 由 来 し 、 こ の島 に き て か ら 増 殖 し た 。 こ の こ と は 、 日 本 人 が 頭 髪 を モ ンゴ ル人 のよ う に
の で あ る が 、 これ は 中 国 人 には け っし て 見 ら れ な い こ と で あ る 。
剃 り 、 一部 を 残 し て いる こ と に よ って知 ら れ る 。 ま た 彼 ら は モ ン ゴ ル人 と 同 様 に ほ ほ ひ げ や あ ご ひ げ を む し る
ま た 日本 人 は そ の会 話 に お い て ﹁よ い﹂ お よ び Rt sy と いう 文 字 を 混 ぜ る が 、 こ れ は 中 国 人 が 書 い た り 話 し
た り し な いも の であ る 。 こ のR の 文 字 は 中 国 人 が ど ん な 方 法 を も って し て も 癖 な く 語 る こ と は で き な い。 日 本
語 は 中 国 語 と は 大 へん 異 な って い る が、 信 仰 、 学 問 、 文 字 に つ い て いえ ば 、 す べ て中 国 か ら こ れ を 得 た 。 文 字 は 日 本 人 が 自 分 の言 葉 の特 性 に し た が って多 く を 追 加 し て い る 。
る。 あ る 人 は 、 日 本 の住 民 が 中 国 の流 刑 人 か ら は じ ま った と 書 い て い る が 、 これ は す べ て 嘘 で あ る 。 ま た あ る
彼 ら の 衣 服 は む か し 中 国 人 が 着 た の と 同 じ も の を 着 て いる 。 長 く て 広 い袖 の あ る、 ゆ った り し た 服 を 着 用 す
人 は つぎ の よう に書 い て い る 。 す な わ ち 、 光 栄 に み ち た勇 敢 な ク シ ー Ksi i王 は 全 中 国 を 征 服 し た 後 、 モ ンゴ
ル そ の他 境 界 の 国 々 と 戦 った 。 そ れ か ら さ ら に大 艦 隊 を お く り 、 海 の島 々お よ び 印 度 と も 戦 った 。 彼 は 自 ら の
連 戦 連 勝 を 見 て そ の名 誉 と栄 光 の た め に 、 不 死 の た め の根 ま た は 薬 を さ が し た が徒 労 に 終 った 。 今 日 で も 誠 実
な 中 国 人 が く り 返 し こ の努 力 を 重 ね て い る。 な ぜ な ら 彼 ら は 死 者 の復 活 を 理 解 し な い か ら で あ る 。
そ の後 さ ら に 、 そ の ク シー 王 の 治 世 に、 あ る提 督 が い て、 何 か の機 会 で 日 本 島 に 行 き 、 そ の 土 地 が 大 へん す
ば ら し く 、 ま た そ こに 少 数 の男 子 が住 ん で い る こと を 見 た。 そ こ で彼 は 、 ク シ ー 王 を 欺 し て自 分 が 王 と な り 、
永 遠 の 王 国 を 手 中 に し よ う と 考 え 、 王 に向 い、 彼 が遠 い海 の中 に あ る 島 、 新 ら し い土 地 を 見 出 し 、 そ こ では 不
こ の こと は 神 に よ って定 め ら れ て い て、 こ れ だ け の 若 者 と 娘 が な け れ ば か の霊 薬 を さ が す こと は でき な い と 付
死 の薬 を 求 め る こと が で き る と 言 上 し た 。 そ のた め には 三 〇 〇 人 の若 者 と 三 〇 〇 人 の娘 と が 必 要 であ る こと 、
言 し た 。 ク シ ー王 は こ の提 督 の言 葉 を ま った く 信 じ た 。 と いう のは 、 王 は 死 を 大 敵 のよ う に お そ れ て 、 不 死 の
督 は 軍 兵 と 若 者 を 連 れ て か の国 に お も む いた 。 そ う し て 薬 を さ が さず に都 市 を き づ き は じ め 、 か の銀 の よ く 出
薬 を欲 し て い た か ら 、 そ の提 督 に 艦 隊 を 編 成 さ せ、 車 兵 お よ び 若 者 と 娘 と を 集 め さ せ 、 急 ぎ 出 発 を 命 じ た。 提
る 豊 沃 な 地 に住 み つ いた 。 こう し て彼 は 日 木 最 初 の ハ ン と な り 、 そ れ 以 後 こ の国 の住 民 は ふ え た の で あ る 。
隊 を 日本 人 の 国 に も派 遣 し た が、 彼 ら 日 本 人 は 堅 固 に 守 って カ ル ム ィ ク 人 に 勝 ち 、 自 国 へは 一歩 も 入 れ な か っ
そ の後 日 本 の ハ ンは 贈 物 を も った 使 節 を 中 国 の ハ ン に送 り は じ め た 。 カ ル ム ィ ク 人 は 中 国 を 奪 取 し て後 、 軍
た 。そ の 後 つ い に、日 本 人 は そ の使 節 を 中 国 に送 り 、中 国 が 自 国 を 守 り え な い こ と を 罵 った 。そ の時 以 後 中 国 人
と 日 本 人 と の あ い だ に 大 き な 敵 意 が 生 じ 、 大 戦 争 が は じ ま った。 日本 人 は 、 カ ル ム ィ ク人 と の あ いだ に あ った
﹁日 本 ﹂ の名 は も と も と 中 国 語 の 名 称 であ る 。 な ぜ な ら 中 国 人 は 彼 ら (日本 人 ) の こと を ヘ フ ェ ン Gepuen
こ の戦 争 で、主 に朝 鮮 国 を 荒 廃 さ せ た 。こ の 戦 争 に つ い て は 、ベ ネ チ ア人 が と り あ げ て そ の書 物 に 記 述 し て い る 。
と よ び 、 彼 ら 自 身 も ま た ヘプ ェ ン、 す な わ ち ﹁日 の出 ﹂ ま た は ﹁太 陽 の最 初 の位 置 ﹂ と 称 し て い る か ら で あ る 。
中 国 人 が 日本 と 称 し て い る の は 、 こ の国 が 諸 国 の終 端 に あ り 、 東 方 で も っと も 知 ら れ た 国 だ か ら であ る 。 と い
が 世 界 に あ る こと を希 望 し 、 日 本 に つ い て は な に も 知 ら な か った 。 ベ ネ チ ア人 は 彼 ら の こ と を カ ル ム ィ ク 式 に
う のは 、 太 陽 は そ こか ら 中 国 の方 へ の ぼ って く る か ら で あ る 。 これ 以 前 は 中 国 人 は 、 彼 ら の 国 (中 国 ) ひ と つ
ジ パ ネ ラと 称 し 、 中 国 人 は か の提 督 の名 に よ って ヘク ウ ェ Gekwe と 称 し た 。 ま た 他 に イ ウ ク Iwuk u つま り ﹁野 蛮 人 ﹂ ︱︱ こ れ によ っ て彼 ら を 罵 る︱︱ と も 呼 称 す る。
今 では 日 本 島 か ら 交 易 の た め に境 界 の中 国 都 市 ま で往 来 し て い る が、 そ の 先 へは 行 か な い。 ポ ル ト ガ ル 人 は
﹁彼 ら の国 ﹂ へ行 き 、 彼 ら と 交 易 し て い る。 こ の島 の 一民 族 に つ い ては 、 そ こ の人 び と と そ の道 具 が 、 ア ム ー
ル川 ︱ そ こ では 大 船 を つく る こ と が で き ず 、 中 国 、 日本 島 に 行 く こと が で き な い︱︱ 河 口 に住 む ギ リ ヤ ク 人 と 同 様 で あ る と いわ れ て い る 。
以 上 す べ て のほ か に 、 ま だ 世界 に知 ら れ て お らず 、 ま た誰 も 知 ら な い他 の 島 を さ がす こ と が で き よ う 。 と い
う のは 北 氷 洋 の航 海 は 困 難 で あ る し 、 東 海 か ら は 同 様 に調 査 さ れ て いな い か ら で あ る。
こう し て今 や 、 本 書 で な さ れ る 全 中 国 の 記 述 お よ び こ れ に 接 す る他 の諸 国 の記 述 を終 った 。 さ ら に讃 え ら れ 、
有 名 に な った ア ム ー ル 川 に つ い て は多 く の 箇 所 でた っぷ り と 書 いた 。 こ の 川 の 上 流 は モ ンゴ ル 人 が 、 中 流 は ロ シ ア国 が 、 中 間 か ら 河 口ま で は 中 国 人 が 領 有 し て いる 。
こ の日 本 島 に つ い て は ほ ん の少 し し か 書 か な か った が 、 ロ シ ア に は こ れ に つ い て と く に詳 し い書 物 が あ る か ら である。
明 白 な 記 述 が で き る よ う に道 を 残 す も の で あ る。 ど う か こ の こと が 神 の名 と 正 教 の讃 美 に お い てな さ れ る こと
あ と の こと は 、 未 来 の人 び と が 中 国 に つ い てだ け で な く 、 中 国 の か な た の未 知 の 地 や 国 に つ い て、 よ り優 れ 、
を 、 全 ロ シ ア国 家 の あ ら ゆ る 繁 栄 と 光 栄 を と も な って。 七 一八 六 年 の夏 、 (一六 七 七 年 )、 十 一月 十 三 日 こ の記
述 を 終 る 。﹂ (ス パ フ ァ リ ー ﹃シ ベ リ ア と 中 国 ﹄ 二 八 五 ︱ 二 八 八 頁 )
スパ フ ァリ ー の こ の 記 述 に関 連 し て、 彼 の後 同 じ く ツ ァー リ の遣 清 国 使 節 と し て北 京 に お も む いた イ スブ ラ ン
ド ・イ デ ス の旅 行 記 中 の ﹁日 本 ﹂ を 紹 介 し よ う 。 彼 は ネ ル チ ン スク 条 約 の 三年 後 、 一六 九 二年 三 月 十 四 日 モ ス ク
ワ発 、 九 三年 十 一月 北 京 着 、 九 五 年 二 月 一日 モ スク ワ に 帰 着 し て い る。 彼 の旅 行 記 は ヨー ロ ッパ で は当 時 有 名 で、
一六 九 六年 に ド イ ツ 語 、 九 七 年 ラ イ プ ニ ッツ によ って ラ テ ン語 、 一七 〇 四年 ウ ィト セ ン の監 修 で オ ラ ンダ 語 の訳
を 重 ね た も の で あ る。 ロ シア 語 で は 一七 六 六 年 に 出 版 さ れ た 。
本 が 刊 行 さ れ た 。 こ の オ ラ ンダ 本 を 原 本 に し て 一七 〇 六年 英 語 、 一五年 フ ラ ン ス語 の訳 が刊 行 さ れ、 そ れ ぞ れ 版
て い る 。 そ う し て (住 民 は こ の こ と を 聞 く こと を 好 ま な い の だ が ) 以 前 は 中 国 に 属 し て い た 。 彼 ら の 生 活 様 式
﹁第 二 四章 中 国 の ま わ り の国 々と 島 々 に つ い て 。 日 本 は 正 当 に も 東 方 の他 のす べ て の島 々 に 比 べ て好 ま れ
は 中 国 人 の よ う で 、 中 国 の書 物 を 学 び ま た 読 ん で い る 。 そ う し て 二 本 の象 牙 製 の棒 で 食 事 を す る 。 し か し 床
に坐 り 、 異 な った 衣 服 を 着 用 し 、 皮 の長 靴 を は き 、 長 髪 を た く わ え る 。 こ の島 は ひ と つ の独 立 し た 主 権 国 家 で 、
皇 帝 の称 号 を 帯 び る プ リ ン スに よ っ て統 治 さ れ て い る 。 島 の幅 は 一五 〇 ︱ 一六 〇 マイ ル、 長 さ 三 〇 〇 ︱ 三 五 〇
マイ ル。 金 、 銀 、 銅 を 豊 富 に産 し 、 必 要 と 贅 沢 と を 充 た す に十 分 で あ る 。 そ れ は いく つか の 小 島 に 分 れ、 緯 度
で 三 四 ま た 三度 に位 置 し て い る 。 住 民 の行 動 は た い へん 狡 猾 か つ欺 瞞 的 で 、 き わ め て政 治 に熟 達 し て い る 。 彼
ら は 自 ら の自 由 を 失 な う ま い と し て き わ め て細 心 で あ り 、 他 の諸 国 民 を 大 へん 疑 い深 く扱 う の で あ る 。 こ の た
め 彼 ら は 一切 の こ と に つ い て注 意 深 く 、 彼 ら の強 さ に寄 与 す る と 思 わ れ る も の以 外 は 、 す べ て の外 国 船 の 舵 を
彼 ら の 港 で と り は ず し て し ま う 。 彼 ら は す べ て の点 で 小 ざ っぱ り と し て お り 、 そ の 点 で は 彼 ら が中 国 人 よ り も
は る か に優 れ て い る と 信 じ て 、 中 国 人 を ひ や か す の で あ る 。 信 徒 に た いす る 残 酷 で 迅 速 な 迫 害 の行 な わ れ る前
は 、 住 民 の ほ と ん ど 半 数 は キ リ ス ト 教 徒 に改 宗 し て いた が 、 現 在 で は キ リ スト 教 徒 で あ る こと を 疑 わ れ る 者 は
何 び と も 、 信 徒 で あ る か な い かを 試 す 踏 絵 を 通 過 し な い 限 り 、 帝 国 のど の 部 分 に も 入 れ な い の で あ る。 そ れ で
も 、 わ れ わ れ は 日 本 に な お 信 仰 を 胸 中 に 保 持 し 、 神 の み に 告 白 す る者 の い る こ と を 聞 いた 。 し か し キ リ ス ト教
徒 と いう 名 前 だ け でも こ の 地 では 憎 悪 さ れ て お り 、 こ こ で貿 易 だ け に 従 事 す る 人 の キ リ ス ト 教 信 仰 も か く さ ね
ば な ら な か った ほ ど で あ る 。 そ う し て、 こ こ で 大 き な 貿 易 に従 事 し て い る オ ラ ンダ 人 は 、 キ リ スト 教 徒 か ど う
か を 聞 か れ る と 、 オ ラ ンダ 人 だ と いう 間 接 的 な 答 え を し て危 険 な 暗 礁 を 回 避 す る の で あ る 。 ﹂
つ い でイ デ ス は数 個 所 で 日本 の こと を 引 合 い に出 し 、 東 南 ア ジ ア の ト ゥ ン キ ン、 コウ チ シナ に ふ れ て、 こ れ ら
の諸 国 が ﹁日本 か ら た い へん 離 れ て いる け れ ど も 、 し か も 風 習 や 作 法 は 日 本 人 に従 って いる ﹂ と 述 べ て いる こ と
は 興 味 深 い。 (イ スブ ラ ンド ・イ デ ス ﹃モ スク ワ か ら 大 陸 横 断 し て中 国 への 三 年 間 の 旅 ﹄ 一九 一︱ 一九 三頁 ) な
お イ デ ス の旅 行 報 告 書 で は シ ベ リ ア原 住 民 の生 活 状 態 の記 述 お よ び 地 図 が と く に価 値 あ るも のと さ れ て いる 。
年 当 時 人 口 二 、 六 五 七 人 を 数 え 、 住 民 に は ポ ー ラン ド 人 、 リ ト ワ 人 、 ド イ ツ 人 、 ス エ ーデ
レ ミ ョゾ フ の ﹁シ 西 シベ リ ア の ト ボ リ ス ク は 十 七 世 紀 末 シベ リ ア の 文 化 的 生 活 の中 心 地 で あ った 。 一六 七 八 ベ リ ア の 歴 史﹂
ン人 な ど が含 ま れ 、 遅 れ て で は あ る が ヨー ロ ッパ の新 聞 ま で入 って き た と いわ れ る。 ま た こ の 町 へは ブ ハラ人 、
タ タ ー ル人 、 カ ル ム ィ ク 人 な ど アジ ア 諸 民 族 も 交 易 そ の他 で往 来 し て いた 。 こう し た 国 際 的 環 境 で 、 こ の町 は シ
ベ リ ア 研 究 の 面 で も 一中 心 と な り 、 エ シポ フ物 語 が こ こ で生 れ、 ホ ル ワチ ア 生 れ の ユリ ー ・ク リ ジ ャノ ビ チ は こ
こ で彼 の シ ベ リ ア に か ん す る主 要 著 作 を書 いた 。 彼 は こ の町 で 一五年 を 過 す が 、 一六 八 〇 年 ご ろ シ ベ リ ア史 を 著
わ し 、 シベ リ ア の経 済 的 開 発 に つ い て声 高 く 語 った 。 ま た ﹁一六 六 七 年 に ト ボ リ ス ク で作 製 さ れ た シ ベ リ ア全 図 、
い わ ゆ る ﹃ゴ ドノ ゥノ フ図 ﹄ は 、 シベ リ ア古 地 図 史 の貴 重 な 資 料 で あ る ﹂。 (三 上 正 利 ﹃十 七 世 紀 ロシ ア製 シベ リ ア
こ の町 に 生 れ 、 こ こ で活 躍 し た。 ア ンド レ ー エ フ の研 究 によ る と 、 彼 の祖 先 は 一六 二八 年 に シベ リ ア へ派 遣 さ れ
諸 地 図 ﹄ アジ ア の歴 史 地 理 八 七 頁 ) 初 期 の シベ リ ア研 究 で画 期 的 な 役 割 を は たし た セ ミ ョ ン ・レ ミ ョゾ フも ま た
た 軍 務 役 人 で、 セ ミ ョ ン は 一六 六 〇 年 ご ろ の生 ま れ 、 学 者 の ク リ ジ ャ ニチ や都 督 の ゴ ド ゥ ノ フら と 親 し い交 際 の
あ った そ の生 家 で教 育 を受 け た 。 一六 八 一年 以後 役 人 と な り 、 九 四 年 ご ろ か ら 画 家 と し て の任 務 を も 果 す よ う に
な り 、 九 六年 から 地 図 描 き と し て認 め ら れ 、 シベ リ ア 局 か ら の依 頼 を 果 す よ う に な った 。 彼 は ト ボ 〓 スク お よ び
モ スク ワ で長 い間 の努 力 の結 果 、一七 〇 一年 に有 名 な ﹃シベ リ ア 地 図 ﹄ を 完 成 し た 。 (ア ンド レ ー エ フ ﹃シベ リ ア
の上 に 城 や柵 、 教 会 の絵 を描 き 、 簡 単 な 説 明 を書 き こん だ 独 特 の地 図 であ る。 た と え ば ア ム ー ル川 の河 口 近 く 、
資 料 学 概 説 ﹄ 九 六 ︱ 九 八 頁 ) こ れ の完 成 は ロ シ ア 地 理 学 史 上 ひ と つ の画 期 を な す と 考 え ら れ て い る。 こ れ は 地 図
明 代 建 立 の永 寧 寺 碑 のあ った こ と で 有 名 な テ ィ ル絶 壁 付 近 に は 、 城 の図 を 描 き 、 ﹁マケ ド ニ ア の ア レク サ ン ド ル
い て は 、 カ ザ ー ニ ンの 論 文 が あ る 。 (カ ザ ー ニ ン ﹃レ ミ ョゾ フ の シ ベ リ ア 地 図 上 の 一記 載 に つ い て﹄ 東 洋 の 諸 国
大 王 は こ こ ま で到 達 し て そ こ に 武 器 を か く し 、鐘 を 残 し て去 った ﹂ と 記 載 し て い る。 な お 、 こ の記 載 の意 味 に つ
と 諸 民 族 第 一冊 所 収 )
こ の セ ミ ョ ン ・レ ミ ョゾ フ が彼 の収 集 し た 多 く の資 料 に基 づ い て十 七 世 紀 末 に ﹃シ ベ リ ア の歴 史 ﹄ を書 いた 。
これ の資 料 は バ フ ル ー シ ン に よ って、 エ シポ フ年 代 記 の ほ か 、 現 在 に伝 わ ら な い 二 つ の年 代 記 と 現 地 住 民 な ど の
口 伝 え であ る こと が 明 か にさ れ た 。 ﹁レ ミ ョゾ フ年 代 記 は そ の構 成 と 形 式 に お いて と く に 注 目 に価 す る。 そ れ は
単 な る集 成 で は な い。 そ れ はむ し ろ あ る程 度 ま で 学 者 の歴 史 的 労 作 で あ る。 た だ そ こ に は 、 方 法 や操 作 の点 で 当
エ ル マク と そ の部 隊 が シベ リ ア遠 征 の イ ニ シ ア チ ー ブ を と り 、 スト ロガ ノ フ家 は 側面 か ら 物 質 的 援 助 をし た と し 、
時 の科 学 思 想 に特 有 の欠 陥 が 明 白 に露 呈 さ れ て い るだ け であ る 。﹂ (バ フ ル ー シ ン前 掲 書 三 二頁 ) レ ミ ョゾ フ は 、
シベ リ ア の最 終 的 確 保 のた め に は エ ル マク の部 隊 だ け で は不 足 で、 政 府 軍 を 必 要 と し た と 考 え て い る 。 こ の図 式
ロ シ ア の十 八 世 紀 は ピ ョー ト ル 一世 と と も に明 け 、 エ カ チ ェリ ー ナ 二世 と と も に暮 れ る 。 シ
は 後 の ミ ル レ ル に よ っ て受 け つ が れ た 。 レ ミ ョゾ フ の著 作 は 歴 史 物 語 か ら 歴 史 学 への過 渡 をな す も のと 考 え ら れ て いる。 ミ ル レ ル の ﹃シ
ベ リ ア の 国 誌 ﹄ ベ リ ア も ま た こ の 二人 の強 力 な 専 制 君 主 に よ って大 き な 影 響 を う け た 。
ピ ョー ト ル 一世 は 一六九 七 年 と 一七 一三 年 の二 度 に わ た っ て、 ド イ ツ の大 学 者 ラ イ プ ニ ッツ と 会 談 し 、 ア ジ ア
は そ の北 東 端 に お い て ア メ リ カ と 接 し て い る か 、 そ れ と も 海 峡 に よ って 分 れ て い る か と いう 問 題 の解 決 を 約 束 し
て いた 。 両 大 陸 を 分 つ海 峡 は 、 十 七 世 紀 にす で に カ ザ ク の セ ミ ョン ・デ ジ ニ ョフ が通 過 し た が 、 行 動 の人 で あ っ
て 、 科 学 と は 縁 遠 か った デ ジ ニ ョフ の業 績 は 外 部 に知 ら れ な いま ま に な って いた 。
一七 一六 年 ライ プ ニ ッ ツ は彼 の抱 い て いた 疑 問 の解 決 を 見 な いう ち に 死 に、 二 五年 ピ ョート ル 一世 は 重 病 の床
に つ い た 。 病 床 の 皇 帝 は 、 彼 の脳 裡 を み た す や り 残 し た仕 事 の渦 の中 で 、 ラ イ プ ニ ッツと の約 束 を 思 い出 し た 。
の後 数 週 間 し て皇 帝 は死 ぬ が 、 そ の後 二 度 に わ た る ベ ー リ ング の探 険 隊 は 皇 帝 の遺 志 を見 事 に は た し た 。 シベ リ
彼 は 直 ち に自 ら ペ ンを と って 、 ベ ー リ ング を 長 と す る カ ム チ ャ ツ カ探 険 隊 の派 遣 に か ん す る命 令 書 を 書 いた 。 そ
ア の自 然 と 民 族 、 そ の歴 史 に か んす る学 問 的 研 究 は 、 こ の探 険 に よ って基 礎 が 築 か れ た 。 これ よ り 前 の 一七 一九
年 メ ッセ ル シ ュミ ット と いう ド イ ツ の学 者 が ロ シ ア政 府 と の契 約 に よ って シベ リ ア に派 遣 さ れ て いた が 、 そ の成
果 は優 れ て は い る が 、 や は り限 ら れ た も の であ った 。
の 他数 人 の大 学 生 であ って、 大 学 生 のな か に は後 に ﹃カ ム チ ャツ カ誌 ﹄ を書 いた ク ラ シ ェ ニ ン ニ コ フや 測 地 学 者
ベ ー リ ン グ 探 険 隊 に参 加 し た シ ベ リ ア調 査 の学 者 た ち は 、 ミ ル レ ル、 フ ィ シ ェル、 グ メ ー リ ン、 ク ロイ エ ルそ
の ク ラ シ リ ニ コ フ、 ポ ポ フら が いた 。 そ の後 エカ チ ェリ ー ナ 二 世 の治 世 に、 別 の大 規 模 な 学 術 探 険 隊 が ロシ ア領
東 部 地 方 の 調 査 のた め に派 遣 さ れ た が、 そ れ に は パ ラ ス、 ゲ オ ルギ ー 、 レ ピ ョー ヒ ン、 フ ァ リ ク ら の学 者 が参 加
し て い る 。 彼 ら は そ れ ぞ れ 専 門 分 野 の観 点 か ら す ぐ れ た報 告 書 や 著 作 を多 数 残 し て い る。
ミ ル レ ル は 一七 〇 五 年 ド イ ツ の ヘレ ホ ルド に 生 れ 、 二 十 歳 に し て ペ テ ルブ ルグ 学 士 院 に招 聘 さ れ 、 ス チ ューデ
ント ( 研 究 生 )の資 格 が あ た え ら れ た 。 一七 三 三年 に は ベ ー リ ング 探 険 隊 への参 加 を 命 ぜ ら れ 、そ の後 四 三年 ま で
の十 年 間 シ ベ リ ア の民 族 学 的 調 査 や 、 各 地 の 地 理 歴 史 に か ん す る文 献 の抜萃 整 理 に没 頭 し た 。 一七 五 〇 年 彼 の大
著 ﹃シ ベ リ ア 国 誌 ﹄ の第 一巻 が 出 版 さ れ た が 、バ フ ル ー シ ン は ミ ル レ ル の諸 労 作 の価 値 が 、﹁そ の包 括 す る時 代 の
広 さ だ け で な く 、 そ の深 い科 学 性 に あ る ﹂ (バ フ ル ー シ ン前 掲 書 五 五 頁 )と 書 き 、 ベ ルグ は ﹁学 問 に お け る彼 の功
績 は計 り知 る こと が で き な い﹂ と の べ て い る 。 (ベ ル グ ﹃カ ムチ ャ ツ カ の発 見 と ベ ー リ ング探 険 ﹄ 邦 訳 一四 六 頁 )
彼 の ﹃シ ベ リ ア国 誌 ﹄ に は シベ リ ア 各 管 区 の書 庫 で筆 写 し た 貴 重 な 文 献 、 民 族 学 的 、 考 古 学 的 な 調 査 や 研 究 が盛
ら れ て い る。 後 世 シベ リ ア古 文 書 の多 く が 焼 失 ま た は 紛 失 し た の で、 彼 の集 め た 資 料 は 評 価 し え な い財 宝 と な っ
た 。 ま た 彼 は 一七 五 五 年 以 降 年 間 継 続 し て ﹃月 刊 文 集 ﹄ と い う ロ シ ア最 初 の学 術 普 及 雑 誌 を刊 行 し 、 シ ベ リ ア に
か ん す る 研 究 論 文 を つぎ つぎ に掲 載 し た 。 そ の中 の考 古 学 に か ん す る 論 文 で は 、 シ ベ リ ア に 青 銅 器 時 代 と 鉄 器 時
代 の あ る こ と を は じ め て明 ら か に し 、 レ ナ川 岸 シ シキ ノ村 の岩 壁 画 も 紹 介 し て い る。 こう し て 、 ﹁今 日 に お い て
も 、 何 び と が シベ リ ア史 に と り か か ると し て も 、 ミ ル レ ル の ﹃シベ リ ア国 誌 ﹄ は そ の出 発 点 で あ る﹂ と さ れ て い
る 。 (バ フ ル ー シ ン前 掲 書 六 二頁 )
ミ ル レ ル 以 後 、 フ ィ シ ェ ルは ミ ル レ ル の原 稿 をダ イ ジ ェスト し て ﹃シベ リ ア史 ﹄ を 書 き 、 十 九 世 紀 に 入 って、
カ ラ ム ジ ン、 ソ ロビ ヨフ、 シ チ ェグ ロ フら も ミ ル レ ル の資 料 を 利 用 し て書 物 を 著 わ し て い る。
ま た 彼 は ク ラ シ ェ ニ ン ニ コフ が 重 病 の と き 、そ の著 ﹃カ ム チ ャツ カ誌 ﹄に序 文 を 付 し て 出 版 し 、ま た タ チ シ チ ェ
よ う に 、 ロ シ ア に 招 聘 さ れ た り 旅 行 者 と し て き た り し た 多 く の ヨ ー ロ ッパ 人 に よ っ
十 七 ︱ 十 八 世 紀 の シベ リ ア に か ん す る知 識 の か な り の部 分 は 、 これ ま で に も の べ た
フ の ﹃ロシ ア 史 ﹄ を 刊 行 し て い る。 (コ スベ ン ﹃北 方 探 険 の民 族 学 的 成 果 ﹄ シベ リ ア 民族 学 論 集 第 三 巻 一九 五頁 )
桂川 甫周 の ﹃北槎 聞略 ﹄
て豊 か に さ れ 、 世 界 に広 め ら れた 。 ア レ ク セ ー エ フと いう 学 者 は 、 一九 四 一年 に ﹁ヨー ロ ッパ の旅 行 家 お よ び 著
ロ ッパ 人 の報 道 を ロシ ア 語 で 集 成 し て い る。 これ は こ の方 面 の 研 究 に お け 必 須 の資 料 と さ れ て い る 。
作 家 の報 道 にあ ら わ れ た シ ベ リ ア ﹂ と 題 す る大 著 を あ ら わ し 、 十 三 ︱ 十 七 世 紀 の シ ベ リ ア に か ん す る 五 〇 の ヨー
日本 人 の見 た シベ リ ア に か ん す る 報 道 は、 桂 川 甫 周 編 の ﹃北槎 聞 略 ﹄ が最 初 であ る。 そ れ 以 後 大 槻 玄 沢 著 の
﹃環 海 異 聞 ﹄、 間 宮 林 蔵 の ﹃東韃 紀 行 ﹄、 榎 本 武 揚 の ﹃シベ リ ア 日記 ﹄ な ど の名 著 が あ ら わ れ る が、 十 八 世 紀 に 属
し 、 し か も そ の記 述 内 容 に お いて も っと も 生 彩 に富 む も の は ﹃北槎 聞 略 ﹄ であ る 。 本 書 は 周 知 のよ う に 、 一九 三
七 年 (昭 和 十 二) 亀 井 高 孝 氏 の校 訂 で 三 秀 舎 か ら出 版 さ れ た が 、 亀 井 氏 は そ の序 文 で ﹁我国 に お け る斯 種 漂 流 文
学 中 に あ って も 本 書 の右 に出 づ るも のな し と 称 す る も決 し て溢 美 にあ ら ざ る な り ﹂ と の べ て い る 。
本 書 の由 来 に つ い て は す で に よ く 知 ら れ て い る が 一応 こ こ で簡 単 に紹 介 す る と つぎ のと お り で あ る。 伊 勢 国 若
松 村 生 れ の大 国 屋 光 太 夫 は 一七 八 二年 (天 明 二) 十 二 月 、 伊 勢 国 亀 山 領 白 子 村 彦 兵 衛 の持 船 神 昌 丸 の船 頭 と し て、
紀 伊 藩 の 回米 そ の他 を 積 ん で乗 組 員 一六 人 と と も に白 子 浦 か ら 江 戸 へと 出 帆 し た 。 回 漕 の途 中 、同 月 十 三 日 の夜
半 駿 河 沖 で に わ か に ﹁勢 山 の崩 る るご と ﹂ き 台 風 に お そ わ れ、 や む な く ﹁風 浪 にま か せ て そ こ は か と な く 漂 う ﹂
こと 八 ヵ月 あ ま り 、八 三 年 七 月 二 十 日 ア レ ウ ト 諸 島 中 のひ と つ の島 ア ム チ ト カ島 に漂 着 し た 。 八 七 年 ( 天 明 七 )、
き 、 こ の地 で フ ラ ン ス の探 険 家 ラ ペ ル ーズ の部 下 レ セ ップ スと 会 見 し て い る。 八 八 年 オ ホ ー ツ ク に上 陸 、 八 九 年
同 島 に滞 在 中 であ った ロ シ ア人 毛 皮 商 の好 意 で、 生 残 った 光 太 夫 以 下 八 人 は 八 月 下 旬 ニジ ニ ・カ ム チ ャ ツ カ に着
( 寛 政 一) ヤ ク ー ツ ク を 経 てイ ル ク ー ツ ク に着 い た 。 光 太 夫 ら の イ ルク ー ツ ク滞 在 は 八 九 年 二 月 七 日 か ら 九 一年
一月 十 五 日 ま でと 、 九 二 年 一月 三 十 三 日 か ら 同 五 月 二 十 日 ま で と の 二 回 で あ った が 、 イ ル ク ー ツ ク の印 象 は も っ
と も 鮮 明 であ った よ う で、 北 槎 聞 略 の いた る と こ ろ で こ の町 の生 活 を 引 合 い に出 し て い る。 こ の 町 で彼 ら は 、 当
時 イ ルク ー ツク 近 郊 で ガ ラ ス工 場 を 経 営 し て いた 有 名 な 科 学 者 キ リ ル ・ラ ク ス マ ン の知 遇 を得 た 。 彼 は ﹁隔 世 の
れ て露 都 の ペ テ ルブ ルグ を訪 れ 、 五月 二 十 八 日 (ロシ ア 文 書 に よ る と 露 暦 の 六 月 二 十 八 日 ま た は 二 十 九 日) エカ
因 縁 あ り け る に や 、 光 太 夫 を 一方 な ら ず 親 切 に撫 育 し 、 子 弟 のご と く に憐 ん だ ﹂。 九 一年 ラ ク ス マ ンに と も な わ
チ ェリ ー ナ 二世 に謁 見 し て い る。 女 帝 は 露 暦 九 一年 九 月 十 三 日 付 イ ル ク ー ツ ク の総 督 ピリ ュー に あ た え た 勅 令 第
一六 九 八 五 号 を も っ て、 光 太 夫 ら の 日本 送 還 と 日本 と の国 交 関 係 の確 立 を命 じ た 。 彼 ら は 十 一月 二十 六 日 、 下 賜
品 や 多 く の贈 物 を も って露 都 を 出 発 し 、 モ ス ク ワを 経 由 し て、 イ ル ク ー ツ ク 、 ヤ ク ー ツ ク を と お り、 オ ホ ー ツ ク
か ら ロ シ ア使 節 ア ダ ム ・ラ ク ス マ ン (キ リ ル の 子 ) に伴 わ れ て オ ホ ー ツ ク を出 帆 、 九 二年 (寛 政 四) 九 月 三 日北
海 道 の根 室 に帰 還 し た 。 ﹁北 槎 聞 略 は光 太 夫 滞 露 中 の見 聞 録 であ る が、 そ れ は 博 識 な る桂 川 氏 の周 到 な る質 問 に
(﹃北 槎 聞 略 ﹄ 八 頁 ) 本 書 の内 容 は 当 時 の ロ シ ア全 般 に わ た う も の で あ る が 、 彼 の滞 在 ま た は 通 過 し た シ ベ リ ア
誘 導 さ れ た お 蔭 に よ る所 が 少 く な い と 想 像 さ れ 、 此 点 で本 書 は問 答 当 事 者 両 人 の合 作 と も 見 る べ きも の で あ る 。﹂
諸 地 方 の 民 族 や 生 活 に つ い て は こと に す ぐ れ て いる 。
最 近 ソ連 で も 本 書 の こ と が 注 目 さ れ 、 コ ン ス タ ン チ ノ フ は 一九 六 一年 ﹃日 本 人 の 眼 で見 た 十 八 世 紀 ロ シ ア﹄ な
る 論 文 を 書 い て紹 介 し て い る。 そ の中 で彼 は ﹁ロシ ア に か ん す る光 太 夫 の物 語 を 読 ん で 、 そ の観 察 と 記 憶 に驚 嘆
す る ﹂ と 書 き 、 本 書 が ﹁日露 交 渉 史 の研 究 者 だ け で な く 、 ソ連 の史 料 学 お よ び 歴 史 の研 究 者 に と って も 興 味 あ る
資 料 であ る ﹂ と のべ て い る 。(﹃ア ジ ア 民 族 研 究 所 紀 要 ﹄ 第 四 四 冊 七 六 頁 ) 彼 は ま た 一九 六 一年 、 同 じ く 光 太 夫 に
か ん す る 日本 の古 文 書 ﹃魯 斉 國 睡 夢 談 ﹄ を 写 真 版 と ロシ ア語 訳 つき で出 版 し て いる 。
以 下 、 シベ リ ア の都 市 に つ い て、 桂 川 甫 周 が ヒ ュブ ネ ル の ﹃ゼ オガ ラ ヒ﹄ に よ って補 った 注 を の ぞ い て 、 北 槎 聞 略 の 一部 を 原 文 のま ま 紹 介 し ょう 。
○ ヲ ホ ツ カ 此 地 は 東 南 諸 方 海 舶 輻 湊 の 埠 頭 に て頗 る 繁 盛 の地 な り 。 又 此 所 に船 匠 多 し 。 光 太 夫 等 を 護 送 の舶 も 此 地 に て 造 り 、 帰 國 の節 も 此 處 よ り 開 洋 せ し と ぞ 。
○ ヤ コ ー ツ カ レ ナ河 沿 岸 の地 な り 。 気 候 極 て 寒 く 、 冬 の間 は 行 路 の者 厳 寒 に侵 さ れ 肌 肉 皆 凍 り 、 動 れ ば 耳鼻
を お と し 指 を 堕 し 足 を 脱 す 故 に、 身 に は 裘 を 厚 く か さ ね 皮 の 帽 子 を 着 、 ム フタ と て 表 は 熊 の皮 、 裡 は 狐 の 毛
り を 出 し あ り く な り 。 さ な け れ ば 頬 さ き な と は 〓 て と り た る如 く に 爛 よ し 。 途 中 に て は 只 か た く 成 た る 如 く お
皮 に て〓 のと く に縫 ひ た る行 ぬ け の手 〓 に兩 頭 よ り 手 を さ し 入 、 これ を 面 に あ て 、 鼻 よ り 下 を お ほ い て 眼 は か
ぼ ゆ る の み に て さ の み 痛 痒 と て も あ ら ざ れ ど も 、 室 内 に 人 、 温 暖 に あ へば 次 第 に痛 み 出 、 氷 の と く る と く に 稀
先 よ り肉 脱 し 骨 を露 す を 大 鋸 に て 切斷 し 、 木 に て つぎ 足 を 造 り 、 杖 を つき て あ りく な り 。 も つと も 北 に よ り た
汁 瀝 り出 て爛 れ 落 る な り。 軽 き 症 に は牛 酪 に 丁 子 肉 桂 の末 を加 へて 塗 れ ば 速 に癒 る よ し 。 重 き 症 は 漸 々 に足 の
る 地 な る 故 、 六 月 頃 よ り 八 月 ころ ま て は 、 太 陽 の餘 光 常 に 地 平 に残 り て 晝 夜 の分 ち も な き ほ ど に て、 曇 り た る
晝 よ り も 却 て 夜 中 明 る き事 も あ る と そ 。 細 か く 書 た る も の も 燈 な し に讀 ま る ゝほ と な る よ し 。 此 地 よ り 氷 海 ま
で は 二 千 四 五 百 里 に す ぎ す 。 其 海 濱 に てズ バ と い ふ獸 の牙 を 拾 ひ得 る事 あ り 、 其 内 に て ま ゝ 一角 を も 得 る と い
ふ 。 本 國 よ り 建 置 處 の都 會 は 人 家 五 六 百 、 大 半 平 屋 造 り に て ま れ に 二階 造 り あ り、 皆 木 に て つく る。 此 地 の夷
人 を ヤ コト と い ふ 、 ヲ ホ ツ カ よ り イ ル コ ツ カ の 間 に散 居 す 、 男 女 共 に辮 髪 に て髪 黒 く 眼 晴 も ま た 黒 し 。 牛 馬 の
皮 を 衣 と な す 。 身 は ゝ廣 く 長 さ 僅 に 腰 に 至 る 。 富 人 は 〓 〓 〓 を用 る者 あ り。 肌 に は 貴 賤 と も に 布 の 汗 袗 を 着 く 。
千 餘 頭 を 養 者 あ り 。 さ れ ど も 衣 服 、 住 居 等 は 賤 人 と 殊 な る 事 な し 。 妻 は十
其 家 は 甚 低 、 屋 根 に 脊 な く 平 に 造 り 、 四 壁 は 牛 の糞 に て 塗 り 、 内 は 皆 土 間 に て 、 臥 す 處 の み 高 く 床 を 造 る。 其 内 豪 富 の者 多 し 、 牛 羊 馬 お の 〓
四 五 人 よ り 廿 五 六 人 ま て娶 る 。 も つと も 貧 富 に よ つて 多 少 あ り 、 皆 十 二 三歳 よ り 養 育 し お き て妻 と な す 。 妻 一
に 生 計 を な す 事 故 、 豪 富 の者 ほ ど 妻 を 多 く も ち 、 家 数 も 多 く 、 營 利 も そ れ だ け
に 廣 大 な り と そ 。 食 物 は 獸 の肉 〓 に松 の木 のあ ま 皮 を 搗 き 、 粉 と な し 、 麥 の粉 を 少 し 加 へて 餅 に 造 り 食 ふ。 冬
人 毎 に家 一處 宛 造 り て そ れ 〓
の 間 は桶 の内 に 牛 の糞 を 厚 く 塗 、 そ の上 に幾 度 も 水 を 灌 ぎ 、 堅 く 冰 た る 時 に 臼 と な し 、 麥 粉 松 の皮 等 を 搗 く に
き 故 に 、 牛 糞 を 以 て 泥 土 に 代 へ用 ゐ 、 壁 を も 塗 り 臼 を も 造 る 。 ト ン グ シ 、 ブ ラ ツ ケ も 此 臼 を も ち ゆ る と な り 。
石 臼 を を 用 る に異 な ら ず と い ふ 。 是 は 其 地 極 め て 沍 寒 に て雪 深 く 、 土 地 は 石 よ り 堅 く 凍 り て掘 り 穿 つ事 な り 難
そ の酋 長 を キ ニヤ ー ジ イ と い ふ 。 緑 に 紅 縁 の服 を 許 さ る 。 本 國 の ク ラ ポ ッシ キ に相 當 す る な り 。 又 別 に本 當 よ
り 置 所 の 總 管 あ り 、 是 は 今 度 漂 民 を 送 り 來 り し ア ダ ム が 兄 に て 、 グ ス タ ウ ・ キ リ ロ ウ ィ チ ・ラ ッ ク ス マ ン と い
ふ 。 官 は オ ヱ ン ノ ポ ロ ッ チ ク な り 。 又 此 夷 人 の う ち に シ ヤ マ ン と い ふ も の 有 、 ゼ ヲ ガ ラ ヒ に シ カ マ ン 道 士 の如 き も スと い へ るも のな り
の に て 、 常 の人 に か は り 一体 狂 人 の如 く 、 不時 に〓 呼 叫 喚 し 笑 ひ の ゝ し り な ど す る 事 あ り 、 幻 術 と も い ふ へき
法 を 行 ふ。 シ ヤ マ ンの態 な り と て 、 馬 の 皮 を 全 剥 に し 生 た る と く に と り 繕 ひ 、 大 木 の梢 を 走 る ご と く に拵 お き
たるを光 太 夫等 も見た ると なり。
○ イ ル コ ツ カ 此 地 は 稍 南 方 によ り て支 那 の堺 に近 く 気 候 も さ の み 沍 寒 な ら ず 、 雪 は 九 月 末 よ り 降 れ ど も 一尺
計 な ら では 積 る 事 な し 。 國 司 は ヱネ ラ ル ホ ロ ッ チ ク に て ヤ コー ツ カ 等 の酋 長 に く ら ぶ れ は 格 別 の高 官 な り 。 土
地 も つと も繁 盛 に て豪 富 の者 多 く 、 百 工 商 買 備 ら ざ る も のな し 。 人 家 凡 三 千 餘 、 多 く は板 屋 に て ま ゝ長 生 屋 あ
此方 の 一 り 、 皆 二階 造 り な り 。 寺 院 七 座 。 学 校 病 院 等 あ り 。 市 〓 は 四 方 壹 丁 半 丁 半 なり計 に 一廓 に 構 へ、 皆 長 生 屋 に て 瓦
は 銅 な り。 入 口 は 一方 に て 官 よ り 守 把 の者 を 附 お か る。 商 賈 等 の 居 住 は 別 處 に有 て 、 毎 朝 此 處 に來 り そ れ 〓
の〓 を 開 き 、 終 日賈 買 を な し 、黄 昏 に 〓 を 鎖 し て 本 居 に歸 る 。 尤 貨 物 は〓 に置 つ け に す る な り 。 官 よ り 番 卒
を 附 お か る ゝ事 ゆ へ絶 て盗 賊 等 の患 な し 。 故 に 他 邦 の商 客 等 は 金 銀 衣 服 ま で も 皆 此 〓 に 持 來 り お く と な り 。 近
人な
糖 、 木 綿 、 綿 布 、 木 椀 等 な り。 茶 と 紅 、 粉 は
ご ろ 又 そ の左 右 に新 〓 も多 く 出 來 た り と ぞ 。 此 地 よ り 支 那 の北 京 へは 僅 に 十 日路 程 あ り 、 清 商 及 び 韓 ど も 常 に 此 地 へ交 易 に來 る 。 貨 物 は薬 料 、 〓 脂 、 官 粉 、 茶 、 氷
本 國 ま て も 多 く 支 那 の も のを 用 る よ し 也 。 府 城 よ り 四 十 里 許 東 に バ イ カ ルと い ふ 大 湖 あ り 。 南 北 千 里 許 、 東 西
の廣 さ は 不 同 な り 。 も つと も狭 き 所 に て 六 七 十 里 な り と そ 。 冬 は 一面 に氷 り て 氷 上 を 橇 に て渡 り 車 馬 に て 通 行
十 四 五 房 も 建 つら ね た り 。 温 泉 は 遙 の谷 間 よ り
す 。 湖 の 向 ひ に キ イ チ カ と い ふ 温 泉 あ り 、 光 太 夫 も 足 痛 に て此 温 泉 に浴 せ し と ぞ 。 イ ル コ ツ カ よ り 五 百 七 拾 餘 里 、 温 泉 の邊 に客 店 五 所 あ り 、 何 れ も 大 家 に て 、 客 房 お の〓
出 る 。 客 居 は崖 の は た に か け 造 り に し て 、 浴 槽 ま で 一丁 計 の所 に廊 を か け た り 。 浴 槽 は 三 つ に 分 ち 、 第 一は 官
人 、 第 二 は 平 人 、 第 三 は婦 人 の 浴 す る 處 と す 。 又 其 處 よ り 二 三 里 も 山 奥 に 鹽 を 出 す 處 あ り 、 崖 の石 間 よ り 雪 の
積 り た る 〓 く に吹 出 す 。 此 處 に 官 よ り 看 守 人 を附 お き 、 と り あ つ め 皮〓 に つ め 、 イ ル コツ カ の城 下 に 出 し て販
賣 す 。 一〓 重 さ 四 貫 五 百 匁 な り 。 此 邊 は 海 に遠 き 地 故 、 近 隣 の諸 國 皆 こ の鹽 を 日用 に充 つ。 百 匁 の 價 銅 錢 一文
二 分 半 也 。 鹽 官 は カ ピ タ ンな り 。 又 此 湖 邊 の寺 に ニ コラ イ と い へる 神 僧 の遺 骸 有 、 例 年 四 月 の 初 に法 會 あ り て
遠 く 此 地 に來 り て禮 拜 す る も の 常 に た え ず と い ふ 。
遺 骸 を拜 せしむ 。遷化 より七百年 計 なれ ども、渾 身朽ず 、面 貌 も生 るか〓 くな りとそ。 本國 ま ても 甚 崇 敬 し、
ツ ケ の租 税 を 此 處 に て と り 収 る 由 。 税 は 皆 狐 、 熊 、 貂 、 兎 等 の皮 な り 、 一人 に て 二張 宛 出 す 。 又 此 地 に銅 山 有 、
○ ウ ヂ ン ス コイ イ ル コ ツ カ の 西 に あ り。 人 家 六 百 計 、 郡 官 を イ ワ ン ・ペ ー ト ロウ ィ チ と い ふ。 ヤ コト 、 ブ ラ
も つは ら 銅 錢 を鑄 る。 其 地 を 二 部 に 分 ち 、 上 を ウ ヱリ ノ ウ ヂ ン ス コイ と いひ 、 下 を ニヂ ノ ウ ヂ ン ス コ イ と い ふ。
く酒 を造 り出す。
○ キ シネ ス コイ 人 家 百 五 十 計 。 此 地 に 薬 石 草 木 多 し 。 キ リ ロは 常 々此 處 へ採 薬 に 行 し と な り。 草 麹 を 以 て多
○ カラ スノ ヤル シキ 人家 七八百 。郡 官は ベ レカ ゼウ也 。
○ ト ボ ル ス キ イ ル コ ツ カ の西 千 五 百 里 に有 、 府 城 と 府 〓 寺 院 は 山 上 に あ り。 平 人 の家 は 山 下 に あ り 。 昔 は 此
地 に 防 寇 軍 を あ つめ て 通 行 の商 旅 を 護 送 せ し が、 通 國 寧 静 に て盗 寇 の お そ れ も な き 故 、 今 は さ る事 も や み た り とそ。 ( ﹃北 槎 聞 略 ﹄ 七 四︱ 八 〇 頁 )
こ の ほ か、 ア ム チ ト カ島 の民 族 の描 写 や旅 行 の 記 述 な ど当 時 の シベ リ ア の自 然 と 生 活 に つ い て多 く の資 料 を提
供 し て いる 。 本 書 の記 述 に つ い て精 細 な 注 を ほ ど こす な ら ば 、 そ れ に よ って当 時 の ロ シア 、 さ ら に は シベ リ ア の ほ と ん ど全 貌 を つ た え る こと が でき る で あ ろ う 。
第 十 三章 シベ リ ア の少 数 民 族
十 七世 紀 以後 におけ る ロ シ ア人 の シ ベ リ ア 進 出 以 後 、 シ ベ リ ア原 住 民 の分 布 状 態 は大 き く 変 化 し た 。 当 時 の 原住 民分 布状況 の変 化 旅 行 者 の報 告 や ヤ サ ク 台 帳 か ら 判 断 し て 、 現 状 と は いち じ る し く 異 な って い た の で あ
る 。 古 く は シベ リ ア街 道 、 後 に は シベ リ ア鉄 道 に 沿 う 地 域 に は ロ シア 人 の移 民 が 進 出 し 、 原 住 民 は コ ット 人 な ど
のよ う に ロシ ア 人 と 同 化 し て消 滅 し て し ま った り 、 あ る い は チ ュリ マ人 や バ ラ バ 人 の よ う に、 小 地 域 に 固 ま って
残 存 し て い る も のも あ る。 ロ シ ア人 は オ ビ 、 エ ニ セイ 、 ア ンガ ラ 、 レ ナ な ど の大 河 の流 域 に多 数 移 住 し 、 ま た カ
ム チ ャ ツ カ の よ う な 遠 隔 地 へ〓早 く か ら 進 出 し て、 先 端 を のぞ く 全 半 島 に住 ん で い た 、 原 住 民 の イ テ ル メ ン 人 (カ ム チ ャダ ー ル) を 同 化 ま た は排 除 し て い った 。
民 族 分 布 を 変 化 さ せ た も う ひ と つ の要 因 は 、 ヤ ク ート 人 の増 加 と そ の居 住 地 の拡 大 で あ る 。 居 住 地 の拡 大 は ツ
ング ー ス語 群 、 ユカギ ル人 の地 域 、 す な わ ち 北 方 シベ リ ア のビ リ ュイ 川 、 オ レ ニ ョク 川 、 イ ンデ ィギ ル カ 川 、 コ
リ マ川 、 ハタ ンガ 川 な ど の 流 域 への進 出 と な っ てあ ら わ れ た 。 ま た ド ルガ ン人 や エベ ン人 (旧 称 ラ ム ート ) を 含
む ツ ング ー ス語 群 は ヤ ク ート 人 お よ び ロ シ ア人 に 圧 迫 さ れ て、 以 前 ユカギ ル人 、サ モデ イ 人 (サ モ エド )、 ケ ー ト
人 (エ ニ セイ ・オ ス チ ャク ) コリ ヤ ー ク 人 、 イ テ ル メ ン人 の住 ん だ 地 域 へ進 出 し た 。 も う ひ と つ重 要 な 現 象 は 、
チ ュク チ 人 の 人 口 が 増 大 し て 、 ユカ ギ ル人 お よ び エ ス キ モ ー人 の地 域 へ進 出 した こ と であ る 。
沿 海 州 お よ び 樺 太 (サ ハリ ン) で は 、 ロ シア 人 の植 民 を 別 にす れ ば 、 つぎ のよ う な 変 化 が み と め ら れ る。 す な
わ ち 、 は じ め オ ロ ク人 、 後 に ツ ング ー ス人 の樺 太 移 住 、 ダ ウ ル人 お よ び ジ ュチ ェル 人 の満 洲 移 動 、 ナ ナ イ 人 (ゴ
ル ド) に よ る 一部 ツ ング ー ス語 グ ル ー プ (た と え ば サ マギ ル) の同 化 な ど で あ る。
南 シ ベ リ ア では 、 同 じ く ロ シ ア人 の進 出 を の ぞ け ば 、 第 一に は ザ バ イ カ ル地 方 お よ び 沿 バ イ カ ル地 方 で ツ ング
ー ス語 族 の 一部 お よ び ト ゥー バ の住 民 の大 部 分 が ブ リ ヤー ト 化 し (一方 で ツ ング ー スと ブ リ ヤ ー ト 人 の 一部 は ロ
シ ア 人 と 同 化 し た )、 第 二 に は、サ ヤ ン地 方 お よ び エ ニ セイ 川 上 流 地 域 で、サ モデ ィ語 族 お よ び ケ ー ト 語 族 の 一部
が チ ュル ク 化 さ れ た。 現 在 で は彼 ら はト ゥ ー バ 人 ま た は ハカ ス人 に加 え ら れ て いる 。
サ エド) な ど を 圧 迫 し て 北 方 へ移 動 し た こと も 重 要 な 影 響 を も た ら し た。
最 後 に 、 セ ルク ー プ 人 (オ ス チ ャク ま た は オ スチ ャ ク ・ モサ エド ) お よ び ケ ー ト 人 が エネ ツ人 (エ ニセ イ ・モ
し か し 、 十 七 世 紀 以後 の こ の よ う な 民 族 分 布 の変 動 は、 一面 ロ シ ア人 の シベ リ ア 進 出 以 前 古 く か ら 続 い て き た 歴 史 的 過 程 の延 長 で も あ る。
以 上 の こ と を概 括 す る と 、 十 七 世 紀 以後 ヤ ク ー ト 人 、 ブ リ ヤ ー ト人 、 チ ュク チ 人 な ど は そ の勢 力 を いち じ るし
く 拡 大 し 、 反 対 に ユカギ ル人 、 ツ ング ー ス語 族 、 な ど は縮 小 さ れ た こと 、 サ モデ イ 語 群 な ど を 圧 し て チ ュ ル ク語 群 が進 出 し た こと が あ げ ら れ る 。 ( ﹃シベ リ ア の歴 史 ・民 族 学 地 図 ﹄ 九 頁 )
ま た 種 族 だ け で な く 、 各 種 族 に含 ま れ る氏 族 に至 って は 、 十 七 世 紀 以 後 、 あ る い は 伝 染 病 な ど に よ っ てま った
く 消 滅 し 、 あ る い は新 ら た に形 成 さ れ た も の の あ る こと が ド ー ルギ プ の研 究 に よ って 証 明 さ れ た 。 (ド ー ルギ フ
﹃十 七世 紀 シベ リ ア諸 民 族 の氏 族 的 お よ び種 族 的 構 成 ﹄ 六 一九 頁 ) ド ー ルギ フ の本 書 は 古 文 書 を 丹 念 に 調 査 整 理
し た彼 の学 位 論 文 であ る が、 シベ リ ア民 族 学 の新 分 野 を 開 い た も の と し て 高 く 評 価 さ て れ いる 。
言 語 、 人 種 、 生 業 シ ベ リ ア の少 数 民 族 (原 住 民 ) の総 人 口 は 八 〇 万 (一九 三九 年 の 調 査 に よ る 。 以 下 と く に によ る最近 の分類 こと わら な い場 合 は同 じ ) を 越 え な いが 、 そ れ に は 三 〇 以 上 の民 族 が含 ま れ て いる 。 これ
ら の少 数 民 族 は言 語 的 に は ア ルタ イ語 族 と ウ ラ ル語 族 、 お よ び いわ ゆ る 古 ア ジ ア 語 の民 族 に 分 か れ る。 ア ルタ イ
ン人 (約 四 、 〇 〇 〇 )、 ア ル タイ 人 (約 四 八 、 〇 〇 〇 )、 シ ョー ル人 (約 一三 、 三〇 〇 )、 ハカ ス 人 (約 五 三 、 〇
語 族 の中 で大 き な グ ル ー プ を 占 め る も の は チ ュル ク 語 群 の 諸 民 族 で、 ヤ ク ー ト 人 (約 二 四 二 、 〇 〇 〇 )、 ド ル ガ
〇 〇 、 旧 称 ミ ヌ シ ン スク ・タ タ ー ル)、 ト ゥー バ 人 (約 七 万、 旧 称 ソイ オ ト お よ び ウ リ ャ ン ハイ )、 ト フ ァ ラ ル人
(約 四 〇 〇 、 カ ラガ スと も 称 す る )、 シベ リ ア ・タ タ ー ル人 (約 八 万 、 バ ラバ 人 、 シベ リ ア ・ブ ラ ハ人 な ど も こ れ に含 ま れ る ) な ど が これ に 属 す る 。
ア ルタ イ 語 族 に属 す る つぎ の有 力 な 語 群 は モ ン ゴ ル語 で 、 ブ リ ヤ ー ト 人 (約 二 三 八 、 〇 〇 〇 ) が こ れ に 属 す る。
同 じ く ア ルタ イ 語 族 の ツ ング ー ス ・満 洲 語 群 に は、 エベ ン キ 人 (約 三 万 、 旧 称 ツ ング ー ス お よ び オ ロチ ョ ン)、
エベ ン人 (約 九 、 〇 〇 〇 、 旧 称 ラ ム ー ト )、 ネ ギ ダ ー ル人 (約 四 〇 〇 )、 ナ ナ イ 人 ( 約 七 、〇 〇 〇 、 旧 称 ゴ ル ド )、
ウ リ チ 人 (約 一、 七 〇 〇 )、 オ ロク 人 (約 四〇 〇 )、 オ ロチ 人 (約 四〇 〇 )、 ウ デ ヘイ 人 (約 一、 二 〇 〇 ) な ど が
含 ま れ る 。 こ のう ち エベ ン キ人 、 エベ ン人 、 ネ ギ ダ ー ル人 の言 語 は 本 来 の ツ ング ー ス語 群 ま た は 北 方 群 を 構 成 し 、 残 り は い わ ゆ る 満 洲 語 群 ま た は南 方 群 に属 す る。
ア ルタ イ 語 族 の言 語 は、 音 韻 的 構 造 、 形 態 的 特 徴 、 語 彙 な ど で多 く の類 似 が 指 摘 さ れ て いる 。 チ ュル ク語 は モ
ンゴ ル語 に 近 く 、 モ ン ゴ ル語 は ツ ング ー ス ・満 洲 語 に近 い。 シベ リ ア少 数 民 族 の約 五 八 パ ーセ ント は チ ュル ク 語
群 に、 二 七 パ ー セ ント は モ ン ゴ ル語 群 に、 約 六 パ ー セ ント が ツ ング ー ス ・満 洲 語 群 に属 す る 。
ウ ラ ル語 族 に属 す る も の に は サ モデ ィ (サ モ エド) 語 群 お よ び フ ィ ン ・ウ グ ル 語 群 が あ げ ら れ る。 ハント 人
(約 一八 、 五〇 〇 、 旧 称 オ ス チ ャ ク) と マ ン シー 人 (約 六 、 〇 〇 〇 、 旧 称 ボ グ ー ル) の言 語 は フ ィ ン ・ウ グ ル語
群 の ウ グ ル語 派 に属 す る が 、 さ ら に遠 く は な れ た 東 欧 の ハン ガ リ ー人 の言 語 が同 じ 語 派 に属 す る こと は 周 知 のと
お り で あ る。 サ モデ ィ語 群 に属 す る 言 語 の民 族 と し て は ネ ネ ツ 人 ( 約 二 四 、 〇 〇 〇 、旧 称 サ モ エド ・ ユラ カ )、 エ
ネ ツ人 (約 四 〇 〇 、 旧 称 エ ニ セイ ・サ モ エド ) 、 ンガ ナ サ ン人 (約 七〇 〇 、 旧 称 サ モ エド ・タ ウギ ー)、 セ ル ク ー
プ 人 (約 四 、 〇 〇 〇 、 旧 称 オ スチ ャク ・サ モ エド ま た は オ ス チ ャク) な ど が あ げ ら れ る。 サ モデ ィ語 は以 前 ず っ
と 南 方 ま で広 が って いた 。 十 七 ︱ 十 九 世 紀 に は サ ヤ ン山 麓 の モト ル人 (コイ バ ル)、 カ マ シ ン人 お よ び 後 に チ ュ
一パ ー セ ント 、 サ モデ ィ語 群 の そ れ は 約 二 ・六 パ ー セ ン ト で あ る。
ル ク 語 を受 容 し た カ ラ ガ ス 人 の先 祖 な ど が こ の言 葉 を話 し た 。 現 在 ウ グ ル語 派 の人 口 は シベ リ ア原 住 民 の約 三 ・
北 東 シベ リ ア の数 種 族 の言 語 は 以 上 の べ た 語 族 の いず れ と も 語 彙 、 音 韻 、 文 法 構 造 な ど に お い てま った く 異 な
り 、 十 九 世 紀 中 ご ろ 民 族 学 者 シ ュ レ ン ク に よ って 古 ア ジ ア語 と 名 づ け ら れ た 。 こ れ ら はす べ て総 合 語 で あ る が 、
チ ュク チ人 (約 一二 、〇 〇 〇 )、 コリ ヤ ー ク 人 (約 七 、 〇 〇 〇 ) の言 語 で、 こ の三 者 は 親 近 関 係 に あ る 。 ユ カギ
言 語 に よ っ て総 合 の度 合 は異 な る 。 そ の 度 合 の も っと も 高 い の は イ テ ル メ ン人 (約 七 〇 〇 、旧 称 カ ム チ ャダ ー ル)、
ル 人 (約 四 〇 〇 ) と ニブ ヒ 人 (約 四 、 〇 〇 〇 、 旧 称 ギ リ ヤ ク) の言 語 も これ に 属 せ し め ら れ る が、 総 合 の度 合 は
も の で あ り 、 過 去 に お い て はず っと 広 範 囲 に 分 布 し て いた と 考 え ら れ る が 、 現 在 で は シ ベ リ ア原 住 民 の約 三 パ ー
低 く 、 前 の 三言 語 と も 、 ま た 両 者 相 互 と も ま った く 異 な って いる 。 古 ア ジ ア語 の名 は 、 こ の言 語 の古 代 性 に よ る
セ ント の人 び と が こ の言 葉 を 話 し て い る。 古 ア ジ ア語 はと く に音 韻 に特 色 が あ り 、 複 雑 か つ 不 明 瞭 な 場 合 が 多 い と さ れ て い る。
エ スキ モー人 (ソ連 領 で は約 一、 二 〇 〇 ) と ア レウ ト 人 (ソ連 領 に 約 三〇 〇 ) の言 語 は 相 互 に親 近 関 係 に あ る
が、 前 記 の古 アジ ア 語 と は ま った く 異 な って い る。
最 後 に、 エ ニセイ 川 中 流 域 に住 む ケ ー ト 人 (約 一、〇〇〇 人 、 旧 称 エ ニセ イ ま た は エ ニセ イ ・オ ス チ ャ ク) の
言 語 は北 アジ ア の諸 言 語 の中 で ま った く 孤 立 し て お り 、 言 語 学 的 分 類 に おけ る そ の位 置 はま だ 解 決 さ れ て い な い。
こ の言 葉 に は屈 折 語 の要 素 の ほ か 、 魂 のあ る も のと な いも の と い う 範 疇 に分 け ら れ 、 魂 のあ る も の に は 男 女 の性
別 が な さ れ て い る。 これ ら の特 徴 は他 の シベ リ ア 諸 言 語 に は み ら れな い も の であ る。 エ ス キ モー語 、 ア レ ウ ト 語 、 ケ ー ト 語 の人 口 は原 住 民 総 数 の〇 ・三 パ ー セ ント に す ぎ な い。
し か し シベ リ ア の言 語 に つ い て語 る と き 、 ロ シ ア人 の進 出 以後 ロ シ ア 語 が強 い影 響 を及 ぼ し て いる こと は と く に 指 摘 さ れ ね ば な ら な い。 ソ連 時 代 に な ってか ら は と く に そ う で あ る。
シベ リ ア の少 数 民 族 は 、 移 住 民 を のぞ け ば 、 す べ て 大 モ ンゴ ロイ ド 種 に属 す る。 た だ エ ニ セイ 川 を 境 に し て、
そ の西 方 で は古 代 ユー ロペ オ イ ド の混 血 に よ る モ ンゴ ロイ ド 的 特 徴 の弱 化 が指 摘 さ れ て い る。 太 平 洋 岸 にお い て
も 非 モ ンゴ ロイ ド の混 入 が み ら れ る が 、 こ れ は 別 の起 源 に よ る も の で、 古 代 の東 南 ア ジ ア お よ び太 平 洋 の島 々と 関連 し て いる。 ( ﹃ 一般 民 族 学 概 説 ﹄ ソ連 領 アジ ア編 二 九 四 頁 )
シベ リ ア原 住 民 の人 類 学 的 分 類 に つ い て は、 ソ連 の学 者 レ ー ビ ン に よ る と つぎ のと お り で あ る。 ま ず 西 シベ リ
ア に は、 大 モ ン ゴ ロイ ド種 と 大 ユー ロペ オ イ ド種 の中 間 を な す ウ ラ ル型 の人 種 が 優 越 す る。 こ の型 の特 徴 は 、 真
直 で は あ る が 柔 軟 な頭 髪 、 比 較 的 明 る い皮 膚 、 雑 色 の紅 彩 、 東 シベ リ ア型 に 比 べ る と ず っと 弱 い エピ カ ン ツ ス
(モ ン ゴ ル ひ だ ) の発 達 、 割 合 に多 い ひ げ 、 低 い身 長 (男 子 で約 一六 〇 セ ンチ )、 比 較 的 高 く ま た 広 い顔 な ど が あ
( 頭 長幅 指 数 七
九 ︱ 八〇 ) で あ る。 ウ ラ ル型 を代 表 す る も の は ハ ント 人 、 マ ン シ ー人 、 セ ル ク ー プ 人 、 西 ネ ネ ツ 人な ど であ る 。
げ ら れ る 。 ま た 鼻 梁 の中 ほ ど が く ぼ ん で 先 端 が も ち 上 っ て いる こと が 多 く、 唇 は う す く 、 中 形 頭
シ ョ ー ル人 、 北 部 ア ルタ イ 人 、 ハカ ス人 の 一部 、 シベ リ ア ・タ タ ー ル人 な ど に も こ の 特 徴 が 見 ら れ る 。 ま た ウ ラ
ル 以 西 の マリ人 、 ウ ド ム ルト 人 に も 同 じ 特 徴 が看 取 さ れ る 。 ケ ー ト 人 は ハント 人 や マ ン シ ー人 に比 べ て、 比 較 的
暗 色 の皮 膚 、 割 合 いう す い ひげ 、 比 較 的 高 い鼻 な ど の特 徴 が あ り 、 ア メ リ カ ・イ ンデ ィ ア ン と の類 似 が指 摘 さ れ て い る。 し か し 両 人 種 が同 一起 源 と は 考 え ら れ て いな い。
ウ ラ ル型 分 布 の東 限 は エ ニセ イ川 で、 こ の 川 の東 部 に は 、 古 代 ユー ロペ オ イ ド の影 響 は ほ と ん ど 見 ら れ な い。
中 央 お よ び東 部 シ ベ リ ア の北 方 一帯 に は バ イ カ ル型 (また は古 シ ベ リ ア型 ) が 分 布 し て い る。 モ ンゴ ロイ ド の特
め てう す く 、 エ ピ カ ンツ ス が いち じ る し く 発 達 し 、頬 骨 が突 出 し 、 額 は高 く て 広 く 鼻 は 低 い。 ま た ウ ラ ル型 と 同
徴 を強 く あ ら わ し て いる こ の型 は 、 遠 く 新 石 器 時 代 に さ か のぼ る と 考 え ら れ て い る 。 こ の型 の特 徴 は ひ げ が き わ
様 に頭 髪 が 柔 軟 で、 皮 膚 が 明 る く 、 虹 彩 は いち じ るし く 雑 色 であ る。 ま た唇 が う す く 、 上 唇 が 前 面 に出 て い る こ
エ ベ ン人 、ア ム ー ル川 下 流 域 お よ び 樺 太 (サ ハリ ン) の ツ ング ー ス語 を 話 す 種 族 (ネ ギ ダ ー ル人 、オ ロク 人 な ど )、
と も 重 要 な 特 徴 であ る 。 身 長 は 低 い (男 子 平 均 一六 〇 セ ンチ 以 下 )。 バ イ カ ル型 に 入 る種 族 と し て は エベ ン キ 人 、
ヤ ク ー ト 人 の 一部 な ど が あ げ ら れ る 。 ま た 北 東 シ ベ リ ア の ユ カギ ル人 に も こ の特 徴 が指 摘 さ れ て い る。 古 代 に 古 ア ジ ア語 を 話 し た 種 族 は こ の型 に属 し たも のと 考 え ら れ て い る。
ンは 考 古 学 的 、 古 人 類 学 的 資 料 に よ って、 中 央 ア ジ ア の種 族 が 南 シベ リ ア に進 入 し 、 原 住 民 と 混 血 し て長 い世 代
南 シ ベ リ ア の モ ン ゴ ル語 群 お よ び チ ュル ク 語 群 の種 族 は、 人 類 学 的 に中 央 アジ ア型 に属 せし め ら れ る 。 レ ー ビ
の あ い だ に独 特 の人 種 型 を 形 成 し た も の と 考 え て い る 。 皮 膚 、 眠 、 頭 髪 は バ イ カ ル型 よ り も 暗 色 で、 頭 髪 は 比 較
的 こ わく 、 ひ げ が 多 く 、 鼻 は 比 較 的 に高 い。 エ ピ カ ン ツ スは い ち じ る し い が 、 唇 は 中 程 度 の厚 さ で あ る 。 身 長 は
男 子 の平 均 一六 二︱一 六 四 セ ン チ以 上 。 バ イ カ ル型 と の大 き な 相 異 点 は 比 較 的 に頭 蓄 の高 い こ と であ る 。 ト ゥ ー
バ 人 、 ブ リ ヤ ー ト 人 、 南 ア ル タ イ 人 、 ハカ ス人 の 一部 な ど が こ れ に 属 し 、 形 成 の中 心 は北 部 モ ン ゴ リ ア であ ろ う
と 考 え ら れ て い る 。 バ イ カ ル型 の特 徴 のあ る ヤ ク ート 人 の場 合 で も 、 中 央 ア ジ ア型 の方 が 優 越 し て い る こと は と
く に 注 意 さ れ る 。 こ れ は ヤ ク ー ト 人 が む か し 南 方 か ら レ ナ川 流 域 へ移 住 し た こと を 示 し て い る が、 そ の他 多 く の 考 古 学 的 、 民 族 学 的 資 料 は こ の事 実 を 証 明 し て いる 。
ア ム ー ル川 流 域 の住 民 のう ち 、 ニブ ヒ人 (ギ リ ヤ ク) は 他 の モ ン ゴ ル型 と は 異 な る特 徴 を も ち 、 ア ム ー ル ・サ
ハリ ン型 と 称 さ れ て い る。 主 な特 徴 と し て は 比 較 的 ひ げ が濃 く 、 し か も 一般 に は モ ン ゴ ロイ ド 的 相 貌 を帯 び て い
れ が バ イ カ ル型 と アイ ヌ型 と の中 間 を も な す も の で は な い と 考 え ら れ て い る 。 ま た ツ ング ー ス語 の種 族 が こ の 地
る 。 ウ リ チ 人 、 オ ロチ ス人 も これ に属 せ し め ら れ る。 ニブ ヒ人 の型 に は アイ ヌ の影 響 が 指 摘 さ れ る が 、 し か し こ
域 に進 出 す る ま で は 、 ア ム ー ル ・サ ハリ ン型 がず っと 広 範 囲 に分 布 し て い て 、 ニブ ヒ人 は そ の古 代 住 民 の子 孫 で
リ ン ・ア ムー ル型 と の混 血 型 を 示 し 、 ネ ギ ダ ー ル人 と ニブ ヒ人 と の中 間 にあ ると み ら れ る。
あ り 、 ニブ ヒ人 の言 語 は そ の最 後 の残 片 で あ る と 考 え ら れ て い る。 ウ リ チ 人 の人 類 学 的 特 徴 は バ イ カ ル型 と サ ハ
北 東 ア ジ ア の種 族 ︱︱ チ ュク チ人 、 コリ ヤ ー ク 人 、 イ テ ル メ ン人 、 エ スキ モー 人 、 ア レ ウ ト 人 は 極 地 型 ま た は
エス キ モ ー型 と 称 さ れ る 。 こ の型 で は エピ カ ンツ ス の発 達 程 度 が 低 く 、 浅 黒 い皮 膚 、 黒 い髪 と 眼 、 輪 郭 のは っき
り し た鼻 、 シベ リ ア の モ ン ゴ ロイ ド に 比 べ て濃 いひ げ な ど の 特 徴 が あ げ ら れ る 。 極 地 型 に は いく つか の変 種 が み
ら れ 、 ト ナ カ イ ・チ ュク チ 人 と コリ ヤ ー ク 人 は海 岸 住 民 に 比 べ て バ イ カ ル型 の要 素 が 多 く 、 と く に エ スキ モ ー人
と は いち じ る し く 異 な って いる 。 人 類 学 者 デ ベ ツ は ト ナ カ イ ・チ ュク チ 人 と ト ナ カ イ ・ コリ ヤ ーク 人 の特 徴 を南
方 の モ ン ゴ ロイ ド型 と関 連 さ せ 、 カ ム チ ャ ツ カ型 と 名 づ け て い る 。 古 代 に南 方 系 の要 素 が 遠 く チ ュク チ半 島 お よ
び カ ムチ ャツ カ に進 入 す る こと は十 分 可 能 性 のあ る こと と 考 え ら れ て いる 。 (レ ー ビ ン ﹃シベ リ ア の 人 類 学 的 諸
タ イ プ﹄ シ ベ リ ア の民 族 一〇 八 ︱ 一 一四頁 )
シ ベリ ア原 住民 の経 シベ リ ア の諸 民 族 、 と く に そ の極 北 の種 族 は 、 一連 の 歴 史 的 、 地 理 的 条 件 に よ って、 ご 済 的 ・文 化 的 類 型 く 最 近 ま で生 産 形 態 、 社 会 体 制 、 イ デ オ ロギ ー な ど の 面 でき わ め て お く れ て いた 。 き び
し い極 地 的 な 諸 条 件 、 牧 畜 や 農 耕 に は 適 し な い タ イ ガ 地 帯 や ツ ンド ラ 地 帯 、 南 方 の文 化 的 中 心 地 か ら の隔 離 と い
う よ う な 条 件 が生 産 力 の発 展 を さ ま た げ 、 個 々 の種 族 を孤 立 さ せ 、 古 い生 活 様 式 を 保 持 さ せ た の であ る。 ( ﹃一般 民 族 学 概 説 ﹄ ソ連 領 ア ジ ア編 二 九 五 頁 )
し か し 広 大 な シベ リ ア の 地 域 は ご く 最 近 ま で、 古 代 の牧 畜 お よ び 農 耕 の地 域 で あ る南 シ ベ リ アと 、 狩 猟 ・漁 撈
お よ び ト ナ カ イ飼 育 の地 域 であ る 北 シ ベ リ ア の両 地 域 に 区 分 す る こと が でき た 。 こ の両 地 域 の境 界 は 地 理 的 な 景
観 地 帯 と は か な ら ず し も 一致 し て いな い。 考 古 学 的 に み ても 、 南 シベ リ ア へは 後 期 旧 石 器 時 代 か ら 人 類 が 住 み つ
き、 比 較 的 高 い文 化 を発 展 さ せ 、 大 民 族 で あ る モ ンゴ ル や チ ュ ルク な ど の勢 力 が進 出 し た が 、 北 シベ リ ア で は 比
較 的 少 数 の 民 族 が いち じ る し く 分 散 し た 状 態 で 、 か ろ う じ て そ の生 存 を 維 持 し てき た の で あ る。 し か し 北 シベ リ
ア が ま った く隔 離 さ れ て いた の で は な い こと は、 す で に考 古 学 的 な 説 明 に よ って 示 さ れ た と お り で あ る。 北 方 の
毛 皮 は遠 い昔 から 中 国 、 印 度 、 中 央 ア ジ ア の市 場 で高 価 な も のと し て 扱 わ れ て いた 。 (松 田 壽 男 ﹃シ ベ リ ア史 論 ﹄ アジ ア の歴 史 地 理 一八 頁 )
南 シベ リ ア の住 民 の場 合 は ロ シ ア人 の進 出 ま で に遊 牧 的 牧 畜 経 済 が 支 配 的 で 、 農 耕 は ほ ん の補 助 的 な も の にす
ぎ な か った 。 そ の後 、 主 と し て 十 九世 紀 に ロ シア 人 の 影 響 によ って定 着 し た 農 耕 ・牧 畜 経 済 が支 配 的 と な った 。
ヤ ク ー ト 人 は ロ シ ア人 の進 出 当 時 、 そ の居 住 地 域 が 比 較 的 北 方 で あ る に も か か わ ら ず 、 南 方 か ら 持 ち こ ん だ 牧 畜
を 主 な 生 業 と し て い た 。 北 シベ リ ア 、ア ム ー ル川 流 域 、樺 太 、 南 シ ベ リ ア の 一部 で は 、 ﹁北 方 の 三 本 柱 ﹂ と も いわ
れ る 狩 猟 、 漁 撈 、 ト ナ カイ 飼 育 が 支 配 的 で あ った 。
シベ リ ア の諸 民 族 は、 過 去 に おけ る そ の 主 な 生 業 に よ って つぎ の よ う に 分 類 さ れ る。 一 大 河 沿 岸 の定 着 漁 撈 民
ス テ ップ の牧 畜 民 お よ び農 耕 民 。 こ のう ち 定 着 漁 撈 民 に 属 す る 民 族 は ニブ ヒ、 ナ ナ イ 、 ウ リ チ 、 コリ ヤ ー ク の 一
二 極 地 の海 獣 狩 猟 民 三 タ イ ガ の ト ナ カ イ 飼 育 ・狩 猟 民 四 ツ ンド ラ のト ナ カイ 飼 育 民 五 ステ ップ お よ び 森 林
部 、 イ テ ル メ ン、 ナ リ ム (南 ) ・セ ル ク ープ 、 ハ ント 、 オ ビ 川 沿 岸 マ ン シ ー な ど で 、 魚 の豊 富 な 大 河 や湖 の沿 岸
お よ び 河 口付 近 の海 岸 に住 み、 漁 撈 が 一年 を 通 じ て の主 要 な 生 活 手 段 であ った 。 狩 猟 は 補 助 的 な 意 味 を も つに す ぎ な い。 彼 ら は漁 撈 の発 達 と と も に定 着 生 活 を 営 む よ う に な った 。
こ の定 着 漁 撈 民 の輪 送 手 段 は イ ヌ橇 で あ った 。 イ ヌ橇 用 のイ ヌ の飼 育 は 定 着 し た漁 撈 民 経 済 、 海 獣 にた いす る
狩 猟 民 の経 済 と結 び つ い て いた 。 と いう のは 、 イ ヌ橇 用 に と く に 訓 練 さ れ た 多 数 の イ ヌ を 飼 育 す る に は 大 量 の飼
料 を 必 要 と す る か ら で あ る。 シベ リ ア で は橇 の構 造 、 イ ヌ に装 具 を と り つ け る 方 法 な ど の点 で、 相 互 に異 な る い
く つか の タ イ プ が 指 摘 さ れ て いる 。 これ は イ 東 シベ リ ア 型 ロ ア ム ー ル ・サ ハリ ン型 ハ チ ュク チ ・カ ム チ ャツ
カ 型 ニ 西 シ ベ リ ア型 ホ 北 西 シベ リ ア型 の 五 タ イ プ に 分 類 さ れ て いる 。( ﹃シ ベ リ ア の歴 史 ・ 民 族 学 地 図 ﹄六 二頁 )
イ ヌ橇 の起 源 に つ い て は 、 荷 物 運 搬 の と き イ ヌ を人 間 の補 助 に利 用 し た こと に は じ ま り、 漁 撈 と 海 獣 狩 猟 に よ る
イ ヌ の飼 料 の 確 保 と と も に 生 じ た と 考 え ら れ て い る が 、 発 生 の年 代 に つ い て は ま だ 定 説 が な い。 し か し いづ れ に
し ても シベ リ ア の数 地 域 で、 相 互 に 無 関 係 に 、 年 代 的 に も か な り幅 を も っ て発 生 し た も のと 考 え ら れ て い る。
極 地 の海 獣 狩 猟 民 に属 す る も のは 定 住 チ ュク チ 人 、 ア ジ ア ・エ ス キ モ ー人 、 一部 の定 住 コリ ヤ ー ク 人 であ る が 、
彼 ら は 川 岸 で は な く て海 岸 に 住 み 、 セイ ウ チ 、 ア ザ ラ シな ど の海 獣 を 対 象 と し た 狩 猟 を 生 業 と し て い る 。
タ イ ガ のト ナ カイ 飼 養 ・狩 猟 民 は 、 エ ニ セイ 川 か ら オ ホ ー ツ ク海 岸 ま で の森 林 や 森 林 ツ ンド ラ に住 む 民 族 で、
エベ ンキ 人 、 エベ ン人 、 ド ルガ ン人 、 ト フ ァラ ル人 、 森 林 ネ ネ ツ人 、 北 方 セ ルク ー プ 人 、 ト ナ カ イ ・ケ ー ト 人 な
ど が これ に属 す る 。 彼 ら の経 済 で 重 要 な意 義 を も つ も のは 狩 猟 で あ った が 、 これ と と も に 主 と し て輸 送 に利 用 さ
れ るト ナ カ イ の飼 養 が行 な わ れ た。 漁 撈 は補 助 的 な意 味 し か も た ず 、 遊 牧 生 活 が 彼 ら の特 徴 で あ った 。
を は た し た も の は 、 輸 送 上 だ け で な く 、 生 活 手 段 の主 要 源 泉 と し て の意 味 を も つ ト ナ カ イ飼 養 で あ った 。 彼 ら も
ツ ンド ラ のト ナ カ イ飼 育 民 は ネ ネ ツ人 、 ト ナ カ イ ・チ ュク チ 人 、 コリ ヤ ー ク 人 な ど で、 そ の経 済 で主 要 な 役 割
遊 牧 民 で あ って 、 狩 猟 や漁 撈 は 彼 ら の生 活 で補 助 的 な 役 割 し か も た な か った 。
ト ナ カ イ 飼 養 の起 源 に つ いて は諸 説 が あ る が 、 レ ー ビ ン は、 民 族 学 的 に は北 ア メ リ カ に ト ナ カ イ飼 養 が見 ら れ
ず 、 西 シ ベ リ ア に こ れ が 普 及 し た の はず っと 後 代 で あ る こと 、 ま た 考 古 学 的 に は 旧 石 器 時 代 だ け で な く 新 石 器 時
代 に も ト ナ カ イ 飼 養 の痕 跡 が 見 ら れ な い こ と 、 な ど の理 由 に よ って 、 お そ ら く は 比 較 的 後 代 に ウ マの 飼 養 の影 響
に よ って 発 生 し た も のだ ろ う と 考 え て い る。 彼 に よ る と 、 ト ナ カ イ 飼 養 は お そ ら く 、 ア ル タ イ ・サ ヤ ン山 地 と ザ
バ イ カ ル 地 方 の ヤブ ロ ノ ボ 山 脈 の麓 と いう 二 つ の中 心 か ら 、 荷 駄 用 お よ び乗 用 と し て発 生 し た も の が全 シ ベ リ ア に 広 ま った も ので あ る。 ( ﹃ 一般 民 族 学 概 説 ﹄ 二 九 七 頁 )
シ ベ リ ア のト ナ カ イ 飼 養 は そ の経 済 的 意 義 に よ って 、 肉 ・皮 革 用 と輸 送 用 と の 二 タ イ プ に 分 け ら れ る 。 前 者 は
ツ ンド ラ帯 に普 及 し 、 ト ナ カ イ が 住 民 の生 活 の主 要 な 源 泉 と な って い る。 こ の タ イプ で は ト ナ カ イ 群 は多 数 の ト
ナ カ イ に よ って構 成 さ れ た 大 規 模 の も の で あ る。 後 者 の タ イ プ に あ って は、 ト ナ カ イ は 主 に 輸 送 用 に使 わ れ 、 住
民 の生 業 は狩 猟 と漁 撈 で あ る。 こ の タ イ プ は 主 と し て タ イ ガ 帯 に 普 及 し 、 ト ナ カ イ 群 は ふ つう 小 規 模 であ る。
る 。 前 者 は森 林 帯 に多 く 、 後 者 は ツ ンド ラ帯 に普 及 し て いる が 、 し か し ド ルガ ン人 や エ ベ ン キ人 お よ び ヤ ク ー ト
ト ナ カ イ を 輸 送 用 に 使 う と き の方 法 に よ って、 ト ナ カ イ飼 養 は 荷 駄 ・乗 用 と 橇 ・繋 引 用 の二 タ イ プ に 分 け ら れ
人 の 一部 に あ って は 両 タ イ プ が 共 存 し 、冬 季 は橇 用 、 夏 季 は荷 駄 ・乗 用 と し て ト ナ カ イ を 利 用 し て い る。 ま た 荷
駄 ・乗 用 のた め の ト ナ カ イ飼養 が 普 及 し て い る 地 域 は さら に、 ツ ング ー ス式 (シベ リ ア式 ) と サ ヤ ン式 と の二 タ
イ プ に分 け ら れ る。 前 者 は エベ ン キ 人 、 エ ベ ン人 が代 表 的 で、 ユカギ ル人 、 ド ルガ ン人 、 ト ナ カ イ ・ヤ ク ー ト 人 、
カ イ の肩 胛 骨 に お か れ、 右 側 か ら 乗 り、 手 綱 が 右 側 に あ る こと で あ る。 こ れ に 対 し て サ ヤ ン式 の方 は 、 胸 繋 、 尻
ネ ギ ダ ー ル人 、 オ ロク人 な ど に も広 ま って い る 。 こ の タ イ プ の特 徴 は 鞍 に胸 繋 、 尻 繋 お よ び 鐙 が な く 、 鞍 は ト ナ
繋 お よ び 鐙 を有 し 、 鞍 は ト ナ カ イ の背 の中 央 に お か れ 、 左 側 か ら 乗 り、 手 綱 は 左 側 に あ る 。 こ れ は ウ マ の装 具 と
モデ ィ語 の 民 族 は ト ナ カ イ橇 の場 合 でも ト ナ カ イ を左 側 か ら 御 し 、 左 側 か ら 乗 って い る が 、 コリ ヤ ー ク 人 や チ ュ
酷 似 し て お り 、 ト フ ァラ ル人 、 東 ト ゥー バ 人 の あ い だ に 普 及 し て い る。 民 族 学 的 調 査 に よ る と 、 西 シ ベ リ ア のサ
ク チ 人 の ト ナ カ イ橇 で は こ の反 対 で あ る。 こ の事 実 は 民 族 の起 源 な いし 文 化 の系 統 に 関 連 す る も のと 考 え ら れ て いる。 ( ﹃シ ベ リ ア の歴 史 ・民 族 学 地 図 ﹄ 二 四 ︱ 二六 頁 )
ト ナ カイ橇 を利 用 す る ツ ンド ラ の ト ナ カ イ 飼 養 も 、 ネ ネ ツ型 、 チ ュク チ ・コリ ヤ ー ク型 、 ド ル ガ ン型 、 ラプ ラ ン ド型 の四 タ イ プ に分 け る こと が 可 能 で あ る 。
よ び ヒ ツジ の飼 養 で あ る。 ヤ ク ー ト 人 、 ア ル タ イ 人 、 ハカ ス人 、 ト ゥー バ 人 、 ブ リ ヤー ト 人 、 シベ リ ア ・タ タ ー
最 後 に、 ス テ ップ お よ び森 林 ス テ ップ の牧 畜 民 お よ び 農 耕 民 に つ いて い え ば 、 そ の経 済 的 基 盤 は ウ シ ・ウ マお
ル人 な ど が これ に含 ま れ る 。 これ ら の民 族 は こ の ほ か 、 程 度 の 差 こそ あ れ狩 猟 と 漁撈 に も従 事 し て いる 。 彼 ら は
以 前 は遊 牧 民 ま た は半 遊 牧 民 であ った が 、 そ の 一部 は ロ シ ア人 の影 響 で定 住 生 活 を営 む よ う に な った 。
以 上 の ほ か に、 森 林 帯 お よ び森 林 ツ ンド ラ帯 に は 、 徒 歩 ま た は 小 舟 を利 用 し て移 動 す る狩 猟 ・漁撈 民 が見 ら れ
る 。 ケ ート 人 、 ウ デ ヘイ 人 、 ユカ ギ ル人 、 エベ ン キ 人 な ど の 一部 で 、 彼 ら は ふ つう ト ナ カ イ を飼 養 せ ず 、 軽 い橇
を 自 力 で引 き 、 ス キ ー を 利 用 し て 移 動 す る。 場 合 に よ って は 一頭 の猟 犬 を橇 引 き の手 助 け に使 う こ と も あ る。 レ
ー ビ ン は 、 こ れ ら の徒 歩 の狩 猟 ・漁撈 民 が新 石 器 時 代 の シベ リ ア の狩 猟 ・漁撈 民 の生 業 的 特 徴 を も っと も よ く 保 存 し て いる の で あ ろ う と 考 え て い る。
南 シ ベ リ ア の牧 畜 の発 生 は 、 す で に の べ た よ う に、 紀 元 前 三 千 年 紀 の ア フ ァ ナ シ ェボ 文 化 期 に 属 し 、 ア ン ド ロ
ロ シ ア人 の生 活 文 化 は 原 住 民 の生 活 の あ ら ゆ る領 域 に わ た って強 い影 響 を 及 ぼ し た。 一見 、 原 住 民 の独 自 の文 化
ノ ボ 文 化 期 に は 農 耕 が 発 展 し た 。 こ の伝 統 は十 七 世 紀 に お け る ロ シ ア人 の進 出 ま で持 続 さ れ る が 、 し か し そ の後 、
ア 人 が原 住 民 の生 活 の知 恵 を学 ん で い る例 も見 出 さ れ る。
と 思 わ れ る も の で も 、 じ つ は ロ シ ア 人 の影 響 に よ って成 立 し た も のが 多 数 あ る 。 ま た 逆 に、 地 域 に よ って は ロシ
ロシ ア革 命 の後 、 シ ベ リ ア原 住 民 の生 活 は 、 も は や昔 日 の面 影 を と ど め な いま で に根 本 的 な 変 革 を と げ て いる 。
宗 教 の形 態 と し て の シ ャ ー マ ニズ ム の特 徴 は 、 特 定 の 人 間 ︱︱ シ ャー マン︱︱ が平 常
ロ シ ア革 命 以 前 に おけ る 原 住 民 の支 配 的 な 宗 教 は いわ ゆ る シ ャ ー マ ニズ ム で あ った 。
こ の変 化 の過 程 、 生 活 の現 状 に つ い て も 研 究 報 告 が な さ れ て い る が 、 本 書 で は 紙 数 の都 合 で ふれ な い こと に す る。
シ ベリア原住 民 の宗教
と 異 な る 神 が か り的 状 態 に お ち い り 、 神 霊 と直 接 交 渉 に 入 る こと で あ る。 日 本 で は 巫 術 ま た は 巫 俗 と 訳 さ れ る こ と が多 い。
神 霊 と の直 接 交 渉 は、 シ ャー マ ン が カ ム ラ ニ エ (チ ュル ク語 で カ ム は シ ャー マ ン を意 味 し 、 カ ム ラ と は シ ャー
マ ンす る こと の意 ) に よ って 達 せ ら れ る 。 こ の行 事 は 多 く の場 合 病 気 治 療 や占 いを頼 ま れ て行 な わ れ る が 、 シ ャ
い、 自 分 や信 者 を 一種 の亡 我 的 状 態 に お ち いら し め る。 信 者 は 、 こ の瞬 間 に シ ャー マ ン の霊 が 神 霊 の世 界 に 飛 ん
ー マ ンは 踊 り 、 手 太 鼓 を 打 ち 、 特 別 の シ ャ ー マ ン服 に と り つけ た多 く の金 属 板 を が ち ゃが ち ゃと 鳴 ら し 、 叫 び 歌
で直 接 交 渉 し 、 あ る いは 神 霊 が彼 の体 ま た は 太 鼓 に の り 移 って、 彼 の口 を通 じ て そ の お 告 げ が 語 ら れ る と 考 え る。
シ ャ ー マ ニズ ム で は 病 気 の悪 霊 、 守 護 者 の善 霊 な ど の観 念 が 発 達 し て い る 。 た と え ば ヤ ク ー ト 人 の シ ャ ー マン は 病 気 を癒 す と き 、 病 気 の原 因 に な って い る悪 霊 を放 逐 す る の で あ る。
シ ャ ー マ ンと いう の は元 来 ツ ング ー ス語 で あ って 、 こ れ が 十 七 世 紀 に ロ シ ア語 に 入 り 、 や が て ヨー ロ ッパ の学
術 用 語 と な った と 老 え ら れ て いる 。 シ ャ ー マ ニズ ム に は 多 く の原 始 的 宗 教 に共 通 の特 徴 が 見 ら れ る が 、 他 方 、 シ
ベ リ ア の シ ャ ー マ ニズ ム に は 手 太 鼓 や シ ャー マ ン服 、 シ ャー マ ン の 動 作 の 一部 な ど の点 で独 特 な も の が指 摘 さ れ
て いる 。 し か し シ ャ ー マ ニズ ム の起 源 、 他 の宗 教 形 態 と の関 係 な ど 、 今 ま で のと ころ 諸 説 は あ って も 定 説 の な い 状態 である。
シ ベ リ ア の シ ャ ー マ ニズ ム に限 って み て も 、 地 域 や 民 族 、 あ る いは 時 代 に よ って 、 さ ま ざ ま な 形 態 が報 告 さ れ
襲 と な り 、 カ ム ラ ニ エに よ る収 入 で生 活 す る。 ア ム ー ル川 下 流 域 の ツ ング
シ ャ ー マ ニズ ム の つぎ の段 階 で は 、 シ ャー マン は ま った く 職 業 化 し 、 世
に、 こう し た 社 会 で は シ ャ ー マ ンは こ の信 仰 の神 宮 と 化 し た の で あ る。
シ ャ ー マ ニズ ム は 氏 族 的 信 仰 と結 び つ い て い る 。 ユカギ ル人 の場 合 の よ う
氏 族 制 的 生 活 様 式 の発 達 し た 民 族 で は 、 シ ャー マ ン は専 門 化 し て い る が 、
シ ャー マ ン の他 に、 そ れ ぞ れ の家 が家 族 の祝 祭 日 に呪 法 を 行 な った と いう 。
あ る。 ( ﹃カ ム チ ャ ツ カ 誌 ﹄ 一九 九 頁 ) ま た チ ュク チ 人 の あ い だ で も専 門 的
マ ン の呪 法 を行 な う こ と が で き 、 と く に婦 人 、 老 婆 が多 か った と の こと で
て いる 。 た と え ば ク ラ シェ ニン ニ コ フ に よ る と 、 十 七 世 紀 の イ テ ル メ ン人 (カ ム チ ャダ ー ル) で は誰 で も シ ャー ナナ イ人にお け るシャ ーマ ンの神 霊像 左 シ ャーマ ンの守 護者 の神 霊 右上 クマ の霊 右 下 トラの霊
ー ス語 民 族 、 エベ ンキ 人 、 ネ ネ ツ人 、 セ ルク ー プ 人 、 ヤ ク ー ト 人 そ の他 多 く 民 族 の シ ャ ー マ ンが こ の状 態 に あ っ た。
シ ャ ー マ ニズ ム発 展 の最 後 の段 階 は 、 氏 族 制 の解 体 と結 び つ い て お り 、 よ り 発 達 し た他 の宗 教 形 態 に お さ れ て
ー マ ンと に分 化 さ れ て いる こと で あ る。 ヤ ク ー ト 人 の 一部 、 南 シ ベ リ ア の諸 民 族 に こ の現 象 が み ら れ る。 ブ リ ヤ
衰 退 に向 う 状 態 で あ る。 こ の段 階 で の特 徴 は 、 善 霊 と の交 渉 に あ た る白 シ ャ ー マ ンと 悪 霊 の代 表 者 で あ る 黒 シ ャ
ー ト 人 の場 合 は十 七 世 紀 末 以 後 ラ マ教 、 サ ヤ ン ・ア ルタ イ 地 方 の諸 民 族 の場 合 は ネ スト リ ウ ス教 の影 響 を う け て 、
これ ら の民 族 の シ ャ ー マ ニズ ム は多 分 に 変 形 し て いる 。 ま た 西 シ ベ リ ア のタ タ ー ル人 の場 合 は、 す で に 十 六 世 紀
か ら イ ス ラ ム教 のた め に排 除 さ れ た 。 (ト カ リ ョ フ ﹃ソ連 邦 の民 族 学 ﹄ 四 二 五 頁 )
シ ベ リ ア の シ ャ ー マ ニズ ム は 手 太 鼓 の形 式 な ど に よ って いく つ か の類 型 に 分 け ら れ る 。 これ ら の原 住 民 の場 合
に伝 え ら れ た 。 し た が って こ の手 太 鼓 は シベ リ ア原 住 民 の過 去 を 示 す 重 要 な 歴 史 的 遺 物 と さ れ て いる 。 ま た 太 鼓
も 他 の も ろ も ろ の道 具 は生 活 の必 要 に応 じ て改 善 さ れ た が 、 シ ャ ー マ ン の手 太 鼓 の形 式 は世 代 か ら 世 代 へ変 ら ず
に張 ら れ た 皮 に は し ば しば 彼 ら の世 界 観 、 宇 宙 観 を 示 す 絵 図 が 描 か れ て お り 、 そ の解 釈 に つ い て は た と え ば イ ワ
ノ フら のす ぐ れ た 研 究 が あ る。 (イ ワ ノ フ ﹃サ ヤ ン ・ア ルタ イ山 地諸 民 族 の古 い信 仰 対 象 に 描 か れ た 画 像 の 意 義 に つ いて ﹄ 人類 学 ・民 族 学 論 集 第 一六 巻 )
さ て最 近 の研 究 に よ る と 、 シ ャー マ ン の太 鼓 は、 狭 い輪 縁 の輕 い型 と 、 広 い輪 縁 の重 い型 と の 二 つ に大 別 さ れ
る。 前 者 は極 東 地 方 に 普 及 し 、後 者 は他 の 地 域 に分 布 し て い る。 広 い輪 縁 のも のは さ ら に楕 円 型 (東 シ ベ リ ア型 )
と 円 形 (西 シ ベ リ ア型 )と に分 け ら れ る。 ﹃シ ベ リ ア の歴 史 ・民 族 学 地 図 ﹄ で は輪 縁 の外 に と り つけ た握 り のあ る
チ ュク チ型 を は じ め と し て 西 シベ リ ア型 、 南 シ ベ リ ア型 、中 央 シ ベ リ ア型 、 極 東 型 の五 つ に分 け て考 察 し て いる 。
シ ャー マ ン服 の形 に も いく つ か の種 類 が 指 摘 さ れ て いる 。
シ ャー マ ニズ ムは シ ベ リ ア 原 住 民 の支 配 的 な 宗 教 形 態 で あ った が、 し か し こ の ほ か に も いく つ か の形 の氏 族 信
仰 が あ り 、 ギ リ ヤ ク人 な ど のよ う に ク マの信 仰 も行 な わ れ た 。 ま た 地 域 に よ って は シ ャ ー マ ニズ ム と は 別 に 、 住 民 の仕 事 と 結 び つ いた 守 護 神 霊 や自 然 の ﹁主 人 ﹂ の信 仰 も 行 な わ れ た 。
熊 祭 り に と も な う 風 習 は 民 族 に よ って少 し ず つ異 な って い
﹃エ ベ ン キ 人 の宗 教 ﹄ 一 一四頁 )
﹁ク マで あ る と 同 時 に先 祖 の霊 を 意 味 し た ﹂。 (ア ニ シ モ フ
彼 ら に よ れ ば 、 ク マで あ った 。 エベ ン キ 人 に と って そ れ は
あ る と 考 え て い る 。 中 界 に 動 物 と し て最 初 に登 場 し た の は 、
る エベ ンキ 人 の住 地 で あ り 、 下界 は死 者 の住 む 地 下 の世 界 で
界 に分 け 、 上 界 は天 で あ って神 霊 が 住 み、 中 界 は タ イ ガ の あ
細 に 記 述 し て い る。 エ ベ ン キ人 の 一種 族 は宇 宙 を 上 中 下 の 三
も な う 複 雑 な も の で あ る が 、 こ れ に つ い て は ア ニシ モ フ が 詳
ベ ンキ 人 の熊 祭 り は、 カ ラ ス の真 似 な ど のパ ント マイ ム を と
ニブ ヒ、 ウ リ チ 、 オ ロチ) に広 ま って いる。 前 者 に属 す る エ
れ る。 後 者 は サ ハリ ン、 ア ム ー ル川 下 流 域 の住 民 (ア イ ヌ、
れ て飼 育 し 、 一定 の時 期 に こ れ を 殺 し て祭 る儀 式 と に分 け ら
熊 祭 り は原 住 民 の あ いだ に広 く 行 な わ れ て い る が 、 狩 猟 で殺 し た ク マに 関 連 す る儀 式 と 、 子 グ マを檻 な ど に入
古 い民 族服 の ギ リヤ ク人
る が 、 な か に は 奇 習 と み ら れ る も のも 少 な く な い。 た と え ば ハン ト人 や マ ン シ ー 人 、 シ ョー ル人 で は、 熊 祭 り の
と き 殺 さ れ た ク マを 尊 敬 し て木 製 の男 根 を 作 った 。 (﹃シ ベ リ ア の民 族 ﹄ 四 九 四 頁 )
ニブ ヒ人 (ギ リ ヤ ク) の場 合 は 、 ク マの信 仰 は純 粋 に氏 族 的 形 態 を 帯 び て いた 。 熊 祭 り は 狩 猟 で殺 し た ク マに
つ いて だ け で な く 、 子 グ マを 熊 祭 り のた め に特 別 に 飼 育 す る こと も 行 な わ れ た 。 氏 族 全 体 の に ぎ や か な 祭 り に
は ﹁婿 の氏 族 ﹂ ( Ymgi ) の代 表 者 が招 待 さ れ て主 要 な役 割 を果 す こと に な る。 祭 り で は ク マを 殺 さ な け れ ば な ら
な い が 、 ク マを飼 育 し た 氏 族 に 属 す る も のは 何 びと も 手 を 出 す こと は許 さ れ な い。 こ の尊 敬 す べ き役 割 は ﹁婿 ﹂
に あ た え ら れ る。 ク マを ひ い て住 居 の ま わ り を ま わ り 、 さ ま ざ ま な 形 で敬 意 を 表 明 し 、 犠 牲 と し て イ ヌ を あ た え 、
や が て これ を 殺 し て煮 て肉 を食 べ る。 し か も こ の祭 り を組 織 し た 氏 族 員 は ク マ の頭 部 を食 べ煮 出 汁 を飲 む こと が
で き る だ け で 、肉 を食 べ る こと は タ ブ ー と さ れ て い る。 肉 は客 で あ る ﹁婿 ﹂ の氏 族 員 が食 べ る の で あ る。
熊 祭 り の意 義 は ど こ に あ る か。 ま ず ク マは ギ リ ヤ ク人 の同 族 と考 え ら れ た 。 ク マに いろ い ろ な 形 の敬 意 を 表 明
し 、 そ れ を 殺 す こ と に 対 し て怒 ら な いよ う に 懇 望 す る。 殺 さ れ た ク マの霊 は タ イ ガ の中 の同 族 の も と に行 き 、 人
間 が ク マに対 し て親 切 で あ った こ と 、 人 間 は ク マの友 で あ り 、 彼 ら と 友 達 づ き あ い を し な け れ ば な ら な い こ と を
物 語 る こと に な って いる 。 各 氏 族 は そ れ ぞ れ のク マを も って いる 。 ﹁ク マは氏 族 の守 護 者 と 考 え ら れ た 。﹂ (ト カ
リ ョ フ ﹃ソ連 邦 の民 族 学 ﹄ 五 二〇 頁 ) 祭 り の残 り 物 で あ る ク マ の鼻 、 爪 、 頭 蓋 骨 な ど は氏 族 の神 聖 な 遺 物 と し て
一定 の場 所 に 大 切 に保 存 さ れ た。 殺 さ れ た ク マは そ の子 孫 の形 で復 活 す る と信 じ ら れ て い た 。 ﹁か く て祭 は社 会
的 に は各 地 に散 在 す る 同 氏 族 の人 々を 祭 の庭 に 会 合 さ せ る機 会 で あ り 、 共 饗 と 社 交 と遊 戯 娯 楽 等 に よ って 、 氏 族
の共 同 意 識 を強 め る の み な ら ず 、 進 ん で他 氏 族 と の親 交 を 促 す 機 能 を も つ。 ﹂ (秋 葉 隆 ﹃北 ア ジ ア の民 俗 ﹄ 大 陸 文
化 研 究 一七 〇 頁 ) 熊 祭 り は ロ シ ア革 命 後 の今 日 に お い て も 、 以 前 の宗 教 的 意 義 は 失 な わ れ 、 新 ら た な 社 会 的 意 義
を も って コル ホ ー ズ で盛 大 に行 な わ れ て い る。
な お、 ア イ ヌ の熊 祭 り と ア ム ー ル川 下 流 域 の諸 民 族 の熊 祭 り と の 関 係 に つ いて も 民 族 学 者 の あ いだ に議 論 が 分 れ て いる 。 ( ﹃シ ベ リ ア と極 東 地 方 の歴 史 の諸 問 題 ﹄ 三 三 七 頁 )
ロシ ア革命 後 の 革 命 後 の変 貌 に 言 及 す る場 合 、 ふ つう 極 北 の少 数 民 族 と 南 シ ベ リ ア の諸 民 族 (ヤク ー ト 人 を シ ベリ ア原住 民 ふく む ) と に分 け て考 え ら れ る 。
ま ず 極 北 の少 数 民 族 に つ い て み る と 、 ロ シ ア革 命 後 一九 二 一年 ︱ 二 五 年 ご ろ ま で は 現 地 の富 豪 層 に基 づ く 反 革
命 的 勢 力 が支 配 し て いた 。 ソビ エト 政 権 の確 立 以 後 、 飢 え に苦 し む 北 方 へ食 糧 を 補 給 す る た め の商 業 網 の整 備 に
力 が そ そ が れ た 。 販 売 所 の数 は 一九 二 六 年 に 六 七 七 で あ った も の が 、 一九 三 三 年 に は 一、 八 六 五 に増 加 し た 。 一
ュテ ル ンベ ル グ ら が そ の知 識 を 大 いに 役 立 てた 。 一九 二六 年 ソ ビ エト体 制 に 移 行 す る前 の過 渡 的 制 度 と し て ﹁ロ
九 二 四 年 全 露 中 央 執 行 委 員 会 の 内 部 に 北 方 少 数 民 族 問 題 を扱 う 北 方 委 員 会 が 設 立 さ れ 、 民 族 学 者 のボ ゴ ラ ズ 、 シ
シ ア 共 和 国 北 方 地域 の原 住 民 統 治 に か んす る臨 時 規 定 ﹂ が公 布 さ れ 、 欧 露 方 面 の村 ソビ エト に相 応 す る 氏 族 ソビ
エト 、 原 住 民 大 会 (スー グ ラ ン)、 原 住 民 の郡 区執 行 委 員 会 が設 置 さ れ た 。 し か し 新 制 度 は 、革 命 前 に 勢 力 を ふ
る った 族 長 、 シ ャー マ ン、 金 持 な ど の妨 害 に よ って あ ま り新 味 を 発 揮 す る こと が で き な か った 。 婦 人 の選 挙 権 も
多 く は名 ば か り で あ った 。 一九 三 一年 に は 全 面 的 な ソ ビ エト 機 関 と し て遊 牧 ソビ エト 、 村 落 ソ ビ エ ト が 設 置 さ れ
て今 日 に 至 って いる 。 一九 二 九 年 以 後 、 こ の年 に設 置 さ れ た ネ ネ ツ民 族 管 区 を 皮 切 り に、 一九 三 五 年 ま で に は 民
族 管 区 九 、 民 族 群 区 九 三 、 民族 的 な 遊 牧 ソ ビ エ ト お よ び村 ソビ エト 八 三〇 に達 し た。
﹁文 化 基 地﹂ が創 設 さ れ 、 医療 や教 育 の普 及 が は か ら れ た 。 そ の後 管 区 の行 政 的 中 心 地 な ど が発 展 し た た め 、 こ
北 方 少 数 民 族 の文 化 建 設 を促 進 す る た め に 、 一九 二 七︱ 二 八 年 北 方 委 員 会 に よ って 辺 境 地 域 に 一五 ︱ 一九 の
の文 化 基 地 の数 は 減 少 し た。 ま た 一九 二 六 ︱ 二 七年 に は 、 二 六 年 の全 ソ連 邦 国 勢 調 査 の 一環 と し て徹 底 的 な 極 地
住 民 人 口調 査 が実 施 さ れ 、 民 族 学 地図 が作 ら れ 、 経 済 的 、 文 化 的 指 導 の基 礎 資 料 が 整 備 さ れ た 。 一九 二 七 年 には
北 方 原 住 民 独 自 の綜 合 共 同 化 (消 費 、 生 産 、 信 用 な ど を 一緒 に し た 共 同 化 ) が す す め ら れ 、 や が て現 地 の条 件 を
無 視 し た ﹁コ ン ム ー ン﹂ (集 団 化 の 一形 態 ) が 設 置 さ れ た が 、 一九 三 〇 年 と 三 二年 の北 方 委 員 会 で こ の 行 き す ぎ
が反 省 さ れ 、 単 純 生 産 連 合 (PPO) が つく ら れ た 。 これ は た と え ば ト ナ カ イ を 協 同 で飼 養 す る た め の組 合 な ど で
あ る。 狩 猟 で は原 則 と し て共 同 化 は無 理 で あ った 。 そ の後 漁 業 や ト ナ カ イ飼 養 な ど の コ ル ホ ー ズ が 生 れ 、 一九 四
〇 年 ま で に は す で に七 五 パ ー セ ン ト の共 同 化 が 達 成 さ れ た 。 一九 三 〇 年 以 後 牧 草 地 (ツ ンド ラ を含 む ) や 漁 場 の
再 編 成 が 行 な わ れ 、 今 日 で は 彼 ら の ト ナ カ イ 飼 養 お よ び 漁 撈 の方 法 は か な り改 良 さ れ て い る。 た と え ば ト ナ カ イ
飼 養 に つ いて み る と 、 獣 医 の進 出 に よ って炭 疽 は 絶 滅 さ れ 、 ト ナ カ イ の定 期 的 診 断 の た め に多 数 の小 部 屋 に わ か
れ た 広 大 な 柵 を つく って、 そ こに ト ナ カ イ を 追 い こむ こ と が 行 な わ れ て いる 。 ま た 以 前 、 夏 期 のト ナ カ イ 放 牧 に
よ って多 いと き は 半 数 以 上 も ト ナ カ イ が失 な わ れ た が 、 現 在 で は タ イ ガ の 一区 域 に柵 を つく り 、 蚊 いぶ し の煙 を
お こ し て放 牧 し て い る 。 コ ル ホ ー ズ 産 のト ナ カイ の皮 、 肉 そ の他 は 国 家 に よ って買 上 げ ら れ 、 ま た 最 近 で は ト ナ カ イ 飼 養 の サ フ ホ ーズ (国 営 農 場 ) が 発 展 し て い る。
に 比 べ てず っと 熾 烈 で あ った 。 ア ルタ イ に は反革 命 的 な ﹁カ ラ コ ル ム ・ア ル タ イ 山 地 議 会 ﹂ が 構 成 さ れ 、 ヤ ク
南 シ ベ リ ア お よ び ヤ ク ー ト 地 方 で は 、 コ ルチ ャ ク 軍 や外 国 干 渉 軍 な ど と 結 ぶ 反革 命 勢 力 の抵 抗 は北 方 少 数 民 族
ー チ ヤ で は 一九 二 一︱ 二 二 年 に反 乱 が お こ さ れ 、 東 部 ブ リ ヤ ー ト で は現 地 の ラ マに よ る仏 教 的 な ﹁国 家 ﹂ が つく
の山 地 ア ルタ イ 自 治 州 ) が 設 置 さ れ 、 一九 二 三年 ブ リ ヤ ー ト 自 治 共 和 国 、 同 じ く 二 三 年 ハカ ス民 族 郡 区 (三 〇 年
ら れ た 。 ソ ビ エト 政 権 の確 立 後 、 一九 二 二年 四 月 ヤ ク ー ト 自 治 共 和 国 、 一九 二 二年 六 月 オ イ ラ ー ト自 治 州 (現 在
ハカ ス自 治 州 ) が 成 立 し た。 ト ゥ ー バ は も と 中 国 に従 属 し て いた が 、 二 二年 ソビ エト政 権 の影 響 下 に ト ゥ ー バ 人
民 共 和 国 が 成 立 し 、 四 四 年 秋 ト ゥ ー バ 自 治 州 と し て正 式 に ソ連 邦 の 一部 と な った 。 こ れ ら の地 域 の政 治 体 制 は 若
ヤ ク ー チ ヤ で は ウ ル ス お よ び ナ ス レ グ (のち 郡 と 称 し た )、 ト ゥ ー バ で は ホ ー シ ュン、 スー モ ン な ど で あ る 。 (ト
干 の名 称 を 別 にす れ ば ソ連 の他 の地 域 と ま った く 同 じ で あ る。 ブ リ ヤ ー ト や ア ル タ イ で は 郡 のか わ り に ア イ マク、
カ リ ョ フ ﹃ソ連 邦 の民 族 学 ﹄ 五 五 三頁 )
南 シベ リ ア の諸 民 族 の経 済 生 活 も 大 き く 変 化 し た こと は いう ま で も な い。 牧 畜 に お け る 飼 料 の確 保 、 品 種 の改
良 、 医 療 設 備 の改 善 な ど の ほ か 、 コル ホ ー ズ や サ フ ホ ー ズ に よ る集 団 牧 畜 は 南 シ ベ リ ア の牧 畜 民 の生 活 様 式 を根
本 的 に 変 化 さ せ た 。 ま た 農 耕 は 一そ う 普 及 し 、 そ の技 術 も 改 良 さ れ た 。 各 種 の輸 送 網 の整 備 も注 目 さ れ る。
シ ベ リ ア原 住 民 は革 命 前 母 国 語 の文 字 を も た な か った が 、 革 命 後 ロシ ア 文 字 に基 づ く 文 字 が制 定 さ れ 、 現 在 で
は 各 種 古 典 の翻 訳 、 辞 典 な ど も刊 行 さ れ 、 学 校 で は 母 語 が 教 え ら れ て いる 。 遊 牧 民 に 対 し て は大 規 模 な 綜 合 巡 回
文 化 教 育 団 が活 躍 し 、 各 地 に 高 等 教 育 機 関 (た と え ば 一九 五 六 年 ヤ ク ー ツ ク に 大 学 ) が設 置 さ れ て い る。
第 十 四章 シベ リ ア の開 発 と そ の展 望 ︱︱ 結 び に か え て ︱︱
ボ シビ ル ス ク市 で シベ リ ア開 発 に か ん す る演 説 を 行 な い、 つぎ の よ う に の べ た 。 ﹁シ ベ リ ア と 極 東 が 、経 済 的 に も
シベ リ ア は 現 在 、 大 規 模 な 綜 合 的 経 済 開 発 の さ中 に あ る。 一九 六 一年 三 月 八 日 、 ソ連 の フ ル シ チ ョ フ首 相 は ノ
文 化 的 に も た ち お く れ た 荒 涼 た る ツ ァー リ帝 国 の辺 地 で あ った 時 代 は永 久 に す ぎ さ った 。 ⋮ ⋮古 いシ ベ リ ア の歴
⋮ ⋮ わ が国 民 は、 流 刑 と 苦 役 の 困 難 な条 件 のな か で も 運命 の打 撃 に う ち ひ し が れ な い で 、祖 国 の よ り よ い未 来 を
史 ︱︱ そ れ は 苦 悩 の歴 史 、 人 民 の悲 し み と 涙 の歴 史 で あ る と同 時 に 、 勇 敢 で 不屈 な 人 び と の闘 争 の歴 史 で も あ る。
か た く 信 じ て いた 人 び と を忘 れ な い であ ろ う 。﹂
ク ・ コ ンビ ナ ー ト な ど いく つ か の新 工場 が シベ リ ア に創 設 さ れ 、 第 二 次世 界 大戦 中 に は多 く の工 場 設 備 が 欧 露 か
革 命 後 の第 一次 五 カ年 計 画 で ウ ラ ル の鉄 鉱 と ク ズ ネ ツ ク ( 西 シベ リ ア) の石 炭 を結 び つけ る ウ ラ ル ・ク ズ ネ ツ
ら シベ リ ア お よ び 極 東 地 方 の諸 都 市 へ疎 開 さ れ た。 た と え ば 一九 三 二年 青 年 共 産 同 盟 員 の勤 労 奉 仕 に よ って建 設
さ れ た ア ム ー ル川 岸 の コ ム ソ モリ スク市 に 、 一九 四 二年 製 鉄 所 ﹁ア ム ー ル スタ リ﹂ が 設 立 さ れ た のも そ の 一例 で
あ る。 こ の建 設 は 、 当 時 と し て は 西 方 か ら の危 険 を さ け る と 同 時 に 、 極 東 方 面 の国 防 強 化 と いう 意 味 が あ った も の と 考 え ら れ る。
第 二次 世 界 大 戦 後 の数 年 間 、 労 働 力 と し て ロ シ ア 人 の 一般 労 働 者 の ほ か 、 一部 の旧 日本 軍 捕 虜 と 旧 ド イ ツ軍 捕
虜 、 西 部 戦 線 で ド イ ツ軍 の捕 虜 に な り 終 戦 と と も に解 放 さ れ た ソ連 軍 人 、 ソ連 の囚 人 な ど が 人 海 戦 術 と し て シ ベ
リ ア開 発 に投 入 さ れ た 。 ま た ウ ラ ル や シベ リ ア に あ る 工場 が軍 需 品 の製 造 から 解 放 さ れ て、 シ ベ リ ア開 発 用 の建
設 機 械 や農 業 機 械 を 送 り 出 す よ う に な り 、 開 発 は ほ ぼ 一九 五 〇 年 以後 軌 道 に のり は じ め た。 一九 五 六 年 第 六 次 五
ヵ年 計 画 (一九 五 六︱ 六 〇 年 ) の発 足 後 シ ベ リ ア開 発 に重 点 が お か れ る よ う に な った 。 一九 五 九年 二 月 こ の第 六
次 五 ヵ年 計 画 は 七 ヵ年 計 画 (一九 五 九 ︱ 六 五年 ) に改 編 さ れ た が、 こ の計 画 に お け る 投 資 総 額 約 二 〇 〇 〇 億 ル ー
ブ リ のう ち 、 約 四 〇 パ ー セ ン ト は ウ ラ ル を ふ く む東 部 地 方 の開 発 に あ て ら れ て い る 。 七 ヵ年 計 画 の は じ め の 二 ヵ
年 間 に シ ベ リ ア で 新 建 設 のた め に投 資 さ れ た額 は 六 七 億 ル ー ブ リ に の ぼ った が 、 これ は第 一次 五 ヵ年 計 画 に お け
一、 水 力 資 源 で六 二 、 石 炭 で九 〇 、 鉄 鉱 で 五 三 、 木 材 で七 三 、 農 地 で 一 三
東 地 方 が ソ連 全 国 で 占 め る比 重 (パ ー セ ント ) は 、 面 積 で 五 七 、 人 口 で 一
は こ のほ か に ウ ラ ル お よ び ソ連 領 中 央 ア ジ ア が ふく ま れ る 。 シベ リ ア と 極
ャツ カ州 、 マガ ダ ン州 、サ ハリ ン州 )。 一般 に ソ連 の東 部 地域 と いう 場 合 に
治 共 和 国 )、 極 東 経 済 区 (沿 海 州 、 ハバ ロ フ ス ク 地 方 、 ア ム ー ル州 、 カ ム チ
ル ス ク 地 方 、 イ ルク ー ツ ク 州 、 チ タ 州 、 ヤ ク ー ト 自 治 共 和 国 、 ト ゥー バ自
ス ク州 、 ケ メ ロボ州 、 ア ル タ イ 地 方 )、 東 部 シベ リ ア経 済 区 (ク ラ ス ノ ヤ
か れ て い る。 西 部 シ ベ リ ア経 済 区 (オ ム ス ク州 、 ノ ボ シ ビ ル スク 州 、 ト ム
な お現 在 の開 発 で は シベ リ ア お よ び極 東 地方 は つぎ の よ う な経 済 区 に分
ろ がる ことが予想 さ れる。
る ソ連 の国 民 経 済 全 体 の投 資 総 額 に ひ と し い数 字 で あ る。 こ の計 画 の実 施 以 後 ソ連 の生 産 力 基 地 は 大 き く 東 へひ
キ ス タ ノ フ 『未 来 の シ ベ リア 』16頁
と な って い る。 ま た 工業 生 産 の主 要 品 目 別 の割 合 は 別 表 の と お り で あ る 。
シ ベリ アの資源 こ こ で は主 と し て東 部 ・西 部 シ ベ リ ア経 済 区 に重 点 を お い て 概 観 を 試 み る。 と 開 発 の 展 望 シ ベ リ ア は まず 圧 倒 的 な水 力 資 源 を誇 って い る。 な か で も東 部 シ ベ リ ア に ソ連 全 土 の約 半 分
が 集 中 し て お り、 し か も そ の 一部 は バ イ カ ル湖 、 テ レ ツ コ エ湖 、 ハン タ イ湖 な ど 天 然 の大 貯 水 池 を 源 流 と し て い
エ ニセ イ 川 の場 合 、 電 力 一キ ロワ ット あ た り の設 備 費 八 〇 ︱ 一 三〇 ル ーブ リ で 、 火 力 発 電 所 な み と さ れ て い る。
る た め 、 流 量 の安 定 し て い る こ と が 特 徴 で あ る 。 水 力 発 電 所 建 設 の う え で も っと も好 条 件 を そ な え る ア ンガ ラ川 、
ま た電 力 原 価 は 一キ ロ ワ ット 時 あ た り〇 ・四︱ 〇 ・七 コ ペ イ カ で、 シベ リ ア の他 地域 の場 合 で も 一 ・五 ︱ 二 コペ
イ カ を 越 え な い。 (ポ ム ス ﹃シ ベ リ ア天 然 資 源 の経 済 的 利 用 ﹄ シ ベ リ ア 地 理 学 論 集 第 一冊 二 三 頁 ) 現 在 ア ン ガ ラ
川 のイ ルク ー ツク 、 ブ ラ ツ ク、 オ ビ 川 の ノ ボ シ ビ ル スク 、 イ ル テ ィ シ川 の カ メ ノ ゴ ル スク 、 ブ フタ ル ミ ン ス ク な
ど の水 力 発 電 所 が 建 設 さ れ 、 エ ニ セ イ 川 の ク ラ ス ノ ヤ ル スク水 力 発 電 所 (出 力 五 〇 〇 万 キ ロワ ット ) が 建 設 中 で
二 五 〇 億 円 )、 一九 六 三年 完 成 予 定 で あ る が 、 ア ンガ ラ 川 の五 七 〇 メ ー ト ル の地 峡 を 利 用 し 、幅 九 〇 メ ー ト ル の 重
あ る 。 こ のう ち ブ ラ ツ ク発 電 所 (四 五〇 万 キ ロワ ット) は 一九 五 四 年 着 工 、 建 設 費 八 一四 〇 〇 万 ルー ブ リ (約 三
力 式 ダ ムを 構 築 、 面 積 五 、 五 〇 〇 平 方 キ ロの人 造 湖 (ほ ぼ茨 城 県 に 相 当 ) に 一七 九 〇 億 立 方 メ ー ト ル の水 を 貯 水
す る こと に な って い る。 こ れ に つづ い て同 じ く ア ンガ ラ川 に ウ ス チ ・イ リ ム (四 五 〇 万 )、 ボ グ ー チ ャ ン (三 五
〇 万 )、 エ ニ セ イ川 に サ ヤ ン (三 五〇 万 )、 エ ニ セ イ (六 〇 〇 万 ) な ど 大 水 力 発 電 所 の建 設 が計 画 さ れ て い る。 こ
の ほ か エ ニ セ イ川 下 流 、 ザ バ イ カ ル 地方 、 西 シ ベ リ ア の ト ミ川 、 カ ト ゥ ニ川 、 オ ビ 川 、 東 部 の ビ チ ム川 、 ビ リ ュ
イ 川 、 レ ナ 川 、 ア ル ダ ン川 、 ゼ ー ヤ川 、 ブ レ ヤ川 、 な ど に も発 電 所 の建 設 が 予 定 さ れ て い る 。
一方 、 西 シ ベ リ ア低 湿 地 の乾 燥 計 画 も検 討 さ れ て いる。 屈 曲 の は げ し い河 道 を整 備 し 、 多 く の貯 水 池 を設 け て
湿 地 を 乾 燥 さ せ 、 こ れ を森 林 や農 耕 地 に変 え よ う と いう も の で あ る。
ツ ク (チ ェレ ン ホ ボ ) な ど の炭 田 が代 表 的 で あ る。 多 く は 炭 層 が厚 く (一五 ︱ 二 〇 メ ー ト ル)、カ ン ス ク の露 天 掘
シベ リ アと 極 東 の石 炭 ・褐 炭 の埋 蔵 量 は 約 七 八 三 四 億 ト ンで 、 ク ズ ネ ツ ク、 カ ン ス ク ・ア チ ン スク 、 イ ル ク ー
り の場 合 設 備 費 一ト ン あ た り 一 ・ 一︱ 一 ・五 ル ーブ リ 、 生 産 原 価〇 ・五 ︱〇 ・七 ルー ブ リ で 、 ク ズ ネ ツ ク炭 田 の
露 天 掘 り の半 分 、 ド ン パ ス の 五 分 の 一と さ れ て いる 。 し か し シベ リ ア褐 炭 は も ろ く て形 が こ わ れ や す く 運 搬 に不
適 で あ り 、 こ のた め 生 産 地 で火 力 発 電 所 の燃 料 に使 う こと が有 利 と 考 え ら れ て いる 。 ク ズ ネ ツ ク炭 田 のコ ー ク ス
は ウ ラ ルと シベ リ ア の製 鉄 業 の燃 料 と な って い る が 、 や が て シ ベ リ ア鉄 道 の支 線 が ヤ ク ー ツ ク に達 す れ ば 、 ヤ ク
ー ツ ク南 部 に 第 二 の製 鉄 用 コ ー ク ス基 地 が出 現 す る 見 込 み で あ る。 こ の炭 田 の埋 蔵 量 は 約 四 〇 〇 億 ト ン、 そ の コ ー ク スは バ イ カ ル湖 周 辺 の鉄 鋼 基 地 に供 給 さ れ よ う 。
最 近 西 シ ベ リ ア に ガ ス産 地 一〇 カ 所 (推 定 埋 蔵 量 五 〇 〇 億 立 方 メ ー ト ル) と 数 カ所 に石 油 の油 井 が開 発 さ れ た 。
こ の石 油 は 比 重〇 ・八 ︱〇 ・八 六 の比 較 的 良 質 のも ので 、 埋 蔵 量 も 数 十 億 ト ンに の ぼ る見 込 み で あ る。 現 在 ア ン
ガ ル ス ク と オ ム ス ク に は 送 油 管 に よ って運 ば れ た ボ ルガ ・ウ ラ ル産 の石 油 を 原 油 と す る大 精 油 所 が で き て い る が 、
いず れ 西 シベ リ ア に も 石 油 基 地 が 出 現 す る も のと 予 想 さ れ る。 こ の ほ か数 兆 ト ン に の ぼ る天 然 ガ ス、 エ ニ セ イ川
以 西 だ け で も 八 七 〇 億 ト ン (全 ソ連 の五 五 パ ー セ ント ) の泥 炭 の埋 蔵 が 明 ら か に さ れ て い る。
ム 工場 は 、 こ れ ま で ノ ボ シビ ル ス ク に 一工場 を有 す る だ け で あ った が 、 現 在 ク ラ スノ ヤ ル ス ク 、 イ ル ク ー ツ ク、
東 部 シ ベ リ ア の ぼ う 大 な 電 力 を 基 に し て 、 大 量 の電 力 を要 す る 工業 が開 発 さ れ て い る。 た と え ば ア ル ミ ニ ュー
ブ ラ ツクなど に建設 さ れ ている。
シベ リ ア の鉄 鉱 埋 蔵 量 は東 部 だ け で約 五 〇 億 ト ン、 主 と し て ア ンガ ラ ・ピ ー ト 、 ア ンガ ラ ・イ リ ム 、 南 ア ルダ
ン、 ハカ ス自 治 州 お よ び ミ ヌ シ ス ン ス ク盆 地 な ど に分 布 し て お り 、 こ れ ら 鉄 鉱 石 の鉄 分 は 平 均 し て 四 〇 ︱ 五 〇 パ
ー セ ント で あ る。 西 シベ リ ア で は ま だ 調 査 不 十 分 で あ る が 、 コ ルパ シ ェボ 鉄 山 ま た は 西 シ ベ リ ア鉄 山 と よ ば れ る
ト ン、 鉱 脈 の厚 さ 四 〇 メ ー ト ル、 地 表 か ら 一七 〇 ︱ 一九 五 メ ー ト ル の深 さ に ほ ぼ 水 平 に走 って い る。 鉄 分 三 八 パ
鉄 鉱 埋 蔵 地 が 発 見 さ れ て いる 。 こと に ト ム スク の西 北 西 二 〇 〇 キ ロに あ る バ ク チ ャ ル で は推 定 埋 蔵 量 一二〇 〇 億
ー セ ン ト。 こ のほ か 以 前 か ら 知 ら れ 、 す で に採 鉱 精 錬 さ れ て い る ゴ ル ナ ヤ ・シ ョリ ヤ、 ア ル タ イ の北 西 部 山 麓 、
ク ズ ネ ツ ク ・ア ラ タ ウ 山 脈 北 麓 な ど に 一〇 ︱ 二 〇 億 ト ン の埋 蔵 が 指 摘 さ れ て いる 。
シ ベ リ ア は 現 在 、 ソ連 の第 三 の鉄 鋼 基 地 に な り つ つ あ り 、 今 後 一〇 年 間 に年 産 約 二 〇 〇 〇 万 ト ンを 目 標 に し て
い る。 製 鉄 所 と し て は 、 ノ ボ ク ズ ネ ツ ク (既 存 のほ か に 新 設 )、 ノ ボ シ ビ ル ス ク、バ ル ナ ウ ル、ア チ ン スク (ま た
は エ ニセ イ ス ク)、 タ イ シ ェト な ど に 予 定 さ れ 、 つづ いて ザ バ イ カ ル東 部 、ヤ ク ー チ ヤ南 部 な ど に も 計 画 さ れ て い る 。 東 部 シベ リ ア で〓 電 気 炉 に よ る精 錬 も 行 な わ れ る 見 込 であ る 。
こ の ほ か 東 部 シ ベ リ ア で は チ タ ン、 マグ ネ サ イ ト、 ボ ー キ サ イ ト 、 耐 火 粘 土 な ど の資 源 も多 く 、 ヤ ク ー チ ヤ は
ソ連 最 大 のダ イ ヤ モ ン ド 産 地 と な った 。 ミ ー ル ヌ イ は そ の中 心 地 と し て建 設 さ れ て いる 。
森 林 資 源 は 約 五 九 〇 億 立 方 メ ー ト ルと 推 定 さ れ、 大 部 分 エ ニ セ イ川 の東 方 に分 布 し て いる 。 極 東 地 方 を のぞ く
シベ リ ア で年 間 伐 採 可 能 な 量 は 八 二 五 〇 〇 万 立 方 メ ー ト ル と さ れ て い る が 、 実 際 に伐 採 さ れ た の は 七 二〇 〇 万 立
方 メ ー ト ル ( 一九 五 七 年 ) に す ぎ な か った 。 現 在 各 地 に製 材 工 場 が 建 設 さ れ て いる。
シ ベ リ ア の耕 地 面 積 は 極 東 地 方 を の ぞ いて 一 一〇 〇 万 ヘク タ ー ル で あ る が、 今 後 と く に 乾 燥 工事 を 行 な わ な く
て も、 さら に 六 〇 〇 ︱ 八〇〇 ヘク タ ー ル拡 大 で き る と いわ れ る。 一九 五 六 年 か ら 六 〇 年 ま で の五 年 間 に合 計 二 九
二 五 〇 〇 万 プ ー ド の穀 物 が国 家 に よ って 買 付 け ら れ た 。 い わ ゆ る処 女 開 拓 が積 極 的 にす す め ら れ 、 一九 五 四 ︱ 六
〇 年 間 に シベ リ ア で 一〇 三 〇 万 ヘク タ ー ル以 上 の処 女 地 、 長 期 休 閑 地 が開 拓 さ れ た と 報 ぜ ら れ て いる 。
シベ リ アと 極 東 地 方 の鉄 道 は 、 欧 露 に比 べ て いち じ る し く 少 な い。 欧 露 で 一、〇〇〇 平 方 メ ー ト ルあ た り の鉄
道 延 長 一七 キ ロで あ る の に た い し、 シ ベ リ ア は わず か 一 ・三 キ ロに す ぎ な い。 現 在 、 タ イ シ ェト ︱︱ ア バ カ ン、
ア チ ン ス ク︱︱ ア バ ラ コボ ︱ ︱ マク ラ コボ 、 ベ ー ルイ ・ヤ ル︱︱ ア シ ノ (ト ム ス ク 州 )、ブ ラ ツ ク︱︱ ウ ス チ イ リ
ム、 バ ム︱︱ チ ュリ マ ン︱ ︱ ア ルダ ン︱ ︱ ヤク ー ツ ク な ど の鉄 道 が す で に着 手 ま た は 具 体 化 の段 階 に入 って い る。
以 上 、 シベ リ ア の資 源 を 中 心 にし て 概 観 し た が 、 こ の ほ か に化 学 、 機 械 、食 料 品 、 紡 績 、 製 紙 な ど の 工場 も 各
地 に 建 設 さ れ て い る 。 コ ム ソ モリ スク に 近 い新 都 市 ア ム ー ル スク や西 シ ベ リ ア の バ ル ナ ウ ル な ど の大 規 模 な 紡 績 工 場 、 ク ラ スノ ヤ ル ス ク の パ ルプ 工場 な ど そ の 一例 で あ る 。
シ ベリ ア開発 し か し シベ リ ア の開 発 に は 少 な か ら ぬ困 難 が横 た わ って い る。 ま ず 労 働 力 の問 題 で あ る。 シ ベ と 人 口 問 題 リ ア と極 東 地 方 の人 口 は 一九 二六 年 か ら 五 九 年 ま で の あ い だ に六 七 パ ー セ ント (ソ連 の総 人 口
は 四 二 パ ー セ ント ) 増 加 し た 。 労 働 者 職 員 数 は 一九 四 〇 年 の二 三 〇 万 人 か ら 五 八〇 万 人 (一九 六 〇 年 ) に増 加 し
て い る。 こ れ は ソ連 時 代 に な って か ら も革 命 前 と同 様 に 西 か ら 東 への移 民 が つ づ い て いる こ と を 示 し て い る。 し
か し 移 民 の職 業 は ま った く 異 な って いる 。 ソ連 時 代 の移 民 は主 と し て鉱 工 業 従 事 者 で あ り 、 革 命 前 は 圧 倒 的 に農
民 が 多 か った 。 ソ連 時 代 の農 業 移 民 は、 一九 五 〇 年 以 後 処 女 地 開 拓 の要 員 に 見 ら れ た に す ぎ な い。 ま た 十 九 ︱ 二
十 世 紀 初 頭 に かけ て 、 ロシ ア農 民 が も っと も多 く 移 住 し た のは 、 ウ ラ ル以 東 (約 五 〇 〇 万 人 ) で は な く 、 カ フ カ
ズ 北 部 な ど 欧 露 の南 部 地 域 (約 八〇〇 万 人 ) であ った 。 革 命 後 は 南 部 への移 民 は ほ と ん ど 行 な わ れ て いな い。 ま
た ソ連 時 代 の移 民 の もう ひ と つ の特 色 と し て 、 革 命 以 前 は ま った く 移 住 し な か った コミ 自 治 州 、 カ レ リ ア地 方 、
コ ラ半 島 な ど 北 方 への進 出 が あ げ ら れ る 。 地 理 学 者 ポ ク シ シ ェフ ス キ ー は ソ連 の総 人 口 が 三 億 す な わ ち 現 在 の
約 一 ・五 倍 に な った と き 、 シ ベ リ ア の人 口 は 一九 五 九 年 の 一八 三 〇 万 (極 東 を の ぞ く ) か ら 四 五〇 〇 ︱ 五 〇 〇 〇
万 に達 す る こ と が 必 要 で あ る と 想 定 し て い る。 こ れ は 、 総 人 口 三 億 に 必 要 な シ ベ リ ア 人 口 の自 然 増 加 七 九 〇 万 よ
り も さ ら に 二 〇 〇 〇 万 多 い数 字 で あ る 。 こ の 二〇 〇 〇 万 は 、 ソ連 の総 人 口 が 三億 に な る ま で に 欧露 方 面 か ら 移 住 す べ き 人 口 で あ る。 (﹃東 部 シ ベ リ ア の人 口 地 理 ﹄ 七 四 頁 )
工業 が発 展 し 、 人 口 が 増 加 す る に と も な って、 都 市 人 口 の割 合 は、 一九 二 六年 の 一二 パ ー セ ント か ら 六 一年 現
在 の五 四 パ ー セ ン ト に な って い る。 こ こ で 一例 と し て 、 東 部 シベ リ ア の重 点 的 開 発 地 区 のひ と つ で あ る イ ル ク ー
ツ ク 州 の場 合 を あ げ ると 次 の と お り で あ る 。 州 人 口 は 一、 九 七 六 、 〇 〇 〇 人 (一九 五 九 年 調 ) で あ った が 、 調 査
九 五 九年 現 在 州 人 口 の六 二 パ ー セ ント を占 め 、 増 加 速 度 は ソ連 の全 国 平 均 の約 三 倍 で あ る。 州 の労 働 人 口 (男 子
後 二年 間 に 一 一四 、 〇 〇 〇 人 増 加 (自 然 増 加 は 五 七 、 〇 〇 〇 人 と 推 定 ) し て いる 。 都 市 人 口 に つ いて み る と 、 一
十 六 ︱ 六 十 歳 、 女 子 十 六 ︱ 五 十 五 歳 ) は総 人 口 の約 五 九 パ ー セ ン ト、 女 子 は 総 人 口 の五 二 パ ー セ ント を 占 め て い
一九 六 二年 シ ベ リ ア を 訪 問 し た 日 本 の経 済 使 節 団 の ひ と り杉 山 章 三氏 は そ の報 告 談 のな か で つぎ の よ う に の べ て
る 。 し か し 女 子 の各 職 場 進 出 は 全 国 平 均 の四 六 パ ー セ ント よ り も 低 く 、 一九 五 九 年 で 四 二 ・五 パ ー セ ン ト で あ る 。
い る 。﹁女 子 の労 働 者 は 意 外 に思 う ほ ど多 か った。 ⋮ ⋮ ウ ラ ル重 機 械 製 造 工 場 (従 業 員 二 五 、 〇 〇 〇 名 ) で は 二
五 〇 ト ン の ク レ ー ン の運 転 士 と し て 二 十 歳 のう ら 若 い女 性 が 働 ら いて お り 、 ま た 五 ト ン の ス チ ー ム ・ ハ ン マー に
製 品 重 量 一 ・五 ト ン以 上 の灼 熱 し た 大 型 シ ャ ット の鍛 造 を自 ら横 坐 と し て 、 数 名 の男 工 を手 先 き に使 って い る姿
は 、 た だ 唖 然 と し て見 た こと で あ った 。﹂ ( 杉 山 章 三 ﹃シ ベ リ ア開 発 と 日本 経 済 ﹄ 四 三頁 )
六 五 ・七 パ ー セ ン ト であ った が 、 五 九 年 に は逆 に そ れ ぞ れ 六 二 パ ー セ ント 、 三 八 パ ー セ ント と な って い る 。 (﹃東
農 業 と 工 業 の人 口 比 も 大 き く 変 化 し た 。 一九 四 〇 年 イ ル ク ー ツ ク州 の 工業 人 口 三 四 ・三 パ ー セ ント 、 農 業 人 口
部 シベ リ ア の 人 口 地 理 ﹄ 四 六 ︱ 五 三頁 ) シベ リ ア開 発 に お け る労 働 力 の不 足 は深 刻 で あ る。 前 記 の杉 山 氏 は ﹁一
般 に 労 働 力 不 足 は ど こ の 工 場 へ行 っても 聞 か さ れ た 言 葉 で あ った ﹂ と の べ 、 労 働 力 の補 充 は ﹁フ ル シ チ ョ フ政 権
以 来 、 ⋮ ⋮ 国 家 権 力 に よ る強 制 移 住 が廃 止 さ れ た た め 一そ う 困 難 と な った 。 こ の対 策 のひ と つと し て 高 級技 術 者
に は 五 〇 パ ー セ ント 、 一般 労 働 者 に は 一五 パ ー セ ント の地 域 手 当 を 支 給 し て い る が 、 生 活 費 は モ ス ク ワ も シ ベ リ ア の僻 地 も同 じ で あ る﹂ と 語 って い る 。 (前 掲 書 四 一頁 )
自 治 共 和 国 の場 合 、 最 近 一〇 年 間 に約 二 五 、 〇 〇 〇 人 以 上 が 職 場 を 変 え て い る。 全 体 と し て 住 宅 事 情 が わ る く 、
欧 露 か ら の移 住 が 困 難 で あ る上 に 、 さ ら に シ ベ リ ア内 部 で の人 口 移 動 、 企 業 間 の移 動 も 少 な く な い。 ヤ ク ー ト
職 場 ご と の賃 金 格 差 が あ る た め に 、 労 働 者 の 一部 は 腰 を す え て住 み つか な い の で あ る 。 結 局 、 労 働 力 の絶 対 数 を
確 保 す る道 は、 女 子 の職 場 進 出 を さ ら に奨 励 し 、 欧 露 か ら の移 住 を増 加 さ せ 、 現 在 ま だ 比 較 的 少 数 の原 住 民 労 働
者 を ふ や す こと で あ ろ う 。 ま た 生 活 環 境 の整 備 に も多 く の資 金 が必 要 で あ ろ う 。
シベ リ ア 開 発 に は 、 荒 々し い自 然 の ほ か に も 、 以 上 の よ う な 多 く の障 害 が ひ か え て いる 。 し か し国 力 を投 入 し
て の開 発 は 依 然 つづ け ら れ る にち が い な い。 こ れ ま で ほ と ん ど 無 人 で あ った山 中 に都 市 が 出 現 し て い る例 も珍 ら
し く な い。 た と え ば 一九 四 九 年 建 設 さ れ た ア ン ガ ル スク は 、 一〇 年 後 の五 九年 に は 人 口 一三 四 、 〇 〇 〇 の都 市 と
(職 員 数 七 、 〇 〇 〇 人 ) が 設 置 さ れ た 。
な って い る。 ま た 一九 五 八 年 に は ノ ボ ノ シビ ル ス ク市 郊 外 の 一、 二 六〇 ヘク タ ー ル の地 に 二 一 の研 究 所 と 綜 合 大 学 を も つ ソ連 科 学 ア カ デ ミ ー ・ シベ リ ア総 支 部
一衣 帯 水 の地 に あ り、 年 ご と に渡 り鳥 の往 復 す る こ の大 陸 は 、 今 後 日 本 と の関 係 を ど の よ う に展 開 し て いく 運 命
こう し た 大 規 模 な開 発 に よ って 、 シベ リ ア は今 後 大 き く 変 貌 し て いく こと で あ ろ う 。 そ う し て 、 日本 と いわ ば
に あ る の で あ ろ う か。
文
献
こ こ で は 本 書 で直 接 利 用 し 、 本 文 中 に 掲 載 し た も の だ け を あ げ 、 若 干 のも の に は簡 単 な 解 題 を 付 す こ と に す る。
外 国 語 のも の に つ い て は 本 書 の仮 名 表 記 に し た が い、 著 者 名 (場 合 に よ って は 書 名 ) の 五 十 音 順 に よ った。 日本 語 のも の (邦 訳 を 含 む ) は 全 部 書 物 名 の五 十 音 順 に よ った。
一 外国語 の文 献
提 供 し て い る。 本 書 の内 容 は つ ぎ の と お り で あ る 。
し か し 多 く の デ ー タ を は じ め 、 見 事 な 地 図 、 図 版 な ど 、 シ ベ リ ア史 や 中 央 アジ ア 史 の 研 究 に は 貴 重 な 資 料 を
さ れ て い な い。
る 。 全 体 と し て 明 る い側 面 、 政 府 に都 合 の よ い事 象 が と り あ げ ら れ 、 流 刑 制 度 や革 命 運 動 な ど に つ い て は 記 述
で あ った 双 頭 の ワ シ が 金 色 にち り ば め ら れ 、 皇 帝 と 皇 太 子 、 皇 族 、 貴 族 な ど の別 刷 写 真 が 随 所 に挿 入 さ れ て い
ロシ ア に た いす る ロ シ ア帝 室 の仁 慈 と 政 府 の配 慮 を 示 す こ と に あ った と 見 ら れ る。 表 紙 に は帝 政 ロ シ ア の国 章
ロシ ア 帝 国 の偉 大 さ を 知 る た め の つき な い源 泉 で あ ろ う ﹂ と の べ ら れ て い る。 本 書 の 一貫 し た 意 図 は ア ジ ア ・
の不 可 分 の 地 域 であ り 、 同 時 に そ の唯 一の植 民 地 で あ る 。 こ の土 地 と そ の光 栄 あ る 獲 得 の歴 史 を 知 る こ と は 、
本 書 は 帝 政 ロ シ ア の農 林 省 移 住 局 の編 集 で 、 全 三 巻 か ら な る 。 そ の序 文 に は ﹁ア ジ ア ・ ロシ アは ロ シ ア帝 国
① ﹃ア ジ ア ・ ロ シ ア﹄Азиатская Россия 1 9 . 14 С. ПБ.,
第 一巻 (五 七 六 頁 ) 征 服 史 概 説 。 住 民 。 住 民 の宗 教 。 学 校 制 度。 都 市 。 カ ザ ク と そ の分 与 地 。 帝 室 領 。 農 民 の移 住 。 極 東 。 農 業 。
第 二巻 (六 三 八 頁 ) 土 壌 。 地 形 。 植 物 。 動 物 。 鉱 物 。 灌 漑 。 農 作 物 。 棉 花 。 牧 畜 。 ト ナ カ イ飼 養 。 乳 酪 業 。
漁 業 。 狩 猟 。 木 の 実 採 集 。 養 蜂 。 農 業 機 械 の 普 及 。 交 通 。 北 氷 洋 航 路 。 アジ ア ・ ロ シ ア研 究 史 。 第 三 巻 (一五 五 頁 ) 文 献 と 総 索 引 。
ア ン ド
ア レ ー エ フ
﹃ シ ベ リ ア 資 料 学 概 説 ﹄ А ндреев А . И . О черки по источниковедон ию С ибири.М . ︱ Л.,
﹃ エ ベ ン キ 人 の 宗 教 ﹄ А нисимов А . Ф . Религия звенков.М . ︱ Л., 1958.
本 書 は 私 の知 って い る か ぎ り で は 、 外 務 省 図 書 室 と 江 上 波 夫 氏 のも と に 一組 ず つ所 蔵 さ れ て い る。 ②
ニ シ モ フ
③ 1960。
T ra vels from M oscow
ov er-lan d to Ch ina. Lon don , 1706. 江 上 波 夫 氏 蔵 。
④ イ ス ブ ラ ン ド ・ イ デ ス ﹃ モ ス ク ワ か ら 大 陸 横 断 し て 中 国 へ の 三 年 間 の 旅 ﹄E .Y sbrantsldes T hreeY ear s
О черки общ ей этнографии. A зиатская часть С ССР, М.,1960.
本 書 は ソ連 科 学 ア カ デ ミ ー ・民 族 学 研 究 所 の ト ル スト ー フ、 レ ー ビ ン、 チ ェボ ク サ ー ロ フ の監 修 にな り 、 内 容
⑤ ﹃ 一般 民 族 学 概 説 ﹄ ソ 連 領 ア ジ ア 編
は カ フカ ズ の 諸 民 族 、 中 央 ア ジ ア お よ び カ ザ フ ス タ ン の 諸 民 族 、 シベ リ ア の諸 民 族 の三 部 に分 か れ てい る 。 な
お 本 書 は 世 界 の諸 民 族 に つ い て の 概 観 を 目 的 と し た シ リ ーズ のな か の 一冊 で あ る。
Сборник музея антропологии и этнографии. Ⅹ Ⅵ . М . ︱ Л.,1955. に
вопр осу о значении изображ ений на старинньⅨ предм етах культа у народов С аяно︲ А лтайского наго
⑥ イ ワ ノ フ ﹃サ ヤ ン ・ア ルタ イ 山 地 諸 民 族 の古 い信 仰 対 象 に 描 か れ た 画 像 の意 義 に つ い て ﹄ Иванов С.В.К
рья.人 類 学 ・民 族 学 論 集 第 一六 巻 所 収。
⑦ オ ク ラ ー ド ニ コ フ ﹃沿 バ イ カ ル 地 方 の 新 石 器 時 代 と 青 銅 器 時 代 ﹄ О кладников А .П. Неолит и бронзовый
本 書 は考 古 学 者 オ ク ラ ー ド ニ コ フ の 主 要 著 作 の 一 つで 三 部 から な る。 第 一部 で は 沿 バ イ カ ル地 方 の新 石 器 お
век Прибайкалья.М . ︱ Л., 1955.
よ び 青 銅 器 時 代 初 期 に 属 す る 遺 跡 の資 料 学 的 分 析 が 行 な わ れ 、 第 二 部 で こ の地 方 の新 石 器 時 代 遺 跡 が 、 第 三 部
で は 青 銅 器 時 代 初 期 (グ ラ ズ コボ 期 ) の遺 跡 が 研 究 さ れ て いる 。 第 一部 と 第 二 部 は ﹁ソ連 考 古 学 の資 料 と 研 究 ﹂
М атериалы и исс ледования по археологии СССР (略 し て М ИА) の第 一八 冊 (一九 五 〇 年 刊 ) に 、 第 三 部 は そ の第 四 三 冊 (一九 五 五 年 刊 ) に 入 って いる 。
﹃シ ベ リ ア の 歴 史 ﹄ の 他 の 箇 所 で 引 用 し た ﹃ マ イ ン川 河 谷 の 古 代 集 落 ﹄ Д ревние
の第 八 六 冊 ) の な か に収 録 さ れ て い る。
﹃極 東 考 古 学 調 査 団 報 告 ﹄ Труды Дал
⑧ オ ク ラ ー ド ニ コ フ ﹃ア ム ー ル 川 上 流 域 の 古 代 文 化 の 遺 跡 シ ル カ 洞 穴 ﹄ Окладников А.П .Ш илкинская пе ш ера︱ памятник древней культуры верховьев А мура.本 論 文 は
こ の書 物 に は こ の ほ か 、 私 が
ьневосточной археологической экспедиции.Ι.М . ︱ Л. ,1960. (М И А
поселения в долине Р. М айна.と 題 す る 論 文 、 シ ャ ウ ク ー ノ フ ﹃女 真 の 鏡 ﹄ Ш авкунов Э. В . Клад Чжу
рчженьских зеркал. お よ び ア ンド レ ー エ フ ﹃紀 元 前 三 ︱ 一千 年 紀 の 南 沿 海 州 文 化 に 関 す る 若 干 の 問 題 ﹄ Ан
収録 さ れて いる。
﹃沿 海 州 の 遠 古 ﹄ О кладников А . П . Д алекое прош лое П риморья.В ладивосток,1959.
дреев Г.И .Некоторые вопросы культур ю жного П риморья ΙΙⅠ︱ Ι тысячелетий до н.э.な ど の 論 文 が
ニ コ フ
太 古 か ら 中 世 ま で の 沿 海 州 地 方 の通 史 で あ る 。
⑨ オ ク ラ ー ド
его культура. こ の 論 文 は ソ 連 科 学 ア カ デ ミ ー ・民 族 学 研 究 所 の 手 で 逐 次 刊 行 さ れ て い る 大 部 な 叢 書
﹃世 界 の
⑩ オ ク ラ ー ド ニ コ フ ﹃シ ベ リ ア の 古 代 住 民 と そ の 文 化 ﹄ О кладников А . П. Д ревнее население Сибири и
﹃シ ベ リ ア の 民 族 ﹄ Н ароды Сибири.195 6.に 収 録 さ れ て い る 。 本 書 は シ
ベ リ ア の 少 数 民 族 に か ん す る こ れ ま で の 研 究 を 集 成 し た 一〇 八 三 頁 の 大 著 で 、 シ ベ リ ア 研 究 に は 必 須 の も の で
民 族 ﹄ Н ароды Мира の な か の 一冊
あ ろ う 。 本 書 に は こ の ほ か レ ー ビ ン の ﹃シ ベ リ ア の 人 類 学 的 諸 タ イ プ ﹄、 ポ タ ポ フ の ﹃革 命 前 の シ ベ リ ア に お
け る ロ シ ア 人 の 歴 史 ・民 族 学 的 概 説 ﹄ な ど が 含 ま れ て い る 。 巻 末 に は シ ベ リ ア の 歴 史 や 民 族 に か ん す る 主 要 文 献 が 列 記 さ れ て い る。
ア カ デ ミ ー ・考 古 学 研 究 所 の 機 関 誌
﹃ソ ビ エ ト 考 古 学 ﹄С оветская археолог ия の 一九 五 九 年 第 三 号 に 掲 載 さ
⑪ オ ク ラ ー ド ニ コ フ ﹃ザ バ イ カ ル 地 方 の 鬲 ﹄ О кладников А .П.Труподы за Байкалом. こ の 論 文 は ソ 連 科 学
れ て い る。
⑫ カ ザ ー ニ ン ﹃レ ミ ョゾ フ の シ ベ リ ア 地 図 上 の 一記 載 に つ い て ﹄ Казанин М . И. Об одной надписи на
Восточная коми
﹃東 洋 の 諸 国 と 諸 民 族 ﹄ Страны и народы востока, выпуск I, М.,
карте в ︽чертежной книге Сибири︾ С . Ремезова.本 論 文 は ソ 連 地 理 学 会 内 東 洋 委 員 会 ссия ( 一九 五 五 年 創 立 ) の 研 究 論 文 集
1959. に 所 収 。 こ の 論 文 集 は 現 在 第 二 冊 目 ま で 刊 行 さ れ て い る 。
⑬ カ ル ペ ン コ ﹃西 シ ベ リ ア 鉱 山 業 の 労 働 要 員 ﹄ Карпенко З.Г.Рабочие кадры горнозаводской промыш
N o.69.1961.に 所 収 。
ленности Западной Сибири.本 論 文 は 科 学 ア カ デ ミ ー ・歴 史 学 研 究 所 の ﹃歴 史 論 集 ﹄ Исторические записки.
⑭ キ ス タ ノ フ ﹃未 来 の シ ベ リ ア ﹄ Кистанов В.В.Будущ ее Сибирь.М . ,1961.
⑮ キ ズ ラ ー ソ フ ﹃ ハ カ ス ・ ミ ヌ シ ン ス ク 盆 地 の 歴 史 に お け る タ シ テ ィ ク 期 ﹄ Кызласов Л . Р. Таштыкская
キ セ リ ョ フ
﹃南
シ ベ リ ア 古 代 史 ﹄ К иселев С. В . Д ревн яя история Ю ж ной С ибири.М. , 1951.
зпоха в истории Хакасско-минусинской котловины.М.,1960 . ⑯
﹁フ ン ・サ ル マ タ イ 時 代 ﹂、 第 三 部
の第 九 冊 と し て 出 版
( 一九 四 九 年 ) さ れ た 。
(六 四 二 頁 ) で 、
(日 本 語 ) が 掲 載 さ れ て い る 。
﹁国 家 の 形 成 ﹂ の 三 部 に 分 か れ て い る 。 な お 、
﹃古 代 学 ﹄ 第 五 巻 に ミ チ ュ ー リ ンと い う 人 に よ る 本 書 の 概 要
﹁古 代 ﹂、 第 二 部
本 書 は著 者 自 身 の 二 〇 年 に わ た る研 究 を 基 礎 に 、 他 の多 く の学 者 の研 究 成 果 を 総 括 し た 大 著 内 容 は 第 一部
ИА
古 代 学 協 会 の機 関 誌 本 書 は は じ めМ
⑰ ク ラ シ ェ ニ ン ニ コ フ ﹃カ ム チ ャ ツ カ 誌 ﹄ Крашенинников С .П.О писание земли Камчатки.1948.
理 図 書 出 版 所 の普 及 版 で あ る 。
本 書 は 一七 五 五 年 の 初 版 以 来 一九 四 九 年 ま で に 五 版 を 重 ね て い る 名 著 で あ る 。 私 の 手 も と に あ る の は 、 ソ 連 地
по раскопкам близ с. Больш ая Речка.М . ︱ Л. ,1956.М ИА No.48.
⑱ グ リ ャズ ノ フ ﹃オ ビ 川 上 流 域 の 古 代 種 族 の 歴 史 ﹄ Грязнов М .П .И стория древних племен верхней Оби
⑲ ゲ ル ネ ト ﹃ツ ァ ー リ 監 獄 史 ﹄ Гернет М . Н .История царской тюрьмы.М . ,1960. 四 巻 か ら な り 、 第 一巻
(デ カ ブ リ ス ト の 蜂 起 ) ︱ 七 〇 年 ま で の 時 代 の
は 一七 六 二 ︱ 一八 二 五 年 ま で の 時 代 で 、 ペ ト ロ パ ウ ロ フ ス ク 要 塞 、 シ ュリ ッ セ ル ブ ル グ 要 塞 の 記 述 、 ラ ジ シ チ ェ フ 事 件 の い き さ つ な ど が ふ く ま れ る 。 第 二 巻 に は 一八 二 五
ス ク 要 塞 に か ん す る 研 究 。 第 五 巻 は 一九 〇 七 ︱ 一九 一七 年 の シ ュリ ッ セ ル ブ ル グ 徒 刑 監 獄 と オ ル ロ フ 徒 刑 セ ン
刑 法 、 監 獄 の 状 態 が 描 か れ る 。 第 三 巻 は 一八 七 〇 ︱ 一九 〇 〇 年 。 第 四 巻 は 一九 〇 〇 ︱ 一七 年 の ペ ト ロ パ ウ ロ フ
( 一八 七 四 ︱
一九 五 三 年 ) は モ ス ク ワ 大 学 の 刑 法 の 教 授 で あ った が 、 ぼ う 大 な 資 料 を 駆 使 し た 本 書
タ ー のことが述 べら れる。 ゲ ルネト
は ロ シ ア の 法 制 、 社 会 、 経 済 な ど の歴 史 を 知 るう え で き わ め て 重 要 な 位 置 を し め て い る。
Сибирский этнографилеский сборник.Ⅲ
.М . ︱ Л. ,1961.所
⑳ コ ス ベ ン ﹃北 方 探 検 の 民 族 学 的 成 果 ﹄ Косвен М .О .Этнографические Результаты северной экспедиции 1733︱ 1743 гг.﹃シ ベ リ ア 民 族 学 論 集 ﹄ 第 三 巻
﹃古 代 文 化 の 跡 を た づ ね て ﹄ По следам древних культур. こ の 表 題 の も と に 三 冊 の 書 物 が あ る 。 最 初 の も
収。 21
の は 一九 五 一年 の 刊 行 で オ ク ラ ー ド ニ コ フ の ﹁北 方 で の 発 掘 ﹂、 パ ッ セ ク の ﹁最 初 の 農 耕 ﹂、 ピ オ ト ロ フ ス キ ー
﹁古 代 ル ー シ ﹂ と い う 副 題 が つ い て お り 、 三 冊 目 は
﹁ボ ル ガ 川 か ら 太 平 洋 ま で ﹂ ( 一 九 五 四 年
﹁古 代 ピ ャ ン ジ ケ ン ト ﹂ が 含 ま れ る 。 そ の つ ぎ は
の ﹁ウ ラ ル ト ゥ ﹂、 ルデ ン コ の ﹁パ ジ リ ク ・ ク ル ガ ン の 遺 宝 ﹂、 シ ュ リ ツ お よ び ゴ ロ フ キ ナ の ﹁ス キ タ イ の 墓
一九 五 三 年 刊 で
地 ﹂、 ト ル ス ト ー フ の ﹁古 代 ホ ラ ズ ム ﹂、 ヤ ク ー ボ フ ス キ ー の
刊 ) と い う 副 題 が つ い て い る 。 こ れ ら の 書 物 は い ず れ も 、 最 高 の 学 者 が 考 古 学 の 各 テ ー マ を 一般 読 者 向 き に 平 易 に記述 し たも のであ る。
け る 国 内 戦 の歴 史 を扱 った も の で 、 著 者 自 身 武 器 を も って これ に参 加 し て い る 。 日 本 の シ ベ リ ア出 兵 に つ い て
22 ゴ リ オ ン コ ﹃戦 火 の 中 で ﹄ Голионко В.П ・В огне борьбы.М . ,1958.本 書 は 一九 一八 ︱ 二 二 年 の 極 東 に お
も く わ し く 書 か れ 、 た と え ば 石 光 真 清 が ﹃誰 の た め に ﹄ の な か で の べ て い る ブ ラ ゴ ベ シ チ ェ ン ス ク 事 件 に つ い
て も ま っ た く ち が った 角 度 か ら 記 述 し 、 し か も 両 者 が 符 合 し て い る こ と は 興 味 深 い 。
23 コ ン ス タ チ ノ フ ﹃日 本 人 の 眼 で 見 た 十 八 世 紀 ロ シ ア ﹄ Константинов В. М . Россия ⅩⅤ Ⅲ века глазами
﹃シ ベ リ ア お よ び 極 東 地 方 の 歴 史 の 諸 問 題 ﹄Вопросы истории Сибири и Д альнег о Востока. Н овосибирск,
японцев.﹃ア ジ ア 民 族 研 究 所 紀 要 ﹄ Краткие сообщ ения института народов А зии.X LIⅤ .1961.所 収 。 24
に か ん す る学 術 会 議 の成 果 で あ る。
1961. 本 書 は 一九 六 〇 年 三 月 、 ノ ボ シ ビ ル ス ク の ソ 連 科 学 ア カ デ ミ ー ・ シ ベ リ ア 支 部 で 開 催 さ れ た シ ベ リ ア 史
﹃シ ベ リ ア の 歴 史 ・民 族 学 地 図 ﹄ И сторико-этнографический атлас Сибири.М . ︱ Л. ,1961.本 書 は レ ー ビ
ンと ポ タ ポ フ の監 修 に な り 、 つぎ の よ う な 対 象 に つ いて そ の分 布 状 態 を 明 ら か に し た も の で あ る。 ① ト ナ カ イ
25
に よ る輸 送 ② 橇 引 き の た め の イ ヌ飼 養 ③橇 ④ 小 舟 ⑤ 住 居 ⑥ 衣 服 ⑦ 冠 帽 ⑧ 装 飾 ⑨ シ ャ マ ン の手
の ほ か に ﹃中 央 ア ジ ア お よ び カ ザ フ ス タ ン の 歴 史 ・民 族 学 地 図 ﹄、 ﹃ロ シ ア 民 族 学 地 図 ﹄ な ど が 近 く 刊 行 の 予 定
太 鼓 。 こ れ に よ って 民 族 文 化 の系 譜 を 明 ら か に し 、 そ の相 互 関 係 を 解 明 し よ う と し た も の で あ る 。 な お 、 本 書
である。
М., 1956.
26 シ ュ ン コ フ ﹃シ ベ リ ア 農 業 史 概 説 ﹄ ш унков В. И.О черки по истории земледелия Сибири.Ⅹ Ⅴ Ⅱ Bek.
Сибирь и Китай.КиШ инев,1960.東 洋 文 庫 所 蔵 。
28 ス ラ ド コ フ ス キ ー ﹃ソ 連 と 中 国 の 経 済 関 係 概 説 ﹄ С ладковский М .И .О черки экономических отнош ений
27 ス パ フ ァ リ ー ﹃シ ベ リ ア と 中 国 ﹄ Спафарий Н. М.
Смоляк А. В. Н екоторые вопросы
け た も の で 、 巻 末 に は 一六 八 九 年 以 後 両 国 間 で 結 ば れ た 協 定 や 条 約 が 全 文 掲 載 さ れ て い る 。 中 国 革 命 以 後 一九
С ССР с Китаем.М.,1957.本 書 は 十 七 世 紀 中 期 以 後 の 中 国 ・ ロ シ ア 間 の 経 済 関 係 を 豊 富 な 資 料 を も っ て 跡 づ
五 五 年 ご ろ ま で の 経 済 関 係 は と く に く わ し い。 29 ス モ リ ャ ク ﹃沿 ア ム ー ル 地 方 お よ び 沿 海 州 の 古 代 民 族 史 の 諸 問 題 ﹄
関誌
( 一九 五 五 年 刊 行 開 始 )、 東 京 図 書 (旧 商 工 出 版 社 )
﹃ソ ビ エ ト 民 族 学 ﹄ С оветская этнография. の 一九 五 九 年 第 一号 に 掲 載 さ れ て い る 。
древней истории народностей Приамурья и Приморья.本 論 文 は ソ 連 科 学 ア カ デ ミ ー ・民 族 学 研 究 所 の機
﹃世 界 史 ﹄ Всемирная История.全 十 巻 か ら な る 本 書 は
1958.
О черки и стории СССР.конец Ⅹ Ⅴ в・ ︱ начало Ⅹ Ⅴ Ⅱ в・М ︱.Л
. 1,955.
﹃ロ シ ア ・中 国 関 係 ﹄ РусскоКитайские отнош ения. 168 9︱ 1916. официальные
から邦訳 が出版 され て いる。
30
документы. М.,
31 ソ連 科 学 ア カ デ ミ ー編
32 ﹃ソ 連 史 概 説 ﹄ 十 五 ︱ 十 七 世 紀 編
33
﹃ソ 連 邦 国 内 戦 史 ﹄ И стория гражданской войны в СС СР.1917∼ 1922.Том четвертый.М . ,1959.
﹁十 九 世 紀 中 期 ま で
の発 見 と 採 掘 の歴 史 ﹂ と いう 副 題 が つ い て お り 、 技 術 史 的 な 側 面 に も 照 明 が あ た え ら れ て い る 。
34 ダ ニ レ ス キ ー ﹃ロ シ ア の 金 ﹄ Д анилевский В.В.Русское золото.М . ,1959.本 書 に は
тии наш ей эры. 本 論 文 は
М ИА
の第 五 八 冊
﹃沿 ウ ラ ル 地 方 お よ び 西 シ ベ リ ア の 古 代 種 族 の 文 化 ﹄ Культура
35 チ ェ ル ネ ツ ォ フ ﹃紀 元 一千 年 紀 に お け る オ ビ 川 下 流 域 ﹄ Чернецов В.Н .Н ижнее Приобье в 1 тысячеле
﹃東 部 シ ベ リ ア の 人 口 地 理 ﹄ География населения Восточной Сибири.М .,1962 .本 書 は ソ連 科 学 ア カデ
Древних племен Приуралья и Западной Сибири.М .,1957. に 所 収 さ れ て い る。 36
ミ ー ・ シベ リ ア 支 部 に 属 す る 地 理 学 研 究 所 の メ ン バ ー の論 文 集 で あ る。 シ ベ リ ア開 発 を 労 働 力 の側 面 か ら と ら え た も の と し て 興 味 深 い。
37 ド ー ル ギ フ ﹃十 七 世 紀 シ ベ リ ア 諸 民 族 の 氏 族 的 お よ び 種 族 的 構 成 ﹄ Долгих Б. О . Родовой и племенной
イ カ ル 地 方 、 第 三部 東 シ ベ リ ア
(こ の 場 合 現 在 の 極 東 地 方 を 含 む ) に 分 け ら れ 、 ロ シ ア 人 が シ ベ リ ア に 進 出 し
состав народов Сибири в Ⅹ Ⅴ Ⅱ веке. ,М .,1960.本 書 は 第 一部 西 シ ベ リ ア 、 第 二 部 中 央 シ ベ リ ア お よ び ザ バ
た 当 時 の原 住 民 の種 族 分 布 お よ び 構 成 を 明 ら か に し た も の で あ る。 当 時 の ヤ サ ク 台 帳 な ど 古 文 書 に 基 づ い た貴
重 な 研 究 で あ り 、 た と え ば 間 宮 林 蔵 の ﹃東 韃 紀 行 ﹄ に 現 わ れ た 民 族 分 布 と 本 書 の 内 容 と を 比 較 検 討 す る こ と も 興 味 深 い こ と と 思 わ れ る。
38 ト カ リ ョ フ ﹃石 器 時 代 の 女 性 像 の 意 義 に つ い て ﹄ Токарев С . А . О значении женских изображений
﹃ ソ ビ エ ト 考 古 学 ﹄ 一九 六 一年 第 二 号 に 所 載 。
39 ト カ リ ョ フ ﹃ソ 連 邦 の 民 族 学 ﹄ Токарев С.А .Этнография народов СССР.М ., 1958. 本 書 に は ﹁生 活 と
эпохи палеолита.本 論 文 は 考 古 学 研 究 所 の 機 関 誌
文 化 の史 的 諸 基 礎 ﹂ と いう 副 題 が あ り 、 モ ス ク ワ大 学 出 版 部 の刊 行 に な る。 お よ そ の内 容 は つ ぎ の通 り で あ る 。
① 序 論 ② 東 ス ラブ 諸 族 ③ スラ ブ 族 以 外 の東 欧 の諸 民 族 ④ カ フ カズ の 諸 民 族 ⑤ 中 央 ア ジ ア の 諸 民 族 ⑥
シ ベ リ ア と 北 方 の 諸 民 族 ⑦ 一般 的 結 論 。 一九 三 九 ︱ 五 二 年 の 間 著 者 が モ ス ク ワ 大 学 、 東 ド イ ツ の ベ ル リ ン 、
ラ イ プ チ ヒな ど の大 学 で行 な った 講 義 録 を 基 礎 に し た 通 論 で あ る 。 六 一五 頁 。
изации Сибири в Ⅹ Ⅴ Ⅰ︱ Ⅹ Ⅴ Ⅲ вв. М . ︱ Д. , 1955. 本 書 の 一部 は 昭 和 十 八 年 外 務 省 調 査 局 第 二 課 に よ っ て 、
40 バ フ ル ー シ ン ﹃シ ベ リ ア 植 民 史 概 説 ﹄ Бахруш ин С .В . Научные труды. Ⅲ .Вопросы русской колон
﹃ス ラ ヴ 民 族 の 東 漸 ﹄ と い う 表 題 で 邦 訳 さ れ て い る 。
41 ペ ト リ ャ エ フ ﹃人 間 と 運 命 ﹄ Петряев Е.Д .Лю ди и судьбы. О черки и з истории культуры Забай калья.Чита,1957.
42 ベ ロ フ ﹃セ ミ ョ ン ・デ ジ ニ ョ フ ﹄ Белов М . И.Семён Дежнев.М . , 1955.
лонизационномиграчионнных процессов в южной части Д альнего Востока. こ の 論 文 は 後 に 引 用 さ れ る
43 ポ ク シ シ ェ フ ス キ ー ﹃極 東 地 方 南 部 の 移 民 過 程 ﹄ Покш иш евский В. В.К географии дооктябрьских ко
ポ ム ス ﹃シ ベ リ ア 天 然 資 源 の 経 済 的 利 用 ﹄ Помус М .И . Пути хозяйственного использования природных
Комиссия по
ресурсов С ибири.と と も に 、 ﹃シ ベ リ ア 地 理 学 論 集 ﹄ Сибирский географический сборник.Ⅰ.М . ,1962.に
4 4﹃北 方 年 代 記 ﹄ Л етопись Севера. Ⅱ . М ., 1957.本 書 は 科 学 ア カ デ ミ ー の 北 方 問 題 委 員 会
収 録 さ れ て い る 。 本 書 も 科 学 ア カ デ ミ ー ・ シベ リ ア支 部 の労 作 であ る 。
проблемам Севера の 論 文 集 で 、 北 方 の 探 検 と 開 発 を 主 な テ ー マ と し て い る 。
45 ポ タ ポ フ ﹃ト ゥ ー バ 考 古 学 ・民 族 学 綜 合 調 査 団 報 告 ﹄ Потапов Л .П.Труды тувинской комплексной ар
う 副 題 を つけ て お り 、 これ ま で 比 較 的 調 査 密 度 の う す か った こ の 地 方 の文 化 に か ん す る 本 格 的 調 査 報 告 で あ る 。
хеолого-этнографической экспедиции.Ⅰ.М . ︱ Л. ,1960.本 書 は ﹁ト ゥ ー バ 西 部 の 考 古 学 ・民 族 学 資 料 ﹂ と い
な お 、 突 厥 の 墳 墓 出 土 の 鏡 に つ い て は 、 イ ト ス ﹃ト ゥ ー バ 出 土 中 国 鏡 の 銘 に つ い て ﹄ Итс Р. Ф . О надписи
на китайском зеркале из Тувы. (ソ ビ エ ト 民 族 学 一九 五 八 年 第 四 号 所 収 ) が 参 考 に な る 。
て は 有 名 な ア メ リ カ の ケ ナ ン の 書 物 が あ る が 、 こ こ で は 主 と し て こ の マ ク シ ー モ フ の 著 書 に よ った 。 表 現 は か
46 マ ク シ ー モ フ ﹃シ ベ リ ア と 徒 刑 ﹄ М аксим ов С.В .Сибирь и каторга.СПБ. ,1900.シ ベ リ ア 流 刑 史 に つ い
な り 文 学 的 で あ る が 、 豊 富 な資 料 と綿 密 な 調 査 に 基 づ い て い る 。 流 刑 人 の護 送 、 徒 刑 地 、 逃 亡 、 給 与 、 監 獄 の
歌 、 人 殺 し 、 自 殺 、 強 盗 、 放 火 、 横 領 、 分 離 派 、 ポ ー ラ ンド 人 の流 刑 、 デ カ ブ リ ス ト、 徒 刑 の 歴 史 、 シ ベ リ ア の工 場 な ど の章 に 分 か れ て い る 。
47 ミ ハ イ ロ フ ﹃ シ ベ リ ア ﹄ М ихайлов Н .И. Сибирь.ФизикогеограФический очерк.М . , 1956.表 題 の 示 す と お り 、 本 書 は自 然 地 理 の概 説 書 であ る 。
48 ミ ル ゾ エ フ ﹃シ ベ リ ア の 併 合 と 把 握 ﹄ М ирзоев В . Г. П рисоеднение и освоение Сибири в историчес
﹃ヤ ク ー チ ヤ 自 治 共 和 国 史 ﹄ И стория Якутской АС СР.Ⅱ .Якутия от 1630-Х годов до 1917г.М . ,1957.
кой литературе Ⅹ Ⅴ Ⅱ века.М .,1960. 49
は 分 担 執 筆 に な って い る 。
本 書 の 第 一巻 は 考 古 学 者 オ ク ラ ー ド ニ コ フ が ひ と り で 執 筆 し て い る が 、 一六 三 〇 年 代 以 後 の 歴 史 を 扱 っ た 本 巻
этнограФическом и историческом отнош ении. СПБ. , 1892. 本 書 は 当 時 の シ ベ リ ア の 全 貌 を 記 述 し た も の
50 ヤ ド リ ン ツ ェ フ ﹃植 民 地 と し て の シ ベ リ ア ﹄ Ядринцев Н .М . Сибирь как колония в геограФическом,
で あ る が 、 高 い批 判 精 神 に つ ら ぬ か れ 、 今 日 で も シ ベ リ ア史 の重 要 文 献 で あ る こと を失 わ な い。 内 容 は十 六 章
﹃ 一九 一九 年 の シ ベ リ ア ﹄ Л ипкина А .Г.1919 год в Сибири.М . ,1962.
に分 か れ て い る 。 七 二 〇 頁 。 51 リプ キナ
52 ル デ ン コ ﹃ ス キ タ イ 時 代 に お け る 中 央 ア ル タ イ 住 民 の 文 化 ﹄ Руденко С .И .Культура населения Центра
льного Алтая в скифское время.М . ︱ Л. ,1960. 本 書 は ソ 連 の 考 古 学 者 、 民 族 学 者 で あ る ル デ ン コ (一八 八
五 年 生 ) の 大 著 で 、 本 書 の 前 に 一九 四 七 ︱ 四 九 年 に 調 査 し た パ ジ リ ク 古 墳 群 の 調 査 結 果 と し て ﹃ス キ タ イ 時 代
に お け る 山 地 ア ル タ イ 住 民 の 文 化 ﹄ Культура населения Горного АЛтая в скиФское время.М . ︱ Л. ,1953.
が 刊 行 さ れ て い る 。 な お ル デ ン コ に は こ の ほ か ﹃匈 奴 の 文 化 と ノ イ ン ウ ラ ・ク ル ガ ン ﹄ Культура хуннов и
Н оинулинские курганы. М . ︱ Л. , 1962. お よ び ﹃ピ ョ ー ト ル 一世 の シ ベ リ ア 遺 宝 ﹄ С ибирская коллекция
Петра Ⅰ.М . ︱ Л. ,1962. な ど の 著 書 が あ る 。 ま た ﹃ベ ー リ ン グ 海 の 古 代 文 化 と エ ス キ モ ー 問 題 ﹄ Д ревняя ку
.М . , 1958.
льтура Берингова моря и эскимосская проблема.М . ︱ Л .,1947. も こ の 方 面 の 研 究 に は 必 須 の 文 献 と さ れ
53﹃ レ キ シ コ グ ラ フ ィ ー 論 集 ﹄ Л ексикограФ ический сборник. вы пуск Ⅲ
て いる。
54 レ ー ビ ン ﹃極 東 諸 民 族 の 人 種 人 類 学 お よ び 人 種 起 源 の 問 題 ﹄ Левин М . Г. Этническая антропология и
一章 北 ア ジ ア 諸 民 族
の人 類 学 的 研 究 に お け る基 本 的 諸 段 階 、 第 二 章 ア ム ー ル川 下 流 域 お よ び サ ハリ ン の諸 民 族 の 人 類 学 的 タ イ プ と
проблемы этногенеза народов Дальнего востока.М . ,1958. 本 書 は 五 章 か ら な る 。 第
起 源 の 問 題 、 第 三 章 ツ ン グ ー ス族 の 起 源 の 問 題 、第 四 章 人 類 学 の デ ー タ に 基 づ く 北 東 ア ジ ア の 人 種 起 源 の 問 題 、
る。
第 五 章 ア イ ヌ問 題 。 こ の ほ か 付 録 と し て ﹁朝 鮮 人 お よ び 日 本 人 の 人 類 学 的 タ イ プ ﹂ と い う 論 文 が 加 え ら れ て い
二 日 本 語 (邦 訳 を ふ く む ) の文 献
① ﹃アジ ア の歴 史 地 理 ﹄ 歴 史 地 理 学 紀 要 4 、 昭和 三 十 七 年 、 日 本 歴 史 地 理 学 研 究 会 。
② ﹃ア ジ ア歴 史 事 典 ﹄ 昭 和 三十 四︱ 三 十 七 年 、 平 凡 社 。
④ 三 上 正 利 ﹃オ ビ川 上 流 の古 代 文 化 ﹄ 古 代 学 第 十 巻 所 収 。
③ ク ロポ ト キ ン著 、 高 杉 一郎 訳 ﹃あ る革 命 家 の思 い出 ﹄ 昭 和 三 十 七 年 、 平 凡 社 版 世 界 教 養 全 集 第 二 六 巻 所 収 。
⑥ 大 槻 玄 沢 ・大 槻 玄 幹 著 、 大 友 喜 作 校 訂 ﹃環 海 異 聞 ﹄ 昭 和 十 九 年 、 北 光 書 房 。
⑤ ベ ルグ 著 、 小 場 有 米 訳 ﹃カ ム チ ャ ツ カ発 見 と ベ ー リ ング 探 検 ﹄ 昭 和 十 七年 、 龍 吟 社 。
⑦ ジ ュ ー コ フほ か著 、 江 口朴 郎 ・野 原 四郎 監 修 ﹃極 東 国 際 政 治 史 ﹄ 上 下 、 昭 和 三 十 二年 、 平 凡 社 。 ⑧ 末 松 保 和 著 ﹃近 世 に お け る北 方 問 題 の進 展 ﹄ 昭 和 三 年 、 至 文 堂 。 ⑨ 梅 原 末 治 著 ﹃古 代 北 方 系 文 物 の研 究 ﹄ 昭 和 十 三 年 、 星 野 書 店 。 ⑩ チ ェホ フ著 、 中 村 融 訳 ﹃サ ハリ ン島 ﹄ 上 下 、 昭 和 二 十 八 年 、 岩 波 文 庫 。 ⑪ 杉 山章 三著 ﹃シ ベ リ ア 開 発 と 日 本 経 済 ﹄ 昭 和 三 十 七 年 、 日 本 能 率 協 会 。
⑫ サ ド ー フ ニ コフ著 、 金 正 道 正 訳 ﹃物 語 シ ベ リ ア 征 服 史 ﹄ 昭和 十 七 年 、 白 林 書 房 。 ⑬ 榎 本 武 揚 著 ﹃シ ベ リ ア 日 記 ﹄ 昭和 十 四年 、 満 鉄 弘 報 課 。
⑭ 角 田文 衛 編 ﹃世 界 考 古 学 大 系 ﹄ 北 方 ユー ラ シ ア ・中 央 ア ジ ア篇 、 昭 和 三 十 七 年 、 平 凡 社 。
⑮ 八 幡 一郎 、 石 田 英 一郎 編 ﹃世 界 史 大 系 ﹄ 先 史 時 代 篇 、 昭 和 三 十 四 年 、 誠 文 堂 新 光 社 。 ⑯ ﹃世 界 歴 史 事 典 ﹄、 昭 和 三 十 一年 、 平 凡 社 。 ⑰ 京 城 帝 国 大 学 大 陸 文 化 研 究 会 編 ﹃大 陸 文 化 研 究 ﹄ 昭 和 十 五 年 、 岩 波 書 店 。 ⑱ 衞 藤 利 夫 著 ﹃韃 靼 ﹄ 昭 和 十 三 年 、 満 鉄 社 員 会 。
の 状 態 を よ く 示 し て お り 、 有 名 な ボ リ シ ェビ キ で あ る ム ー ヒ ン の 人 物 を 知 る う え で も 重 要 な 文 献 で あ る 。 ソ連
⑲ 石 光 真 清 著 ﹃誰 の た め に﹄ 昭 和 三 十 四年 、 龍 星 閣 。 本 書 は シベ リ ア出 兵 当 時 のブ ラ ゴ ベ シ チ ェ ン ス ク 市 付 近
側 の資 料 に よ って も 正 確 に裏 づ け ら れ る、 ⑳ 和 田 清 著 ﹃東 亜 史 研 究 ﹄ ( 満 洲 篇 )、 昭和 三 十 年 、 東 洋 文 庫 。
21 石 田 英 一郎 ・江 上 波 夫 ・岡 正 雄 ・八 幡 一郎 著 ﹃日本 民 族 の起 源 ﹄ 昭和 三 十 三 年 、 平 凡 社 。
22 ク ド リ ャ フ ツ ェ フ著 、 蒙 古 研 究 所 訳 ﹃ブ リ ヤ ー ト蒙 古 民族 史 ﹄ 昭 和 十 八 年 、 紀 元 社 。 23 桂 川 甫 周 編 、 亀 井 高 孝 校 訂 ﹃北 槎 聞 略 ﹄ 昭 和 十 二年 、 三 秀 舎 。 24 三 上 次 男 著 ﹃満 鮮 原 始 墳 墓 の 研 究 ﹄ 昭 和 三 十 六 年 、 吉 川 弘 文 館 。
25 カ ー エ ン著 、 東 亜 外 交 史 研 究 会 訳 ﹃露 支 交 渉 史 序 説 ﹄ 昭 和 十 六 年 、 生 活 社 。
26 ロ スト フ ス キ ー著 、 東 亜 近 代 史 研 究 会 訳 ﹃ロ シ ア東 方 経 略 史 ﹄ 昭 和 十 七年 、 生 活 社 。
以 上 、 本 書 で利 用 し た主 要 文 献 を あ げ た が 、 こ れ 以 外 に も シ ベ リ ア 史 に か ん す る 文 献 は 多 い 。 私 の知 って い る
な ど に 分 散 所 蔵 さ れ て いる 。 私 の手 も と に も 前 記 以 外 に も 少 々 の文 献 が あ る。
範 囲 では国会 図書館 、東洋 文庫 、外務省 図書 室、東 洋文 化研究 所図書 室、 江上波 夫氏、角 田文 衛氏、 徳永康 元氏
あ
と
が
き
一九 四 五 年 八 月 、 私 は 旧 関 東 軍 の 一員 と し て満 洲 で終 戦 を む か え 、 十 一月 中 旬 、 多 く の同 僚 と と も に雪 の曠 野
ン ホ ボ、 ライ ヒチ ン スク 、 ハバ ロ スク な ど の諸 都 市 を転 々 と し て抑 留 生 活 を 送 り、 一九 五 〇 年 帰 国 し た。 こ の シ
を シベ リ ア鉄 道 で タ イ シ ェト に送 り こま れ た 。 こ の地 の収 容 所 を ふ り出 し に、 ブ ラ ツク 、 イ ル ク ー ツ ク、 チ ェ レ
ベ リ ア 生 活 は 私 の 二 十 三 歳 か ら 二 十 八歳 ま で の時 期 に あ た る。
シベ リ ア と 私 と の関 係 は こ のと き に は じ ま る 。 シベ リ ア の自 然 は 、 庭 園 の よ う に美 し い 日本 の自 然 に比 べ る と 、
じ つ にき び し く 、 ま た 荒 寥 と し て い る 。 そ の中 で私 た ち は 五 つ の春 秋 を 送 った 。 私 は こ の ﹁春 ﹂ と ﹁秋 ﹂ と いう
言 葉 のな か に、 シベ リ ア の春 の待 遠 し さ や 秋 の重 苦 し さな ど 、 と く に深 い感 慨 を こ め て い る つも り で あ る。
今 年 は 、 私 た ち が シベ リ ア に はじ め て足 を ふ み 入 れ て か ら 一八 年 、 帰 国 し て か ら 一三 年 に な る が、 私 は 人 び と
の信 頼 と 友 情 にさ さ え ら れ て 今 日 に いた り 、 シベ リ ア で は じ め てな ら い覚 え た ロ シ ア語 の文 献 を使 って本 書 を 書
く こと が で き た。 文 献 や 時 間 の制 約 、 と く に私 の浅 学 菲 才 のた め に、 本 書 には は か ら ざ る誤 謬 も あ る だ ろ う が 、
切 に ご 寛 容 と 今 後 のご 指 導 を 願 う も の で あ る。 そ う し て本 書 が 、 今 後 わ が国 で シ ベ リ ア史 への関 心 が深 め ら れ、
そ の研 究 が す す め ら れ る た め の 一助 に な る こ と が で き れ ば 、 私 の喜 び これ にす ぎ る も の は な い 。私 自 身 も 、 諸 先
生 や 学 友 の指 導 を う け て さら に研 究 を つ づ い て いき た い も のと 念 願 し て いる 。
な お、 こ の機 会 に 、 お り に ふ れ て惜 し み な く指 導 を 給 わ った 江 上 波 夫 、 榎 一雄 、 角 田 文 衛 、 護 雅 夫 の諸 先 生 、
二 〇 年 前 私 に は じ め て ロ シ ア へ の関 心 を向 け て下 さ った 小 林 珍 雄 先 生 、 浜 徳 太 郎 先 生 に 深 い感 謝 を さ さげ る も の
つ い て格 別 の指 導 と 機 会 を あ た え て下 さ った 紀 伊 國 屋 書 店 出 版 部 の矢 島 文 夫 氏 はじ め み な さ ま に厚 く お礼 を 申 し
で あ る。 と く に江 上 先 生 に は多 く のご 教 示 だ け で な く 貴 重 な 資 料 を か し て いた だ いた 。 ま た 本 書 の執 筆 と 刊 行 に
あ げ る し だ い で あ る。
昭和 三十 八年 四月
加 藤 九 祚
本 書 は 、 紀 伊 國 屋 新 書 B ︱ 2 ﹃シ ベ リ ア の 歴 史 ﹄ を 復 刻 し た も の で す 。
著者 加藤 九祚
[精選 復刻 紀伊國屋新書]
シベ リア の歴 史
発行所 会 株社 式 紀 伊 國屋 書 店 東 京 都 新 宿 区新 宿3-17-7 電 話 03(3354)0131(代
1994年1月25日
第 1刷 発行 〓
出 版 部 (編集)電 ホール 部(営 セール 〒156東
京 都 世 田谷 区桜 丘5-38-1
ISBN4-314-00646-3C1322 in
Japan
定 価 は 外装 に表 示 してあ ります
話03(3439)0172
業)電 話03(3439)0128
装幀 菊地信義
Printed
表)
振 替 口座 東 京 9-125575
印刷 理 製本 三
想 水
社 舎